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中央線「ハケ」周辺と三鷹の太宰治

多摩蘭坂、エックス山、恋ヶ窪、姿見の池(日影山)、丸山、新次郎池、貫井神社、滄浪泉園、はけの森、金井原古戦場跡、小金井小次郎墓、小金井神社、八重垣稲荷神社、大嶽神社、深大寺御嶽神社、八幡大神社、太宰治墓、森鴎外墓、山本有三文学碑、斜陽碑、武者小路実篤文学碑( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:武蔵小山→東急目黒線→目黒→山手線→代々木→中央線→国立

復路:三鷹→小田急バス(鷹54:仙川行)→仙川→仙川 湯けむりの里→ばかたれ→仙川→京王線→明大前→井の頭線→渋谷→バス

この登山記録の行程

国立駅6:18→多摩蘭坂6:30→エックス山6:50→恋ヶ窪用水跡6:58→国分寺熊野神社7:00→東福寺7:07→姿見の池(日影山)7:11→国分寺駅(丸山)7:27→殿ヶ谷戸庭園7:29→新次郎池7:43→貫井神社7:48→三楽の森7:56→滄浪泉園8:08→どんぐりの森8:12→黄金の水稲荷8:18→金蔵院8:24→はけの森緑地28:28→金井原古戦場跡8:31→小金井神社8:48→はけの森美術館8:58→八重垣稲荷神社9:07→大嶽神社9:21→東小金井駅9:29→新小金井駅9:38→笠森稲荷神社・天神社9:41→深大寺御嶽神社10:04→井口八幡神社10:20→井口大鷲神社9:27→塚交差点9:31→上連雀神明社・井口院10:33→八幡大神社10:48→禅林寺(太宰治・森鴎外墓)10:54→山本有三「生きとし生けるもの」文学碑11:15→斜陽碑11:17→武者小路実篤「人間萬歳」文学碑11:29→太宰横丁11:22→太宰治文学サロン(伊勢元酒屋跡)11:36→野川家跡(太宰愛人・山崎富栄下宿先)・千草跡11:39→太宰ゆかりの跨線橋11:50→国木田独歩「山林に自由存す」文学碑12:03→太宰碑12:10→山本有三記念館12:16→三鷹の森ジブリ美術館12:24→太宰治旧宅跡12:33→三鷹駅12:46

合計6時間28分

コース

総距離
約24.8km
累積標高差
上り約115m
下り約133m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

1月30日は、府中の次は中央線ということで、国分寺の3つの山と小金井のはけの道周辺と、ついでに三鷹の太宰治の痕跡などを訪ねて来ました!

中央線沿線というのは、今でこそ大きな魅力的な街が並んでいますが、江戸時代に開拓された新田ばかりの目ぼしい物が何もない場所で、『武藏名勝図解』などを見てもあまり記述がなく行き場に困るのですが、国分寺崖線周辺には結構緑も残っており、街の食べ歩きなどと組み合わせれば、それなりのいい散歩コースになるのかもしれません。中央線沿線には、70年代から続く中央線文化を今に伝える感じの良い店が、カフェでも居酒屋でもいくらでもありますからね。

本日のスタートは「国立駅」です。学園通りが桜の名所なんですが、暗くて写真に撮れないので無視して、国分寺方面に放射状に続く「旭通り」に入ります。かつて、三浦友和の実家がこの通りから少し入ったところにあるので買い物かごを持った山口百恵さん会えるかも知れないよと言われていた通りです。

この通りを真っ直ぐ進んで道なりに左に曲がると目の前に出てくるのがRCサクセッションの曲で有名な「たまらん坂」です。忌野清志郎がこの坂の近所に下宿していたことから生まれた曲らしいのですが、この坂は北に方角を変えた「国分寺崖線」です。国分寺崖線は西国分寺の武藏国国分寺跡の先で東西から南北に向きを変え、徐々に高低差を無くしながら玉川上水駅の辺りまで続いて行くんですね。基本、崖ですから、今は車が上れるようになだらかに直してありますが、昔は急勾配の泥道の悪路だったらしく、一橋大学の学生が「たまらん、たまらん」と言って登っていたのが名前の由来と言われています。RCサクセッションの「多摩蘭坂」は当て字です。

たまらん坂の標識のある所から進行方向を北に変え、中央線の線路を越えると出てくるのが国分寺三山?の1つの「エックス山」です。山というより武蔵野の平地森なのですが、市民ボランティアの手で良く整備されていて、中に散策路があります。名前の由来は昔ここで道がX型に交差していたからだとか。

エックス山から武蔵野線をくぐり、続いて「恋ヶ窪」に入って行きます。ここは国分寺崖線に切り込んだ野川源流域の窪地で、名前の由来は、鎌倉時代、畠山重忠に寵愛された遊女この近所に住んでいて、重忠が亡くなったという嘘の訃報を聞いて、後で出てくる「姿見の池」に身を投げたという悲しい伝説から来ているそうです。

恋ヶ窪に入って最初に出てくるのは「恋ヶ窪用水跡」です。これは恋ヶ窪は湿地なので灌漑用というより、玉川上水から近所の新田に引いた水の余りを野川に放流するための物と考えられます。

用水跡から道を渡った場所にあるのが「国分寺熊野神社」です。恋ヶ窪の地に680年以上鎮座すると云われる国分寺市最古の神社らしいのですが、鎌倉街道沿いにあったため、新田義貞と鎌倉幕府との戦いを始め何度も戦争で焼けているかわいそうな神社です。でも最近は恋ヶ窪にある神社として縁結の神として人気だそうです。

続く「東福寺」も熊野神社の別当寺として同じような運命を辿ってきたお寺です。ちなみに宗派は真言宗豊山派だそうです。

東福寺の前からさっきの恋ヶ窪用水の続きの水路沿いの遊歩道を歩いていくと、さっき書いた「姿見の池」があります。この池はずっと涸れていて水が無かったのですが、平成に入って再生されました。まだ出来たての頃に来たことがあってが、そのころはあたり一面原っぱだったのですが、今は木に囲まれています。

姿見の池の西南側の高くなっている場所が、国分寺二山目の「日影山」です。まあこれは高くなっているというより、池が低くなってるだけなのですが、南側が高くて日影になるので、妥当なネーミングと言えるのではないでしょうか。

姿見の池から中央線と日立の研究所の間の道を国分寺駅方面に向かいます。途中に川は見えないのですが、「野川源流」の説明書きがあります。野川は中央線の下をくぐり、日立の研究所内にある池から流れ出しています。

そして再び中央線を渡り、国分寺駅南口に向かいます。この国分寺駅南口のロータリーになっている辺りが国分寺三山の最後の「丸山」です。駅から見るとわかりませんが、南や東に少し行くと急勾配で下っているので、ここが台地の突端であることがわかります。丸山の名前は坂道の名前として残っています。

次の「殿ヶ谷戸庭園」は、江口定条の別荘を三菱財閥の岩崎彦弥太が買い取り、洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備したもので、現在は東京都の有料庭園なのですが、コロナで休園中なので、写真だけ撮って通過。

さらにその次の「新次郎池」も、東京経済大学敷地内にある一般に開放されている湧水の池なのですが、コロナのせいか、朝早すぎるせいなのか、ここも閉まっており、塀の上から何とか写真を撮っただけで、ここも通過。

でも次の「貫井神社」は、回りが住宅地なのにもかかわらず豊富か湧水が湧いている素晴らしい神社でした!ここの湧水の池は「東京の湧水57選」にも選ばれていて、豊富で枯れることがなかったことから「黄金井」(こがねい)と呼ばれ、「小金井」の名の由来となったとされているそうです。またそういう場所なので、付近からは縄文土器を中心に多数の遺跡が貫井遺跡として出土しているらしいです。

でもその横の「三楽の森」はスポーツグランド以外の緑地部分は私有地で立入禁止。「滄浪泉園」も有料庭園で、開館時間前だったので入れず。「どんぐりの森」も立入禁止。「はけの森2」も立入禁止で、中央線沿線は環境意識の高いリベラルの人が多いせいなんでしょうか?川崎や横浜の緑地は時間も環境もコロナも関係無しに勝手に入れたのにな~。

武蔵小金井駅にほど近いマンションの前に「黄金の水稲荷」というのがありました。井戸を埋めたので稲荷を造ったとか書いてあったのですが、黄金の湧水伝説は複数候補地があるのかもしれません。

ここで小金井に来たからには「小金井神社」に寄って行こうと向かうのですが、その前に行く途中にあった元別当寺の真言宗寺院である「金蔵院」に参拝して、さらに「金井原古戦場跡」という、新田義貞の子義宗、義興と足利尊氏が戦った跡の碑を見に行きます。新田軍はそのまま鎌倉を占拠したが、1月後には尊氏勢に取り返されたとのことなのですが、新田義貞は大河ドラマになりませんかね~。話としては非常に面白いと思うんですけど。

さて「小金井神社」です。こここそが小金井の元となる神社かと思っていたのですが、元は新田開発に当たって移住してきた人たちが菅原道真公を祀って天満宮を造ったのが始まりのようで、小金井神社という名前も明治の合併で近隣の神社を合併した際に、小金井の里の総鎮守となるべく小金井神社とつけただけであることが判明しました。ハケ下にあるにも関わらず、湧水もないんですが、ただ社殿は新しく立派です。

「はけの森美術館」とその裏にある「美術の森」開館前で入れなかったのですが、ここも誰かの別荘だったようです。国分寺崖線は目白の神田川と同じく、日当たりの良い南斜面になるので、昔は結構沢山お金持ちの別宅が造られていたようです。

ここから先、国分寺崖線に沿って行くと、前にも行った野川公園や深大寺の方に行ってしまうので、中央線方面に北上します。最初に向かうのは「八重垣稲荷神社」です。ここはどこかの農家の屋敷神が拡大したような神社で、手作り感満載のキツネのイラストがところ構わず雑然と置かれていて、ちょっと怪しい雰囲気を醸し出しています。でも参道の敷石は、武蔵国総社大國魂神社で古く使われていた敷石を譲り受けたものらしいので、多少は由緒正しいのかもしれません。良くわからない神社です。

そしてまた中央線を越えて、御嶽神社に比べ滅多にない「大嶽神社」があるので行ってみます。ここは、第二次世界大戦末期に、火難盗難除けの神符を、西多摩郡桧原の大嶽神社から勧請して祀った神社ということらしいのですが、御嶽山の御師とは別に白倉のあのあたりに大嶽講の御師というのも少数ながらいたのかもしれませんね。でも不思議なのは前のお地蔵さんが大山道の道標になっていて、台座に「右 ふちう 大山みち」と刻まれているそうです。この前、富士講やりつつも伊勢にも行っていた農村があったので、その類いなのでしょうか?

駅が立派になったので、もっと発展してるかと思ったら、全然発展していなかった東小金井駅を抜け、発展どころか駅前商店街がシャッター街化している西武多摩川線の新小金井駅も抜け、中央線と京王線の間のまだ畑かたくさん残っているエリアに入って行きます。

「笠森稲荷神社」もその向かいにある「天神社」も「深大寺御嶽神社」も「井口八幡神社」も、みな新田開発によって江戸時代に新しく作られた神社です。「笠森稲荷神社」は難病平癒に霊験いちじるしく、お陰報賽奉納の鳥居がたくさんあるだの、「深大寺御嶽神社」は。深大寺新田が尾張徳川家の鷹狩場で、鳥獣災害除けとして、調布深大寺多門院の山伏より御嶽大権現を勧請しただの、多少の違いはありますが、特にとりたてて面白い神社ではありません。

井口八幡神社から少し北上すると「塚」という名前の交差点があって、この近所に複数の塚があったそうです。今はほとんどが失われていますが、「井口大鷲神社」がその名残だと言われています。ここは廃寺となった蓮華寺境内にあったものを遷座したものらしく、社名碑の揮毫は武者小路実篤だとのこと。

「上連雀神明社」も新田の神社ですが、隣のたぶん別当寺だったであろう「井口院」という寺が妙に立派でした。雨乞い弥勒菩薩という変わった仏様が境内にありました。

そして徐々に終点の三鷹に近づいて行きます。「八幡大神社」は、大きい神社だったのでこんどこそはと思ったのですが、ここも江戸の大火で神田から移り住んだ人たちが建てたらしいです。

八幡大神社の隣の「禅林寺」は黄檗宗の寺で、太宰治と森鴎外の墓が裏の墓地にあります。太宰の墓は津島家の墓の横に太宰治とペンネームで書かれた墓があります。森鴎外の方は森林太郎と本名で書かれています。

三鷹には太宰治をはじめとする文学碑がたくさんあります。駅の方に向かって歩いていくと、まず山本有三「生きとし生けるもの」文学碑があります。これは、大正15年に朝日新聞に連載されたもので、子供のの出生の疑惑に苦悩しながら生きる小学校教師を通して、貧富の相を描いた作品。

続いて太宰治「斜陽碑」があります。これは『新潮』1947年に連載された没落していく華族の物語で、太宰の代表作でペストセラーになりました。

そして最後に、武者小路実篤「人間萬歳」の碑があります。これは1922年『中央公論』に掲載された神様と人間の戯曲です。

駅の手前まで来て右手の細い路地に入ると、そこが「太宰横丁」です。太宰が通っていた飲食店街で、そういう看板は出ていませんが、入口に太宰の足跡の地図があります。

ところがこの地図が手持ちの地図と合わずにウロウロしてしまいます。なんとか最初にたどり着いたのが「太宰治文学サロン」です。ここは太宰家が利用していた伊勢元酒店の跡地に建ったビルに作られたものです。でもコロナのせいか閉まっていました。

文学サロンから太宰横丁と同じような小路を駅の方に進むと「野川家跡」があります。太宰と一緒に玉川上水に入水自殺した山崎富栄が住んでいた場所です。現在は永塚葬儀社という葬儀屋になっています。

その斜め前が「千草跡」です。太宰が2階を仕事場にもした小料理屋の跡地で、市役所の出張所になっています。

ここから三鷹駅前を抜け、JRの車両基地の上にかけられた「太宰ゆかりの跨線橋」に向かいます。ここは太宰お気に入りのスポットだったらしく、訪ねてきた友人を案内することもあったとか。今は地元の鉄道マニアの集まる場所になっています。

跨線橋を渡って三鷹駅北口に行くと、駅前に国木田独歩「山林に自由存す」文学碑があります。書は武者小路実篤の筆によるもので、独歩のレリーフがついています。国木田独歩は歴史ある神社仏閣も名勝も何もない新田ばかりの中央線北側に美を見いだした武蔵野の開拓者。

そして南口に戻り、玉川上水沿いを進むと、太宰が愛人と玉川上水に入水自殺した地点に「太宰碑」があり、太宰のレリーフには玉川上水を「青葉のトンネル」と書く「貧乏学生」の一部が刻まれています。玉川上水は今は水がチョロチョロ流れているだけですが、昔は自殺可能なぐらいの水量があったそうです。

さらに玉川上水沿いを行くとあるのが、「山本有三記念館」です。山本が1936年から1946年まで居住した大正末期竣工の洋館がそのまま残されていて、ここは入れたんですが、今更なんでやっぱり通過。

そのまま真っ直ぐ行くと、玉川上水は井の頭公園に突き当たり、右折すると「三鷹の森ジブリ美術館」があります。入口にトトロがいました。ここは完全予約制なので当然入れず、やはり建物を見るだけ。

ジブリ美術館から三鷹方面に戻ると、公園の向かい側に「太宰治旧宅跡」があります。ありますと言っても普通の住宅地に変わっているので何もありません。太宰治は井伏鱒二の紹介で美合結婚した石原美知子と甲府での新婚生活を経て、昭和14年9月からここに移り住み、亡くなる昭和23年6月まで、疎開の一時期を除き、住んでいました。持ち家ではなく3軒並びの借家で一番奥が太宰の家だったそうです。

山本有三や武者小路実篤と比べるとかなり庶民的なところに住んでいるのですが、「斜陽」がヒットしたとはいえ、作家としてはあまり儲かってはいなかったんですかね。

あと行きつけの寿司屋の跡とかいろいろあるんですが、良くわからないので、今日はこれまでにして三鷹駅に戻ります。三鷹駅からは電車には乗らず、仙川にバスで行って「仙川 湯けむりの里」に向かいます。深大寺の「湯守の里」でも良かったんですが、あそこは上がってから調布駅まで遠いので、今日は駅に近い仙川に行くことに。湯けむりの里は土日850円とこの辺の日帰り温泉としては安いのですが、メタほう泉とかいうほぼ井戸水のような泉質なので、温泉というよりスーパー銭湯と考えた方が良いと思います。そのせいか、中の広さは普通なんですが、サウナと高濃度炭酸泉がやたら混んでいました。

湯けむりの里を出たら仙川でラーメンということで、「ばかたれ」という、地元で人気店らしき店に入ってみました。ここは味噌も豚骨もつけ麺もみんな人気らしく、何を注文していいかわからなかったので、本日のお勧めになっていた「煮干しブラックラーメン」を注文してみました。富山ブラックのような真っ黒な、それでいて意外にしょっぱくないスープに煮干しの出汁と粉がブレンドしてあるラーメンです。これはこれで美味しかったのですが、となると他のメニューが気になるラーメン店です。でもコロナが終わったら行列なのかな?

帰りは仙川から京王線で帰りました。

国分寺歴史・観光マップ|国分寺市公式ホームページ
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/machi/1007361/1002879.html

小金井観光マップを作成しました:小金井市公式WEBへ
https://www.city.koganei.lg.jp/smph/kankobunka/kankobunka_oshirase/koganeikankoumap.html

太宰治の足跡コース - みたか都市観光協会
http://kanko.mitaka.ne.jp/_files/00010498/05_Area03-dazainoashiato.pdf

天然温泉 仙川 湯けむりの里
https://www.yukemurinosato.com/sengawa/

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