群馬藤岡駅から浄法寺(小林館跡~土師神社~浄法寺(浄法寺城跡))
戸塚神社、大塔寺天満宮、小林館跡、寿楽寺、風天神社、根岸築城跡、本郷埴輪窯跡、土師神社、椿神社、天保ききんの碑、高倉寺、御巡部神社、神田浅間神社、芦田川屋敷跡、保美の砦跡、浄法寺丹生神社、浄法寺、浄法寺城跡( 関東)
パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )
晴れのち曇り、一時小雨
バス
その他:
往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→新町→日本中央バス上野村行→群馬藤岡駅
復路:丹荘→八高線→小川町→東武東上線→和光市→副都心線→中目黒→東急東横線→学芸大学
群馬藤岡駅7:02→戸塚神社7:15→伊勢山古墳群7:21→大塔寺天満宮7:27→小林館跡7:33→寿楽寺7:40→小林古墳群7:48→風天神社8:01→根岸築城跡8:06→玉泉寺8:12→美九里村古墳群8:28→本郷埴輪窯跡8:39→土師神社8:47→椿神社9:19→医光寺9:28→天保ききんの碑9:32→高倉寺9:42→御巡部神社9:58→廣澤寺10:06→藤岡総合公園10:07→矢場池10:11→興福寺10:21→浅間神社(神田1495)10:42→招魂祠境内古墳10:53→こがねもち神社10:58→芦田川屋敷跡11:12→保美の砦跡11:18→丹生神社(浄法寺1259)11:35→浄法寺(浄法寺城跡)11:39→戒禅寺11:47→日吉神社(浄法寺651)12:01→浄法寺虚空蔵堂12:05→神流橋12:18→妙義道道標12:21→上武鉄道日丹線(日本ニッケル鉄道)廃線跡12:27→伝緑埜寺旧跡(城戸野廃寺跡)12:43→かんなの湯13:07~15:20→神川中学校バス停15:38→丹荘駅16:00
合計7時間40分(温泉除く)
3月20日(祝)は、八高線の群馬藤岡駅から神流川沿いを回って来ました。最後、先週のおふろcafe白寿の湯に行く予定だったのですが、浄法寺関連の追加が出たため、かんなの湯に行って丹荘駅まで歩きました。
スタートは八高線の「群馬藤岡駅」です。高崎線の倉賀野駅まで行って戻るより新町から上野村行のバスで行った方が早く着くのでそれで来ました。駅名は栃木に藤岡駅があるため、区別するために群馬をつけたようです。上州藤岡でもよかった気がするのですが、何故群馬にしたかは不明です。藤岡市は十石峠街道と信州姫街道が合流する地点にあり、江戸時代は桐生と並び称される絹の集積地として栄えていたそうです。
最初の「戸塚神社」は元は「おんまん様」と呼ばれる熊野神社で、明治10年に村内諸社を合祀して戸塚神社と改められて村社に列格しています。境内に「戸上神社古墳」という6世紀後半に造られた前方後円墳の上にあり、両袖側の横穴式の石室の入口だけ見ることが出来ます。玄室の平面形は銅張りになっていたそうです。圭頭太刀、管玉、切小玉、埴輪などが出土しています。
戸塚神社古墳の南側には畑の中に「伊勢山古墳群」が点在しています。藤岡市は神川町よりこのような古墳が多いです。
その南側にある「大塔寺天満宮」も古墳の上にあります。社殿が藤岡市の史跡に指定されています。これは享保11年(1726)に九州の大宰府より分霊を勧請して建てられたもので、傷みが激しいため、昭和62年に上屋が建てられました。
大塔寺天満宮から「笹川」渡った南側には「小林館跡」という「笹川」と狭い用水路のような「館の川」に挟まれた三角地帯にある城跡があります。藤岡コンクリート株式会社という会社が建っていて、特に何が残っているというわけではないのですが、すぐ近所で下仁田街道と児玉往還が交わっているため、交通の要衝を抑えるために造られた館(城)なのだと思われます。小林氏は「吾妻鑑」等の中世の文書に度々名前が登場する一族で、高山氏の支族といわれています。高山氏は平姓秩父党の一族で、平姓秩父党とは児玉党の祖である有道惟行の次男児玉経行の次男である行重が秩父重綱の養子となり秩父氏を名乗るようになった一族です。高山氏は最初高麗川上流の高山不動の場所に高山氏館を建てるなど、飯能周辺を活動領域としていましたが、その後、神流川流域に移ってきたものと考えられています。また高山氏にはこの辺りにあったといわれる高山御厨の管理人が出自とするという説もあります。
「小林山 無量院 寿楽寺」は、安保氏の菩提寺である上里町大御堂の吉祥院の広重上人を開山として寛永13年(1636)に創建された高野山真言宗寺院で、その後も水害や火災の度に吉祥院が力を貸しているので、安保氏や丹党とも関係ありそうな気がするのですが、残念ながら詳しいことはわかりません。
「小林古墳群」も、伊勢山古墳群同様に畑の中に十数基の古墳が散らばっているものです。
「風天神社」は、上州の冬の空っ風による風害を防ぐために祀られた神社といわれています。祭神は、級長津彦命、級長津姫命となっていますが、神仏習合の昔は仏教の十二天の一人である風天を祀っていたという説もあります。なおフーテンの寅さんのフーテンはこの漢字を使うそうです。上州でフーテンというと赤城忠治や木枯らし紋次郎の名前が浮かぶのですが、関係ないのでしょうか?
「根岸築城跡」は、芦田康勝の祖父の信守が永禄11年(1568)、武田の関東進出の先鋒として浄法寺城(三ツ山城説もあり)を拠点に活動していた時に、息子の信蕃に築城を命じた跡だといわれています。しかし信玄が甲相駿の三国同盟を破棄して駿河侵攻を開始したため、信蕃らも出陣を余儀なくされ、城の築造は途中で放棄されたとのことです。神流川の河岸段丘上にあり、掘ノ内という地名が残るものの、遺構は国道252線のバイパス建設によって消え去っています。
「玉泉寺」は、真言宗霊雲寺派のお堂だけのほぼ廃寺のようなお寺ですが、根岸築城跡の東南角のランドマークになっています。この寺の墓地かどうかはわからないのですが、すぐ裏の墓地に武田の家臣を名乗る根岸家の墓があります。
本郷・小林古墳群に属する「美九里村古墳群」は住宅地と畑が入り交じった中に点在する古墳群です。最初の「藤岡82、88号墳」は農道脇の農家の庭先にあり葺石が露出しています。
「藤岡65号墳」は住宅地の中にあります。その西側にある「本郷二子山古墳(美九里村19号墳)」は、この辺りでは一番立派な古墳で、全長33m、後円部径21m、高さ3m、前方部幅11m、高さ2m前方後円墳です。
その南側の「美九里村17号墳」は円墳ですが、円墳前方後円墳という説もあります。
「藤岡72号墳」は住宅地の奥まった場所にあり、人の家の庭に立ち入らない限り全貌は見えません。
次の「美九里村27号墳」道路拡張で削られているものの、まだ形が残っている直径約21.8mの円墳です。
美九里村27号墳の北側にある「藤岡317号墳」は笹藪で覆われています。
「本郷埴輪窯跡」は埴輪を焼いた窯の跡で、次の土師神社と関係が深い遺跡といわれています。神流川の河岸段丘の斜面に作られた「登り窯」で中が覗ける小屋が上に建っています。5世紀後半から6世紀末まで操業していたそうです。国指定史跡となっています。
「土師神社」は、『上野国神名帳』に「正五位上 土師明神」とある古社で、明治時代には郷社に列格しています。祭神は天穂日命十四世の孫で菅原道真の遠祖にあたる土師部(はじべ)の祖「野見宿禰」で、相撲の神様ともいわれているそうです。土師部は埴輪や土器を作る技術者集団で、鎮座地の藤岡市本郷は、『和名抄』の「土師郷」に比定されており、北200mに国指定史跡の「本郷埴輪窯址」があります。一説によると当時は天皇や皇后などの高貴な人が崩御された時に仕えていた者が殉死する風習があって問題となっており、野見宿禰は墓に埴輪を供えることで殉死の代わりとすることを提案し、これが朝廷に受け入れられたことから、埴輪の大量生産が必要になり、良い土がとれるこの地に移住してきたのだそうです。あと相撲の神様なので大阪・住吉大社と能登・羽咋神社と並ぶ日本三辻の一つといわれるに盛土の上に造られた土俵があります。
土師神社の横から南に向かう道は旧十石街道だそうです。街道道沿いにある「椿神社」は、平安時代にこの辺りにあったとされる「高山御厨」という伊勢神宮の神領の鎮守社を「高山吉重」が天正3年(1575)に再興した神社です。高山氏はこの御厨の管理者だったともいわれています。他に平姓秩父党の一族という説もあります。高山氏は木曽義仲や源頼朝に従軍し、高山重栄が新田義貞の新田十六騎の一人に数えられるなどの活躍が知られています。神社に関しては他に、建久年間(1190~98)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まるとの言い伝えもあるようです。椿神社の名前は現在の場所に遷座された時につけられたものだそうです。
「真道山 医光寺」は元和元年(1615)に僧・真海によって開山された天台宗寺院で、藤岡市指定文化財の「阿弥陀三尊種子板碑」(鎌倉時代末期 延享3年(1310)、緑泥片岩、高さ 253cm 幅 52cm 厚さ 6cm)が保管されています。元々寺にあった物ではなく、明治時代の終わり頃、神流川の泥中から発見されたものだそうです。
医光寺の西側に少し行った場所にある「天保ききんの碑」は、正確にはかつてここにあった神社の碑で、高さ約260xm、幅約107cm、厚さ約13cmの緑泥片岩に「積木神社之跡」と刻まれています。天保ききんの碑と呼ばれる理由は、天保8年(1837)の穀類の価格が刻まれていることによるそうです。天保のききんは天保4年から続く冷害による凶作の後、天保7年の大凶作が起き、田畑や家を売って家族離ればなれになったり、商人が米を買い占めて米価が高騰したため各地で一揆や打ちこわしが起きた事件です。大阪では「大塩平八郎の乱」も起きています。その後、乱れた世を立て直そうと老中の水野忠邦は厳しい倹約政策を中心とする「天保の改革」を行おうとしますが、反対派の抵抗で大きな成果を上げることはできませんでした。
「五智山 高倉寺」も天台宗寺院です。大永2年(1522)に市内の高山地区に開創されますが、元和2年(1616)に火災により焼失し、元禄4年(1691)に、僧・勧海によって再興されています。その後、明治42年(1909)に神田地区にあった光明寺と合併して現在地に移り、高倉寺と改名します。高山地区にある上杉顕定愛用の碁盤が伝わる薬師堂は、北条氏によって関東を追われた関東管領・上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた途上で、旧高倉寺に避難させた山内上杉家の守り本尊の薬師如来像を同寺の良山和尚がお堂に奉ったものといわれています。
「御巡部神社」は、創建は不明ですが、口碑によるとかつては出雲大社を勧請した大國社だったそうです。扁額には大国主命を示す「大黒天」の文字が残っています。平井城主・上杉顕定の崇敬も篤かったそうです。明治5年に村社に列格しています。藤岡市指定天然記念物の推定樹齢400年のサカキがあります。
「廣澤寺」は、曹洞宗寺院しかわかりません。裏に矢場池という大きな溜池があります。
「藤岡総合公園」は野球場と陸上トラックのあるスポーツ公園で、少年野球の大会が行われていました。
「浅間神社(神田1495)」は小高い山の上にある神社で、山の頂上には「浅間神社古墳」とも呼ばれる美久里地区146号墳があります。直径約24m、高さ約5mの円墳です。創建は建仁年間(1201~04)に源頼朝の家臣により駿河国富士浅間神社より分祀されたとのことです。
浅間神社の小山の中腹にも幾つか古墳があったそうなのですが、ほとんと消滅しています。しかし下りきった県道沿いに「招魂祠境内古墳」が、上に日露戦争の鎮魂碑(美九里地区戦没者慰霊塔)を建てられたおかげか、残っています。元は横穴の石室を持つ円墳だったようです。
「こがねもち(黄金持)神社」は林業を営んでいる多田好年さんが造った神社で、御神体は高さ20cmぐらいの自然石だそうです。この石を宝物として長年所持していたところ、ある日石が「世の中にだしてくれ」と話かけてくたので祀ったのがこの神社だそうです。ごがねもち神社の名前の由来は、この御神体の石ではなく、石が乗っている重さ5トンの貝の化石の石で、貝は大昔、貨幣として使われていたため、お金の上に乗っている御神体ということでこがねもち神社としたそうです。金運アップとカラオケがうまくなる効能があるそうです。
神流川の急な河岸段丘に刻まれた短くて深い2本沢の間にある「芦田川屋敷跡」と「保美の砦(保美の内出)跡」は、藤岡城の芦田氏の一族の館跡ではないかいわれている場所です。北側の沢沿いの一角が「芦田川屋敷跡」で、南側の沢沿いの一角が「保美の砦跡」のようです。浄法寺城や三ツ山城の支城ではないかともいわれています。西側に堀の跡のような物がないわけでもありません。また南側の南北を沢で囲まれた狭い出っ張りも砦の一部のような気がします。
「丹生神社(浄法寺1259)」は、神流川の神川町や上里町にあったのと同じ神社ですが、平安時代の上野国神名帳に緑野郡「丹生明神」として記載されている古社とのことです。創建は浄法寺の開祖「最澄」が比叡山に倣って丹生都比売神を祀ったことが始まりとされています。上毛野君稚子が、当社に戦勝祈願後、天智天皇2年に日本が唐・新羅連合軍に勝利したため、帰国後、後に御神体となった魚籃観音(※現存せず)を奉納したそうです。現在の祭神は高龗神、罔象女神の二神となっており、戦前の旧社格は村社です。
天台宗寺院の「廣厳山 般若浄土院 浄法寺」は、奈良時代の神亀年間(724~29)に聖武天皇の勅願により道忠禅師(鑑真の高弟)が開いたのが始まりと伝わる関東では屈指の古刹です。当初は律宗の寺で「緑野(埜)寺」と称していましたが、弘仁6年(815)に伝教大師「最澄」が東国巡錫の折、當寺を訪れ3ヶ月逗留した際に天台宗に改宗しています。浄法寺を名乗るようになるのは室町時代頃からといわれています。浄法寺には最澄が布教のシンボルとして下野国、上野国、比叡山、山城国、筑紫国、豊前国の6か所の寺に建立した「相輪橖(六所宝塔)」があります。一千部の法華経を納めて仏法の護持や、国家の鎮護を祈願したもので、現存するものは寛文12年(1672)に改造されたものですが、藤岡市指定重要文化財となっています。場所柄何度も戦禍に合い古いものが意外と残っていないのですが、現在の本堂は谷中天王寺に五重塔を造った江戸の名工、幸田露伴の小説『五重塔』の十兵衛のモデルといわれる八田清兵衛によって、文化元年(1804)に建造されたものだそうです。金色に耀く伝教大師「最澄」像もあります。あと上武カントリークラブから移された「彰徳地蔵」という地蔵山にその昔、聖徳太子が奉った地蔵があります。
浄法寺は「浄法寺城跡」ともいわれています。築城した「浄法寺氏(浄法寺左近大夫)」は、南北朝期に高山氏の一族小林重清の息子、三郎次郎重保が浄法寺地区を本貫として浄法寺氏を名乗ったのが始まりとされます。浄法寺左近大夫は高山・小林の諸将とともに足利尊氏に味方をして新田義興の軍勢を破っているとのことなので、同じく足利側についた安保氏とも昵懇だったのだと思われます。その後、山内上杉家家宰の「平沢氏」が支配するようになり、平沢氏は御獄城が武田の猛攻により落とされると武田の配下に入り、名前を「長井氏」に改めます。長井氏は浄法寺氏の子孫という説もありますが、はっきりとはしないようです。武田の家臣として甲斐からやってきた可能性もなきにしもあらずです。長井氏は元亀2年に武田家と北条家に同盟が成立され、御嶽城が北条方に引き渡されると玉村に所領を与えられ、そちらに移ります。本能寺の変後は滝川一益に従うも、一益が北条氏に敗れて敗走すると、北条氏には従わずに越後国に落ち延びて上杉景勝の配下になり、天正18年に北条氏が滅ぶと、浄法寺城城主に返り咲いています。そのまま関東に進出してきた徳川に従うこととなりますが、家督を譲った「三ツ山右衛門(信実、実久)」が妻子を江戸に差し出さなかったため改易となり、藤岡城の「芦田(依田)氏」が収めるようになったようです。浄法寺城は背後の山に三ツ山城、神流川を隔てた対岸に金鑚御嶽城があることから、これらの山城の平時の居館として整備されたのではないかと考えられています。
浄法寺の横にある「戒禅寺」は曹洞宗寺院で、門の前に戒禅寺鎮守と書かれた八幡神社があります。御本尊は釈迦牟尼佛だそうです。
「日吉神社(浄法寺651)」と「浄法寺虚空蔵堂」は両方とも由緒不明なので、行ってもしょうがなさそうな気もするのですが、一応行ってみます。ちなみに浄法寺虚空蔵堂は浄法寺の虚空蔵堂ではなく、地名が浄法寺なので浄法寺虚空蔵堂と呼ばれているだけのようです。
「神流橋」で神流川を渡り、また「おふろCafe白寿の湯」に向かうつもりだったのですが、浄法寺のところで出てきた「緑野(埜)寺」の跡が神川町の古墳地帯の真ん中にあることが判明したので、そちらに向かいます。
神流橋を渡った先の新宿交差点の右側の新宿バス停の横に「郷土富裕碑」という史跡のような物があったので行ってみました。これは何かの講が願い事を刻んだ石柱のようだったのですが、その裏に「左みょうぎ道」と刻まれた元禄13年(1700)の神川町最古の「妙義道の道標」がありました。中仙道とは別に妙義山の横を抜ける武藏国への近道が存在していたようです。
新宿交差点に戻り、先日辿った「上武鉄道日丹線(日本ニッケル鉄道)廃線跡」の緑道に入り、しばらく行った先を左折すると、「伝緑埜(野)寺旧跡(城戸野廃寺跡)」があります。ありますと言っても解説板があるだけなのですが、「続日本後記」の承和元年(834)5月の条に記載の「浄土野緑埜寺」の跡に比定された埼玉県指定の旧跡です。緑埜寺は道忠禅師の創建とされる上野国の寺だったのですが、神流川の流路が変り、武藏国に属することとなってしまったため、対岸の浄法寺に移ったと考えられています。発掘で礎石の存在が確認され、複弁八葉蓮華文軒丸瓦や単弁八葉蓮華文軒丸瓦が発見されています。
伝緑埜寺旧跡の周囲にはこの前の青柳古墳群に属する「青柳古墳群城戸野支群」があります。これは1300年前に造られた全て径15~20mの円墳の30数基の古墳群で、横穴式石室を持っており、草ぼうぼうの物もありますが、墳丘は葺石で覆われていたそうです。鉄製の武具や埴輪、装身具などが出土しています。
ここから白寿の湯に戻るのは大変なので、前に一度行ったことのある「かんなの湯」に行きます。ここは「かんなゆ~ゆ~らんど」という神川町の総合公園の中にあり、料金は平日880円 土日祝日980円、泉質は源泉温度26.6℃のナトリウム‐炭酸水素塩・塩化物です。でも無色透明であまり温泉感がなく、井戸水の銭湯といった感じです。しかし白寿の湯にはない遠赤外線サウナと塩サウナ、それに高濃度炭酸泉があります。
時間が14時を過ぎてしまい、外の飲食店が開いている保証がなくなったので、温泉内のレストラン「神蔵」で昼飯にすることにします。あまり凝った料理は無かったので、「味噌ラーメン」と「ミニカレー」を注文しました。味噌ラーメンは懐かしの札幌味噌ラーメン風のラーメンで、麺も西山製麺風の物を縮れ麺を使っており、最近はこのタイプは探してもなかなかないので美味でした。でもミニカレーは立ち食いそば屋や役場の食堂にあるような味。
帰りは神川中学校前からバスに乗ろうと思っていたのですが、待ち時間が長いので、先のバス停まで歩いたら、丹荘駅に着いてしまったので、八高線で帰りました。でも拝島経由は先週使ったので、今日は東武東上線経由!
今日のスタートは八高線の「群馬藤岡駅」です。高崎線の倉賀野駅まで行って戻るより新町から上野村行のバスで行った方が早く着くのでそれで来ました。駅名は栃木に藤岡駅があるため、区別するために群馬をつけたようです。
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最初の「戸塚神社」は元は「おんまん様」と呼ばれる熊野神社で、明治10年に村内諸社を合祀して戸塚神社と改められて村社に列格しています。
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戸塚神社境内には「戸上神社古墳」という6世紀後半に造られた前方後円墳の上にあり、両袖側の横穴式の石室の入口だけ見ることが出来ます。玄室の平面形は銅張りになっていたそうです。圭頭太刀、管玉、切小玉、埴輪などが出土しています。
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戸塚神社古墳の南側には畑の中に「伊勢山古墳群」が点在しています。東側に見えるこれは9、11、12号分です。
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そして西側には8号墳。これで全部ではなく、裏の方にまだあります。
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KYOCERA KYF33
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「大塔寺天満宮」も古墳の上にあります。
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大塔寺天満宮の本殿は、は享保11年(1726)に九州の大宰府より分霊を勧請して建てられたもので、傷みが激しいため、昭和62年に上屋が建てられています。藤岡市の史跡に指定されています。
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「小林館跡」は「笹川」と狭い用水路のような「館の川」に挟まれた三角地帯にあります。小林氏は「吾妻鑑」等の中世の文書に度々名前が登場する一族で、高山氏の支族といわれています。高山氏は平姓秩父党の一族で、平姓秩父党とは児玉党の祖である有道惟行の次男児玉経行の次男である行重が秩父重綱の養子となり秩父氏を名乗るようになった一族です。
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館の川から見ると、小林館跡は一段高い河岸段丘上にあります。でも遺稿っぽいのはこれだけです。高山氏は最初高麗川上流の高山不動の場所に高山氏館を建てるなど、飯能周辺を活動領域としていましたが、その後、神流川流域に移ってきたものと考えられています。また高山氏にはこの辺りにあったといわれる高山御厨の管理人が出自とするという説もあります。
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小林館跡のある場所には今は藤岡コンクリート株式会社という会社とその資材置き場が大半を占めています。すぐ近所で下仁田街道と児玉往還が交わっているため、交通の要衝を抑えるために造られた館(城)なのだと思われます。
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「小林山 無量院 寿楽寺」は、安保氏の菩提寺である上里町大御堂の吉祥院の広重上人を開山として寛永13年(1636)に創建された高野山真言宗寺院で、その後も水害や火災の度に吉祥院が力を貸しているので、安保氏や丹党とも関係ありそうな気がするのですが、残念ながら詳しいことはわかりません。
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「小林古墳群」も、伊勢山古墳群同様に畑の中に十数基の古墳が散らばっています。
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1つ葺石がたくさん残っている古墳がありました。たぶん39号墳です。
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御嶽山(左)と城峯山(中)桜山(右)が並んで顔を出しました。朝のうちは天気が良かったんだよな~。
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「風天神社」は、上州の冬の空っ風による風害を防ぐために祀られた神社といわれています。祭神は、級長津彦命、級長津姫命となっていますが、神仏習合の昔は仏教の十二天の一人である風天を祀っていたという説もあります。なおフーテンの寅さんのフーテンはこの漢字を使うそうです。群馬でフーテンというと赤城忠治や木枯らし紋次郎が思い浮かぶのですが、博打とは関係ないのだろうか?
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「根岸築城跡」も、河岸段丘上にあります。ここは芦田康勝の祖父の信守が永禄11年(1568)、武田の関東進出の先鋒として浄法寺城(三ツ山城説もあり)を拠点に活動していた時に、息子の信蕃に築城を命じた跡だといわれています。しかし信玄が甲相駿の三国同盟を破棄して駿河侵攻を開始したため、信蕃らも出陣を余儀なくされ、城の築造は途中で放棄されました。
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この辺りには掘ノ内という地名が残っているそうです。根岸築城跡の中にある根岸家の周囲に土塁っぽい石組の塀がありますが、たぶん土塁ではないと思います。遺構は国道252線のバイパス建設によって消え去ってしまったそうです。
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「玉泉寺」は、真言宗霊雲寺派のお堂だけのほぼ廃寺のようなお寺ですが、根岸築城跡の東南角のランドマークになっています。しかし民家の庭にあるため、入れません。
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玉泉寺の墓地かどうかはわからないのですが、すぐ裏の墓地に武田の家臣を名乗る「根岸家の墓」があります。芦田家との関係が気になります。
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本郷・小林古墳群に属する「美九里村古墳群」は住宅地と畑が入り交じった中に点在する古墳群です。最初の「藤岡82、88号墳」は農道脇の農家の庭先にあり葺石が露出しています。
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「藤岡65号墳」は住宅地の中にあります。
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その西側にある「本郷二子山古墳(美九里村19号墳)」は、この辺りでは一番立派な古墳で、全長33m、後円部径21m、高さ3m、前方部幅11m、高さ2m前方後円墳です。
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その南側の笹藪に覆われた「美九里村17号墳」は円墳ですが、前方後円墳という説もあります。
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「藤岡72号墳」は住宅地の奥まった場所にあり、人の家の庭に立ち入らない限り全貌は見えません。
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次の「美九里村27号墳」道路拡張で削られているものの、まだ形が残っている直径約21.8mの円墳で、その北側にある「藤岡317号墳」は笹藪で覆われています。
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「本郷埴輪窯跡」は埴輪を焼いた窯の跡で、次の土師神社と関係が深い遺跡といわれています。中が覗ける小屋が上に建っています。
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「本郷埴輪窯跡」です。神流川の河岸段丘の斜面に作られた「登り窯」で5世紀後半から6世紀末まで操業していたそうです。国指定史跡となっています。
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ネコノメソウがたくさん咲き始めていました。
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「土師神社」は、明治時代には郷社に列格している山門のある大きな古社です。平安時代に書かれた『上野国神名帳』に「正五位上 土師明神」と名前が記されています。
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「土師神社」の拝殿です。祭神は天穂日命十四世の孫で菅原道真の遠祖にあたる土師部(はじべ)の祖「野見宿禰」で、相撲の神様ともいわれているそうです。土師部は埴輪や土器を作る技術者集団で、鎮座地の藤岡市本郷は、『和名抄』の「土師郷」に比定されており、北200mに国指定史跡の「本郷埴輪窯址」があります。
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「野見宿禰」は相撲の神様なので大阪・住吉大社と能登・羽咋神社と並ぶ日本三辻の一つといわれるに盛土の上に造られた土俵(土師の辻)があります。
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土師神社の横から南に向かう道は「旧十石街道」だそうです。
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街道沿いのせいか、このような道標があちこちにあります。
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田んぼや畑の畔にノジスミレがたくさん花をつけていました。ノジスミレは平地多いスミレで山や丘陵地帯では見られません。
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花の下のがく(総苞片)まくれてギザギザになっていないので、関東たんぽぽかもしれません。
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街道道沿いにある「椿神社」は、平安時代にこの辺りにあったとされる「高山御厨」という伊勢神宮の神領の鎮守社を「高山吉重」が天正3年(1575)に再興した神社です。高山氏はこの御厨の管理者だったともいわれています。他に、建久年間(1190~98)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まるとの言い伝えもあるようです。
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「真道山 医光寺」は元和元年(1615)に僧・真海によって開山された天台宗寺院で、藤岡市指定文化財の「阿弥陀三尊種子板碑」(鎌倉時代末期 延享3年(1310)、緑泥片岩、高さ 253cm 幅 52cm 厚さ 6cm)が保管されています。この辺りで雨が降ってきました。
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「天保ききんの碑」は、正確にはかつてここにあった神社の碑で、高さ約260xm、幅約107cm、厚さ約13cmの緑泥片岩に「積木神社之跡」と刻まれています。天保ききんの碑と呼ばれる理由は、天保8年(1837)の穀類の価格が刻まれていることによるそうです。
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「五智山 高倉寺」も天台宗寺院です。大永2年(1522)に市内の高山地区に開創されましたが、明治維新後にこちらに移ってきました。高山地区にある上杉顕定愛用の碁盤が伝わる薬師堂は、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた途上で、旧高倉寺に避難させた山内上杉家の守り本尊の薬師如来像を同寺の良山和尚がお堂に奉ったものといわれています。
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集落から離れ、広い畑の中を行きます。この辺りで雨がやみました。
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「御巡部神社」は、創建は不明ですが、口碑によるとかつては出雲大社を勧請した大國社だったそうで、平井城主・上杉顕定の崇敬も篤かったそうです。明治5年に村社に列格しています。
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御巡部神社の扁額には大国主命を示す「大黒天」の文字が残っています。
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御巡部神社の裏には藤岡市指定天然記念物の推定樹齢400年のサカキがあります。
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「廣澤寺」は、曹洞宗寺院しかわかりません。
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「藤岡総合公園」は野球場と陸上トラックのあるスポーツ公園で、少年野球の大会が行われていました。グランドにいるのは試合前の練習中の選手たち。
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河津桜咲く「矢場池」です。
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こちらはサクラソウです。
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興福寺は、古びた建物の由緒ありそうな寺なのですが、曹洞宗しかわかりません。
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興福寺前に咲いていたダンコウバイです。
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ダンコウバイと似ていますが、サンシュです。よく見ると花の形が違います。あと色もこちらの方が薄いです。
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「浅間神社(神田1495)」は小高い山の上にある神社です。創建は建仁年間(1201~04)に源頼朝の家臣により駿河国富士浅間神社より分祀されたとのことです。
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浅間神社山裏には「浅間神社古墳」とも呼ばれる美久里地区146号墳があります。直径約24m、高さ約5mの円墳です。
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「招魂祠境内古墳」は、上に日露戦争の鎮魂碑(美九里地区戦没者慰霊塔)を建てられたおかげで、残っています。元は横穴の石室を持つ円墳だったようです。
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道ばたにダイコンソウがいっぱい。
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「こがねもち(黄金持)神社」は林業を営んでいる多田好年さんが造った神社で、御神体は高さ20cmぐらいの自然石だそうです。金運アップとカラオケがうまくなる効能があるそうです。
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「芦田川屋敷跡」と「保美の砦(保美の内出)跡」は、神流川の河岸段丘に刻まれた短くて深い2本沢の間にあります。藤岡城の芦田氏の一族の館跡ではないかいわれています。北側の沢沿いの一角が「芦田川屋敷跡」です。
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「芦田川屋敷跡」を逆から見るとこんな感じです。奧に見える森は全部河岸段丘の急斜面です。
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フキノトウです。
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白花タンポポです。
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南側の沢いの一角が「保美の砦跡」です。芦田川屋敷跡同様に三方が河岸段丘の崖になります。
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保美の砦跡の南側の急で深い沢です。保美の砦は浄法寺城や三ツ山城の支城ではないかともいわれています。
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ただ砦ならば、その沢の南側の台地の突端部分の方が相応しい気がしないでもないです。
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突端部分の南側には、境川という砦をつくるのにもってこいな象徴的な名前の流れています。
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ユキヤナギです。
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畑が全部菜の花で埋まっていました!
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「丹生神社(浄法寺1259)」は、神川町や上里町にあったのと同じ神社ですが、平安時代の上野国神名帳に緑野郡「丹生明神」として記載されている古社とのことです。創建は浄法寺の開祖「最澄」が比叡山に倣って丹生都比売神を祀ったことが始まりとされています。
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浄法寺の山門に着きました。ここは「浄法寺城跡」ともいわれていて、築城した「浄法寺氏(浄法寺左近大夫)」南北朝期に高山氏の一族小林重清の息子、三郎次郎重保が浄法寺を本貫として浄法寺氏を名乗ったのが始まりとされます。浄法寺城は背後の山に三ツ山城、神流川を隔てた対岸に金鑚御嶽城があることから、これらの山城の平時の居館として整備されたのではないかと考えられています。その後、室町時代には山内上杉家家宰の「平沢(長井)氏」の城となり、江戸時代には藤岡城の「芦田(依田)氏」が収めるようになったようです。
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浄法寺本堂です。谷中天王寺に五重塔を造った江戸の名工、幸田露伴の小説『五重塔』の十兵衛のモデルといわれる八田清兵衛によって、文化元年(1804)に建造されたものだそうです。天台宗寺院の「廣厳山 般若浄土院 浄法寺」は、奈良時代の神亀年間(724~29)に聖武天皇の勅願により道忠禅師(鑑真の高弟)が開いたのが始まりと伝わる関東では屈指の古刹です。
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浄法寺の鐘撞堂です。当初は律宗の寺で「緑野(埜)寺」と称していましたが、弘仁6年(815)に伝教大師「最澄」が東国巡錫の折、當寺を訪れ3ヶ月逗留した際に天台宗に改宗しています。浄法寺を名乗るようになるのは室町時代頃からといわれています。
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浄法寺の大師堂です。普通大師堂というと空海なんですが、ここは天台宗なので最澄が伝教大師として奉られています。
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大師堂の先にある金色に耀く伝教大師「最澄」像です。
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浄法寺には最澄が布教のシンボルとして下野国、上野国、比叡山、山城国、筑紫国、豊前国の6か所の寺に建立した「相輪橖(六所宝塔)」があります。一千部の法華経を納めて仏法の護持や、国家の鎮護を祈願したもので、現存するものは寛文12年(1672)に改造されたものですが、藤岡市指定重要文化財となっています。
あと上武カントリークラブから移された「彰徳地蔵」という地蔵山にその昔、聖徳太子が奉ったといわれる地蔵があります。
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浄法寺の横にある「戒禅寺」は曹洞宗寺院です。御本尊は釈迦牟尼佛だそうです。
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戒禅寺の門の前には、戒禅寺鎮守と書かれた八幡神社があります。
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ボケの花です。
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この辺りまで来ると御嶽山がすぐ目の前です。
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「日吉神社(浄法寺651)」は由緒不明の神社ですが、境内は広くて自治会館などもあるので、元は村社だったのだろうか?浄法寺は天台宗なので比叡山の山王権現を祀った可能性もあります。
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車にポピーも咲き始めました!
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「浄法寺虚空蔵堂」は浄法寺の虚空蔵堂ではなく、地名が浄法寺なので浄法寺虚空蔵堂と呼ばれているだけのようです。
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「神流橋」で神流川を渡ります。この辺りは下流にダムがあるので水量が大幅に増えています。遠くに今日初めて赤城山が見えました。
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新宿バス停の横にある「郷土富裕碑」という史跡のような物です。地元の講が願い事を刻んだ石柱のようです。
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郷土富裕碑の裏には「左みょうぎ道」と刻まれた元禄13年(1700)の神川町最古の「妙義道の道標」があります。中仙道とは別に妙義山の横を抜ける武藏国への近道が存在していたようです。
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新宿交差点に戻り、先日辿った「上武鉄道日丹線(日本ニッケル鉄道)廃線跡」の緑道に入り、しばらく進みます。
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ハナモモが咲き始めました。
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「伝緑埜(野)寺旧跡(城戸野廃寺跡)」に到着しました。と言っても解説板があるだけなのですが、「続日本後記」の承和元年(834)5月の条に記載の「浄土野緑埜寺」の跡に比定された埼玉県指定の旧跡です。先ほどの浄法寺の元となりました。
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伝緑埜寺旧跡の解説板の拡大です。緑埜寺は道忠禅師の創建とされる上野国の寺だったのですが、神流川の流路が変り、武藏国に属することとなってしまったため、対岸の浄法寺に移ったと考えられています。発掘で礎石の存在が確認され、複弁八葉蓮華文軒丸瓦や単弁八葉蓮華文軒丸瓦が発見されています。
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伝緑埜寺旧跡の周囲には、この前行った青柳古墳群に属する「青柳古墳群城戸野支群」があります。これは1300年前に造られた全て径15~20mの円墳の30数基の古墳群で、横穴式石室を持っています。これは草ぼうぼうの8号墳です。
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そして葺石が確認できる20号墳です。この支群からは鉄製の武具や埴輪、装身具などが出土しているそうです。
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懐かしの用水路を渡って「かんなの湯」を目指します。
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「かんなの湯」に着きました。「かんなゆ~ゆ~らんど」という神川町の総合公園の中にあり、料金は平日880円 土日祝日980円、泉質は源泉温度26.6℃のナトリウム‐炭酸水素塩・塩化物です。でも無色透明であまり温泉感がなく、井戸水の銭湯といった感じです。しかし白寿の湯にはない遠赤外線サウナと塩サウナ、それに高濃度炭酸泉があります。
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温泉内のレストラン「神蔵」で昼飯にすることにします。「味噌ラーメン」と「ミニカレー」を注文しました。味噌ラーメンは懐かしの札幌味噌ラーメン風のラーメンで、麺も西山製麺風の物を縮れ麺を使っており、最近はこのタイプは探してもなかなかないので美味でした。でもミニカレーは立ち食いそば屋や役場の食堂にあるような味。
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廃線跡の緑道に戻ると、ソメイヨシノより少し早く咲く寒緋桜が満開でした。
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帰りは神川中学校前からバスに乗ろうと思っていたのですが、待ち時間が長すぎるので、もう少し先のバス停まで歩きます。ちなみに手前は、廃線の駅跡です。人がいるところがバス停。
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結局、丹荘駅まで歩いてしまいました。16時10分の高麗川行で帰ります。
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