本庄駅北口周回(備前渠用水水門~伊勢崎市境島村~横瀬氏館跡など)
一之神神社、備前渠用水第三水門、仁手諏訪神社、小和瀬薬師堂、小和瀬稲荷神社、伊勢崎市境島村、島村教会発祥の地、田島弥平旧宅、島村渡し、華厳寺、横瀬神社、横瀬氏館跡、宮戸八幡神社、北堀田諏訪神社、牧西八幡神社、牧西氏館跡、森氏館跡、鵜森浅間神社古墳、五十子陣( 関東)
パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )
晴れ、風強し
電車
その他:
往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→本庄
復路:本庄駅→湘南新宿ライン→恵比寿→山手線→目黒
本庄駅6:43→若泉三丁目バス停7:00→医王寺7:07→一之神神社7:08→備前渠用水第三水門7:25→円融寺7:34→稲荷神社(久々宇172)7:36→仁手諏訪神社7:55→宗真院8:08→最法寺8:14→小和瀬薬師堂8:24→長光寺8:31→小和瀬稲荷神社8:26→島村教会発祥の地8:53→田島定吉旧宅(栄盛館)8:59→田島亀雄旧宅(有隣館)9:00→田島善一住宅母屋(進成館)9:02→桑麻館9:06→対青廬9:08→田島弥平旧宅(遠山近水邨舎)9:10→実性寺9:11→田島弥平顕彰碑9:13→島村見本桑園9:14→島村蚕種業績碑9:15→島村蚕のふるさと公園9:17→島村の渡し9:32→田島弥平旧宅案内所(旧境島小学校)9:41→島村沿革碑9:42→島村の板倉9:47→宗厳寺9:50→日本基督教団島村教会9:53→金井義明家住宅主屋「吞山楼」9:59→金井烏洲と一族の墓10:06→華厳寺(横瀬氏館跡)10:25→横瀬神社10:36→丸山酒造10:40→観泉寺10:52→宮戸八幡神社10:54→北堀田諏訪神社10:16→前堀田諏訪神社10:26→小山川・元小山川合流点11:38→牧西八幡神社11:51→宝珠寺11:54→牧西氏館跡12:00→森氏館跡12:03→利益寺12:12→鵜森浅間神社古墳12:17→五十子陣12:32→諏訪神社(寿2-1-21)12:56→本庄駅13:20
合計6時間37分
3月2日(土)は、本庄市北部東側の利根川沿いを一回りしてきました。この辺りは利根川の流れが変わって、群馬から埼玉に編入された集落が多く、元群馬なので新田氏の影響が非常に強いです。でも対立していた雰囲気はほとんどなく、近所の仲間として和気あいあいとやっていた感じで、新田義貞が倒幕の兵をあげた時に、みんなくっついてきてしまったのはわかる気がします。
今日は少し距離が長いので本庄駅北口~伊勢原駅の十王バスで「飯玉バス停」まで行って、そこからスタートする予定だったのですが、歩いた方が早そうだったので、本庄駅から1つ手前の「若泉三丁目バス停」まで歩きました。
最初の「医王寺」は、蓮台山弥勒院と号する七本木の西福寺末の真言宗智山派寺院で、たぶん隣接する一之神神社の元別当寺だと思われます。本尊は薬師如来ではなく不動明王だそうです。
その「一之神神社」なんですが、群馬の一宮の貫前神社を勧請した神社とのことです。「往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神のご神体流れ来り、当地川岸に打寄られ有りしを発見し、里人小祠を造りて一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」との言い伝えが残っています。なお一之神としたのは、最初一宮明神だったのですが、明治に入ってにそれでは本社の一宮貫前明神に対して畏れ多いとの意見が出て、この名前に改名したということです。
続いて利根川に向かいます。「備前渠用水第三水門」という「備前渠用水路」の実質的な起点となる水門があります。御陣馬川の水を水門まで利根川に合流させずに堤防の内側を引っぱってきているのですが、水量が全然足りないため、この水門で利根川から取水しています。その後、農業排水を再利用したりして、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市の約1,400haの水田に農業用水を供給しています。「備前渠」は埼玉県で最古級の用水路で、名前は開削を指揮した伊奈備前守忠次の名前からとられています。忠次は1604年のわずか1年間という短い期間でこの用水路を開削しました。見沼代用水と共に「世界かんがい施設遺産」に登録されています。なおこの第三水門は、千葉県流山市を流れる「利根運河」を設計したのと同じオランダ人土木技術者ムルデルによって設計されています。
無量山と号する真言宗豊山派寺院の「円融寺」は、明治18年に火事で焼失し、仁手諏訪神社の北側から現在地に移ってきたそうです。
「稲荷神社(久々宇172)」のある久々宇地区は、かつては仁手村に含まれており、仁手は近世のはじめごろまでは上野国に属していたのが烏川の流れが変わって武蔵国に属するようになった村で、群馬県伊勢崎市を本拠地とする那波一族の流れをくむ久々宇氏の所領だったそうです。明治5年に村社となっています。境内に富士浅間神社を冠する富士塚と御嶽塚があります。
次の「仁手諏訪神社」は、利根川対岸の埼玉県の飛び地の上仁手にも同名の神社があるそうです。洪水で村が2つに分かれてしまったので、両方で同じ神社を祀るようになったのだと思われます。創建は室町時代の天正年間(1573~92)で、北条氏の家臣「茂木隼人」の一族が落城後にこの地で帰農した際に、鉢形城内に祀られていた諏訪大明神を氏神と祀ったのがはじまりとされています。別当は昔北側にあった円融寺だったそうです。明治に入り村社に列格しています。
「宗真院」は曹洞宗寺院しかわかりませんが意外と立派な寺でした。
「最法寺」も真言宗霊雲寺派寺院としかわかりません。こちらは崩れかかった廃寺のような感じでした。
「小和瀬薬師堂」は小さな薬師堂なのですが、宝治元年(1247)の銘がある三角柱状に整形した自然石の非常に珍しい石製塔婆(市指定有形文化財)が床下に埋められているそうです。
和光山と号する真言宗豊山派寺院の「長光寺」も、由緒はよくわかりませんが、本堂内には小和瀬出身の日本画家星野邦男画伯の天井画「瑞龍」「地域の花々」と根本慶峰師作欄間「弘法大師行状絵図」があるそうです。
「小和瀬稲荷神社」には、天慶年間(938~47)に、源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟御厨三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、討ち払うことができたため、感謝して京都伏見稲荷を勧請したのが始まりという伝承が残されています。新田氏や関東管領上杉氏にも崇拝されていたそうです。境内には標高41.6mの三角点があります。
稲荷神社から道なりに進むと、群馬県伊勢崎市の飛び地である「境島村」に入ります。利根川の対岸にも同名の村があります。かつて村の中心地だった「前島集落」は利根川の河川改修で今は堤防の中たそうです。境島村は利根川後背地のためまともな農業をすることが難しく、生糸生産が盛んになるはるか明治以前から養蚕が営まれており、この地で生まれた2階の屋根に櫓という通気口をつけた「養蚕住宅」は、「新地地区養蚕農家群」という名前で「高山社跡」「荒船風穴」と共に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録されています。
境島村に入ると最初にあるのが「島村教会発祥の地の碑」です。田島善平氏の屋敷があったところに建てられており、明治20年、善平氏はここに「基督教美以教会島村講義所」を設立して布教活動を始めました。田島善平氏は蚕種の販路を求めてイタリアに渡航した際に入信し、家屋を提供したり、宣教師の世話をするなど、キリスト教の布教活動に大きな貢献をしたそうです。
碑の手前の家が「田島定吉旧宅(栄盛館)」です。新地地区養蚕農家群の1つで、文久元年(1861)頃のの建築と推定され、境島村の蚕種製造民家では最古の可能性があるそうです。主屋は総2階建、切妻造、桟瓦葺で屋根上に換気用の小型の三つ櫓を備えています。なお「栄盛館」は屋号です。境島村の養蚕農家はみな屋号を持っていました。
田島一族は、元は太田市田島地区の豪族で、新田義貞とともに各地を転戦し、新田氏の没落後はこの地で帰農したそうです。
栄盛館の隣は「田島亀雄旧宅(有隣館)」です。田島武平家の分家で、亀夫氏が八代目だそうです。主屋2階は桁行12間・梁行五間(1間=6.21尺)、屋根は切妻造・桟瓦葺で、屋上に3つ櫓を設けています。
そしてキリスト教会の碑の隣が「田島善一住宅母屋(進成館)」です。田島昭次家の分家で、善一氏は四代目だそうです。慶応年間(1865~1868年)に島村教会発祥の地の碑の場所に建てられ、明治41年(1908年)に現在地に曳家したとのことです。
その東側に「桑麻館」と「対青廬」があります。この2つは詳しいことはわかりません。
桑麻館の北側にあるのが、国史跡に登録されている「田島弥平旧宅(遠山近水邨舎)」です。境島村では珍しい入母屋造りの大きな総二階建の建物で、屋根上にひとつながりの「総櫓」が設けられています。別棟も養蚕住宅になっています。土間の一部は桑場として使っていた以外の一階の大部分を生活の場とし、二階全体を蚕室として用いていたそうです。河川の氾濫と養蚕のための通風を考慮した構造「清涼育」が特徴です。養蚕住宅は、田島弥平の著書「養蚕新論」(明治5年(1872))と共に、全国に広がっていきました。
明京山観音院と号する真言宗智山派寺院の「実性寺」は、裏に立派な宝筺印塔か並んでいるので、田島一族の菩提寺のような気がするのですが、キリスト教が広まったせいか今は無住です。
「島村見本桑園」は観光用に残された桑畑とのことだったのですが、桑の木が刈られてあまりありませんでした。
桑畑の東側にあるのが「島村蚕種業績碑」です。ここに明治5年(1872)、「株式会社 島村勧業会社」という蚕種製造のための会社が島村の蚕種家たちによって設されました。島村ブランドは良質な蚕種として高く評価され、イタリアやシカゴなどにも営業に行っていました。イタリアのミラノで描かれた田島弥平氏の肖像画が今も残っていま。その後、養蚕輸出不況のため、明治20年(1887)に会社は解散となりますが、販路を国内向けに変え、昭和16年(1941)に「島村蚕種共同施設組合」が結成され、日本の生糸生産を支えました。組合は5年(1980)に「島村蚕種株式会社」に改組され、昭和63年(1988)に島村蚕種組合が解散するまで続きました。組合の1haの敷地は今は団地になっています。
案内所の西側にある「島村蚕のふるさと公園」は、観光客用の駐車場が主の公園でトイレがあります。
そのまま利根川の堤防を越えて川まで下ると「島村の渡し」という渡し船があるはずだったのですが、「葛和田の渡し」のような船着場がなく、標識も皆無なので、廃止されてしまったのかもしれません。一応公道扱いなので渡船は無料で、営業時間は午前8時30分~12時と午後1時~5時(1~3月は4時半)となっています。天候により運休することもあるそうです。
利根川から戻ります。「田島弥平旧宅案内所」は「旧境島小学校」を利用した観光施設で、展示資料室の他、ビデオ上映や現地ガイドを行っているそうです。午前9時~午後4時、ここにもトイレがあります。東側にある「島村沿革碑」は、島村の風土に関わる歴史や産業について刻まれている碑で、養蚕より川のかかわりについて詳しく書いてあります。
「島村の板倉」は柱と壁板だけでできた穀物専用の簡易的な蔵で、穀物の量が増えたら落とし羽目板を追加して貯蔵量を増やしていくといった方式のものです。最大90俵の穀物が入るそうです。案内板によると天明2年(1782)年の建築と推定され、伊勢崎市指定重要文化財になっています。
「宗厳寺」も大日山と号する真言宗豊山派寺院としかわからない、ほぼ集会所のような寺です。
伊勢崎市の文化財に登録されている「日本基督教団島村教会教会堂」と隣の「島村めぐみ保育園本館」は、記念碑のあった田島善平の自宅に設けられた教会が手狭になったため、明治30年に新たに建造された木造の教会堂がベースになってます。
「金井義明家住宅主屋」は中規模の蚕種製造民家ですが、代々文化人を輩出した家柄であり、日本画家の金井烏洲もその一人です。
金井家住宅の西側に「金井烏洲と一族の墓」があります。烏洲は岩松彦兵衛の二男として、寛政8年(1796)(天保3年(1832)という説もある)、金井家の4男(3男という説もある)として島村に生まれ、江戸時代後期に日本画家・詩文家として活躍しました。没年は安政4年(1857)です。烏洲は画家以外に勤皇家としても知られており、烏洲が勤皇家になった背景には、生まれた岩松家が新田の支族で尊王の気風が代々受け継がれてきたことにあったそうです。烏洲は高山彦九郎に私淑していました。書画を口実に志士たちを匿ったことから、没後の大正7年(1918)に従五位を追贈されています。また四男の金井之恭は元老院議官・貴族院議員になっています。墓地の題額を東久邇宮妃殿下、撰文・書を渋沢栄一が書います。
境島村を出て南に向かいます。心王山自心院と号する「華厳寺」も新田義重の三男の新田義兼(義包)(新田宗家第二代目)が開基となり、弘道上人を招いて建久5年(1194)開山されたと伝わる真言宗豊山派寺院で「新田義兼の墓」や華蔵寺殿本源浄義大禅定門と書かれたの「新田義兼の位牌」が残っています。またこの寺は渋沢栄一家の檀家寺(今は上野寛永寺)だったこともあり「渋沢栄一翁お手植えの赤松」があります。朱塗りの「大日堂」が深谷市の文化財になっており、他に金井烏洲筆「水墨楼閣山水図(扉風六曲一双)」等もあります。
華厳寺の南側にある「横瀬神社」は、後深草天皇の御代の建長年中(1249~56)に、横瀬三郎為清の勧請した「聖天宮」が始まりの神社で、横瀬七郷(横瀬、新戒、古市、大塚、中瀬、高島、石塚)の総鎮守でした。横瀬神社と改称したのは明治維新の後になります。妻沼の歓喜院聖天堂(国宝)を手がけた前原藤次郎とその一門による彫刻で覆われた本殿が県指定有形文化財となっています。かつては妻沼聖天と同じようなきらびやかな彩色がほどこされていたということです。
横瀬神社と華厳寺がある微高地にあったのが「横瀬氏館」です。遺構は残っていませんが、横瀬は中世に横瀬氏領で、横瀬氏は下剋上で太田市の金山城主だった岩松氏から城主の座を奪った一族です。出自は秩父の丹党との一族とも、新田義貞の孫の貞氏を祖とするとも、室町時代には小野姓を使っていたことから、小野篁の子孫の横山氏・猪俣氏の一族ともいわれますがはっきりしません。その後戦国末期になると、八代目当主の「横瀬成繁」は、鎌倉時代に新田宗家が代々相伝していた上野国新田郡由良郷の地名を姓とし「由良成繁」を名乗るようになります。そして上杉謙信と結んて後北条氏に対抗しますが、沼尻の合戦で敗北した後、金山城を明け渡し、九代目当主の「由良国繁」は小田原城の人質となります。しかしこれが逆に功を奏し、天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅ぶと、解放された国繁は徳川家康に謁見し、常陸国牛久に5400石の旗本となります。
横瀬神社と華厳寺の東側には「丸山酒造」という古くて立派な酒造メーカーがあります。
「観泉寺」は、応永年間に新田氏の家臣「金井主水」が開基になって創建されたと伝わっています。一時衰退していましたが、万治3年(1660)に新田郡世良田村惣持寺の法印祐伝が再興し、八幡山無量寿院と号する真言宗豊山派寺院に改めました。宮戸八幡大神社の別当寺を務めていました。また「荒澤不動尊」が近隣の信仰を集めていたようです。
「宮戸八幡神社」は、新田(岩松)家純が五十子に陣を張った際に岩松八幡宮を分霊して奉遷して鎮祭したことにはじまるとされる神社です。岩松氏は新田氏の支流で、新田家本流が足利氏と対立して滅ぼされた後、足利方に回って新田家の本貫地である地域を守ってきました。明治4年に観泉寺から離れて村社となっています。ここにも金井烏州らの作である天井画が残されています。
「北堀田諏訪神社」は、武田の家臣の高柳隼人の一族が、天正10年(1582)の武田家滅亡後に、この地に落ち延びて帰農した際に、信仰していた諏訪大社を勧請したのが始まりとされる神社です。
「前堀田神社」は、同じ甲斐でも国士逸見儀左衛門が勧請した神社です。武田と共に家臣の逸見家が没落し、一族の者が堀田の字下諏訪の地に土着して、信仰していた諏訪大社の分霊を勧請したとのことです。
小山川・元小山川・女堀川合流点付近です。
「牧西八幡神社(八幡大神社)」は、この地に居館を構えていた児玉党の「牧西四郎広末」が建久年間(1190~99)に鎌倉鶴岡八幡宮を勧請した神社で、五十子合戦で焼失するも、慶長17年(1612)頃、信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が再興し、宮崎と名を改めて神職となったそうです。その関係で、宮崎組神楽は信州上諏訪など各地で奉納しており、出しもは25座を数え、深谷市の指定文化財になっています。明治に入り村社になっています。境内に御獄塚があり。
真言宗豊山派の延命山地蔵院と号する「宝珠寺」は、開山は不明なものの、元和三年(1617年)、二代将軍徳川秀忠公時代に家康の御遺体を久能山から日光に改葬する途中、宝珠寺の山門で休息され、慶安2年(1649)には三代将軍家光より御朱印石高10石を賜ったそうです。そのせいか立派な朱塗りの鐘楼門形式の仁王門があります。
宝珠寺の西側の集落の一角が「牧西氏館跡」です。特に何もありませんが、元小山川に面した方形区画だったようです。牧西氏は庄太夫家弘の次男庄太夫弘高(四方田弘高)の四男(三男説あり)である庄四郎弘季が牧西の地に居住して「牧西四郎弘季」を称したことから始まるとされています。牧西という地名の由来は、東側に「櫛引」(深谷市櫛引)と言う名の野牧があり、その西に位置したことからつけられたといわれています。
牧西氏館の南側にあったとされるのが「森氏館跡」です。ここも何もないのですが、古河公方足利義氏の家臣森氏が居を構えていたとされています。森氏の先祖は鴇田若狭守で、森武蔵守の娘と結婚して生まれた孫八郎俊政が母方の森氏を名乗ったそうです。俊政は弘治2年(1556)10月に上杉謙信が上野の沼田に出陣してきた際に、足利義氏の家臣として北条氏康の軍勢に加わり、義氏から「恩賞として馬一匹を下賜する旨の感状」を始めとした幾つかの感状などの古文書が伝わっているようです。また徳川家康が関東に移封された際の「牧西村検地帳」に森氏の広い田畑と屋敷の記述があるそうです。
「利益寺」は、寂度山往生院と号する真言宗豊山派です。 平成27年(2015)に本堂と客殿が建て替えられています。境内には樹齢400年を超える大銀杏があります。
「鵜森浅間神社古墳」は、径約15m、高さ約4mの6世紀後半の円墳です。五十子陣の砦として使われていたとの説もあり、古墳ではないとの説もあります。浅間神社は名主の早野半兵衛が利益寺と共に天正年間(1573~92)に建立したと伝えれれていますが、五十子陣の守護神として勧請されたとの説もあります。なお江戸時代の別当は利益寺ではなく明治に廃寺となった大蔵寺だったそうです。
近所まで来たので「五十子陣跡」に寄っていきます。ここは志戸川と小山川と女堀川と元小山川が合流する本庄台地東端に、1457年(長禄元年)頃に関東管領の(山内)上杉房顕が古河公方足利成氏と対決するため最前線の城です。複数の川の合流点にあるため、様々な街道の分岐点となる交通の要衝であると同時に、川を水堀代わりに河岸段丘を土塁代わりに使用できる天然の要害の地でした。五十子陣をめぐる攻防(享徳の乱)は20年続きますが、山内上杉家の家宰職を継ぐことから外された「長尾景春」が反乱を起こし(長尾景春の乱)、五十子陣は内部分裂して崩壊します。遺構のような物は残っていませんが、現況は「ビジネス旅館 城山館(閉店)」と隣に和食系ファミレスの「てんぐ茶屋 本庄店」が建っています。ホテル前に『〔く〕桑茂る 五十子合戦 古戦場』と書かれたほんじょうかるたの石碑が建てられています。ちなみに長尾景春の乱は太田道灌によって鎮圧されますが、その直後、道灌は主君の扇谷上杉定正の手によって伊勢原の糟屋館で暗殺されます。
「諏訪神社(寿2-1-21)」も台地の縁の小高い場所に鎮座した神社で、昔は崖下に「道満窪」と呼ばれる湧水池があったそうです。神社の周辺は諏訪新田と呼ばれていますが、ここは小笠原信嶺が本庄宿を整備する前から成立していた集落だそうで、諏訪なので武田の関係者が拓いたのでしょうか?
ファミレス以外の食堂が閉まっていた関係で「本庄駅」に着いてしまいました。1時間に1本の湘南新宿ラインが来る時間だったので、また駅のホームの「本庄そば」で、今日は「天ぷらうどん」を食べて帰ります。
今日は少し距離が長いので本庄駅北口~伊勢原駅の十王バスで「飯玉バス停」まで行って、そこからスタートする予定だったのですが、歩いた方が早そうだったのでやっぱり「本庄駅」から歩きます。
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KYOCERA KYF33
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「飯玉バス停」の1つ手前の「若泉三丁目バス停」まで歩いてスタート。
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KYOCERA KYF33
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木~金曜日の雪で白くなった榛名山が神々しい姿で顔を出しました。
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KYOCERA KYF33
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最初の「医王寺」は、蓮台山弥勒院と号する先日行った七本木の西福寺末の真言宗智山派寺院です。たぶん隣接する一之神神社の元別当寺だと思われます。本尊は薬師如来ではなく不動明王だそうです。
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「一之神神社」は、群馬の一宮の貫前神社を勧請した神社とのことです。「往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神のご神体流れ来り、当地川岸に打寄られ有りしを発見し、里人小祠を造りて一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」との言い伝えが残っています。なお一之神としたのは、最初一宮明神だったのですが、明治に入ってにそれでは本社の一宮貫前明神に対して畏れ多いとの意見が出て、この名前に改名したということです。
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一之神神社の前にあった御嶽塚です。
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菜の花いっぱいの利根川の堤防を登ります。
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利根川の堤防から見た御荷鉾山です。北斜面なのでこちらも雪がビッシリついています。
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「備前渠用水路」の実質的な起点となる「備前渠用水第三水門」に着きました。利根川の堤防の内側を、御陣馬川の水を利根川に合流させずに備前渠まで引っぱってきているのですが、それだけでは全然足りないため、この水門で利根川から取水しています。遠くに見える山は赤城山です。
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利根川の堤防を潜り抜けた「備前渠用水路」です。この後、農業排水を再利用したりして、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市の約1,400haの水田に農業用水を供給します。埼玉県で最古級の用水路で、名前は開削を指揮した「伊奈備前守忠次」の名前からとられています。見沼代用水と共に「世界かんがい施設遺産」に登録されています。
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堤防の下にある備前渠用水第三水門施工の記念碑です。
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隣には備前渠の説明板もあります。
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無量山と号する真言宗豊山派寺院の「円融寺」は、明治18年に火事で焼失し、仁手諏訪神社の北側から現在地に移ってきたそうです。集会所と一体化しています。
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「稲荷神社(久々宇172)」のある久々宇地区は、かつては仁手村に含まれており、仁手は近世のはじめごろまでは上野国に属していたのが烏川の流れが変わって武蔵国に属するようになった村で、群馬県伊勢崎市を本拠地とする那波一族の流れをくむ久々宇氏の所領だったそうです。明治5年に村社となっています。
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「稲荷神社(久々宇172)」には御嶽塚があります。
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「稲荷神社(久々宇172)」境内には富士浅間神社を冠する富士塚もあります。
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さっきまで雲がかかっていてよく見えなかった浅間山が顔を出しました。
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同じく両神山も顔を出しました。
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ブロッコリーの花です。この後、完全に開花すると菜の花のようになります。この辺りはブロッコリーが特産物のようで、畑がたくさんあります。
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「仁手諏訪神社」は群馬県側の上仁手にも同名の神社があるそうです。洪水で村が2つに分かれてしまったので、両方で同じ神社を祀るようになったのだと思われます。創建は室町時代の天正年間(1573~92)で、北条氏の家臣「茂木隼人」の一族が鉢形城の落城後にこの地で帰農した際に、鉢形城内に祀られていた諏訪大明神を氏神と祀ったのがはじまりとされています。別当は昔北側にあった円融寺だったそうです。明治に入り村社に列格しています。
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「宗真院」は曹洞宗寺院しかわかりませんが意外と立派な寺でした。
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「最法寺」も真言宗霊雲寺派寺院としかわかりません。こちらは崩れかかった廃寺のような感じでした。
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「小和瀬薬師堂」は小さな薬師堂なのですが、宝治元年(1247)の銘がある三角柱状に整形した自然石の非常に珍しい石製塔婆(市指定有形文化財)が床下に埋められているそうです。
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和光山と号する真言宗豊山派寺院の「長光寺」も、由緒はよくわかりませんが、本堂内には小和瀬出身の日本画家星野邦男画伯の天井画「瑞龍」「地域の花々」と根本慶峰師作欄間「弘法大師行状絵図」があるそうです。
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「小和瀬稲荷神社」には、天慶年間(938~47)に、源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟御厨三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、討ち払うことができたため、この勝利に感謝して、京都伏見稲荷を勧請したのが始まりという伝承が残されています。新田氏や関東管領上杉氏にも崇拝されていたそうです。
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「小和瀬稲荷神社」にある仙元大神の富士塚です。
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小和瀬稲荷神社境内には標高41.6mの三角点があります。
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群馬県伊勢崎市の飛び地である「境島村」に入ります。埼玉県と地続きの利根川の南側にあります。利根川の北側にも同名の村があり、かつて村の中心地だった「前島集落」は利根川の河川改修で今は堤防の中なってしまったそうです。
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境島村に入ると最初にあるのが「島村教会発祥の地の碑」です。田島善平氏の屋敷があったところに建てられており、明治20年に善平氏はここに「基督教美以教会島村講義所」を設立して布教活動を始めたそうです。善平氏は蚕種の販路を求めてイタリアに渡る中でキリスト教文化にふれて入信し、家屋を提供したり、宣教師の世話をするなど、この地のキリスト教の布教活動に大きな貢献をしました。
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「田島定吉旧宅(栄盛館)」です。新地地区養蚕農家群の1つで、文久元年(1861)頃のの建築と推定され、境島村の蚕種製造民家では最古の可能性があります。主屋は総2階建、切妻造、桟瓦葺で屋根上に換気用の小型の三つ櫓を備えています。なお「栄盛館」は屋号です。境島村の養蚕農家はみな屋号を持っていました。
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栄盛館の隣は「田島亀雄旧宅(有隣館)」です。田島武平家の分家で、亀夫氏が八代目だそうです。主屋2階は桁行12間・梁行五間(1間=6.21尺)、屋根は切妻造・桟瓦葺で、屋上に3つ櫓を設けています。境島村は利根川後背地のためまともな農業をすることが難しく、明治に入って生糸生産が盛んになるはるか以前から養蚕が営まれて来ました。
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キリスト教会の碑の隣が「田島善一住宅母屋(進成館)」です。田島昭次家の分家で、善一氏は四代目だそうです。慶応年間(1865~1868年)に現在地の西隣に建てられ、明治41年(1908年)に現在の場所に曳家したとのことです。
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普通の住宅っぱい「対青廬」です。これも由緒不明。「富岡製糸場と絹産業遺産群」の1つとして「新地地区養蚕農家群」という名前で世界遺産に登録されています。
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一番東側にある「桑麻館」です。由緒はよくわかりません。2階の屋根に櫓という通気口をつけた「養蚕住宅」は、「高山社跡」「荒船風穴」との相乗効果で、それまで年に1回しか供給できなかった蚕の繭を年間を通じて「富岡製糸工場」に供給することを可能にし、明治の日本の発展に大きく貢献したそうです。
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国史跡に登録されている「田島弥平旧宅(遠山近水邨舎)」です。境島村では珍しい入母屋造りの大きな総二階建の建物で、屋根上にひとつながりの「総櫓」が設けられています。河川の氾濫と養蚕のための通風を考慮した構造「清涼育」が特徴です。土間の一部は桑場として使っていた以外の一階の大部分を生活の場とし、二階全体を蚕室として用いていたそうです。
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「田島弥平旧宅(遠山近水邨舎)」は母屋以外の建物も養蚕住宅になっています。田島一族は、太田市田島地区の豪族で、新田義貞とともに各地を転戦し、新田氏の没落後はこの地で帰農したそうです。
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「田島弥平の顕彰碑」です。養蚕住宅は、田島弥平の著書「養蚕新論」(明治5年(1872))と共に、全国に広がっていきました。
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田島弥平旧宅の横にある「実性寺」は、明京山観音院と号する真言宗智山派寺院です。
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「実性寺」の裏には立派な宝筺印塔か並んでいるので、田島一族の菩提寺のような気がするのですが、キリスト教が広まったせいか寂れた無住の寺となっています。
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「島村見本桑園」は観光用に残された桑畑とのことだったのですが、桑の木が刈られてあまりありませんでした。
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「島村蚕種業績碑」に着きました。ここには明治5年(1872)、「株式会社 島村勧業会社」という蚕種製造のための会社が島村の蚕種家たちによって設されました。島村ブランドは良質な蚕種として高く評価され、イタリアやシカゴなどにも営業に行っていました。イタリアのミラノで描かれた田島弥平氏の肖像画が今も残っているそうです。組合の1haの敷地は今は団地が建っています。
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案内所の西側にある「島村蚕のふるさと公園」は、観光客用の駐車場が主の殺風景な公園ですが、河津桜が満開でした。あとトイレがあります。
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島村蚕のふるさと公園にある世界遺産の説明板です。
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また利根川の堤防に上がりました。菜の花と赤城山です。
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そして河津桜と浅間山です。
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さらにはるか彼方に小さく筑波山です。
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利根川まで下ると「島村の渡し」という渡し船があるはずだったのですが、「葛和田の渡し」にあった船着場がなく、標識も皆無なので、廃止されてしまったのかもしれません。一応同様公道扱いだったので、渡船は無料で、営業時間は午前8時30分~12時と午後1時~5時(1~3月は4時半まで)となっています。天候により運休することもあるそうです。
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利根川ともう一度浅間山です。
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「田島弥平旧宅案内所」は「旧境島小学校」を利用した観光施設で、展示資料室の他、ビデオ上映や現地ガイドを行っているそうです。午前9時~午後4時、トイレありだそうです。
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田島弥平旧宅案内所の東側にある「島村沿革碑」は、島村の風土に関わる歴史や産業について刻まれている碑で、こちらは養蚕についてより川の歴史について詳しく書いてあります。
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「島村の板倉」は柱と壁板だけでできた穀物専用の簡易的な蔵で、穀物の量が増えたら落とし羽目板を追加して貯蔵量を増やしていくといった方式のものです。最大90俵の穀物が入るそうです。案内板によると天明2年(1782)年の建築と推定され、伊勢崎市指定重要文化財になっています。
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「宗厳寺」も大日山と号する真言宗豊山派寺院としかわからない、ほぼ集会所のような寺です。境島村は寺が寂れているのが特徴。
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「日本基督教団島村教会教会堂」(右)と隣接した「島村めぐみ保育園本館」(左)は記念碑のあった田島善平の自宅に設けられた教会が手狭になったため明治30年に新たに建造された木造の教会堂がベースになっており、昭和25年(1950)に二階建ての集会室が追加され、さらに昭和34年(1959)に礼拝堂北正面に講壇が拡張されています。伊勢崎市の文化財に登録されています。
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「金井義明家住宅主屋」は、2つのやや小型の櫓を持った中規模の蚕種製造民家ですが、敷地内に金井烏洲の画室であった「呑山楼」が今でも残っています。金井家は、代々文化人を輩出した家柄であり、日本画家の金井烏洲もその一人です。
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金井家住宅の西側に「金井烏洲と一族の墓」があります。烏洲の四男の金井之恭は元老院議官・貴族院議員になっています。墓地の題額を東久邇宮妃殿下、撰文・書を渋沢栄一が書いていて、昭和4年(1929)に造立された金井烏洲副碑もあります。
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「金井烏洲の墓」です。は岩松彦兵衛の二男として、寛政8年(1796)、金井家の4男として島村に生まれ、江戸時代後期に日本画家・詩文家として活躍しました。烏洲は画家以外に勤皇家としても活動しており、勤皇家になった背景には、生まれた岩松家が新田の支族で尊王の気風が代々受け継がれてきたことがあったようです。没後の大正7年(1918)に従五位を追贈されています。
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今週の梅の花です。
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「華厳寺」が見えて来ました。華厳寺と横瀬神社のある微高地に「横瀬氏館」があったといわれています。横瀬氏は太田市の金山城の岩松氏から下剋上で金山城主となった一族です。横瀬氏の出自は秩父の丹党との一族が移住してきたとも、新田義貞の孫である貞氏を祖とするとも小野篁の子孫の横山氏・猪俣氏の一族ともいわれますがはっきりはしないようです。
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心王山自心院と号する「華厳寺」も新田義重の三男の新田義兼(義包)(新田宗家第二代目)が開基となり、弘道上人を招いて建久5年(1194)開山されたと伝わる真言宗豊山派寺院です。
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華厳寺の墓地にある「新田義兼の墓」です。他に華蔵寺殿本源浄義大禅定門と書かれたの「新田義兼の位牌」が残っています。
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墓の前にある「大日堂」は深谷市の文化財になっています。
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華厳寺には渋沢栄一家の檀家寺(今は上野寛永寺)だったこともあり、「渋沢栄一翁お手植えの赤松」があります。
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華厳寺の巨大な鐘楼門です。
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「横瀬神社」は、後深草天皇の御代の建長年中(1249~56)に、横瀬三郎為清の勧請した「聖天宮」が始まりの神社です。横瀬神社と改称したのは明治維新の後になります。
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横瀬神社本殿は、歓喜院聖天堂(国宝)を手がけた前原藤次郎とその一門による彫刻で覆われており、県指定有形文化財となっています。かつては妻沼聖天と同じようなきらびやかな彩色がほどこされていたということです。
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横瀬神社と華厳寺の東側には「丸山酒造」という古くて立派な建物の酒造メーカーがありました。埼玉県最北の酒造メーカーだそうです。
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「丸山酒造」の作っているお酒です。深谷ネギに合うそうです。
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「観泉寺」は応永年間に新田氏の家臣「金井主水」が開基になって創建されたと伝わっています。おそらく上里町七本木に屋敷があった金井家と同族だと思われます。一時衰退していたのを、万治3年(1660)に新田郡世良田村惣持寺の法印祐伝が再興し、八幡山無量寿院と号する真言宗豊山派寺院に改めました。
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「観泉寺」は境内にある「荒澤不動尊」羽黒山の奥之院とされる荒澤寺の荒澤不動尊を勧請したもので、近隣の信仰を集めていたようです。他に宮戸八幡大神社の別当寺も務めていました。
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「宮戸八幡神社」も、新田(岩松)家純が五十子に陣を張った際に岩松八幡宮を分霊して奉遷して鎮祭したことにはじまるとされる神社です。岩松氏は新田氏の支流で、新田家本流が足利氏と対立して滅ぼされた後、足利方に回って新田家の本貫地である地域を守ってきた一族です。明治4年に観泉寺から離れて村社となっています。
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菜の花いっぱいの備前渠の橋を渡ります。
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そして利根川沿い名物のどこまでも続く真っ直ぐな道を行きます。
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「北堀田諏訪神社」は、武田の家臣の高柳隼人の一族が、天正10年(1582)の武田家滅亡後に、この地に落ち延びて帰農した際に、信仰していた諏訪大社を勧請したのが始まりとされる神社です。
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「前堀田神社」は、同じ甲斐でも国士逸見儀左衛門が勧請した神社です。武田の家臣であった逸見家が没落した際に、その一族が堀田の字下諏訪の地に土着し、同地に諏訪大社の分霊を勧請して一族の祈願所としたとのことです。
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小山川・元小山川の合流点付近です。女堀川の合流点は少し上流にあります。この近所の河岸段丘上に五十子陣がありました。
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元小山川も菜の花満開です。
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「牧西八幡神社(八幡大神社)」は、児玉党の「牧西四郎広末」が建久年間(1190~99)に鎌倉鶴岡八幡宮を奉還して祀った神社といわれています。五十子合戦で焼失するも、慶長17年(1612)頃、信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が再興し、宮崎と名を改めて神職となったそうです。明治に入って村社となっています。
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牧西八幡神社境内には御獄塚があります。
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延命山地蔵院と号する「宝珠寺」は、は立派な朱塗りの鐘楼門形式の仁王門がある真言宗豊山派寺院です。
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宝珠寺は、開山は不明なものの、元和三年(1617年)、二代将軍徳川秀忠公時代に家康の御遺体を久能山から日光に改葬する途中、宝珠寺の山門で休息され、慶安2年(1649)には三代将軍家光より御朱印石高10石を賜ったそうです。
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宝珠寺の西側の集落の一角が「牧西氏館跡」です。特に何があるといった場所ではないのですが、元小山川に面した方形区画だったようです。牧西氏は児玉党の四方田氏から派生した一族で、庄太夫家弘の次男庄太夫弘高(四方田弘高)の四男(三男説あり)である庄四郎弘季が牧西の地に居住して「牧西四郎弘季」を称したことから始まるとされています。
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牧西氏館の南側にあったとされるのが「森氏館跡」です。ここも何もないのですが、古河公方足利義氏の家臣森氏が居を構えていたとされています。森氏の先祖は鴇田若狭守で、森武蔵守の娘と結婚し孫八郎俊政が生まれ、母方の森氏を家名としたそうです。また徳川家康が関東に移封された際の「牧西村検地帳」に森氏の広い田畑と屋敷の記述が残っているそうです。
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「利益寺」は、寂度山往生院と号する真言宗豊山派です。 平成27年(2015)に本堂と客殿が建て替えられています。境内には樹齢400年を超える大銀杏があります。
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「鵜森浅間神社古墳」は、径約15m、高さ約4mの6世紀後半の円墳です。五十子陣の砦として使われていたとの説もあり、古墳ではないとの説もあります。浅間神社は名主の早野半兵衛が利益寺と共に天正年間(1573~92)に建立したと伝えれれていますが、五十子陣の守護神として勧請されたとの説もあります。なお江戸時代の別当は利益寺ではなく明治に廃寺となった大蔵寺だったそうです。
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近所まで来たので「五十子陣跡」に寄っていきます。女堀川の対岸から見た五十子陣跡です。堤防のせいで河岸段丘が見えませんが、志戸川と小山川と女堀川と元小山川と備前渠が合流する本庄台地東端の河岸段丘上にあります。
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女堀川が小山川に合流する付近は桜の園地になっています。
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「五十子陣跡」に着きました。閉店になった「ビジネス旅館 城山館」裏の象の彫刻がある園地に説明板があります。五十子陣跡は、1457年(長禄元年)頃に関東管領の(山内)上杉房顕が古河公方足利成氏と対決するため最前線の城です。
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「五十子陣跡」の説明板です。五十子陣をめぐる攻防(享徳の乱)は20年続きますが、山内上杉家の家宰職を継ぐことから外された「長尾景春」が反乱を起こし(長尾景春の乱)、五十子陣は内部分裂して崩壊します。ちなみに長尾景春の乱は太田道灌によって鎮圧されますが、道灌はこの後すぐ、暗殺されてしまいます。
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五十子陣跡の河岸段丘上からの赤城山方面の眺めです。
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表から見た「ビジネス旅館城山館」です。
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城山館前には、『〔く〕 桑茂る 五十子合戦 古戦場』と読まれたほんじょうかるたの石碑が建てられています。
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城山館の隣は、ばんどう太郎系列の和食系ファミレス「てんぐ茶屋 本庄店」が建っています。ここも五十子陣の範囲内です。ここで昼飯でも良かったのですが、土曜の昼ということで駐車場がいっぱいだったので脚下。
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今週の福寿草です。なかなか満開にならないのは、先週雪が降ったせいでしょうか?
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「諏訪神社(寿2-1-21)」も台地の縁の小高い場所に鎮座した神社で、巨大なスダジイの木があります。神社の周辺は諏訪新田と呼ばれていますが、ここは徳川時代になって本庄城主となった小笠原信嶺が本庄宿を整備する前から成立していた集落だそうです。諏訪神社なので元は武田の関係者が拓いたのでしょうか?
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「本庄駅」に着きました。ちょうど1時間に1本の湘南新宿ラインが来る時間だったので、また駅のホームの立ち食いそば屋「本庄そば」で、今日は「天ぷらうどん」を食べて帰ります。
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