• このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 参考になった

日の出町と西党とついでに草花丘陵

北郷神社(伊奈城跡)、松岩寺(上平井館跡)、平井館跡、平井八幡神社、猿田彦大神、平井春日神社、東光院・妙見宮、保泉院、尾崎観音、瀬戸岡古墳、陽向寺、小宮神社、大行寺、草花神社、慈勝寺、大澄山、草花丘陵、浅間岳( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 参考になった

行程・コース

天候

曇り時々腫れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→新宿→中央線→立川→五日市線→武蔵増戸

復路:羽村→青梅線→拝島→西武拝島線→東大和市→テルメ小川→満腹楼→新小平→武蔵野線→府中本町→南武線→武蔵小杉→東急目黒線→武蔵小山

この登山記録の行程

武蔵増戸駅6:11→北郷神社(伊奈城跡)6:26→松岩寺(上平井館跡)6:34→平井館跡6:47→日の出町役場6:58→平井八幡神社7:10→猿田大神7:14→平井春日神社7:24→東光院・妙見宮七星殿7:34~58→保泉院8:09→尾崎観音(宝蔵寺)8:19→瀬戸岡古墳8:30→陽向寺8:54→小宮神社8:57→大行寺9:05→草花神社9:21→慈勝寺9:27→大澄山9:34→朝日山妙見堂跡9:50→浅間岳10:10→羽村神社10:13→羽村堰下橋10:33→児魂神社10:44→羽村駅10:54

合計4時間43分

コース

総距離
約15.9km
累積標高差
上り約459m
下り約490m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

3月6日(土)は、檜原城跡と戸倉城跡に行く予定だったのですが、天気がイマイチ良くわからなかったので、雨着のいらない平地ということで、日の出町から平井川流域を草花丘陵辺りまでブラブラしてきました。

結局雨は全然降らずに、午前中から晴れてきたので、全然気にする必要はなかったんですけどね。

平井川流域というのは、同じ西党なんですが、上流の方は平山氏の影響が強く、下流域は小宮氏の影響が強いです。地元の郷土史家の方の説によると元々小宮領だったところに、平山氏が入り込んで勢力を伸ばしていったということになるんですが、たぶんそういう単純なことではなく、和田義盛の乱に加担して西党が滅亡した後、細々と生き延びてきた小宮氏や平山氏の残党が、上杉氏(大石氏)や小田原北条氏といった外部から来た強大な支配勢力に与することによって復活を果たした時代のズレによって、小宮氏の強いエリアと平山氏の強いエリアに分かれたのだと思います。

ちなみに西党滅亡後、小宮氏は、山ノ内上杉氏元で復活を果たし、小宮神社も再興され、鐘を奉納しています。平山氏はその上杉氏を関東から追い出した小田原北条氏の元で復活を果たし、檜原城中心にあきる野台地周辺を支配下におさめました。その時代のズレが、後から平山氏が勢力を伸ばしたように見える要因なのではないかということです。

さて今日のスタートは武蔵五日市駅の1つ手前の武蔵増戸駅です。駅のすぐ西側に南北に走る広い通りがあって、この道が先週の山田で秋川を渡った鎌倉街道山の道の続きです。

鎌倉街道山の道は、平坦なあきる野台地が起伏のある丘陵地帯に変わろうとする縁の部分を抜けていて、それを見下ろすように丘陵上に存在したのが「伊奈城」です。ここは現在「北郷神社」になっていて、山麓の「松岩寺」にあった「上平井館」の詰め城の跡と言われています。

平井氏については良くわかっていないのですが、平井郷伝馬奉行宛の北条氏照の印判状(都指定古文書)が残されていて、この辺りに鎌倉街道の宿駅があったと言われています。平井宿では16世紀後半以降に三齊市が開催され,鎌倉道沿いの交通の要衝だったそうです。

松岩寺からしばらく北に進むと、平井川の河岸段丘の崖上に今は分譲住宅が並ぶ四角い平坦地があります。ここにさっきの上平井館とは別に「平井館」があったと言われています。こちらはさっきのあきる野台地と秋川の対岸の丘陵地帯が一望できる場所とは違い、青梅との境の山と平井川流域が見渡せる位置にあり、最後まで北条氏に抵抗していた青梅の三田氏の動きを監視する役割を担っていたのではないかとも言われています。

平井館から平井川沿いの広いバス通りに出て、右折すると、さっきの鎌倉街道山の道との交差点のところに「日の出町役場」があります。鎌倉街道はやや西側から馬引沢峠を越えて、名郷を通り秩父方面に向かうのですが、日の出町役場のある場所からは二本木峠を越えて青梅に抜ける古道が通じており、地元的には遠い秩父より隣の青梅との関係が重要だったことを表しているのだと思います。

蛇行する平井川に沿ってしばらく進むと、「平井八幡神社」という立派な神社が出てきます。ここは西党の平山景時が創建した神社で、もとは「本宿山獄の上に鎮座」とあるので、さっきの北郷神社のあったあたりにあったものを川沿いに移転したらしいのですが、宮司の家系が、嘘か本当かあの横山党・西党共に荷担して滅んだ和田義盛の乱の「和田義盛子孫の和田太郎源義直以下、鈴木克一まで四十代続く宮司がこれを祀る」とあるのが、西党の史跡がやたらと多い日の出町らしさを感じさせます。

「猿田大神」は単なる石の道祖神でした。

次の「平井春日神社」も、村首「日奉森明」が、成務天皇の勅命により大己責命を祀り、千石大明神と称したのが始まりという伝承が残り、さらにその後、延暦十年(七九一)、「日奉森栄」が官命を受けて、武甕槌命、斎主命、天児屋根命を合祀したという伝承も残っており、日奉という西党宗家筋の名前が二度も出てくる西党へのこだわりが凄いです。ちなみにこの2人の日奉氏はたぶん平山氏です。

次の「東光院の妙見宮」は西党とは離れるのですが、武蔵国の開発の命を受けた百済の豪族が妙見菩薩を祀ったというこの辺では珍しい渡来人由来のお宮です。別当寺であった東光院は普通の曹洞宗のお寺なんですけどね。で、この妙見宮なんですが、山の天辺にあってあきる野台地と奥多摩の山々が一望できるので、景色を見るだけでも登る価値があります。

妙見宮で景色を堪能したら、下に降りて、次は「保泉院」に向かいます。ここにも、日奉重清(平山氏)によって創建された「閻魔堂」と「閻魔王像」があります。これは別の場所にあったものが保泉院に移されたもののようです。

保泉院を過ぎ、平井川を渡ると圏央道をくぐる手前でいきなり日の出町からあきる野市に入ります。平井川沿いは全部日の出町だと思っていたのに、日の出町狭!でもそれも歴史的な理由があるようで、あきる野市に入ると同じ西党なんですが、「小宮氏」の史跡が増えてきます。

圏央道をくぐってすぐのところにあるのが「尾崎観音」です。源頼朝の側室・丹後局の守り本尊であった如意輪観音が祀られているとのことなんですが、本当のところは良くわかりません。

再び平井川を渡ると、河岸段丘の斜面にあるのが「瀬戸岡古墳」です。ここは埋め戻されて木が植えられた緑地があるだけなんですが、「竪穴式石室的横穴式石室」という良くわからない構造の高塚古墳で、径300mの範囲に50基ほどの小規模な古墳が発見されたそうです。火葬された骨が見つかったことから、年代は意外と新しく、奈良時代以降のものらしいです。

「陽向寺」は、お待たせしました、「小宮十八騎」の一人「高尾伊予守」が応永3年(1396)に創建したと伝わるお寺です。高尾という名前は先日行った「網代城山」の隣の高尾山と高尾氏にたぶん関係していて、この小宮氏というのは元々、五日市から檜原村にかけての奥まったところを支配していた一族で、今日行くはずだった戸倉城も元は小宮氏の城だったと言われているのですが、どのような経緯で支配地域が平井川下流域に移ったのかは不明です。さらに八高線の小宮駅周辺に小宮氏がいた形跡がないのになぜ小宮領と呼ぶのかも良くわからないようです。

そして「小宮神社」です。ここは、鎌倉時代の承元元年(1207)に「平山季重」が社殿を建立したと伝えられる神社です。平山季重は京王線の平山城址公園駅前に居館跡がある鎌倉時代初期の西党の有名な武将ですね。その後、室町時代には、関東管領山ノ内上杉の元で「小宮上野助憲明」が奉納した寛正4年(1463)銘の鐘は国認定重要美術品にされています。上野介憲明は小宮十八騎の一人だといわれています。

次の「大行寺」は小宮神社の別当だった寺で、ここにも「平山季重」「小宮上野介憲明」の名前が残っています。

ここでだいたい西党が終わり、最後に「草花丘陵」に向かいます。草花丘陵の草花というのは、地元の観光課が勝手につけた名前ではなく、かつて「草花村」という村があったことからつけられた名前だそうです。この辺りは多摩川に削られたザレた急斜面が多く、赤松などの木しか育たず、草花が多かったからだと言われています。

草花丘陵の最初はまず「草花神社」に向かいます。ここは明治の神社合併で、折立・森山・高瀬・西ヶ谷戸地区の四社を合祀して村の名前をつけて出来た神社です。前に来た時は大澄山の方から来たので別にどうってことはなかったんですが、今回下から登ったらえらい階段の長い大変な神社でした。でもその分景色は最高で富士山が良く見えました。

草花神社から一旦下りて、「慈勝寺」に向かいます。ここはあっちでもこっちでも名前が良く出てくる「畠山重忠」が伯母の円寿院理体大尼のために創建した神社とのことです。本当かどうかはわかりません。

慈勝寺から「大澄山」にまた登り直します。大澄山は奥多摩の山並みが東進し、最後に多摩川にぶつかって終わるところにある最後の山で、標高は200mありませんが、赤ぼっこあたりから縦走してくるとなかなか感慨無量のピークです。

大澄山から軽く下って登り返すと「朝日山妙見堂跡」があります。さっきの妙見宮と同じ妙見ですが、ここには崩れ去ったお堂しかありません。

朝日山妙見堂から下ると、ゴルフ場の前に出ます。ここから先のゴルフ場のフェンス沿いに行く道は土砂崩れで長らく通行止になっていたのですが、今回来てみたら通行可能になっていたので予定を変更して「浅間岳」まで行ってみることにしました。右手に羽村の堰周辺の多摩川が臨めるなかなか快適な道です。

浅間岳山頂はゴルフボール避けのネットと屋根つきの休憩所がある場所で、富士山方向の木が刈り払いされているのですが、さっきまで見えていた富士山は雲がかかって見えなくなっていて残念。山頂から東に少し下ったところに「羽村神社」があります。浅間さまと呼ばれているのなら浅間神社でいいのに、あえて羽村をつけるのは、ここまで羽村の領土だぜの意味なんでしょうか?

羽村神社から下に下って多摩川の堤防を少し歩き「羽村堰下橋」という歩行者専用の橋を渡って羽村駅に向かいます。その途中に「児魂神社」という、前に来た時にコースの都合で寄れなかった神社があるので寄って行きます。ここは「鹿屋野比売神」という大山祇神の妃神で草の神様を祀った神社で、言い伝えにもこの辺りは昔は一面の草原でその中央に大樹があったと伝えられています。要するに草花丘陵も反対の羽村側もザレた草原だったらしいのですね。

さてそれで羽村駅に着いたはいいけれど、まだ11時前で店も何もやっていないので、今日も温泉に行ってから昼飯にすることにしました。で、河辺の梅の湯に行こうかと思ったのですが、近々青梅に行くのでその時のためにとっておくことにして、拝島から西武拝島線に乗り換えて「東大和市駅」で下りて「テルメ小川」に行きました。ここも駅から歩いて15~20分ぐらいなので、拝島と矢川の湯楽の里同様に奥多摩方面に行った帰りに寄れる日帰り温泉です。値段は土日1050円。泉質はph7.8の弱アルカリ性の黒湯のナトリウム塩化物炭酸水素泉です。ここの特徴は高濃度炭酸泉はないものの、温泉を使った浴槽がとても多いということで、多少混んでいても温泉に入れないということはありません。ただ露天風呂の源泉かけ流しの温度があまりにぬるいので、真冬は寒く感じるかもしれません。

テルメ小川を出たら、前は東大和市駅に戻ったのですが、武蔵野線の「新小平駅」まで歩いた方が、府中本町駅で南武線に乗り換えられて早いので、今回はそのルートを試してみました。新小平駅へは東大和市駅へ行くのに比べ5分ぐらい多目にかかっただけで着いたのですが、ただ予想通り何もない駅で、2件だけ開いてた中国人のやっているちょっと怪しげな中華屋の1件、「満腹楼」という店に入り、ランチメニューの「海老チャーハンと半ラーメンのセット」を食べて帰りました。この店は名前の通りの大盛屋で、普通盛で大盛ぐらいの量があり、ランチ大盛無料なので大盛にすると食べきれないぐらいの量がくる可能性があるので要注意です。食べられる山岳部の学生とかなら問題ないでしょうが。

まち歩き | 日の出町ホームページ
https://www.town.hinode.tokyo.jp/category/4-6-2-0-0.html

多摩百山 コース NO.45羽村堰から草花丘陵、浅間岳、大澄山
http://www.jac-tama.or.jp/tama100.jac-tama.or.jp/course/course_45.html

続きを読む

フォトギャラリー:56枚

すべての写真を見る

装備・携行品

みんなのコメント

ログインして登山記録にコメントや質問を残しましょう

関連する山岳最新情報

登山計画を立てる