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行場巡りの女人大峰と鳴川渓

鳴川渓、鳴川峠(平群町~東大阪市)( 東海・北陸・近畿)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 生駒市の近鉄生駒駅で近鉄生駒線に乗り換え、元山上駅下車。

この登山記録の行程

元山上駅(20分ほど)生駒山口神社(40分ほど)千光寺(1時間ほど)鳴川峠(40分弱)当時の上六万寺町の自宅マンション
※当時のコース図等は廃棄しているため、このタイムに行場巡りが含まれていたか否かは分からない。また、コースは一部、実際のコースとはずれている箇所があるかも知れない。

コース

総距離
約7.5km
累積標高差
上り約518m
下り約551m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

生駒山脈の東、竜田川の支流・櫟原(いちはら)川のそのまた支流・鳴川川上流域は鳴川渓と呼ばれる渓谷になっており、周辺の山域を鳴川山と言い、ここに「鳴川山千光寺」という修験の寺がある。鳴川山と千光寺は「女人山上」或いは「元山上」とも呼ばれるが、ここで役小角(役行者)が大峰山(山上ケ岳)で修行する前の28歳から42歳までの間、修行したと言われている。

「大和鳴川山元山上千光寺略縁起・行場案内記」によると、役小角が宇佐八幡と生駒明神のお告げにより、鳴川山に分け入ると、地蔵菩薩の化身である老人に出会い、老人の指示に従い、更に奥に踏み入り、現在の千光寺の本堂が建つ所まで行くと、漆の大木の中から十一面千手観音が出現した。そこで小角はその大木から観音像を彫り出し、小堂を建てて安置した。更に天武12年、伽藍を建立し、千光寺と称したとされている。

小角は当地を去る前、漆木の残木で自身の像を刻み、後世の女人のため、雌松を植えた。以来、女人も登るようになり、「女人山上」と呼ばれるようになった。現在(昭和末の資料)でも8月第一日曜の滝祭りには、女性の行者が100人ほど参加している。
因みに小角が鳴川山で修行する前の7年間は箕面山で修行し、その前の7~22歳までは金剛山で修行している。

千光寺周辺の鳴川渓は滝状や激流箇所があり、昔は名勝として知られていた。その背後には鎖場のある行場があり、奇岩怪石を巡れるようになっている。
この千光寺を通る道は生駒山脈・鳴川峠に通じている。峠道は鳴川越(東大阪市作成のマップでは「府民の森・なるかわ谷コース」と記されている)と呼ばれ、東高野街道(瓢箪山商店街「ジンジャ・モール」に続く)の一里塚付近に下りているが、当時、その峠道近くに在住しており、その道は何度も歩いていたため、復路は鳴川越の南方を並行する六万寺に到る道を下った。但し、その道や鳴川越北方の峠道等も地元故、写真は殆ど撮っていない(今となっては後悔している)。

[コース]
竜田川を櫟原橋で渡り、櫟原川を一旦櫟原小橋で渡った後、再び神前橋で川を渡り直す手前の右手上に式内社である生駒山口神社が鎮座している。正確には「伊古麻山口神社」と書き、元々南西の滝の側にあり、「滝の宮」と称されていた。ここには神武天皇が長髄彦征伐の途次、雨乞い祈願をしたとう伝承がある。
境内には大砲の砲弾も奉納されている。側に経緯を記した碑があったかも知れないが、全国各地の神社境内では、日露戦争の戦利品として、露国軍の砲弾を祭っているケースが多々見られる。

その内、櫟原川に沿う歩道となり、所々石仏も見送ってくれる。
やがて前方上方に巨大なコンクリート橋が現れるが、当時の道路地図には、この橋は描かれてなかったように思う。
太鼓橋である滝見橋南袂辺りが、鳴川渓の景観が最も優れた場所「清滝」(同名の滝もある)で、橋周辺は激流となっている。そして道の両側には次々と清滝石仏群が現れる。線彫りや浮彫等、様々な磨崖仏が彫られているが、鎌倉時代のものが多いようである。

千光寺境内には夥しい数の石仏が安置されている。境内付近から表行場と裏行場を巡れるようになっていたと思うが、前者には蛇腹岩や蛙岩、大黒岩、平等岩等の奇岩怪石や巨岩群があり、後者には「西の覗き」という展望岩等があって冒険心をくすぐられる。
両行場の位置関係や鳴川越への接続場所等は覚えていないが、各所に道標や看板があるため、迷うことはない。

行場が終わり、再び鳴川越の峠道を登って行くと石畳が残っている区間がある。
信貴生駒スカイラインをくぐって右に上がった所が鳴川峠だったと思う。峠には室町時代を下らないという古い地蔵が立っているが、首が切られた「首切地蔵」になっている。全国各地の古い地蔵ではこういう首切地蔵が実に多いが、その理由の一つに明治の廃仏毀釈が挙げられる。廃仏思想の者たちによって、地蔵の首が落されたのである。ただ、ここの地蔵の首がそういう理由で切られたのかどうかは分からない。
余談だが、かの坂本龍馬も土佐在住時、津野山街道(梼原街道)の地蔵の首を次々と叩き割っていたという逸話がある。

峠からは西に鳴川越を下るが、府民の森管理道を横断して以降の道には「タンヨウの路」(「タイヨウの路」だったかも)という名称が付けられている。因みに府民の森管理道はサイクリングロードだったと思うが(勝手な思い込みだったかも)、過去、サイクリストに出会ったことはない。当方は、’89年時はよく、この道でマラソンの練習(近畿各地の10キロからハーフマラソンの大会に出場するため)をしていた。
更に下って行った、谷の出合付近の四差路(五差路だったかも)を南の「冒険の路」に折れる。

道はやがて支尾根を走る稜線から下ってきた他の峠道に合流し、一旦東に少し上がった後、南の谷に向けて下る。この道が府民の森六万寺コースである。正式な峠道名の名称は、当時の資料を廃棄しているため分からない。
谷沿いを下る道は往生院金堂跡を左手に見送り、髪切(こうぎり)自動車道に出る。この車道は現在、北東のゲートのある箇所から上が「らくらく登山道」と名付けられているようである。

そこは北に折れた後、すぐ西に折れる道に入り、養護老人ホームの北沿いを西進し、右に直角に曲がった先で左に折れて川を渡る。三叉路に突き当たるとまた西に折れる。やがて道の北側に三階建ての自宅マンション(実際は図示の場所より西方)が現れる。因みに当時、2DKで家賃は33,000円だったと思う。駅から1.5km以上離れており、坂道だったから安かったのだろう。

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