南アルプス林道バス、2024年シーズンより北沢峠と分杭峠の2路線運行へ

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南アルプス北部の甲斐駒ヶ岳や仙丈ヶ岳へ、長野県側から登る際に利用されてきた南アルプス林道バス。2024年シーズンより、これまでの北沢峠行きに加えて、パワースポットとして近年人気を集めている分杭峠(ぶんくいとうげ)への路線が新たに運行する。北沢峠行きは「南アルプスクイーンライン」、分杭峠行きは「分杭気の里ライン」の名称となる。

合わせて仙流荘周辺の戸台口はリニューアルオープンして「南アルプス長谷戸台パーク」となり、これら2路線の発着所となる。なお、これまで分杭峠までのシャトルバス発着所となっていた栗沢駐車場は廃止される。

南アルプス林道バス概略図

南アルプス林道バス概略図

分杭気の里ラインの運行期間は4月12日~12月1日、南アルプスクイーンラインは4月25日~11月25日(6月14日までは歌宿まで)の予定。詳細は、以下を参照のこと。

関連リンク

南アルプス林道バス
https://www.inacity.jp/kankojoho/sangaku_alps/minamialps/minamialps_jikokuhyo.html

ヤマタイムで戸台パーク付近の地図を確認する
https://www.yamakei-online.com/yk_map/?latlon=35.76888867833554,138.0937193979938&zoom=14

この記事に登場する山

山梨県 / 赤石山脈北部

甲斐駒ヶ岳 標高 2,966m

 全国に駒ヶ岳を名のる山は20座を超えているという。その中で最も高いのが甲斐駒ヶ岳である。作家の宇野浩二は、『山恋ひ』の中で、「山の団十郎」と絶賛した。ふもとから仰いだその山姿は、正にその名に価する高貴な山容をもって迫ってくる。  太古、武御雷命(たけみかずちのみこと)が生んだ天津速駒(あまつはやこま)という白馬がいた。羽があって空中を飛んでおり、夜になると、甲斐駒ヶ岳の頂上で眠ったとのこと。これが命名の由来といわれている。  また、天平3年(731)には、甲斐国から朝廷に、身が黒色、尾が白い馬が献じられた。その馬に乗って聖徳太子が甲斐駒ヶ岳を往復したとか。ふもとを巡る川は、それにちなんで尾白(おじら)川と呼ぶ、などの伝説も残っている。  それはともかく、かつては駒ヶ岳講の名において、白装束の講中登山の山であった。開山したのは、信州・諏訪の小尾権三郎(弘幡行者)で、文化13年(1816)6月15日、20歳のときであった。しかし、文化11年編『甲斐国志』には、すでに「山頂巌窟ノ中ニ駒形権現ヲ安置セル所アリ」と記しているので、その真偽のほどは分からない。  登拝路のメインルートであった黒戸尾根上に残る、おびただしい信仰のモニュメントの数々を目にすると、そんな歴史上の小さな矛盾は消し飛んでいくような気がする。  かつては、白崩山の異称さえあった、真っ白な花崗岩とハイマツの緑に覆われた山頂からの眺めは、さすがに一等三角点の本点だけのことはある。この三角点のやぐら(覘標(てんびよう))は明治24年7月10日に建てられ、同年7月14日に標石を埋めた。同年9月12日から25日まで観測が行われている。南アルプス三大急登の1つに数えられる黒戸尾根を、重さ90kgもある標石を担ぎ上げた先人の苦労には頭が下がる。  甲斐駒ヶ岳は、伊那の人たちは東駒ヶ岳と呼んでいる。目と鼻の先に見える山に、他国の名を冠するほど人間はお人好しではない。  さて、甲斐駒ヶ岳を巡ってたくさんの花崗岩の岩壁がある。この一帯に集中的に挑みルートを開拓していったのは、主として東京白稜会のメンバーであった。1949年から1970年にかけてのパイオニア・ワークは、一頭地抜きん出ている。この会の代表であった、恩田善雄氏の「甲斐駒ヶ岳―わたしの覚書き」は、甲斐駒周辺の地誌、登攀記録、山名の由来、伝説などを網羅したものである(未刊行)。  登山コースは尾白川渓谷から黒戸尾根経由で山頂まで9時間。南西の北沢峠からは双児山、駒津峰を越えて約4時間の登りで山頂へ。

山梨県 長野県 / 赤石山脈北部 

仙丈ヶ岳 標高 3,033m

 南アルプス北端の3000mの山。北に屹立する甲斐駒ヶ岳に比べ、穏やかな山姿で、片や男性的とすれば、こちらは女性的な印象を受ける。女性的だからか、大変な恥ずかしがり屋で、甲州側の平地では、その姿を見ることはできない。  古くは、甲斐駒ヶ岳の前座として、前山(めえやま)の名があった。その他、お鉢岳の異名もあった。豊かに発達した氷河地形から名づけられたものと思う。仙丈の字にしても、千畳敷からきたものであろう。やはりカールを意味するのではないか。確かに『甲斐国志』も、明治20年出版の『新撰甲斐国地誌略』のいずれも、千丈ヶ岳と記載されている。  このカールは、高山植物の宝庫である。夏季、藪沢源流部、大仙丈沢、小仙丈沢などに大きなお花畑を見ることができる。  交通の便がよく、伊那側、甲州側ともに、登山基地となる北沢峠まで、それぞれ村営バスで入ることができる。その上、回遊コースを設定できるのも人気の1つであろう。  北沢峠から藪沢を上がり、馬ノ背から頂上へ。帰りは小仙丈ヶ岳を回って北沢峠に降りてくる(登り4時間で山頂、下り3時間弱で北沢峠)。あるいは、頂上から馬鹿尾根をたどり、野呂川の両俣小屋を経て北沢橋に降り、バスで元に戻ることもできる。  また、甲斐駒ヶ岳とセットで8の字形に歩くことも可能である。さらに、周辺部に山小屋が多くあることも登山を容易にしているので、近年、登山者が多くなっている。  山頂からの眺望はよく、南の方は遠く塩見岳、東は大菩薩連嶺から富士山、近くに白峰三山、北には早川尾根、八ヶ岳、奥秩父の峰々、間近に堂々たる甲斐駒ヶ岳、鋸岳を見る。はるかかなたに峰を連ねるのは、北アルプスの山並みである。伊那谷を隔てて西には中央アルプスが、横一線に並んでいる。  登山者として早期に登ったのは、明治42年(1909)、日本山岳会創立発起人のひとり、河田黙であった。頂上に前岳三柱大神、明岳大神、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさづちのみこと)と3基の石碑のあったことを記録している。そのほか東芝山岳部が同僚の遭難者の供養のために建てた方位盤などがあったというが、それらのいずれも今はその面影すら残っていない。  積雪期に挑んだのは、京都三高山岳部の一行であった。大正14年3月19日、山梨県設北沢小屋から一気に小仙丈ヶ岳を経て頂上に立った。  そのときのガイド、竹沢長衛は、昭和5年に北沢に長衛小屋を建てた。そのかたわらにある彼のレリーフが、今でも登山者を見守っている。

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