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比企丘陵東端(ポンポン山、吉見観音、源範頼館跡など)

吹上神社、大芦氷川神社、大芦塞神社、高負彦根神社、ポンポン山、黒穴古墳群、八丁湖、吉見観音、伊波以神社、上横見神社、御所陣屋跡、息障院、源範頼館跡、正伝院、野芽神社、山の根古墳、久米田神社、無量寺、権現遺跡、久保田横見神社、トウカン森遺跡、三ノ耕地遺跡( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→上野→高崎線→吹上

復路:

この登山記録の行程

東松山→東武東上線→和光市→副都心線→渋谷→東急東横線→学芸大学

コース

総距離
約24.2km
累積標高差
上り約232m
下り約214m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

4月2日(土)は、比企丘陵の東端を吹上駅から東松山駅まで途中ポンポン山に登ったりしながら歩いて来ました!高崎線と東武東上線の間というのはとにかく遠くて、今まで元の沿線に戻っていたのですが、今回ようやく縦断することが出来ました!ちなみに一般的なハイキングコースには、吹上駅~ポンポン山~八丁湖~吉見観音と来たら、そこから山を越えて松山城跡&吉見百穴を目指し、最後東松山駅に出るのがお勧めです。距離も短くなりますし、本数の少ないバスの時間を気にせず気楽に歩けます。

スタートは高崎線の「吹上駅」です。吹上の名前の由来は、強風で荒川の砂が吹き上げられる場所という意味らしいのですが、さすがにここまで来ると群馬の木枯紋次郎が目と鼻の先って感じになってきますね。ただ場所的には中山道と日光脇往還が交わる交通の要衝として結構繁栄していたらしいです。

今日は最初のうち、目ぼしい物が何もないので、道の途中にある神社仏閣を適当に参拝して行きます。最初の「東曜寺」は江戸時代初期の創建ではないかといわれる真言宗豊山派寺院の寺院で、次の吹上神社の別当寺でした。明治6年に本堂を教場として吹上学校が開校したそうです。

隣の「吹上神社」は、吹上の上分の鎮守で吹上駅周辺では一番立派な神社です。元は山王社と称していたらしいのですが、明治維新後村社に列格され、地内の氷川社、稲荷社を合祀して「吹上神社」と改称したそうです。

線路を渡り徐々に荒川方面に進むと徐々に水田が増えてきて「大芦氷川神社」が出てきます。ここは大芦村の鎮守で、明治維新後村社に列格され、雷電社、稲荷社、諏訪社、蠶養社、神明社、大天白社、浅間社、塞神社などを多数の神社を合祀しています。ここも吹上の荒川近くでは一番立派な神社!

その次の曹洞宗の「龍光寺」は、慶長12年(1607)の武州足立郡箕田内大芦村御検地水帳に「里うかういん」と記載されていることから、江戸時代初期には既に創建されていたのではないかといわれている以外に特に何もない寺で、ただここも、明治に本堂で大芦学校が開校しているそうです。

「大芦塞神社(日枝神社)」は先程の大芦氷川神社に合祀された祠が未だに残っているもので、由緒不明の山王社が左隣に祀られています。

つぎの真言宗豊山派の「医王寺」は大芦氷川神社の元別当だった寺で、それ以外特にないのですが、過去帳に上野の郷士堀口貞満が延元年間(1336-1340)に芦原を開拓したと記されていることから、そのころにはすでに創建されていたのではないかと言われています。

まあこの辺りは荒川の氾濫原の開拓地なので、たいした物がないのは当然なのかもしれません。

そして「大芦橋」で荒川を渡ります。駅から荒川までの間に河岸段丘があるのだろうと思っていたら、ずっと平坦なまま荒川に着いてしまいました。この辺は台地ではなくて全部低地なんですね。多少の微高地になってるんでしょうけど。

大芦橋で荒川を渡って対岸に近づくと、堤防の手前に「和田吉野川」という別の川が流れています。荒川はご承知の通り、昔は入間川と合流せずに今の中川の辺りを通って東京湾に注いでいたのですが、入間川と合流させる際に使われたのがこの「和田吉野川」で、今も荒川から水田に引いた水をまた荒川に戻すための水路として名前が残っています。

それから大芦橋の近所には「八王子千人同心道(日光脇往還)」の「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船場もあったそうです。

荒川を渡ると、いよいよ本日の第一目標である「ポンポン山」山が目の前に迫って来ます。名前だけ見ると先日登ったゴリラ山のような子供の遊び場として整備された山に見えますが、山頂には「高負彦根神社」という延喜式神名帳に記載されている古社が鎮座している思いの外由緒正しい山です。

「髙負彦根神社」は、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列した神社で、武蔵国の班幣対象社四社の内に「横見郡高負比古乃社」として名前が載っているそうです。ただ中世以降は「玉鉾氷川明神社」と呼ばれていたそうです。かつては神社の鎮座する「玉鉾山(ポンポン山)」の真下を荒川が流れる水運の要所で、海洋貿易を盛んに行っていた渡来系ともいわれる「吉志氏」との関わりも推測されています。また吉見町は安閑天皇元年534)に置かれた「横渟屯倉」の推定地で、吉志氏は屯倉管理のために派遣されたのではないかとも言われています。

「玉鉾山(ポンポン山」は標高こそ38mと超低いものの、秩父~奥武蔵~比企丘陵と続いてきた山塊のしんがりをつとめるに相応しい岩峰で、山頂直下にはクライミング対象になりそうな大?岩壁があります。かつては下に「湊石」といわれる船の綱を結んだ石もあったそうです。ポンポン山の名前の由来は、岩山の頂上の岩盤を踏み鳴らすと鼓のようにポンポンと響くところから名付けられたそうです。

ポンポン山山頂から高負彦根神社に戻ると、神社の入口の横に「獅子封じ塚」という小さな塚があります。この地では、昔から悪疫退散のため、獅子舞を冠り、戸毎を訪問する行事が行われていましたが、ある年の痢病が著しく、死者も多く出たため、これは産土神のお咎めではないかと思い、獅子舞をこの場所に埋めてその上に柊を植えて、獅子封じをしたそうです。それ以来、痢病もおさまったといわれています。無礼講で酒飲んでどんちゃん騒ぎしてたのかもしれませんね。

ポンポン山から一旦下り、丘陵地帯を登り直すと、「八丁湖公園」の北口に着きます。そして新緑の散策路を下っていくと「黒岩横穴墓群」に着きます。ここは古墳時代後期~終末期に造られたと考えられる横穴墓群で吉見百穴のような横穴墓を少数ですが見ることができます。別名「十六穴」とも呼ばれるそうですが、実は横穴墓の数はもっと多く、総数は500基以上と推定され、吉見百穴よりも大規模な横穴墓群とのことです。大正14年に県指定の史跡となっています。

そのすぐ下にある公園の中心である「八丁湖」は、水田耕作のために徳川時代に造成さ溜め池で、面積は約52,000平方メートルあるそうです。ちょうど桜の時期ということもあり、地元のウォーキングの人が多数散策を楽しんでいました。

八丁湖から再び山に登ると、この辺りの観光の中心である「吉見観音(岩殿山安楽寺)」に着きます。安楽寺は、大同元年(806)に坂上田村麻呂が開基となり創建されたという伝承の残る真言宗智山派の古刹で、その後、この辺りを領有していた「源範頼」が三重大塔、大講堂を建立したそうです。しかしこれらは、上杉憲政と北条氏康の松山城合戦ですべて焼失してしまい、現在ある建物は江戸時代に再建されたものだそうです。本尊の聖観世音菩薩像は、坂東三十三ヶ所観音霊場12番で吉見観音と称されている他、大日如来像は彩の国武州路十二支霊場の申年霊場、また関東八十八ヶ所霊場75番、東国花の寺百ヶ寺、中武蔵七十二薬師62番、武州八十八所霊場36番など、数多くの霊場を兼ねているため、年間を通じて数多くの観光客が訪れるそうです。

吉見観音から山道を下ると、今度は「伊波以神社」があります。ここも延喜式神名帳に記載されている式内社なのですが、意外なぐらい小さな神社でした。「伊波以神社」はあちこちに論社のある出雲伊波比神社と名前が似ていますが別の神社で、和銅年間(708-715)に創建、嘉祥2年(849)に従五位下に叙せられ、貞観元年(859)に盤井神として官社に列格したとのことです。ただ主祭神に関しては出雲伊波比神社と同じ武蔵国造の遠祖の出雲系の神だったのではないかといわれています。その後「源範頼」の子孫「吉見氏」により八幡神を併せ祀って「岩井八幡宮」と称していたそうです。

伊波以神社からしばらく田んぼの中を進むとある「上細谷氷川神社」は、細谷郷から上細谷村として分村した際に、次に行く「横見神社」の分霊を勧請して村鎮守としたという神社なのですが、その当時横見神社は「飯玉氷川神社」と称していたため、分社であるこちらにだけ氷川神社の名前が残る形になっています。

そしてその「横見神社」です。ここも延喜式神名帳に記載されている式内社なのですが、それに加え「御所陣屋跡」という「源範頼」の館跡の候補地にもなっています。実際、神社の周囲には空堀のようなものと、境内には「御所塚稲荷古墳(※古墳時代後期のものなので源範頼の墓ではない)」が存在しています。横見神社は、和銅年間(708-715)に創建された、当時の郡名横見郡の名前がつけられた神社で、中世には源範頼の子孫吉見氏の崇拝を受け、繁栄していたそうなのですが、吉見氏が衰退すると名主などの有力農民層の管理する神社となり、長らく「飯玉氷川明神社」と呼ばれていました。明治維新後に「横見神社」と社号を改め、郷社に列格されたそうです。

「御所陣屋跡」の候補地は実は近所にもう1つあり、それが真言宗智山派寺院の「息障院」です。寺の周囲に堀が残っています。横見神社と息障院を含めたエリア全体が館跡だったという説もあり、詳しいことはわかっていないようです。源範頼は、源頼朝の異母弟(源義朝の6男)で、遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれ、義経と共に平家討伐に多大な貢献をし、武蔵国横見郡吉見(現吉見町)に領地を得て、居館は「吉見御所」と呼ばれるようになったということです。吉見町の領地は、範頼が比企氏の庇護によって成長したことによるという説もあり、そうなると頼朝軍に加わる以前からこの地を領有していたことになります。またその後、範頼は頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流されてしまうのですが、この地に戻ってきて隠れすんでいたという伝承もあるようです。

「息障院」の創建は、伝承によると天平年中(730年頃)に行基菩薩が開山したとも、大同年中(806年頃)に坂上田村麻呂将軍が開基になって創られたとも言われています。古くは吉見護摩堂と称し、天慶の乱の折、平将門調伏の護摩を修した祈祷所だったようです。ただこの寺は元は吉見観音の参道右の愛宕山(※恐らく伊波以神社の上の配水場のあたり)にあったといわれているので、屋敷跡に移転してきただけで範頼とは関係ないかもしれません。江戸時代には慶安元年(1648)に寺領20石の御朱印状を拝領し、末寺120ヶ寺超を擁する大寺だったとのことです。

次の真言宗霊雲寺派の「正伝院」は、徳川の祈願所だった江戸湯島の靈雲寺の末寺です。ついでに寄ってみたのですが、本堂の瓦が崩れて半分廃寺状態になっていました。ただ墓参用の休憩所は新しかったので、墓地だけで存続させるつもりなのかもしれません。

その先の高台にある「野芽神社」は、イネ科植物の穂先にある剛毛である「芒=野芽」を社号としていることから、穀霊を祀って創祀したのではないかといわれる神社です。

「山の根古墳」は、吉見丘陵南端上にある墳長54.8mの前方後方墳で、下の沖積低地にある三ノ耕地遺跡との連続性が想定されているとのことなのですが、それらしきものは発見できませんでした。見つかったのは古墳群の1つのような小さな塚だけ…。

「久米田神社」は式内社ではないですが、倭文神を祀る倭文神社と称して和銅年間(708-715)に創建された古社で、『日本文徳天皇実録』天安2年(857)9月の条に「倭文一神」として従五位下に昇叙したと記されています。祭神の建葉槌命は天羽槌雄命の別称で、天照大神が雨岩屋戸に隠れたときに文布を織った神です。この辺りは飛鳥時代から白木綿の生産が盛んだったためそれを祀ったものと考えられています。

真言宗智山派で息障院末寺の「無量寺」は、江戸時代に徳川家康が鷹狩りの際の休息所となり、寺領10石と御朱印状を拝領した寺院なのですが、ここには「権現遺跡」というと奈良時代・平安時代・鎌倉時代の遺跡(集落跡・城館跡)があり、土豪の居館があったのではないかといわれています。敷地の周囲の西側から南西側にかけて流れている堀はたぶん遺構ではないだろうな…。

「久保田横見神社」は、建長年間(1249-1256)に起きた大洪水で御所の横見神社が流されて当地に漂着したことを記念?して造られた神社で、横見神社の旧称(飯玉氷川神社)からとった「飯玉神社」を名乗っていたそうです。しかし明治4年に村社に列格した際に、横見神社と改称したとのこと。なお別当は先程の無量寺だったそうです。

広大な田んぼの中にポツンとある「トウカン森遺跡」は、5世紀後半~6世紀頃の築造と推定される直径15mm、高さ1.5mの円墳ですが、発掘調査は実施されていないため、埋葬主体部や出土品は不明です。

この辺りは現在は水田ですが、かつては微高地で多数の古墳が造られていたようです。「三ノ耕地遺跡」はその代表的なもので、弥生時代から古墳時代前期の前方後方形墳丘墓3基と方形周溝墓群(28基)が検出されている遺跡群です。ただ田んぼの中にそれっぽい噴丘を2~3見つけたのですが、本当に古墳なのかは良くわかりません。

先日行った松山城跡のある丘陵地帯を横目で見ながら、「野天風呂蔵の湯 東松山店」に向かいます。ここは川越の小江戸はつかり温泉の系列の日帰り温泉で、泉質は38.1℃のナトリウム・塩化物強塩泉(弱アルカリ性高張性温泉)で、料金は平日650円、土日770円です。ここに来るのは3回目になるのですが、錆びてボロボロだった看板が新しくなっていました。それからこの前までうっすらと色がついている程度だった天然温泉の浴槽がかなり白濁していました。地震の影響でしょうか?

今日は野天風呂蔵の湯 東松山店に予定より早く着いたので、温泉の食堂で昼飯を食べていくことにします。東松山駅は飲み屋はあっても飯屋はあまり無いし…。で、昼間1本しかない13時35分のバスに間に合いそうな「辛味噌ラーメン」なるものを注文してみました。これは普通の辛い味噌ラーメンなのですが、値段が温泉プライスではない街中の中華屋レベルの750円とリーズナブルな設定になっていたので、結構お勧めです。東上線の温泉は安くていいですね。

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登った山

ポンポン山

ポンポン山

30m

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史跡探訪をポイントに、比企丘陵のウォーキング

最適日数
日帰り
コースタイプ
縦走
歩行時間
3時間20分
難易度
コース定数
11
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