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遍路道から城跡・海軍弾薬壕を回遊

日和山( 中国・四国)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

曇りのち晴れ

登山口へのアクセス

マイカー
その他: 県道23号で高知市春野町西畑(さいばた)から土佐市新居(にい)に入り、宇佐大橋入口の交差点で県道47号に左折し、大橋を渡る。
宇佐町竜(りゅう)の「竜の浜」駐車場に駐車。トイレあり。

この登山記録の行程

竜の浜駐車場13:47・・・一本松峠で小休止14:16~18・・・井尻城跡14:29頃・・・仙月山津波避難所造成地14:50・・・丹生神社(弾薬壕)で休止15:00~15:06・・・竜の浜駐車場15:17
※この山行は詳細記録を取ってないため、カメラの画像データを元にコースタイムを記している。タイムには未記載の休止時間も含まれている。

コース

総距離
約2.8km
累積標高差
上り約144m
下り約143m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

[堀切と竪堀が残る井尻城跡と特攻基地弾薬壕]
風光明媚な横浪半島の最高峰・宇都賀山(255.4m)から北に伸びる尾根の突端の日和山(115m)には、戦国期の豪族・国沢将監の城・井尻(いのしり)城跡があり、堀切や郭等の遺構が残っている。
その南の一本松峠を越える峠道・竜坂は旧遍路道で、’00年代に入り、道標や展望所等が再整備された。
日和山の北鹿、宇佐町井尻には昭和20年春、須崎市箕越に司令本部(司令官は漫画家・横山隆一の兄)を置く海軍第23突撃隊の宇佐基地が造営され、5月10日に第50震洋隊(特攻ボート隊)が進出した。震洋隊基地の西方には回天基地も造成されたが、回天自体は未配備に終わった。
回天・震洋基地跡、それぞれに艇を格納していた横穴壕が残っているが、震洋の格納壕群の東方、丹生(たんしょう)神社境内には、基地の弾薬壕が残っている。
遍路道を通り、中世と近代の戦跡を巡ろうというのである。

[コース]
竜の浜駐車場から往路の峠道、竜坂を登ろうとする場合、正規の登山口から登ると遠回りになるため、その集落の北部の人たちが昔、利用していた道を辿って途中で竜坂に合流しようと思った。
駐車場から南に行くと、すぐ四国霊場・青龍寺への木製道標があるが、ここを南に折れる。すぐの三差路は右折。左手に二軒目の民家手前から南西に折れる、フェンス沿いの自然の歩道が昔、利用されていた道である。が、ほどなく、畑に突き当たるといきなり道が消え、廃道化していた。そこで、畑の畦道を歩き、一軒の民家北から西の谷状になった山中へと入った。竹藪が煩い所もあるが、難儀するような藪漕ぎはない。但し、勾配は急である。

少し不安になりかけた頃、竜坂に出た。こちらの峠道は、峠から北側の道とは異なり、不明瞭な箇所もなく、雑木の中、続いている。
峠の数分手前には、ベンチが設置された展望所が整備されていた。萩岬から新居海岸、花街道沿いの浜、太平洋と、展望が広がる。コース中、随一の展望所である。
一本松峠には、以前、何度か訪れた時にはなかった木製の手製の立て看板が建っていた。看板には峠名の由来である一本松に関することが記述されているが、その巨木の幹周は、大人が6人、手を繋げるほどだったという。現在、枯れた根株が残っている。
ここから宇都賀山に登るルートは、’90年代末、シダが藪化していたが、’08年夏に登った折は、藪はなくなり、登り易くなっていた。時間がある方は往復するといいだろう。山頂手前のピーク北の標高190m地点には、パノラマが広がる小宇津賀展望台が設置されており、山頂東には近世の烽火台がきれいな状態で残っている。そこは中世の宇都賀城跡であり、また、第23突撃隊第七見張所造成跡地でもある。見張所は設営途中で終戦を迎えることになった。

井尻城跡のある日和山へは、一本松峠から痩せ尾根を北上すると簡単に到達できる。山頂手前には、尾根を横断する堀切が連続して3本残っており、山頂の詰の段一角には土塁も残置している。雑木林の中なので展望はないが、「日和山」という位だから、昔は眺望が優れ、天候を観測していたのだろう。
中世の城跡は詰の段を挟んだ反対側にも堀切があるのが普通なので、北に尾根を辿ると、二本連続して堀切があった。手前の堀切は西側が竪堀に繋がっており、そこで堀が二条に分かれ、又の部分が畦状になっている。二条に分かれる起点から南には、横堀も続いていた。

当初、城跡から一本松峠に引き返し、井尻の大師堂へ下る予定をしていたが、山頂から北に踏み跡が続いていたので、辿ってみることにした。
尾根道沿いは雑木やシダだが、シダが下草となった植林帯で休止したように思う。
無縁墓の先でいきなり展望が開けると、尾根が切り崩されて削平され、真っ平になっていた。その時は霊園が造成されているものと思っていたが、後で住宅地図を見ると、仙月山津波避難所の造成中のようである。一本松峠南東方向の蟹ケ池には、高知大学の調査で、古代、波高50m以上の津波が襲った痕跡があることが判明しているので、宇佐地区の住民にとっては、南海地震対策は必須だろう。
波高50mと言えば、白鳳の大地震並である。因みに回天(須崎基地の隊)の訓練が行われていた須崎湾沖の海中では、そのいずれかの地震で海没した集落の石垣等が発見されている。

造成地西で地形図には表現されていないが、尾根が二つに分かれる。道は尾根下を通り、北側の尾根へと移る。
道は弘法大師が勧請、造立したと言われる丹生神社境内へと下っている。この神社の別当寺が青龍寺だった。祭礼の当屋には「井尻八人衆」と呼ばれる者たちが順番であたっていたが、彼らの先祖は、大師が青龍寺開創時、竜の渡しの渡し守と共に残し置いた、8人の随身である。
社殿の裏に、23突撃隊宇佐基地の弾薬壕が二基、残っている。奥行きは震洋艇の格納壕より短い。南の方の壕は入口付近に落盤跡があるが、昭和21年12月21日の「昭和南海地震」時に崩れたのかも知れない。
後は県道を駐車場まで引き返すのみ。

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