行程・コース
天候
1日目:快晴、2日目:雪
登山口へのアクセス
バス
その他:
【往路】JR高崎線新町駅から上毛電鉄バスで砥根平バス停下車
【復路】学校前バス停から上毛電鉄バスでJR高崎線新町駅下車
この登山記録の行程
【1日目】上毛電鉄バス砥根平バス停(16:15)・・・浜平鉱泉(17:20)[幕営]
【2日目】浜平鉱泉(07:00)・・・湯ノ沢の頭(09:40/09:50)・・・避難小屋(10:35)・・・下ヤツウチグラ手前で撤退(11:30)・・・避難小屋(12:20/12:55)[昼食]・・・湯ノ沢の頭(13:35)・・・林道終点(15:05)・・・上毛電鉄バス学校前バス停(15:50)
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
【回想/1日目】小倉との約3年半ぶりの登山は、小倉の大学卒業記念山行と位置づけ、場所は諏訪山に決定した。しかし、朝から思わぬトラブルに見舞われた。待ち合わせ予定の駅で小倉が乗るはずだった電車にタッチの差で乗り遅れ、一方、小倉が乗っていない電車に私が乗車してしまったことから収拾がつかなくなり、大幅なタイムロスが生じてしまったのだ。今なら携帯電話で互いに連絡を取り合いすぐに軌道修正できるのだが、時は平成5年(1993年)。携帯電話もPHSも普及していないこの頃は、公衆電話から互いの自宅に伝言するしか手段はない。家族を通じての伝言ゲーム、そして一旦乗車すると連絡手段を失う状況で、刻一刻と変化する状況にリアルに対応するのは容易ではなかった。
この時は先行した私が7時25分に小倉宅へ連絡「上野駅まで来てほしい」と伝えたが、小倉が7時50分にイガ宅へ連絡「高田馬場駅で待つ」と伝言。しかし私の「上野駅まで来てほしい」の伝言を聞いた小倉が上野駅へ向かい、その後宇都宮線に乗り大宮駅で高崎線に乗換え、9時56分には新町駅に到着していた。一方、私は10時に自宅に連絡すると小倉が高田馬場駅で待っていることを知り、高田馬場駅に戻ったが合流できず「今回は中止」の意向を小倉宅へ11時10分に連絡したところ、小倉がすでに新町駅に到着していることを知り翻意。上野駅から特急あさま17号で高崎まで行き、ようやく新町駅で合流できたのが13時29分という始末だった。こういう時はどちらかが動かず同じ場所にいるのが定石だったと反省した。
合流後はバスを2本乗り継ぎ(万場で1回乗換)砥根平バス停で下車。登山口の浜平鉱泉までは車道歩きになる。午前中のトラブルが響き、今日は浜平鉱泉でテントを張った。夜は例の如くマサキューネタで3時間ほど盛り上がり午前0時頃に就寝。夜空にはまだ星が瞬いていた。
【回想/2日目】4時起床の予定だったが夜更かしのせいか1時間遅れの5時にようやく動き始めた。空は明るいものの一面雲に覆われており天気はパッとしない。朝食後の7時に浜平鉱泉を出発した。
序盤の沢沿いの道は結構荒れており、残雪も凍っていて歩きにくかった。登るにつれて辺りが暗くなり、山々に濃いガスがかかり始めたかと思いきや、すぐに白いものが降ってきた。支尾根に出ると諏訪山山頂部が厳めしい姿でそそり立っている。その中でも左手の下ヤツウチグラが最も印象的だ。
主稜線とぶつかったピークである湯ノ沢の頭に着くと、降りが本格的になってきた。進むか否かを相談したが、小倉の強い要望により行けるところまで行くことにした。避難小屋を通過しその先のハシゴ、鎖場を越え下ヤツウチグラを間近に見上げるところで再度この先の行程を確認。このまま進むと終バスに間に合わない恐れがあると判断し、11時31分無念の撤退を決意した。雪の勢いはおさまることなく、4時間強をかけて雪道を下山。この日は倉賀野にある小倉の祖母宅に宿泊。卒業記念山行はいつしか連夜の宴会へと変貌していた。
装備・携行品
| シャツ | アンダーウェア | ダウン・化繊綿ウェア | ロングパンツ | 靴下 | 登山靴 |
| バックパック | サブザック | 水筒・テルモス | ヘッドランプ | タオル | 帽子 |
| グローブ | サングラス | 着替え | 地図 | コンパス | ノート・筆記用具 |
| 腕時計 | カメラ | 登山計画書(控え) | ナイフ | 医療品 | ロールペーパー |
| 非常食 | 行動食 | テーピングテープ | トレッキングポール | GPS機器 | テント |
| シュラフ | スリーピングマット | ライター | カップ | クッカー | ローソク・ランタン |
| アイゼン | |||||
| 【その他】 生米2合、酒類、しゃもじ、ポリタンク | |||||