慧海ルートをたどってドルポへ。疲労困憊でたどり着いた野営地は100年前の慧海と同じ場所だった!?

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慧海も見たヒマラヤの峰々を見ながら進む

100年前にチベットを旅した僧侶・河口慧海の足跡をたどっている稲葉香さん。2016年9月、ネパールの秘境・ドルポへ向けての旅が始まった。沢を遡り、疲労困憊の末、たどり着いた野営地は、100年前の慧海と同じ場所だったのか――。

 

私たちは、2週間のアッパームスタンの旅を終えて、2016年9月6日、ジョムソンに戻った。

いよいよドルポへの旅がはじまる。ここからはキャンプ装備、食料・燃料の準備をして、カッチャル(馬とロバのあいの子)で運ぶことになる。

ムスタンでは、ロッジがあり、外国人の旅人の対応をしてくれるが、アッパードルポでは、そのようなロッジはほぼないと考えた方がよい。私たちの行程は、慧海の足跡をたどるルートでチベット国境まで歩き、そこからまたドルポ内部を周遊し、このジョムソンへと戻ってくる行程で、新たに約1ヶ月のトレッキングとなる。

トレッキングのルート

その間の食料は、途中の村で調達ができたらよいのだが、現地調達の可否が確実ではないのが、ドルポなのだ。それには理由がある。

ドルポは、生活物資が乏しく、住民たちはつつましく暮らしている。旅人が交渉する食料や燃料は、外国人の旅人のために準備されているものはなく、彼ら自身の生活用のものから分けていただくことになるのだ。さらに、ドルポのトレッキングシーズンは夏から秋で、その時期は一年の食料を一気に収穫し、保存し、冬の食料を蓄える重要な季節なのだ。

私は以前、ドルポ横断でのトレッキング中、食料、燃料が尽きたことがある。しかし、ドルポの山村ではそれが生活物資であるため、「あるけど売れない」ということになるのだった。場合によっては、一日違いでほかのトレッカーが全部買い占めてしまって、「本当にない」ということもあった。すぐに食料や燃料が調達できる環境ではないので、現地の人に負担がかからないようにと、私は常に考えている。

ドルポ途中の村

以前、ドルポでお米を購入したことがあったが、その米は外国からその地域に援助するために送られた「援助米」であったということを知り、申し訳ない気持ちになった(2016年の状況では、以前よりは食料調達が可能な村が増えていた。ただし、これは天候や農作物の収穫量によっても変わってくる)。

ジョムソンからドルポに入るのは9年ぶりだった。私が初めてドルポに入ったのは2007年で、故・大西保隊長の西北ネパール登山隊で、馬での慧海ルートの再調査に同行させていただいたのだ。あの頃は、隊長に着いて行くだけ、地図を見ても慧海ルートも、地形も全くわからなかった。

その時のルートは、微妙に慧海ルートとは違ったようだ。なぜなら、当時の私にはそのルートを歩くには力量が足りなかったこと、大西さんにとって再調査だったこと、があったからだ。だから今回はできるだけ慧海ルートを、忠実に、慧海と同じ感覚で歩きたいと思っていた。

ホテルにデポしたキッチン装備

2日間、ジョムソンで休養し、ホテルにデポしたキッチン装備を取りに行き、食料、燃料を計算して買い出しに行った。その後、ガイドのアガムさんが、散髪に行くというので着いて行った。驚くことに、そこは9年前に覗いたことのある同じ理髪店だった。当時、個性的な少年が店番をしていて、私はその様子を撮影したので少年の顔は覚えていた。今では20歳前後だろうか、立派な理容師になっていて、カットがとても上手だった。

ここからは『チベット旅行記』(河口慧海 講談社学術文庫)、『河口慧海日記』(河口慧海 奥山直司編 講談社学術文庫)とを、照らし合わせながら進む。

 

慧海が泊まったと思われる村へ。ジョムソンからダンガルゾン(3205m)

いよいよ、ドルポに向けて出発だ。ガイドのアガムさん、キッチンポーターのラチュマン、ポーターのサディップ、そして私と友人一人。加えて、馬4頭と馬方1人が新たなメンバーとなった。この馬の手配には苦労した。

馬の手配については、カトマンズの旅行代理店では状況がわからない。ガイドの腕と運まかせなのだ。私たちと出発のタイミングを合わせることができる馬と馬方が見つからず、2日目以降の行程を依頼できる馬方と、初日だけ来てくれる馬方をなんとか探すことができて契約した。2日目からの馬方は、ドルポには6回行ったことがあると言い、俺は道を知っている、お前は何回行った?と聞いてきて、自信ありげでちょっと癖のある人だった。

ジョムソンからダンガルゾンへ、私たちは慧海が越えたであろうと思われるタクレ・ラ(「ラ」は「峠」の意味)を目指しひたすら登った。峠には大きな電波塔とソーラー パネルがあり展望が良い。そこからはダンガルゾンとパレック、さらにドルポへと続く道も見えた。手前がダンガルゾンで、初日はここまでとして、慧海が泊まったと思われる村長の家を探した。

2007年に遠征を共にした大西保さんのブログをプリントアウトしてきて、その写真を現地の人にも見てもらいながら、自分が前回来た時の記憶を思い出して、その家も探しあてたが、よく聞くとこの家は57年前に建てられたたという。それでは慧海が泊まったのとは計算が合わないから、家じゃなくて場所だけだったのか。さらに聞くと、この家を建て替える前の家の場所に案内してくれたが、どうだろう!?

ダンガルゾンとパレック、さらにドルポへと続く道

慧海は、明治33年(西暦1900年)3月10日(チベット歴2月11日)に、ツァーランを出発し、来た道と同じルートを戻り、マルファ村に戻っている。

アダムナリン(*1)宅に逗留、ツァーラン滞在中、チャンドラ・ダース(*2)と連絡をとった為、手紙を運んだ 行商人に、怪しい人物であること吹聴されたため、アダムナリンに釈明せざるを得なくなり、日本人であることを打ち明けた。彼も秘密を守ってチベット行きを応援してくれた。

*1:アダムナリン:ヒマラヤ交易で財をなしたマルファの有力者
*2:チャンドラ・ダース:インドのチベット学者で、チベット語とチベット文化の研究者。一時期はイギリスのスパイとしてチベットを探検したり、チベット人・ロシア人・中国人に関する情報を集めるなどの仕事を行った。


時を同じくして、真宗大谷派の2人の僧侶、能海寛と寺本婉雅が中国四川省の奥地からの入蔵を目指し、幾多の艱難辛苦を乗り越えてチベットの入り口パタンまで辿り着いたが、ラマ僧の妨害にあって引き返せざるを得なかった(「大阪朝日新聞」に掲載)。しかし慧海は、ツァーランにいる時から、ドルポからチベットに出る道筋を大雑把につかんでいたらしい。

そのため、焦らず、峠に雪が消える時期を待って出発する決意を固めていたようだ。この年は、雪が深かったため、出発を1ヶ月遅らせ、6月12日午後3時、案内人兼ポーターのダワ・プンツォクと一緒にマルファを出発した。

慧海も、初日はこのダンガルゾンまでの行程で、すでに足の痛み、持病のリウマチが起こり始めていたと思われる。おまけに風邪気味で1日休養をしている。

 

5年前に出会った馬方の兄弟と再会。ダンガルゾンからパレック(約3230m)、野営地 (4453m)まで

パレックは、ダンガルゾンから谷を降り、そこから登りかえしてすぐのところにある。蕎麦の畑がピンクに染まり、菜の花が一面に黄色で美しいが、雨季が明けていないので山には雲がずっとかかっていた。

パレック村の中を見学しながら歩いていると、驚いたことに、5年前に出会った馬方の兄弟と、偶然、再会した。

5年前に出会った馬方の兄弟

彼らに聞くと、4年前にジョムソンからサンダ付近まで車道が開通して、馬が減り、馬の仕事がなくなり、車の運転手になったという。2人ともかなり痩せていて、この土地で生き抜く厳しさを感じた。ジョムソンで蕎麦・小麦粉・米・ラーメン・ガス・マサラなどを購入し、ツァルカへ売りに行くという。ツァルカでは、ラサビールなど中国からの物資を買って帰る。ツァルカは国境が近いので中国製品が安く手に入るとのこと。

電気は、ポカラやツクチェで水力発電している。彼らの家に少しお邪魔してお茶をいただいて話をしていたが、今日はまだ行程があるので、先を急ぐことにした。

パレック村からは登りが続く、その先には慧海がいう「牟伽羅坂(むからざか)」だ。振り返ると、ニルギリが雲の中から顔を出していた。ジクザクに道がついていたが、強引に直登し、峠に出る。そこにはタルチョが靡いていて展望が良い。ムスタン側も見え、さらにムクチナートも見えた。

ムクチナートから、人気のトレッキングコースであるトロンパス(5416m)につながる道の、峠の手前まで車道が伸びてきていることがここから見ていてもわかった。ここ数年で急激に車道建設が進み、以前には何週間かかっていたアンナプルナの周遊トレッキングも、そのうちジープで数日のうちに終わってしまうことになるだろう。

峠を越えると、また道が細くなり、山肌を縫うようにアップダウンが続き、また次の峠へと出る。そして、剱岳のようなかっこいい岩峰を見ながら、ジープの跡が残る未舗装の道を歩いていく。昔の道がどんどん消えていき、車道に変わりつつある。私のただのエゴでしかないかもしれないが、慧海をはじめ徒歩で旅した先人が歩いた道が消えていくのは、正直、切ない。

この日は風が強かった、カリガンダキに強烈に吹く風は、ここまで来てるのだろうか。風が強いのだが、このあたりで一泊することにした。

慧海は、この牟伽羅坂の登りを「千仞(せんじん)の谷間を望みつつ崖道の恐ろしい坂」と表現し、この坂道を「なんとも形容のしようがなく、高雪峰が剣を列べたごとくに聳えている」と書いていて、この先のサンダまで一気に歩いている。

高山病と思われる症状と、持病のリウマチの痛みでほとんど動けなくなり、2日間、サンダで休養している。リウマチの足の痛みをかばうために杖を使う。その杖を使う手の激しい痛みで身体疲労、とも書いてある。

私もリウマチを抱えているので、慧海が自分と重なり、その痛みがすごく想像できる一文だった。

 

新しくできた車道が続いていく。野営地からサンダ(3710m)、さらにターシータン入り口(3960m)まで

9月11日、サンダまで、車道があちこちから出てくる。車道を使うと遠回りになるが、やはり歩きやすい。そこで馬のキャラバンとすれ違う、さらにバイクもやってきた。山肌に一本の真っ直ぐな道が見えた。その下には、以前の人や道が歩いた旧道や、家畜の通る道が見える。これらの道も車道に押され、消えていくのは時間の問題だろう。

この車道はどこまで続くだろうと思っていたら、とうとうサンダまで繋がっていた。サンダは、断崖絶壁のような場所の家と畑があり、ちょうど大麦の収穫時期と重なり畑は黄金に輝いて見えた。対岸には廃村がある。それは前回来た時と変わらない。

サンダへは急勾配を下る、そこに大きなイヌワシが姿を現した。ここは私が初めてイヌワシを本格的に間近に見た場所でもある。谷が深いから上昇気流が出やすいのか、今回も良く出てきた。

大きなイヌワシ

ここサンダでゆっくり滞在したいが、今日の予定はまだまだ続くので、休憩だけした。ちょうど学校のそばを通り、先生を見かけたので話を聞かせてもらう。一年のうち、収穫は1週間だけで今日が三日目という、だから畑にみんな移動していて、村にほとんど人がいない。サンダ村には夏村と冬村があり、対岸に遠くに畑が見えるのが、冬の村だという。

サンダから先には車道はない。山肌にうっすら道がついているところを、ひたすらアップダウンする。途中でヤクのキャラバンやヤギの放牧、馬を連れている人達とすれ違う。道が狭いので、人や動物が向こうからくると、やり過ごさなくてはならない。その間、周りをよく見ると、山肌にはたくさんのブルーシープが見えた。

谷はどんどん深くなっていく。ここサンダでは「崖葬」があったと、以前、大西さんに聞いた。そんなことを思い出していたら、ようやく今日のキャンプ地に到着した。

慧海は、ここで「米を煮て食う」と書いており、ご飯を食べていると思われる。ちなみに非時食戒を守る身では、正午から翌日の夜明けまでは、固形物を食べることができない。仕方なく岩間に生える草を引き抜いてその根を噛み、酸っぱい汁を絞り出すようにしながら、蕎麦の焼きパンを食べる。この旅の間の昼食の目安は午前11時。まず燃料のヤクの糞探しから始まり、火打ち具と皮のふいごを使って火を起こし、鍋に湯を沸かして米を煮る。または、水でツァンパ(麦焦がし)を練り丸めて食べる。1日の食事はこれだけである。

 

慧海が「百丈余」と記した橋。さらに沢を遡行し、野営した場所は…。タシータンからベロルの岩小屋跡

9月12日、ここからは、私たちの隊を、ガイドと私たちと、カッチャルと馬方たちの、二手に分けることにした。谷の遡行か、標高5000mの峠を2つ越えるか。前者が慧海ルートで、馬は通れない。

私は、2007年に初めて大西さんに連れて来てもらった時、この谷の遡行を許されなかった。何故だろうと思っていたが、今回実際にその道を歩いてみて、その意味がわかった。

馬は、谷のルートは通れないので峠を越える隊を作る。そこには馬4頭に馬方、ポーターが1人の隊だ。1日後にベロルコーラとマルンコーラの出合を2つの隊の合流点として、キャンプ装備を分けた。

そして私たち、慧海ルートへ行くメンバーは、できるだけ荷物の軽量化をして各自で背負う。ガイドが、慧海ルートに連れて行くポーターを、若いサディップにしようと言った。でも私は、彼がドルポを歩くのが初めてというのが不安で、同行の友人と相談した。やはり過去に大西さんとドルポ遠征をした経験があるキッチンポーターのラチュマンに交代してもらうことにした。

慧海が例えた「百丈余の橋」までは、なんとなく道のあとのようなものがあったが、そこを越えると極端に道がなくなっていった。今回楽しみにしていたその橋に到着した時は、時代が一気に100年前に戻るような気配をすごく感じた。

今は、慧海の頃にはなかった手摺りが橋に付けられている。その手摺りのおかげで私は怖くなかったが、これがなかったら怖いなぁと思い、その橋の上や前後でいろんな角度から撮影をした。

慧海が例えた「百丈余の橋」

慧海は、この橋の高さを「百丈余」と例えている。百丈とは約300mだ。以前、大西さんが調べたところによると、実際には高さ10丈(約23m)だったという。

慧海は「橋上に立ちて橋下を望めば、目眩し身寒き感をあらしむ」と表現している。慧海が、「百丈」例えたのは、もしかして怖かったからだろうか。さらに「断壁大厳を右に左に上る。その足を下す岩上に、一点誤れば、まさに数千仭下の渓鬼たるなり」と、表現している。

まさにその通りの悪路で、私たちも何度も渡渉をし、道がなくなり、キッチンポーターのラチュマンがピッケルで道を作ってくれて、そこを滑りながらのトラバースとなった。見上げると落石が降ってくるような状況で、強い風や動物が通ることで容易に落石が起こりそうだ。

そして、慧海が休憩したであろう出合に辿り着いた。そこは、ゴルジュとなっており、西北ネパール 登山隊(1958年、川喜田二郎隊長)によると、「隠された谷」と表現されている。地図上では、ルートとして示されているが、このゴルジュはそうそう簡単に通過できるような道ではないと私も思った。

ゴルジュ

ゴルジュを見ながらどんどん進む。見ていると飲み込まれそうになり、一歩間違えたら沢に滑り落ちてしまうようなところもある。さらに大きな岩が重なってクライミング技術を要するところも多々あった。私は歩くのが遅いのでメンバーからいつも遅れていた。

中でも一番厳しかったのは、小雨が降り出して濡れている岩を登山靴で登ろうとしていた時のこと。岩に辿りついてみると想像以上にその岩は大きかった。食らいついた私が必死にもがいていると、ラチュマンが気づいた。ザックを先に上げろ、と言う。彼が見てくれているところで、また必死に這い上がる。あと一手だとなった時、ラチュマンがグッと私の片腕をひっぱり上げてくれた。凄い力だった。彼がいなかったら後ろにひっくり返って落ちていたかもしれない。ありがとう、ありがとう、何度も言った。

沢沿いを歩く

ラチュマンは、いつも判断が速く、渡渉の時や、ルートを見極める時に迷いがなかった。誰もが迷っていると、必ず最初に行ってくれる。彼はキッチンポーターだけど、秘めた強さを持っていると私は感じていた。彼と私の会話は、私のたどたどしいネパール語だけだが、大西さんが、ラチュマンを自分の遠征スタッフとして何度も雇っていた理由がわかる。

沢沿いを歩く

その大西さんは、このタシータンを「快適な沢登り」と言っていた。沢登りと思えば快適かもしれない。でも渡渉は「冷たい」ではなく、「痛い」というレベルだった。そこからは、もう必死だった。雨が本降りになる前に、安全な場所でテントを張りたいーー。地図ではこの先で谷が広くなっているはずだった。

慧海が泊まったであろう「カルカ」(放牧者が使う岩小屋)がある、と思われる地点に辿り着いたが、そこにカルカはなかった。ガスって視界がなくなり、疲れもピークに達していた。時計を見ると17時を回っていた。今日はここまでだと思い、雨の中テントを張った。

沢沿いを歩く

慧海は、この場所の日記の最後にこう書いている。

それより西北より来れる渓流に添ふて、西北に急坂を上ること二里余にして、ベロルなるやや広き路に石を似て四方を固める処に午后五時到着す。屋根は大空にして夜光は雪峯なり。非常に寒ければ多くの衣服を着く。茶を飲んでこの日記を誌す。夜入禅。行程六里余


そして、大西さんが残したブログでは「石を積んでカルカを作った」とあり、テントは張らずにビバークしている。大西さんも慧海を真似しているようで、私はこのカルカを探していたが、見つけられなかった。

残念に思っていたけど、あとでGPSを確認したら、私たちもほぼ同じところでテントを張っていたようだ。人間の心理は、慧海、大西さん、私と、時代は変わっても同じなんだと思って嬉しかった。

 

慧海も見たヒマラヤの峰々を見ながら進む。ベロルから出合の野営地 (4674m)

9月13日は、朝からガスっていて何にも見えなかった。さらに先がだだっ広くて、方角を見失いそうになるほどだった。晴れていると、タシーカン(標高6403m)、タサルツェ(標高6343m)が見えるはずだった。ターシン・ラも真っ白だった。そのガスっている中で、3つのラプチェ(峠の積み石塚)を通過し、全ての地点をGPSで測った。ずっと標高5000m前後の高度が続いていた。

この日の登りではガスって何も見えなかったが、私たちは約1ヶ月後の帰路でもまたここを通った。写真はその時快晴で周囲の山々が全て見渡せたときのものだ。

慧海も見たヒマラヤの峰々を見ながら進む

このだだっ広いところを過ぎて、沢が出てくるとうっすらと道がついていた。沢沿いに進むと、ベロルコーラとムルンコーラとタサンコーラの出合となり、ここで2日前に分かれた馬方達と無事に合流ができた。

馬方は「ここからがドルポだ」と言っていた。いつもどこを境にドルポなのか気になっていて、旅行会社に聞いてもあいまいだったのだが、ようやく分かって嬉しかった。そして、今日のキャンプ地までひたすら曇り空の中、歩き続けた。

ついに明日はドルポの玄関口、ツァルカ村に辿りつく。

慧海も最初は霧で景色は見えなかったようだ。ガスが切れて、山々の全貌が見えた光景を「あたかもの虚空に蟠って居るがごとき雪峰にてその四方にそびえてる居る群峰は、菩薩のごとき姿を現して居ります」と表現している。疲れている中でも山に見惚れているのだ。

慧海の目には、彼を取り巻くヒマラヤの峰々が、白衣観音、文殊菩薩、普賢菩薩、五百羅漢の姿を示していると映ったのだろうか。法界の大日如来を中心とした大曼荼羅の構成のように見えたのであろう。

その毘盧舎那に似たヒマラヤの高峰を、慧海の旅行記では、「これぞドーラギリー(ダウラギリ)であります」と表現し、雪峰の見える方角を東北と書いているが、実は、これは西南の間違いであり、山は、ダウラギリ(標高8167m)ではなくて、タシーカンとタサルツェである。この後、他にも同じような表現が出てくるが、高峰の山はなんでも「ダウラギリ」と思っていたようだ。

ところで、途中、2007年に来た時に馬で遡った沢が、今回は同じ9月だが、普通に沢沿いを歩けた。

沢沿いを馬で遡る

初めての慧海ルートを歩いた2007年は増水で、馬で遡った

どうやらこのあたりで、慧海もチベット靴を脱ぎ、荷物を岩の上に置いて、岩の間に足指を入れて手で岩をよじ登り、滑りそうな斜面を杖で支えながら進んでいたようなのだ。

この日は、岩間に宿泊し、なかなか寒いと言って、その苦しい中でも一句書かれている。

ひまらやの雪の岩間に宿りては やもとに上る月をしぞ思ふ

 

*****

2016年9月中旬、稲葉香さんの一行は、いよいよドルポへと入っていく。

 

稲葉香さんが自費出版で2冊の本を出版

『Mustang and Dolpo Expedition 2016 河口慧海の足跡を追う。ムスタン&ドルポ500キロ踏破』

(46ページ・写真付き) 1500円(※完売)

2016年に河口慧海の足跡を忠実に辿り、慧海が越境したであろう峠クン・ラまで歩き、国境からは、アッパードルポからロードルポをできるだけ村を経由して横断し約60日間で500km以上を歩いた時の報告書を、編集したもの。

 

『未知踏進 稲葉香の道』

(14ページ・写真付き) 1000円

18歳でリウマチ発症、24歳で仕事を辞め、ベトナムの旅へ。ベトナム戦争の傷痕に衝撃を受け。28歳では植村直己に傾倒してアラスカへ。30歳で河口慧海を知り、河口慧海を追う旅が始まった。流れるように旅に生きる稲葉さんの記録。

⇒詳しくはこちら

 

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

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