慧海が10ヶ月滞在していた村、ツァーランで、私が確かめたかったこと

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今から100年以上も前に、標高5000m以上あるヒマラヤ奥地の峠をいくつもこえた僧侶、河口慧海。その足跡を辿る稲葉香さんは、慧海が10ヶ月もの長期にわたって滞在したツァーランという村へ入った。そこで見たもの、確かめたかったものとは…。

 

これは慧海の像!? 村人が崇拝する、ある像に出会う

私が初めてツァーランの村を訪れたのは2014年のことだ。

村に入ったのは夕方で、ゴンパ(お寺)の前でサッカーをしていた子供の修行僧と目があった。私は何気なく「河口慧海知ってる?」と聞いてみた。すると、まるで今も生きているかのようなニュアンスで古寺を指さし、「あそこにいるよ」と答えたのだ!

子供の修行僧が指差した古寺。河口慧海がいるという


私はびっくりして青年の僧侶を探して再度聞き直し、次の日の早朝に、寺の内部を見せてもらった。その時は、その古寺にいたのは慧海だと思っていたので、驚き、感動したのだった。

しかし、帰国後に調べていると、『山と溪谷』1993年2月号に根深 誠氏の記事を見つけた。私が見た仏像と同じだった。根深氏によるとこの仏像は慧海がこの村に滞在した1899年のお寺の住職でラマ・ニャンダクという僧侶だと書かれている。

なんだ、違っていたのか…。

でも、私が2014年に行った時に出会った僧侶達は、その像を慧海だと言ったのだ。それは間違いない。

2016年の訪問は、このことを自分でもう一度確かめたいと思っての再訪問というわけだ。このときは、英語、ネパール語、スペイン語と万能な友達、玲子さんが、ムスタンだけ同行してくれていたので、かなり色々聞き出せた。

2014年に慧海像を見せてくれた青年の僧侶は不在で、クンガ・ラマさん(「ラマ」とは、ネパールでは僧侶や、ラマ族といわれているチベット系民族を指す)が教えてくれた。彼は38歳で、24年間インドのデラドゥンで勉強し、3年前に帰ってきたという僧侶だ。クンガ・ラマさんによると、1900年当時は、ラマ・ドルジェ、ラマ・ジャムヤン、ラマ・ニャンダクの3人体制でゴンパを守っていたという。このうちラマ・ニャンダクと呼ばれていたのが、河口慧海だと言われている。

しかし、根深誠氏の『遥かなるチベット 河口慧海の足跡を追って(中央公論社)』では、慧海の名は「シェラブ・ギャムツォ」と書かれているし、『チベット旅行記(河口慧海・講談社学術文庫)』では、慧海の馬を欲しがった住職のことが、ラマ・ニャンダクと書かれている。

慧海と言われている像(右)


この像は、はたして河口慧海なのか、それとも住職なのか。それを確かめたくて、クンガ・ラマさんに聞いてみた。すると、クンガ・ラマさんも、これは慧海の像だ、というのだ。

その像は、真っ暗な本堂の裏に隠されているかのようにあった。

今は2体しかなく、もう1体は、他の場所に置いてあり、女性には見せられない、と言われた。そして私はまた、この像は本当に慧海なのか? と何度も何度も聞いてしまった。何度も聞きすぎてクンガ・ラマさんを不愉快にさせているのを感じたので、私は途中で追求するのをやめた。

ツァーランの村人たちは、困った時、悩んだ時、ここに来て祈りを捧げ、心が安らいでいるようだ。この像に対しての信仰のようなものが感じられた。大切なのは、地元の人の思い。彼らがこの像を慧海だと言って信仰があるのだから、よそから来た人間が「本当に慧海なのか?」と問い詰めるのは失礼な話なので、根深氏の調査とは見解が異なるが、私の中では、ここで慧海像に出会った、という表現にしている。

また、ツァーランの人たちは、慧海像を守りたいと思っているのに、それがなかなかできない、とも言っていた。どういうことかというと、ムスタンでは、たまに泥棒が入るという。以前は、人が少なくなる冬に泥棒が入り、お経を盗まれたそうだ。おそらく天井から入ったと思われ、外の雪には、足跡だけが残っていたそうだ。そしてその半年後には、そのお経がアメリカの美術館で展示されていたという、驚くような話だった。

だからこの慧海像のことは日本人にしか言わないとも言っていた。支援がなくて困っている、誰か支援してくれる人はいないか? と言われていたが、いまだ、決まっていない。

新しいお寺

 

100年経った今も、村人の河口慧海への崇敬の念は続いていた

実を言うと、ツァーランには、私は翌年の2017年にも訪れた。「Dolpo-hair(私、稲葉が営む美容院)」のネパールトレッキングツアー企画で行ったのだが、気になる場所があったので、みんなで一緒に行った。

それは慧海が住んでいたという仏堂の跡地である。モンゴル人の僧侶シェーラプ・ギャルツァン(*1)に紹介されたニェルバ・タルボという村長の家の仏堂である。そこで話を聞かせてもらった。

話をきかせてくれたのは、村長の息子のペパ、28歳だ。1900年当時からあった様々な貴重な物は、大酒飲みの父(村長)が全部ジャルコット村で売りに出してしまい、残ったのは一つの小さなブッダだけだ、と言って、彼の母がそのブッダを奥から大事そうに出してきてくれた。

昔は、うちも大金持ちだったのに・・・と不機嫌そうに話してくれた。祖父の代までは土地を持っていて裕福だったのが、今では冬にはインドまで出ていって服を仕入れ、ネパールで売ってようやく生計をたてていると言っていた。

手元に残った小さなブッダ


写真を撮らせてほしいとは口に出せずにいたが、最後に彼の方からガイドに、丁寧に通訳してくれてありがとうと言って笑顔になったので、私は思いきって、最後にその残ったブッダの撮影をさせてほしいと切り出した。すると、彼はOKしてくれて、また奥からブッダを出してきてくれた。

その時彼が、父が亡くなった後、ある事件が起こった、と話してくれた。父の魂が人に入って話をするなど不吉なことがあったので、この土地をゴンパ(お寺)に全部寄付をした。こうして、たくさん持っていた土地も手放すことになってしまったようだ。

彼は、はじめ私たちの訪問に対して、少し迷惑そうだった。今までにも慧海のことを聞きに日本人が何度も訪れて質問責めにするが、僕には何も残っていない、という。

私は、河口慧海という僧が滞在したという史実を説明できる資料や写真をこの家に持ってきて、彼の家に置いてもらえば、彼も歴史的な価値を理解してくれるのかもしれない、と思った。だから、何か力になれることがあれば連絡すると言って、私はペパと連絡先を交換した。

彼には8歳と3歳の子供がいたので、私は、信仰というより、歴史的意味を伝えて欲しいという気持ちで、慧海という日本人僧のことを、あなたの子供たちにも話して次の世代に受け継いでほしい、と伝えたのだった。

村長の息子ペパとその母

 

河口慧海は、ツァーランでどのように過ごしていたのか


『チベット旅行記・上(河口慧海・講談社学術文庫)』では、ツァーランの滞在が細かく書かれている。

慧海はツァーランについて、夏の美しさは「華蔵の世界」で「宇宙自体真秘幽邃」と表現し、冬の光景は、夕陽の色を珊瑚、黄金、白銀と表現し、「あまりにもの美しさに見惚れて幾千万の真珠を集めたかのごとき」と書いている。冬は、美しさだけでなく、厳しさ、そして吹雪の音の恐ろしさについても記した。顔は雪に打たれて身体は凍え、手足はしびれ、眼も開くことが容易にできない状況だと書き、「ヒマラヤの凄絶、絶なる光景は、かくもあるべきかと自ら驚き絶えぬほどの凄い景色である」とも表現した。

自然の厳しさに反して、「空気は稀薄だけれども、非常に清浄で、そのうえ、成分に富んでいる麦焦がしを日に一度どっさり喰って居り、身体は至極健全であった」と書いているのだった。

慧海は毎日6時間ずつ、シェーラプ・ギャルツァン(*1)との論議をした。それが、かなり熱い意見の衝突などもあり、時々村人が驚くほどの大声で論戦となる。でも、どんなに怒っても数日経てば、またケロリとしてまた論議が始まったという。論議の下調べは6~9時間にも及んだそうだ。そして、合間の休みには、山中に入り、石を背負って坂を登り、トレーニングをしていたという。

そういう日々を過ごしながら、最大の目的である、チベットへの潜入への道を探っていたのだ。そして聞き出した道が、ドルポへの道だった。ダウラギリの北辺を横切って3日ほど進めば、チベットのチャンタン高原に出られると判断した。しかし、その道は積雪のために、6~8月までの3ヶ月しか通れないと調べ上げ、1900年(明治33年)1月1日、ツァーランで新年を迎え、3月10日にツァーランを発ったのだ。

村を出る頃には人気者になっていて、お別れの時はチャクワン(*2 按手礼:あんしゅれい)を求めて村人が100人ほど集まったそうだ。徳の高い僧侶から受けることで、良い後生を願う、というチベット人の心が垣間見えるエピソードだ。

* * * * *

2014年、16年、17年と、3度のツァーラン訪問で、慧海への信仰は少なからず残っていることを感じた。そして、もう少しきちんと保護されながら受け継がれていけばいいなと思ったのだった。

お寺で話を聞かせてくれたクンガ・ラマさんと一緒に記念撮影

 

*1: チベット、ラサのセラ寺で修行した学僧で、ネパール、トゥクチェ村近郊のお寺で仏教を教えながら、簡単な医療活動を行なっていた。彼は、慧海のところにしばしば遊びにきた。慧海はこのモンゴル僧に相談をもちかけて、慧海が彼に中国仏教を教え、彼が慧海にチベット仏教と文学を教えることで話がまとまった。慧海としては、ともかくロー州まで進み、シェーラプ・ギャルツァンにチベット仏教などを学びながら、チベットへの抜け道を探ろうという作戦である。(引用:評伝 河口慧海 ・ 奥山直司 ・ 中公文庫)
*2: 高僧の僧侶が庶民の額に手をあてるなどして、良い後生を願う。

 

稲葉香さんの「ドルポ越冬プロジェクト」、クラウドファンディングでサポーター募集

過去4回、ドルポを旅した稲葉さんだが、厳冬期のドルポは見たことがない。氷点下20~30℃にもなるドルポで、現地の人たちとともに、ひと冬を過ごしたい! この「ドルポ越冬プロジェクト」では、クラウドファンディングでサポーターを募集。※クラウドファンディングの期間は終了しました

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稲葉香さんが自費出版で2冊の本を出版

『Mustang and Dolpo Expedition 2016 河口慧海の足跡を追う。ムスタン&ドルポ500キロ踏破』

(46ページ・写真付き) 1500円(※完売)

2016年に河口慧海の足跡を忠実に辿り、慧海が越境したであろう峠クン・ラまで歩き、国境からは、アッパードルポからロードルポをできるだけ村を経由して横断し約60日間で500km以上を歩いた時の報告書を、編集したもの。

 

『未知踏進 稲葉香の道』

(14ページ・写真付き) 1000円

18歳でリウマチ発症、24歳で仕事を辞め、ベトナムの旅へ。ベトナム戦争の傷痕に衝撃を受け。28歳では植村直己に傾倒してアラスカへ。30歳で河口慧海を知り、河口慧海を追う旅が始まった。流れるように旅に生きる稲葉さんの記録。

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プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

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