先鋭的登山と文学を追求。『北八ッ彷徨』の山口耀久さんが他界

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1月10日、山口耀久さんが他界した。先鋭的な登攀活動を実践するかたわら、山の文芸誌『アルプ』で活躍し、『北八ッ彷徨』『八ヶ岳挽歌』といったすぐれた随筆を発表。時代を超え、長く読み継がれる作品の耀きは、今も色あせることなく登山者の心をとらえる。『山と溪谷』2024年3月号に掲載された、写真家の三宅修さんによる追悼文を紹介する。

文・写真=三宅 修

やまぐち・あきひさ/1926年東京生まれ。10代半ばから登山を始め、戦争末期の44年に有志と獨標登高会を設立、初代代表を務める。谷川岳を皮切りに、その後は八ヶ岳をはじめとして、後立山不帰Ⅱ峰東壁、甲斐駒ヶ岳摩利支天中央壁、利尻山西壁などに開拓の足跡を残した。また山の文芸誌『アルプ』に参加、串田孫一らと300号の終刊まで編集委員を務めた。主な著作に『北八ッ彷徨』『八ヶ岳挽歌』『山頂への道』、訳書に『ドリュの西壁』がある。2024年1月10日逝去。享年97。
写真は『北八ッ彷徨』の初版に収録されたもの(1960年、八ヶ岳・冷山歩道)

追悼 畏兄 山口耀久さん

山口耀久さんの訃報を受け、私は巨星墜つ、というショックを受けた。百歳に届こうかという長寿で止むをえないが、日本の登山界は大事な宝を失った、と思ったのだ。本来なら所属する獨標登高会の方が書くべき追悼文だが、私にとっても、串田孫一先生に次いで人生と山との先達と思えるので、僭越ながら追悼文を書かせていただく。

山口さんは獨標登高会の創立者で、昭和30年代前後から尖鋭な登山を続ける一方、詩人尾崎喜八さんの愛弟子ともいえる文学青年だった。

初めて出会ったのは、昭和33年2月、ちょうど『アルプ』創刊の頃で、私は新米編集者として、目黒のお宅に原稿をいただきに伺った時だった。

出来上がった原稿は角ばった読みやすい文字で、私はすぐに帰社するつもりだったが、もう少し手を入れるから待ってくれとのこと。どこも手直しする必要もないと思われる原稿を、丹念に推敲する、上質なものを読者に届け、完璧を目ざす気迫に満ちた姿勢がすさまじく感じられた。結局原稿をいただいたのは数日ののちのこととなった。

自分で納得いくまで責任をもって仕事をする姿勢は私を感動させ、この人なら信頼できる、と初対面ながら納得した。戦後に人間不信に悩まされていた私は、やっと信頼できる人に出会えた喜びに跳び上がらんばかりであった。

その後、山口さんの仕事は見事な開花を見せた。代表作『北八ッ彷徨』は山の名作として、多くの人々に愛読され、編集者としての私の誇りとなっている。

その巻頭写真を撮りに登った冷山歩道では、ひとりの登山者として山口さんが持つ感性にふれた思いであった。その一方、多くの山岳会員を束ねるリーダーとしての山口さんも見事であった。たまたま合流した厳冬の穂高涸沢では、小さな事故を挟んで予定変更を余儀なくされたようだが、その折の統率力は秀でており、粛々とした一糸乱れぬ様子であった。鬼軍曹ではなく、全員に慕われる人柄だとも、耳にした。

お別れの日、棺のなかの山口さんは柔らかく優しいほほえみをたたえ、思い残すことない、まるで人生を完璧に推敲し終えた美しい姿であった。

著者 三宅 修
みやけ・おさむ/1932年東京生まれ。山岳写真家(日本山岳写真集団)。東京外国語大学山岳部で串田孫一の知己を得て、創刊時から文芸誌『アルプ』の編集に携わる。

『山と溪谷』2024年3月号より転載)

関連書籍

ヤマケイ文庫 「アルプ」の時代

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山を思索の場とし、研ぎ澄まされた感性を集めた山の文芸誌「アルプ」。創刊当初から編集に深く関わってきた山口耀久が、次代へ語り継ぐため、渾身の力をこめて「時代」を綴る。

山口耀久
発行 山と溪谷社
価格 1,100円(税込)
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