武蔵七党・児玉党発祥の地「旧神泉村(神川町)」
阿久原牧碑、阿久原牧碑、般若寺、有道惟行館跡、阿諏訪杜丹生神社、神水ダム、原古墳、般若塚古墳、鬼石神社、有氏神社、木宮神社、金鑽御獄城跡、御嶽山、武蔵国二ノ宮金鑚神社、金鑽大師、伊勢大神社、池田屋敷跡、新宿八幡神社、上武鉄道寄島駅跡、おふろcafe白寿の湯( 関東)
パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )
晴れ
バス
その他:
往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→本庄→朝日バス神泉総合支所行→織茂
復路:下渡瀬朝日工業前→朝日バス本庄駅南口行→本庄→湘南新宿ライン→恵比寿→山手線→目黒
織茂バス停8:13→鬼石神社8:19→三杉神社8:30→般若塚(大円樫)古墳8:36→福持寺8:43→原古墳8:52→神水ダム8:56→阿諏訪杜丹生神社9:00→児玉(有道)武蔵守惟行館跡9:10→般若寺9:12→駒形神社(阿久原牧阯碑)9:24→成田山9:29→神泉カタクリの里9:32→八王子神社9:36→寿光寺9:48→寿光寺(旧神泉総合支所前)バス停9:52→駒形稲荷神社(阿久原牧碑)10:01→道のオアシス神泉10:15→有氏神社10:21→木宮神社10:47→龍宝寺10:58→御嶽山登山道入口11:04→林道11:15→御獄城西廓跡11:34→御嶽山山頂343.5m11:45→岩山展望台11:53→鏡岩12:05→武蔵国二ノ宮金鑚神社12:12→大光普照寺(金鑽大師)12:21→伊勢大神社12:46→泉徳寺12:56→守神神社(池田屋敷跡)13:02→新宿八幡神社13:20→上武鉄道寄島駅跡13:33→石重寺13:40→西武化学前(若泉)駅跡13:49→おふろcafe白寿の湯14:00~15:45→下渡瀬朝日工業前バス停15:50
合計5時間52分(温泉除く)
1月27日(土)は、神川町の一番奥地の旧神泉村にある武蔵七党最大派閥の児玉党発祥の地を訪ねて来ました。秩父の城峯山の北側のほぼ群馬といった感じの辺境なのですが、京都から東山道を碓井峠越えで来ると、秩父経由で武蔵国に入る脇往還(鎌倉街道山の道)の要衝に当たるため、かつては結構栄えていた場所でした。
交通手段は、本庄駅から先週と同じ神泉総合支所行のバスで、終点近くまで行きます。ただ寝坊して1時間遅れになってしまったため、バスの中でより効率の良いルートを考えた結果、鬼石郵便局の1つ手前の「織茂バス停」で降りて、鬼石神社から回ることにしました。
織茂バス停のすぐ右手に「鬼石神社」の参道の入口があります。参道を進み、山にぶつかったら階段を登ると神社があります。「鬼石神社」は、鬼石町(現藤岡市)の町名の由来となった神社で、本殿の下にある直径120cm、地上高90cmの地中から生えた「鬼石」と呼ばれる「神籠石」を御神体とする自然崇拝に基づく神社です。起源は縄文時代にまで遡れるのではないかといわれています。その昔、御荷鉾山に村人に害をなす鬼が住んでいましたが、弘法大師に調伏されて逃げ去り、その時投げた巨石が落ちたところが鬼石であるという伝説が残っています。江戸時代には鬼石明神と称し、元禄16年(1703)宣旨をもって正一位を授けられていました。明治の神仏分離後に鬼石神社と改称し、郷社に列せられています。鬼の伝説以外に、古くから板碑の材料として使われてきた三波石の産地が近くにあるため、その石を祀ったという説や、実は平親王(平将門)の公達を祀った神社で、当地は平将門の宮女の潜居の地であったという伝承もあるようです。奥多摩~奥武蔵に残る将門伝説は「城峯山」で将門が藤原秀郷に討ち取られて一応終わるので、それを受けてつくられた話だと思われます。
続いて「三杉神社」に向かいます。由緒不明なのですが、神社がある場所が小字三杉町なので、周辺の神社を合祀して地名をつけた神社だと推測されます。境内には合祀された古峯神社や稲荷神社の祠や城峯神社・天手長男神社と書かれた石碑があります。
三杉神社の裏の高台ある「般若塚(大円樫)古墳(鬼石町2号墳)」は、丘陵地帯の縁に造られた直径約15.2m・高さ約3.3mの円墳です。墳丘上に稲荷のような社がありますが、名前から推測すると元は般若心経が収められた経塚だったと思われます。
「福持寺」は慶石山と号する真言宗豊山派寺院です。創建は、天平年間(729~49)に行基手彫りの地蔵菩薩を祀ったのが始まりとされ、地蔵院と称していたそうです。その後、建久6年(1195)に「梶原景時の三男・福持丸」が当地で落馬により死去してこの寺に葬られたため、景時が中興開基となり寺号を福持寺に改めたといわれています。境内の太子堂は鬼石町の上町にあったものを大正6年(1917)に移転したものだそうです。
神流川沿いの最後のコンビニであるセブンイレブンの駐車場脇にある「原古墳」は、国道462号の道路改良工事に伴い道路沿いに移築復元された古墳で、土を使わず石だけで造られた非常に珍しい古墳だそうです。築造時期は古墳時代後期の6世紀前半で、石室も発見されています。円筒埴輪片や副葬品の首飾りのガラス玉などが出土しています。
「神水ダム」で神流川を渡ります。水力発電で使用した水を再度溜めて、もう一度水力発電に使うための逆調整ダムだそうです。今まで群馬県でしたがようやく埼玉県に入ります。
埼玉県の旧神泉村中心部は、児玉党発祥の地なのですが、何故か最初に丹党の氏神を祀った「阿諏訪杜丹生神社(上阿久原)」があります。ただこの神社は、児玉惟行(延久元年(1069)8月7日没)の時代よりかなり後の永正17年(1520)に丹党の「真下全能」が社殿を造立したといわれているので、創建はもう少し早いとしても、児玉党が本庄台地に本拠地を移した後に建てられたものと推測されます。神流川の対岸の群馬側には「真下城」もあります。御祭神は高龗神と水速女神という水神で、この辺りは神流川に面しているものの谷が深く、水を得るのに苦労していたため、雨乞いの神として祀られたといわれています。上下に分村した後の上阿久原村の鎮守だったそうです。
阿諏訪杜丹生神社の南側の一帯が「児玉(有道(ありみち))武蔵守惟行館跡」です。かつてはわずかながらも土塁や堀の跡が残っていたらしいのですが、今は古い農家の家と畑が広がるのみです。ただ西側に堀の跡かもしれない用水路があり、南北に段差があります。段差のところに弁財天があるので、下をに池か川が流れていた可能性があります。児玉党の祖といわれる「児玉(有道)惟行」は、阿久原の牧の別当として赴任し、任期が切れても帰還せずにこの地に住み着いて児玉(遠峯)を名乗り、後に武蔵七党の最大勢力となる「児玉党」の祖となりました。児玉惟行の父「有道惟能」は都で「藤原伊周」に使えていましたが、伊周が失脚したため武蔵国に下向したといわれています。藤原伊周を直接の祖先とする系図もありますが、後世の創作と見られています。また児玉系図略図では「児玉遠岩」の子息とされていますが、これも遠岩の存在が疑問視されています。有道氏は在道氏とも書かれ、元は丈部氏が改名したともいわれていますが詳しくはわからないようです。
館後の南側にある「般若寺」は、普門山と号する真言宗豊山派寺院です。応安7年(1374)に良重僧正による開山と伝わる寺で、本尊は不動明王(五大明王)となっています。明治時代の画家「新井鵞岳」の天井画92枚が有名だそうです。
山の方に向かうと「駒形神社」に着きます。ここには「阿久原(あぐはら)牧阯碑」があります。阿久原牧はこの神社を西南端として広がっていたようです。南側の三方を山で囲まれ、北側に神流川が流れているので、馬が逃げ出す心配もなく牧としては理想的な場所だったのかもしれません。
山の縁を進みます。「成田山」は由緒不明ですが、ここから神泉カタクリの里が始まります。
「神泉カタクリの里」は下草が刈られた斜面になっていて、遊歩道が整備されています。カタクリと桜のお花見とカタクリが同時に楽しめる知る人ぞ知る名所だそうです。入場無料、駐車場有。
カタクリの里の終点は「八王子神社」です。嘉永4年に創建で林地区17戸の鎮守社だったそうです。長い階段があります。
集落の中にある「寿光寺」は、藤の花が有名な真言宗豊山派寺院で、幕末から明治時代にかけて境内に舞台が作られて地芝居が盛んに行われており、「下阿久原芝居幕」が神川町指定有形文化財になっています。
寿光寺北側の「寿光寺バス停」は、かつての朝日バスの終点で「神泉総合支所前」という停留場名でした。バス転回所が残っており、休憩所やすぐ前の「したぐるま新井商店」も健在です。今の終点は少し先の「神泉総合支所」が終点なのですが、昔のガイドやブログに古い停留場名が残っているので注意が必要です。ちなみに神泉総合支所バス停から奥に進むには「神川町コミュニティバス」に乗り換える必要があります。
そのままバス通りを進むと、群馬県藤岡市(旧鬼石町)との境にある「上武橋」に着きます。同名のバス停の前に「阿久原(あぐはら)牧」の石碑があります。ここが阿久原牧の東北端だといわれています。都に献上する馬を放牧して育てる場所で、承平3年(933)に、それまで朱雀院秩父牧であった秩父郡石田牧(※吉田辺りといわれている)と児玉郡「阿久原牧」を勅旨牧としたことが記録に残っています。この牧の別当(管理者)として児玉党の祖である「有道(児玉・遠峯)惟行」が赴任したのが児玉党の始まりです。この伝承は江戸時代にも広く知られていたらしく、石碑の横の小高い場所にある「駒形稲荷神社」の横に「水戸光圀」が元禄8年(1695)3月18日に阿久原牧を訪れて、
「阿久原の牧の稲荷に鈴かけて いななく駒に いさむ武士(もののふ)
~阿久原に遠峰惟行のあとを訪ねて 源 光圀~」
と詠んだという歌碑が建てられています。
また阿久原牧の石碑の近くには、「埼玉県神泉村」(現神川町)の碑も建立されています。「神泉村」の名前の由来は、横隈山、城峯山の両山を「神山」と呼んでいたことと、中世に「若泉荘」という荘園が存在していたことから、「神」と「泉」を合わせて名付けたられたそうです。2006年1月1日に埼玉県の神川町合併されています。
神流川を渡って鬼石町に入らず、何もない東岸の道を進むと、「道のオアシス神泉」という道の駅があります。この辺りはスーパーやコンビニが少ないので、観光客向けというより、地元の人たちの貴重な食料品店となっています。「地粉うどん」や「下久保ダムカレー」が名物だそうです。下の河原には「神川パーク」というバーベキュー場もあります。
道の駅の先の大きな2本の銀杏の木の下にあるのが「有氏神社」です。児玉党の祖である「有道維行(ありみちこれゆき)」を祀る神社で、かつては有氏明神と呼ばれていました。小さな社があるだけですが、破風に児玉党本宗家の家紋「軍配団扇紋」が入り、傍らに「児玉党祖有道惟行 生誕壱千年記念碑」(平成12年建立)があります。神社の奧には「有道氏の祖廟」もあります。室町時代後期から江戸時代初期の間に子孫によって建立されたもといわれており、場所を移転しようとした際に人骨が発掘されたそうです。有氏神社には祭神が存在しない神社で、有道氏一族の墓の上に祠を建てて祖霊を祀っています。毎年11月19日に有道維行を祀る「盤台祭り」が行われており、白ふんどし姿になった氏子が、赤飯の入った盤台を高々と持ち上げ、「上げろ、下げろ」の掛け声に合わせて、もみあいながら盤台を上下させ、盤台の中の赤飯を四方に播く勇壮な祭りとして知られます。この赤飯を食べると厄払いができるともお産が軽くすむともいわれています。
「渡戸橋」の周辺にはかつて脇往還の渡し場があったそうです。
町中にある「木宮神社」は、木(木宮神社)・火(鬼石神社)・土(土師神社)・金(金鑚神社)・水(丹生神社)と五行に順じて祀られた神社の1つと伝えられる神社です。祭神は句句廼馳神(久々能智神、くくのち)という木の神を祀っています。「木宮神社座祭」という古くから伝わる祭があります。
「龍宝寺」は金剛山と号する天台宗寺院しかわかりませんが、立派な鐘楼門があります。寺の横を通って山に向かいます。
山越えの車道と合流した所に御嶽山の「渡戸登山口」(標高160m)があります。ここから御嶽山渡瀬コースに入り、林道にぶつかるまで登ります。林道にぶつかったら真っ直ぐ上らずに林道を左折して進むと、秋葉神社から登ってくる道と合流し、さらに林道を進むと、新宿(不動滝)から登ってくるが合わさります。この先でトラロープが張られた急な登山道に入ります。登りついた小高い場所が「御獄城西廓跡」です。
ここは「御獄城」の「西廓」の跡です。御嶽城は東西南北四方に広がる尾根に曲輪が展開されていますが、この尾根だけ登山道が通じており、山頂に向かう間にある2つの堀切を見学することができます。
堀切を越えた先が「御嶽山山頂(標高343.4m)」です。「御獄城」の本丸跡でもあります。この御獄城は青梅の御嶽山に築かれた「武蔵御獄城」と区別するために「金鑚御獄城」とも呼ばれ、「高見城」という別名もあります。正確な築城年代はわかっていませんが、南北朝時代の文明12年(1480)に、北畠顕家の配下の「長井斉藤別当実永」によって築かれ、文明12年(1480)に「安保吉兼」が再築城したと伝えられています。安保泰広は山内上杉家に仕えていましたが、天文21年(1552)に北条氏康に御嶽城を攻められ降伏します。その後、北条方の平沢豊前守政実が城主となりますが、武田に攻め落とされ、平沢政実も武田氏方に寝返りますが、元亀2年(1571)に武田氏と北条氏が再び同盟を結び、御嶽城は北条氏に返還されます。その後、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで他の城と一緒に廃城となったと推測されますが、詳細は伝わっていません。
山頂の東側に眺めの良い岩山があります。榛名山~赤城山~日光連山が一望できます。空気が澄んでいれば筑波山も見えます。岩山下には「鏡岩」があり、急な階段を下ると「金鑽神社」に着きます。
「金鑽神社」は、延長5年(927)の「延喜式」神名帳に「児玉郡一座 大 金佐奈神社 名神大」と記載された名神大社(※武蔵国の式内社で名神大社は武蔵一宮氷川神社と金鑽神社だけ)で、武蔵国総社の大國霊神社の武蔵国二ノ宮にも選ばれるなど、埼玉県内でも有数の由緒ある神社で、現在の祭神は天照皇太神と素戔嗚尊ですが、御室山を御神体として祀る本殿がない神社で、原始信仰の形を今に残しています。このような神社は長野県の諏訪大社と奈良県の大神神社の2つしかないそうです。創建は景行天皇41年(111)に日本武尊が東征の際に火鑽金(火打金)を御霊代として御室山(御室ヶ獄)に納め、天照皇太神と素戔嗚尊の二柱の神を祀ったことに始まるとされています。神社名の金鑽は古くは金佐奈と書かれ、神流川周辺から刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたことから、「金砂」や「金蛹(さなぎ)」が語源の渡来人の金属加工技術者集団が祀った神社だったのではないかという説があります。江戸時代には幕府から30石の御朱印を賜り、維新後の明治6年(1873)県社に昇格、明治18年(1885)には官幣中社として官幣社に列せられています。天文3年(1534)に「安保全隆」が寄進した「多宝塔」が国の重要文化財に指定されています。
金鑽神社から表の道に出た所にある「金鑽大師」は、金鑽山一乗院大光普照寺と号する金鑽神社の元別当寺の天台宗寺院です。単なる別当寺というわけではなく、川越の喜多院と栃木県真岡市の宗光寺と共に関東の三談林と称され、東国の天台宗の中核を担う天台宗別格本山であった格式の高い寺院です。創建は1350年前の飛鳥時代に聖徳太子が創建した舒明天皇の勅願寺と伝えられていますが、平安時代初期の仁明天皇の御代(833~850)に、慈覚大師円仁が本尊に十一面観世音菩薩を安置して天台宗の寺となっています。平安時代中期になると第十八代天台座主となった元三慈恵大師がここを訪れた際に自作の像を奉安し、元三大師の寺として世に広く知られるようになりました。また江戸時代初期に上野に勧学講院が開設されるとその傘下に入り、八箇壇林の一寺となっています。
金鑽大師から山の端まで行って折り返します。途中に「八坂神社」と「元森神社」が合殿になっている由緒がありそうな古びた神社がありました。
山の端にある「伊勢大神社」は、往古は萩平村と隣地の池田村の村境に祀られており、共に祭りを執行していたといわれる神社で、その後、明治維新の際に協議の上現在地に移転し、萩平住民の崇敬するところとなったそうです。昭和19年に神明神社と改称しますが、氏子の希望により、昭和56年に旧名の伊勢大神社に戻されています。
「泉徳寺」は慶長山と号する曹洞宗寺院です。
「守神神社」は、室町時代に創建された素戔嗚尊を祭神とする神社で、神社のある場所だけ周囲より高くなっていて、かつては堀や土塁の跡が残っていたため、「池田屋敷跡」といわれています。これは御嶽城主長井実永の家臣の卜部修理が支城として築いたものだそうで、その後永禄11年(1568)に甲斐武田氏旧臣松本左京がこの地を開拓して居を定めた際に、家の守護神として祀ったのが「守神神社」だそうです。松本氏が池田城へ入ったのは武田氏滅亡後の天正10年(1582)という説もあります。
「新宿八幡神社」は、『児玉郡誌』に「永禄年間(1558~80)に、渡瀬御嶽山城主長井豊前守政実築城の際、武運守護神として勧請せし社なりと云えり」と記されている神社で、この辺りの旧村社でした。ただ長井氏が城主であった時代は100年前の南北朝時代なので、武田氏か北条氏の家臣が勧請したとも考えられます。
「上武鉄道寄島駅跡」は、先週も出て来た上武鉄道(日本ニッケル鉄道)の復元された駅の跡です。上武鉄道の復元された駅は先週の神川中学校前とここの2つです。上武鉄道は1942年に日本ニッケルの専用鉄道として開業し、1947年に旅客鉄道になりましたが、1日わずか4往復、利用客10人程度という状態で1973年に旅客が廃止され、1986年12月31日付で貨物も廃止になりました。
上武鉄道の廃線跡を終点まで行き、表の道に出ると交差点脇に「石重寺」があります。青高山無量院と号する天台宗寺院で、沙門実海が永正11年(1514)に創建したとも、大光普照寺二十六世尊芸(寛永3年(1626)寂)が慶長年間(1596~1615)に創建したともいわれています。八重咲きの花二つが並んで咲き実を結ぶ「夫婦ウメ」が埼玉県天然記念物に指定されています。ただ現在の梅の木は二世だそうです。
緑道終点の先にあるのが上武鉄道終点の「西武化学前(若泉)駅跡」です。駅の痕跡は残っていませんが、「朝日工業(日本ニッケル工業鉄鋼部が昭和35年に朝日化学肥料に譲渡され改名した元西武化学工業がさらに改名)」の敷地内にあるため、駅があった当時は列車に乗るのに工場の守衛さんに通してもらわなくてはならなかったそうです。
本日の終点「おふろcafe白寿の湯」にようやく到着しました。現在の料金は平日880円、土日980円、泉質はこびりついた温泉成分が床に丘陵地帯を作るほど鉄分を多く含むナトリウム・塩化物強塩泉(高張性・中性低温泉)で、濃度が高すぎるためたまにポンプが詰まるため、最近は若干井戸水による加水を行っているようで、昔ほど濃い感じではなくなってしまったのが残念です。
白寿の湯を出ても食堂はないので、温泉内の「食事処 寝かせ玄米®と糀料理 俵や」で昼食にします。糀の入ったラーメンやカレーもあったのですが「本庄名物つみっこ汁定食」970円を食べてみました。小麦団子が入ったすいとんのような料理で、本庄は米よりも麦に適した台地が多いので、こんな感じで麦を主食にしていたのだと思われます。
温泉を出たら「下渡瀬朝日工業前バス停」から朝日バスで本庄駅まで戻ります。
今日は寝坊していつものバスが行ってしまったので、本庄駅名物の立ち食いそ」屋「本庄そば」で一杯の「かけそば」からスタート。
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KYOCERA KYF33
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ようやく1時間遅れの「神泉総合支所行の朝日バス」が来ました。
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1時間遅れなので、バスの中でゆり効率の良いルートを考えて、鬼石郵便局1つ手前の「織茂バス停」で下車。
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織茂バス停のすぐ前にある「鬼石神社参道入口の鳥居」をくぐって、まずは鬼石神社にむかいます。
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鬼石神社の参道は山にぶつかると階段になります。
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「鬼石神社」です。鬼石町(現藤岡市)の町名の由来となった神社で、鬼石という石を御神体にしています。古くから板碑の材料として使われてきた三波石の産地が近隣にあるため、その石を祀った神社という説や、また実は平親王(平将門)の公達を祀った神社で、当地は平将門の宮女の潜居の地であったという伝承もあるようです。明治の神仏分離後は鬼石神社と改称し、郷社に列せられています。
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「鬼石神社」本殿の下には、御神体の直径120cm、地上高90cmの地中から生えた「鬼石」と呼ばれる「神籠石」があります。祭祀の起源は縄文時代にまで遡れるのではないかといわれています。その昔、御荷鉾山に鬼が住み、村人に害をなしていたが、弘法大師に調伏されたため、巨石を投げて逃げ去り、その巨石が落ちたところが鬼石であるという伝説が残っています。
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続いて「三杉神社」に向かいます。由緒不明なのですが、神社がある場所が小字三杉町なので、周辺の神社を合祀して地名をつけた神社だと推測されます。境内には合祀された古峯神社や稲荷神社の祠や城峯神社・天手長男神社と書かれた石碑があります。
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三杉神社のある高台から見た「城峯山」です。
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その左前に「横隈山」です。この2つの山は神山と呼ばれ、旧神泉村の村名の起源になっています。
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三杉神社の裏の高台ある「般若塚(大円樫)古墳(鬼石町2号墳)」は、丘陵地帯の縁に造られた直径約15.2m・高さ約3.3mの円墳です。墳丘上に稲荷のような社がありますが、名前から推測するに元は般若心経が収められた経塚だったのでは?
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「福持寺」は慶石山と号する真言宗豊山派寺院です。創建は、天平年間(729~49)に行基手彫りの地蔵菩薩を祀ったのが始まりで、地蔵院と称していたそうです。その後、建久6年(1195)に「梶原景時の三男・福持丸」が当地で落馬により死去してここに葬られたため、景時が中興開基となり寺号を福持寺に改めたといわれています。
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福持寺境内の「太子堂」は鬼石町の上町にあったものを大正6年(1917)に移転してきたものだそうです。
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旧鬼石町の商店街です。今どれだけの店が開いているかはさだかではありませんが、神流川の出口にある大きな町だったことがわかります。
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旧鬼石町は群馬県なので、新町駅から神流川上流の万場や上野村に行くバスが通っています。鬼石郵便局前バス停で本庄駅行のバスと乗り換えられます。
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神流川沿いの最後のコンビニであるセブンイレブンに着きました。ここから上流にコンビニは無いので、西上州の山に車で向かう場合は要チェックです。
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セブンイレブンの駐車場脇にあるのが「原古墳」です。国道462号の道路改良工事に伴い道路沿いに移築復元された古墳で、盛土を使わず石だけで造られた非常に珍しい古墳だそうです。築造時期は古墳時代後期の6世紀前半で、石室が発見された他、円筒埴輪片や副葬品の首飾りのガラス玉などが出土しています。
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「三波川」を渡ります。この流域が古代から石碑の材料として使われてきた「三波石」の産地です。
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続いて「神水ダム」で神流川を渡ります。ここは水力発電で使用した水を再度溜めて、もう一度水力発電に使うための逆調整ダムだそうです。今まで群馬県でしたが、ここからようやく埼玉県に入ります。
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「神水ダム」の湖水です。大きく育ったヤマメとかイワナがいそうですが、立入禁止になっています。
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神流川を渡ると最初に丹党の氏神である「阿諏訪杜丹生神社(上阿久原)」があります。この神社は、児玉惟行(延久元年(1069)8月7日没)の時代よりかなり後の永正17年(1520)に丹党の「真下全能」が社殿を造立したといわれているので、創建はもう少し早いとしても、児玉党が本庄台地に本拠地を移した後に建てられたものと推測されます。神流川の対岸の群馬側には「真下城」もあります。
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「児玉(有道(ありみち))武蔵守惟行館跡」の西側の水路です。堀があったのでしょうか?
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「児玉武蔵守惟行館跡」の北側にある段差です。かつてはわずかながらも土塁や堀の跡が残っていたらしいのですが、この辺りにあったのでしょうか。
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KYOCERA KYF33
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段差のところにあった「弁財天」です。下をに池か川が流れていた可能性があります。
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南側にから見た「児玉武蔵守惟行館跡」です。畑と古い農家の家が広がるのみです。児玉党の祖といわれる「児玉(有道)惟行」は、阿久原の牧の別当として赴任し、任期が切れても帰還せずにこの地に住み着いて児玉(遠峯)を名乗り、後に武蔵七党の最大勢力となる「児玉党」の祖となりました。
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「般若寺」は、普門山と号する真言宗豊山派寺院です。有道惟行より後の応安7年(1374)に良重僧正による開山と伝わる寺で、本尊は不動明王(五大明王)となっています。明治時代の画家「新井鵞岳」の天井画92枚が有名だそうです。
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少し高台にあるタラノメ畑から阿久原の眺めです。1月なのでタラノメはまだ全然芽吹いていません。
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「駒形神社」に着きまさた。由緒は不明ですが、「阿久原(あぐはら)牧跡碑」があります。
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「阿久原牧阯碑」です。阿久原牧はこの神社を西南端として東に広がっていたようです。南側の三方を山で囲まれ、北側に神流川が流れているので、馬が逃げ出す心配もなく牧としては理想的な場所だったのかもしれません。
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山の縁の高台の道を進みます。旧神泉村と旧鬼石町の市街地の眺めです。神流川の山からの出口の向こうに赤城山が見えます。右側は御嶽山です。
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「成田山」は、修験者が祀った物でしょうか、小社があるだけで由緒不明ですが、ここから「神泉カタクリの里」が始まります。
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「神泉カタクリの里」は、植林された桜の林の下が下草が刈られた園地になっていて、遊歩道が整備されており、カタクリと桜のお花見とカタクリが同時に楽しめる知る人ぞ知る名所だそうです。入場無料、駐車場有です。
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カタクリの里の終点は「八王子神社」です。嘉永4年に創建で林地区17戸の鎮守社だったそうです。長い階段の上にあります。
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神泉カタクリの里から出ると、集落の道に冬桜の花がまだ少し残っていました。
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南側の山を振り返ります。山の上は埼玉GCというゴルフ場になっていて、中に「飯盛山物見台跡」があります。私有地なので登れませんが、見た感じ、山頂に社があるようです。
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神流川の対岸にある「真下城跡」もよく見えます。手前の尾根の先端部分に山城があったようです。完全な藪山だと思っていたら、登山道があるようなので、そのうち行ってみます。
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「寿光寺」は、藤の花が有名な真言宗豊山派寺院で、幕末から明治時代にかけて境内に舞台が作られて地芝居が盛んに行われており、「下阿久原芝居幕」が神川町指定有形文化財になっているそうです。
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寿光寺の北側にある「寿光寺バス停」は、かつての朝日バスの終点で「神泉総合支所前」停留場名でした。バス転回所が残っており、休憩所やすぐ前の「したぐるま新井商店」も健在で、バスを待つ間に缶ビールが飲めます。今は1つ先の「神泉総合支所」が終点なのですが、昔のガイドやブログに停留場名が残っているので注意が必要です。
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神泉総合支所バス停から奥にある城峯公園等に行くには「神川町コミュニティバス」に乗り換える必要があります。これが「神川町コミュニティバス」のバス停です。意外と本数があります。
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群馬県との境にある「上武橋」の手前にある「阿久原牧」の石碑に到着しました。ここが阿久原牧の東北端だといわれています。都に献上する馬を放牧して育てる場所で、承平3年(933)に、それまで朱雀院秩父牧であった秩父郡石田牧と児玉郡「阿久原牧」を勅旨牧としたことが記録に残っています。この牧の別当として赴任してきたのが児玉党の祖「有道(児玉・遠峯)惟行」です。
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阿久原牧の石碑がある場所はこんな感じの小園地になっています。真ん中の凹んだ場所に上武橋のバス停があります。道を直進して杉野峠を越えると秩父に行けます。秩父は昔は、京都から来ると、大宮や川越より近くて都会だったわけです。
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阿久原牧の石碑がある園地の端には、かつてここにあった埼玉県「神泉村」(現神川町)の碑も建立されています。「神泉村」の名前の由来は、横隈山、城峯山の両山を「神山」と呼んでいたことと、中世に「若泉荘」という荘園が存在していたことから、「神」と「泉」を合わせて名付けたられたそうです。2006年1月1日に埼玉県の神川町合併されています。
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阿久原牧の石碑がある園地の南側にある高台に登ります。
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上には「駒形稲荷神社」の小祠があります。
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駒形稲荷神社の横には、「水戸光圀」が元禄8年(1695)3月18日に阿久原牧を訪れて、
「阿久原の牧の稲荷に鈴かけて いななく駒に いさむ武士(もののふ)
~阿久原に遠峰惟行のあとを訪ねて 源 光圀~」
と詠んだという歌碑が建てられています。
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「上武橋」です。橋の向こうは群馬県藤岡市(旧鬼石町)です。
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上武橋の上から見た「神流川」です。でも橋は渡って群馬へは行かず、神流川の東岸の埼玉側を行きます。
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何もないの道をしばらく進むと、「道のオアシス神泉」という道の駅があります。この辺りはスーパーやコンビニがあまりないので、観光客向けというより、地元の人たちの貴重な食料品店となっています。野菜や果物の他、地粉をつかった「地粉うどん」や下久保ダムを模した「下久保ダムカレー」が名物だそうです。下の河原には「神川パーク」というバーベキュー場もあります。
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道の駅の少し先の大きな2本の銀杏の木の下に「有氏神社」があります。
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「有氏神社」です。児玉党の祖である「有道維行(ありみちこれゆき)」を祀る児玉党の原点であるのみならず、武蔵武士の原点ともいうべき神社で、かつては有氏明神と呼ばれていました。祭神が存在しない神社で、有道氏一族の墓の上に祠を建てて祖霊を祀っています。毎年11月19日に有道維行を祀る「盤台祭り」が行われています。
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有道神社にある児玉党本宗家の家紋「軍配団扇紋」です。
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有道神社傍らにある「児玉党祖有道惟行 生誕壱千年記念碑」(平成12年建立)です。
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神社の裏手には「有道氏の祖廟」もあります。室町時代後期から江戸時代初期の間に子孫によって建立されたものだといわれており、かつて場所を移転しようとした際に人骨が発掘されたそうです。
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その他、境内には立派な火打石の石柱が祀られていました。これは近所に三波石の石屋が多いので、その石屋が見つけたのを奉納したのだと思います。
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有道神社の横から見えた御荷鉾山です。
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神川町と旧鬼石町の間にかかる「渡戸橋」です。この橋も渡りませんが、橋の近所にかつて脇往還の渡し場があったそうで、「渡戸」の地名はそこから来ているそうです。
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「木宮神社」に着きました。木(木宮神社)・火(鬼石神社)・土(土師神社)・金(金鑚神社)・水(丹生神社)と五行に順じて祀られた神社の1つと伝えられる神社です。祭神は句句廼馳神(久々能智神、くくのち)という木の神を祀っています。
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木宮神社にあったあれを型どった石柱です。鬼石神社といい、この辺りにはかつてはたくさんあったのかもしれません。
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木宮神社には「木宮神社座祭」という古くから伝わる祭があるそうです。解説がしにくいので、説明板を載せておきます。
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「龍宝寺」は金剛山と号する天台宗寺院しかわかりませんが、立派な鐘楼門があります。この寺の横を通って御嶽山に向かいます。
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龍宝寺の横の道が山越えの車道とぶつかったところに御嶽山の「渡戸登山口」(標高160m)があります。ここから「御嶽山渡瀬コース」に入ります。
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御嶽山渡瀬コースの道はこんな感じです。か細いですが、その昔、御嶽山に西側から登る道は完全な獣道のバリエーションルートだったことを考えると、かなりマシになりました。
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限りなく廃道に近い林道にぶつかったら山頂へ真っ直ぐ登らずに、今日な西廓跡に行きたいので、左折して林道を進みます。
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林道を歩いて行くと、秋葉神社から登ってくる道と合流します。
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さらに林道を進むと、今度は新宿(不動滝)から登ってくるが合わさります。
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新宿(不動滝)から登ってくるが合わさってすぐ林道から離れてトラロープが張られた急な登山道に入ります。
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迷わないように赤テープも随所に巻かれています。
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登りついた小高い場所が「御獄城西廓跡」です。ベンチ代わりに丸太が二本置かれています。標識はありません。
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西廓跡から御嶽城本丸跡である山頂に向かう途中には2本の堀切があります。これは一本目です。
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そしてこちらが2本目の堀切です。御嶽城は東西南北四方に広がる尾根に曲輪が展開されていて、それぞれの尾根に堀切があるのですが、登山道が通じているのはこの尾根だけです。
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「御嶽山山頂(標高343.4m)」に到着しました。木々に囲まれてほとんど展望はありません。
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山頂に立つ「御獄城本丸跡」の標識です。南北朝時代の文明12年(1480)に、北畠顕家の配下の「長井斉藤別当実永」によって築かれ、文明12年(1480)に山内上杉方の「安保吉兼」が再築城したと伝えられています。その後、北条氏方の平沢豊前守政実が城主となったり、武田軍に攻め落とされたりしながらも、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで他の城と一緒に廃城となるま続きます。
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山頂には御嶽山の山頂標識もあります。
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山頂の東側にある眺めの良い岩山にむかいます。岩山の下の御嶽山神社奥の院とベンチがある広場です。
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展望の良い岩山に登ります。
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御嶽山の岩山の上はこんな感じです。
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岩山の上から北側の眺めです。榛名山~赤城山~日光連山が一望できます。間の小野子山~子持山のところに見える谷川岳は今日は雲がかかって見えません。
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東側の関東平野の眺めです。うっすらと筑波山が見えるのですが…。
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山頂の展望板に、御嶽城の地図が載っていました。左側に連なっているのがさっき辿ってきた西廓跡がある尾根です。
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岩山の下には「鏡岩」があります。
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「金鑽神社」着きました。「延喜式」神名帳に記載された名神大社で、武蔵国総社の大國霊神社の武蔵国二ノ宮にも選ばれるなど、埼玉県内でも有数の由緒ある神社です。御室山を御神体として祀る本殿がない神社で、原始信仰の形を今に残しています。創建は景行天皇41年(111)に日本武尊が東征の際に、火鑽金(火打金)を御霊代として御室山(御室ヶ獄)に納めて、天照皇太神と素戔嗚尊の二柱の神を祀ったことによるとされています。
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参道の途中にある天文3年(1534)に「安保全隆」が寄進した「多宝塔」です。国の重要文化財に指定されています。
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神社の参道入口にある大鳥居です。江戸時代には幕府から30石の御朱印を賜り、維新後の明治6年(1873)県社に昇格、明治18年(1885)には官幣中社として官幣社に列せられています。
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「金鑽大師」の朱塗りの山門に着きました。金鑽山一乗院大光普照寺と号する金鑽神社の元別当寺の天台宗寺院です。しかし単なる別当寺というわけではなく、川越の喜多院と栃木県真岡市の宗光寺と共に関東の三談林と称され、東国の天台宗の中核を担う天台宗別格本山であった格式の高い寺院です。
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金鑽大師こと「普照寺」です。創建は飛鳥時代に聖徳太子が創建した舒明天皇の勅願寺と伝えられていますが、平安時代初期の仁明天皇の御代(833~850)に、慈覚大師円仁が本尊に十一面観世音菩薩を安置して天台宗の寺となっています。平安時代中期に第十八代天台座主の元三慈恵大師がここを訪れた際に自作の像を奉安し、元三大師の寺として世に広く知られるようになったそうです。また江戸時代初期に上野に勧学講院が開設されるとその傘下に入り、八箇壇林の一寺となっています。
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金鑽大師から山の端まで行って折り返します。途中に「八坂神社」と「元森神社」が合殿になっている怪しい由緒あり気な古びた神社がありました。
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山の端にある「伊勢大神社」は、往古は萩平村と隣地の池田村の村境に祀られており、共に祭りを執行していたといわれる神社で、その後、明治維新の際に協議の上現在地に移転し、萩平住民の崇敬するところとなったそうです。昭和19年に神明神社と改称しますが、氏子の希望により、昭和56年に旧名の伊勢大神社に戻されています。
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朝は雲がかかって見えなかった浅間山が真っ白な姿を現しました。富士山ではありません!
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「泉徳寺」は慶長山と号する曹洞宗寺院です。
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「守神神社」は、室町時代に創建された素戔嗚尊を祭神とする神社で、「池田屋敷跡」といわれています。これは御嶽城主長井実永の家臣の卜部修理が支城として築いたものだそうで、その後永禄11年(1568)に甲斐武田氏旧臣松本左京がこの地を開拓して居を定めた際に、家の守護神として祀ったのが「守神神社」だそうです。
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守神神社のある場所は、そこだけ周囲より高くなっています。かつては周囲に堀や土塁の跡が残っていたそうです。
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「新宿八幡神社」は、『児玉郡誌』に「永禄年間(1558~80)に、渡瀬御嶽山城主長井豊前守政実築城の際、武運守護神として勧請せし社なりと云えり」と記されている神社で、この辺りの旧村社でした。ただ長井氏が城主であった時代は100年前の南北朝時代なので、武田氏か北条氏の家臣が勧請したとも考えられます。
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先週も歩いた「上武鉄道(日本ニッケル鉄道)」後の緑道を行きます。上武鉄道は1942年に日本ニッケルの専用鉄道として開業し、1947年に旅客鉄道になりましたが、1日わずか4往復、利用客10人程度という状態で1973年に旅客が廃止され、1986年12月31日付で貨物も廃止になりました。
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「上武鉄道寄島駅跡」です。上武鉄道の復元された駅は先週の神川中学校前とここの2つあります。
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少し離れた場所から見た「上武鉄道寄島駅跡」です。ホームがあるのがわかります。
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上武鉄道の廃線跡の終点です。この先の川に架かっていた橋は撤去されて今はありません。
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「石重寺」は、青高山無量院と号する天台宗寺院で、沙門実海が永正11年(1514)に創建したとも、大光普照寺二十六世尊芸(寛永3年(1626)寂)が慶長年間(1596~1615)に創建したともいわれています。
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石重寺にある「夫婦ウメ」です。埼玉県天然記念物に指定されています。
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「夫婦ウメ」は八重咲きの花二つが並んで咲き実を結ぶ珍しい梅です。ただ現在の木は二世だそうです。
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こちらは普通の紅梅、もうすぐ満開です!
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上武鉄道跡の緑道の終点の撤去された橋の対岸にある土手です。この先に終着駅の「西武化学前(若泉)駅」がありました。「朝日工業(元西武化学工業=日本ニッケル工業鉄鋼部が昭和35年に朝日化学肥料に譲渡され改名した会社)」の会社内にあるため、駅があった当時から列車に乗るのに工場の守衛さんに通してもらわなくてはならなかったそうです。駅の痕跡は残っていません。
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現在の朝日工業です。従業員募集中だそうです。
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本日の終点「おふろcafe白寿の湯」にようやく到着しました。少なくとも4~5回は来ている懐かしい温泉で、現在の料金は平日880円、土日980円、泉質はこびりついた温泉成分が床に丘陵地帯を作るほど鉄分を多く含むナトリウム・塩化物強塩泉(高張性・中性低温泉)で、濃度が高すぎるためたまにポンプが詰まるため、最近は若干、井戸水による加水を行っているようで、昔ほど濃い感じではなくなってしまったのが残念です。
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白寿の湯を出ても食堂はないので、温泉のレストラン「食事処 寝かせ玄米®と糀料理 俵や」で遅い昼食にします。「本庄名物つみっこ汁定食」970円を食べてみました。小麦の団子が入ったすいとんのような料理で、本庄は米よりも麦に適した台地が多いので、こんな感じで麦を主食にしていたのだと思われます。埼玉うどんの原形ともいえますね。
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温泉を出たら「下渡瀬朝日工業前バス停」から、朝日バスで本庄駅まで戻ります。
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御嶽山
344m
確認
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