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志々島の最高峰とシネマツーリズム

遠見の辻(横尾の辻)[三豊市志々島]( 中国・四国)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

マイカー
その他: 高松自動車道さぬき豊中ICを降りて国道11号を北上。
県道23号に左折し、詫間大橋西袂の交差点で県道231号に左折。
角にテニスコートやサンクスのある交差点を左折し、浜田南交差点を右折し、県道から離れる。
この道路の終点が須田港。船着場前の駐車場はいつも満杯なので、「ル・ポール粟島」専用駐車場奥の三角地(ここもすぐ満車になる)か、港改修碑の建つ未舗装の広場へ駐車する。

この登山記録の行程

11時前頃から島内を歩き始め、16時過ぎまで各地を探訪・ウォーキングしていたが、道が整備された遠見の辻(横尾の辻)と大楠のみの探訪であれば、定期船乗り場から往復一時間ほど。

コース

総距離
約5.7km
累積標高差
上り約287m
下り約286m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

[パノラマ最高峰と讃岐屈指の巨木と機関車先生]
三豊市詫間港の沖合5.5kmに浮かぶ周囲3.4kmの志々島は、昭和前期までは漁業で栄え、最盛期には一千人を超す人口を誇っていた。しかし昭和中期以降、人口が減少し始め、現在では僅か二十数人になっている。が、近年は瀬戸内国際芸術祭が開催される粟島等と航路で結ばれていることもあり、観光客が増えている。

それに応える形で島民が島の最高峰・遠見の辻(109.1m・整備者は山名と地名を勘違いして「横尾の辻」と表記)と讃岐百景の一つ、樹齢1200年以上の大楠に至る道を整備し、それぞれに展望所を設置している。林業が殆ど行われない島だけに、コースには灌木の自然林が残っている。

大楠の独特な枝ぶりが神秘的なせいかも知れないが、島は何度か映画のロケ地にもなった。有名なものでは平成6年公開の「男はつらいよ・寅次郎の縁談」や平成16年公開の坂口憲二主演の「機関車先生」が挙げられる。
映画のロケ地や関連地を巡る旅のスタイルを「シネマ・ツーリズム」と言うが、今回、島を探訪する前、機関車先生のスペシャル・エディションのDVDを購入し、ロケ地マップ等では公表されていないロケ地を抽出し、現地で確認作業を行った。

本土側の定期船乗り場、須田港の待合室で近々高知県に移住すると言う、山ガール兼島ガールに会った。山ガールの方から話しかけられたのは初めてだったが、おかげで楽しい船旅(45分間だけだが)となった。
志々島の港でも、その女性からは一緒に遠見の辻等に行かないかと誘われたが、当方は離島を巡る際は一日かけて巡るタイプなので、先を急ぐ彼女とは行動を共にできず、少々の談笑後、別れた。

船着場の波止の付け根には島唯一の公衆トイレがあるので、済ませておきたい。
そのすぐ北には、観光客との交流の場として開設された喫茶店兼土産物売り場、楠々(くすくす)があるが、運営者(Uターン島民)は全国各地に講演(過疎地の活性化等)で飛び回っており、この日も休業していた。

この辺りの建物の壁等には、前述の二作品のロケ写真や三波春夫が来島した際の写真が貼られている。
右手の自転車置き場のような所には、志々島と粟島のウォーキングコース(粟島がメイン)が描かれた地図が置かれているので貰うと良い。

左手に三軒過ぎると建物がなくなり、辺りが開け、港が見渡せる。この辺りを「前の浜」と言う。その端っこにある三軒目の空家はいせや商店で、機関車先生のロケがこの島の中では最も多く行われた場所。
母屋は北側にあるが、ここが坂口の下宿先、阿部産婦人科として使用され、倍賞美津子が女医になっていた。
いせやは'00年代に入って廃業した模様だが、主の始祖は天正元年8月12日、本土の雨霧城から落ちてきた城主・香川氏の家臣の一人、上田氏。藩政期は豪商・伊勢屋として栄え、丸亀藩主からの借金の要請にも応じている。
島の過半数の島民は香川氏の家臣の末裔だが、歴史の継承が全くなされておらず、主要な家臣の墓の場所や関連史跡、本家筋の家について知る島民は皆無だった。それ故、今回の島旅は不完全燃焼に終わった。

母屋の北隣の家屋は、立派な高い石垣の上に建っているが、この建物を俗に「文学の家」という。元は伊勢屋の網小屋だったのだが、近代、一族の一人で俳人の小野蒙古風が妹から譲り受けると「文学の家」と名付け、句会を開催していた。
因みに蒙古風の弟は第23回(62年度)香川菊池寛賞を受賞した上田勝見氏で、'00年代に入って島にUターン移住したが、二年前、惜しまれつつ、他界した。

いせや商店の斜め向かいの岸は飛行艇のスリップ(滑走台)のように傾斜しているが、ここでは機関車先生の中で、坂口憲二と教え子が舟燈籠を流すシーンが撮影された。
その先、主要道は再び両側を建物に挟まれるが、この通りは機関車先生のラストに近いシーンが撮影された。坂口と祖父役の笑福亭松之助(明石家さんまの師匠)のシーンである。松之助は坂口に、かつて家から追い出した娘(坂口の母)と共に、今度また島を訪れるといい旨、語りかけていた。

その右手の建物の東から二軒目は消防屯所だが、映画では内部が「居酒屋どら」に改装されていた。女将は大塚寧々が演じていた。残念ながら屯所は'04年の台風で破壊され、その後新築されたのでセットは残っていない。
屯所と西隣の建物の間の通路は、映画では、坂口が網元によって教師をやめさせられそうになり、教え子の少女が倍賞美津子に相談した後、ここを通って岸辺に出たシーンが撮影された。岸辺のもやい掛けの一つには寧々が腰掛けており、少女と言葉を交わしていた。

その東、山側の共同墓地は民俗学分野に於いては有名。小さな木製の祠位の覆い屋が沢山あるのだが、これは「霊屋」という。島では両墓制を取っており、ここは埋め墓。49日の法要後、霊屋を建て、四十九院の塔婆、葬式時の六角塔婆、廻り塔婆、紙花を納め、花立と水を入れる茶碗を供えるのである。参り墓はこの裏手と利益院境内にある。

墓地の東方から南西に突き出す波止に向かうが、波止の付け根には島四国(ミニ八十八ヶ所霊場)の石仏が祭られている。その波止には浮桟橋が付いているが、ここは映画で、坂口の教え子の少年と、桟橋に接岸した漁船上の少年の父が会話するシーンが撮影された。

次は大楠の道標が出ている志々島診療所の三叉路まで引き返し、その道標に従い、北進する。すぐ左手に島唯一の商店、上田商店があるが、この前では映画で、坂口に自ら摘んだ花をプレゼントしようと走っていた少女が、鼻緒が切れて転び、通りかかった寧々に声かけられるシーンが撮影された。商店の向かいの民家の塀の入り口には「ゆ・サウナ薬湯」というのれんがかけられ、銭湯という設定になっていた。今でものれんを引っ掛ける金具が残っている。
その北側は四差路になっているが、北角の畑には映画ロケ時、菜の花が咲いていた。その畑前から上田商店前の通路付近はラストシーン直前、坂口の教え子たちが島を後にする坂口を見送りに行くシーン等、複数撮影されている。

四差路からは一旦、大楠コースから離れ、東の30m独標点「東の城」へと向かう。島で唯一、島民に知られている、香川氏の家臣関係の塚があるからである。但し、どの家臣の塚であるかは判明していない。そこへ向かう道は、坂口たちも登っている。
独標点北のコルで道は分岐になるが、独標点のやや南に一本の榎の大木が立つ、こんもりした土盛りがある。それが前述の塚である。
藩政時代後期か明治位昔のある日の未明、筏石場の浜(小学校跡に建つシシジマ研修センターの東)で、鎧を纏い、手に采配を持った武者の霊が浜から東の城の塚に登って行く姿が目撃されている。

塚にはかつて石造りの祠が祀られており、香川氏の家臣、高島氏の本家の子孫が代々世話していた。明治45年春、高島氏が家宝の曲げ物の中から埋蔵金に関する巻物を発見したのだが、それには塚の南に小判470枚、中判170枚、黄金仏35体、銘刀一振り、金の羽根付采配64枚が納められた石棺が埋められている旨、記されていた。そこで地下を掘ったのだが、結局出てきたものは「汗」だけだった。その際、祠も撤去されてしまったのである。

コルの三叉路まで引き返すと、大楠に繋がる道が存続してないものかと探ってみたが、途中で藪化していた。そこに行くまでの間に、映画で、坂口が島の小学校に赴任してきた際、トランクを持って歩いた、緩いカーブの道がある。
上田商店の四差路まで引き返すと、大楠の道標に従い、北に上る。集落最奥の右手には無住の利益院があるが、この近辺の石垣沿いの道も、もしかすると映画に出てきたかも知れない。映画は五つの島で撮影されているため、特徴のあるものが映っていないと、なかなか場所を特定し辛い。
墓地を過ぎると石段になるが、振り返ると港の全景が見える。恐らく映画で使用された港の俯瞰の景色はここから撮影したものだろう。

地形図(讃岐粟島)の破線は、標高60mのコルを乗り越しているが、そこは分岐になっており、西に島の最高峰・遠見の辻へ至る登山道が延びている。そこの分岐には、松に似た樹木、モクマオウの大木がある。日本には自生しておらず、オーストラリアやニューカレドニアに分布しているという。島民がなぜ近代、これを持ちこんだのかは不明。
そうこうしているうちに空腹になってきたので、山頂で弁当を食べるべく、遠見の辻へと登って行く。
登山道沿いには一部、紅葉も見られたが、展望の開ける箇所はなかった。が、山頂では景色が一変し、大パノラマが広がっている。備後灘から瀬戸内海の多島美が広がっている他、本土の山並みまで見渡せる。ベンチも設置されているので、弁当を食べるには好都合。
特にこの日は気温が高く、上着を脱いで潮風に吹かれ、地形図を見ながら本土側の山座同定をして、ひとときを過ごした。

山頂には「横尾の辻」と書かれた大きな山名板が立てられているが、元々横尾の辻とは、横尾集落上方の辻のことを指すと共に、遠見の辻を含めた周辺一帯の呼称でもあった。横尾の辻と遠見の辻の間には「峯の辻(むねんつじ)」という場所もあるが、そこが横尾地区の最上部にあたる。地名と山名が混同されるのも、歴史が継承されてないからである。

山頂での大休止が終わると分岐まで引き返し、大楠への道を下って行く。
大楠に下りる手前は階段状になっているが、ここでも坂口が島に赴任して、トランクを持って歩いていた際、大楠を見つけて一瞬、歩くのを止めたシーンが撮影された。
大楠は幹周12m、樹高22.5mの四国屈指の巨木だが、それ自体が大木になっているいくつもの枝が縦横に張り出し、独特の枝ぶりを見せている。
大楠の根元には楠公神社が祀られているが、この正式名を「楠公正一位稲荷大明神」という。

明治初期、この楠の倉地区の漁師が舟を造ろうと勝手に大楠の枝の一本を伐り落としたところ、罰があたって重い熱病にかかってしまった。そこで本土の祈祷師にみて貰うと、大楠の神が枝を伐採されたのに怒り、集落全員の命を取ろうとしている、ということだった。そこで京都の伏見稲荷から勧請して稲荷明神を祭ったところ、漁師の病は治ったとのことである。
なぜ大楠に神が宿るようになったのかについては割愛させて戴く。

この大楠から海側には短い小径が延びており、先は藪に埋没しているが、映画ロケ時、ここに藪はなく、海面を見下ろすことができた。そこで島を小舟で去って行く坂口を教え子たちが見送るラストシーンが撮影された。
大楠からは反対側に上る小径が整備されており、これを上りつめると「おだて」という場所に至る。そこには小屋式の「楠の倉展望台」が建てられている。正面に高見島が見え、備後灘の好展望が広がっている。瀬戸大橋も遠望できる。

展望台からは南東に舗装歩道を上がり、モクマオウの分岐まで引き返すと、元来た道を港まで戻る。
当方は海岸沿いの道を横尾集落まで行き、無人の集落中腹の横道に出て、「きゅうざの鼻」上方の立石まで行こうとしたが、横道を少し西に行った所で藪化したので引き返し、横道を上田勝見氏邸まで行って港に戻ろうとしたが、この道も途中で藪化してきた。定期船の最終便に間に合わなくなる可能性もあるので、藪漕ぎを諦め、海岸沿いの道に引き返し、港へと戻った。

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