行程・コース
天候
晴れ
登山口へのアクセス
マイカー
その他:
愛媛県松山市三津浜港から車をフェリーに載せ、山口県周防大島町の伊保田港で下船。国道437号を三浦地区まで行き、そこから県道106号を終点まで辿る。
文珠堂前広場に駐車する際、特に大きな車は木々に注意すること。
この登山記録の行程
登山口13:02・・・文珠山で休止13:37~14:10・・・海軍嘉納山レーダー跡で休止14:49~15:10・・・登山口16:05
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
山口県本土と大島大橋で陸続きの周防大島の主稜は、「大島アルプス」と呼ばれる海上アルプス。そのアルプス、文珠山~嘉納山~源明山及び嘉納山~嵩山は尾根で結ばれている。
ヤマケイ分県登山ガイド「山口県」や岳洋社、その他中国や九州で出版された登山ガイドブックでは、嘉納山山上に砲台跡がある旨、記述されている(執筆者は分県ガイドと同じ)が、これは昭和期に大島で出版された郷土書等を鵜呑みにしたものであり、事実とは異なる。
防衛省防衛研究所所蔵資料では、ここに展開していた部隊は呉海軍警備隊となっており、築造していた施設は、電波探信基地である。つまり、レーダー基地である。嘉納山レーダー(電波探信儀)は昭和17年に設置されている。
地元の郷土史家でも、山上や尾根上にセメントの台座のようなものがあれば、すぐ「砲台跡」と決めつけるきらいがあるが、レーダー跡以外にも監視台や航空塔跡等、台座風の戦跡は各種ある。
また、分県ガイドにも触れられているように、文珠山から嘉納山にかけての尾根には幕末の四境の役(第二次長州征伐)の大島口の戦い時、第二奇兵隊が防塁を築いていた。「第二奇兵隊」とは、簡単に言うと「周防国の奇兵隊」である。
長州は長門国と周防国との二国から成るが、両国の政策等は微妙に異なっていた。高杉晋作が奇兵隊らと共に長門国の藩の佐幕勢力「俗論党」を内訌戦で打ち破ると、周防国でも俗論党を打破する強力な勤王党結成の機運が高まり、柳井阿月の克己堂に集う志士が中心となり、慶応元年1月、真武隊を結成した。余談だが、この中には土佐浪士で後に海援隊隊士、そして明治期に高知県知事となる石田英吉もいた。
翌月、藩論が正式に倒幕路線になると隊を再編成し、「南奇兵隊」となった。更に4月には藩の公隊となり、隊名が「第二奇兵隊」となるのである。
「大島口の戦い」は周防国に於けるものであるから、奇兵隊ではなく、第二奇兵隊が主力となり、幕府軍である松山藩軍に一旦占拠された大島を奪還したのである。その時急造した尾根の防塁が今でも残っているのである。
登山口の文珠堂から文珠山までは、地形図の等高線を見ても分かるように、ジグザグの急登が続く。
文珠山山頂は樹木が皆無の草原となっており、瀬戸内海の島々を始め、四国・九州までもが遠望できる絶景を誇る。
文珠山南のコルの作業道を横切り、植林帯に入ると、右手の尾根沿いに涸れ沢跡のようなものが現れるが、これが第二奇兵隊防塁の起点。ここには案内板を設置すべきだろう。この防塁は部分的に藪化しており、且つ、辿るとなると勾配も急なので、整備された巻道である登山道を行く。
登山道が再度尾根を横切る所に防塁跡の古びた看板が建っているが、この辺りの防塁は日当たりがいいせいか、藪化している。それ以降、植林帯では登山道が防塁に沿っている箇所も何ヶ所かあり、つぶさに観察できる。
嘉納山が近づくと植林帯を脱し、高木のない灌木の尾根道となり、嘉納山三角点に達するが、三角点は山頂手前の低い地点の登山道脇にあり、広場もなく、展望もなく、山頂たる風情がない。
山頂の風情があるのは、海軍レーダーの台座の箇所である。海軍レーダーの台座は、このように六角形のものが多い。戦時中は米軍機に発見されにくいよう、周囲を草木で覆っていたものと思われる。
山頂の南東には、偽装の心配のいらない現代の電波塔が建っている。
フォトギャラリー:10枚
装備・携行品
シャツ | アンダーウェア | ロングパンツ | 靴下 | レインウェア | 登山靴 |
バックパック | スパッツ・ゲイター | 水筒・テルモス | 帽子 | グローブ | 地図 |
コンパス | ノート・筆記用具 | 腕時計 | カメラ |
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