白子の児玉党荘(庄)氏と練馬のカタクリ(牧野富太郎旧居・終焉の地~大泉氷川神社~清水山の森など)
民族学博物館発祥の地、庄部稲荷神社、白子川源流、牧野富太郎旧居、妙福寺、西大泉諏訪神社、本照寺、旧大泉村役場跡、東大泉北野神社、妙延寺、教学院、大泉氷川神社、精進場稲荷神社、中里富士、清水山の森、稲荷山憩いの森、土支田八幡宮、越後山憩いの森、出世稲荷神社( 関東)
パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )
晴れ
電車
その他:
往路:学芸大学→東急東横線副都心線西武池袋線直通小手指行→保谷
復路:地下鉄成増駅→副都心線→渋谷→東急東横線→学芸大学
保谷駅6:57→民族学博物館発祥の地7:04→庄部稲荷神社(最上稲荷神社)7:26→白子川源流の池(大泉井頭公園)7:44→大泉井頭遺跡7:56→牧野富太郎旧居・終焉の地(牧野記念庭園)8:03→大泉学園駅8:11→北野神社(東大泉4-25-4)8:19→妙福寺8:28→本応院8:34→諏訪神社(西大泉3-13-3)8:41→本照寺8:47→旧大泉村役場跡8:51→妙延寺9:04→参寶院8:10→弁天池9:18→教学院9:27→大泉氷川神社9:42→精進場稲荷神社10:01→弁天池跡10:05→中里富士(大泉富士)(八坂神社)10:26~44→清水山の森10:49~11:09→稲荷山憩いの森11:14~22→土支田八幡宮11:23→越後山憩いの森11:38→極楽湯和光店11:57~13:43→妙安寺13:56→出世稲荷神社14:02→花木流味噌ラーメン 成増総本店14:18~38→成増駅14:42
合計5時間39分(温泉、ラーメン除く)
3月30日(土)は、児玉党の庄氏の末裔で和光市の白子周辺に移り住んだ「荘氏」の本拠地がわかったので、それを確認に行くついでに、練馬区土支田の「清水山の森」のカタクリの花を見て来ました。白子の荘氏というのは南北朝時代に児玉党が南朝側の新田義貞について敗北後、14世紀後半に新座郡橋戸村に流れ着いて土着したのが始まりの一族です。この時に庄を荘に改めていますが、元々庄は荘の略字なので字の意味は変わりません。橋戸村というのは関越道の大泉JCTのある辺りで現在は練馬区に含まれます。「大泉氷川神社」とその別当寺で庄氏の菩提寺でもあった「教学館」の近辺に居館を構えていたそうです。白子の荘氏は庄弘長(高)の子孫を名乗っているため、四方田氏の子孫のように思われるのですが、別に庄時家を祖とする本庄氏の子孫という伝承もあり、話がアバウトなのではっきりしたことはわかりません。いずれにせよ、その後戦国時代に入り、弘長の孫の俊秀は上杉方について分倍河原の合戦で戦功を上げ、比企郡に領地を賜って、永享10年(1438)に武藏嵐山の杉山城の北東に「越畑城」を築き、本拠地をそこに移します。越畑城跡は関越道建設で遺構の大半が失われていますが、白子の荘氏一族が建てた石碑が立っています。しかし、ほどなく上杉氏は北条氏によって関東を追われ、荘氏は北条氏に従うようになりますが、その北条氏も秀吉によって滅ぼされ、荘氏は旧地である橋戸村に戻って帰農します。ただ帰農後も名主を務めたり、豪農として地域の中心に君臨し続けたようです。
スタートは、西武池袋線の「保谷駅」です。駅の横を練馬区と西東京市の境界線が通っている東京23区と多摩地区の境目の駅です。駅名の由来は江戸時代には「穂谷」と表記される穀倉地帯だったことに由来するそうです。
駅から南に真っ直ぐ進むと「民族学博物館発祥の地」なる物があります。ここは渋沢栄一の孫で後継者の敬三(1896~1963)氏所縁の施設跡で、彼は実業家として活躍する傍ら、柳田國男の影響で民俗学・民族学の研究も行っており、三田の自邸内に「アチックミューゼアム(屋根裏博物館、後の日本常民文化研究所)」を作るほどだったそうです。この博物館の同人に、保谷村の大地主の生まれで、武蔵野鉄道(現西武鉄道)の取締役となった高橋文太郎(1903~48)がおり、彼が1937年に広大な敷地を提供したことから、「日本民族学会付属民族学研究所」が創設されました。この研究所に1939年に併設された「日本民族学会付属民族学博物館」が日本初の野外博物館だそうです。現在、研究所は残っていませんが、セブンイレブンの横にある1本の大きなスダジイの木の下に説明板が設置されています。
民族学博物館発祥の地から住宅街をジクザグ抜けて行くと「庄部稲荷神社(最上稲荷神社)」という由緒不明ですが、荘(庄)氏に関係のありそうな神社があります。荘氏の領地は白子川流域に広がっており、この神社は白子川源流の少し上の山の上にような場所にあるため、白子川の水が涸れることないように祀ったのではないかという気がします。ただ別名の「最上稲荷神社」は最上流の意味ではなく、岡山県の日蓮宗の神仏習合の寺院の「最上稲荷山妙教寺」の「最上稲荷」を勧請したものといわれているので何とも言えません。
庄部稲荷神社から北に少し行くと白子川源流の上流ににあたる暗渠が出てきて、それをたどると白子川源流である「大泉井頭公園」の池に着きます。大泉の地名の元となった湧水の池なのですが、宅地化が進んだ今は湧水は涸れてしまっていて、ポンプで水を供給しているようです。公園内に「井頭のヤナギ」と呼ばれる2株の巨大なマルバヤナギの木があります。マルバヤナギは低地の川岸や池沼岸、放棄水田などの多湿地に多く成育する樹木だそうです。
少し下流の河岸段丘の住宅地の中に「大泉井頭遺跡」があります。標柱あるだけなのですが、縄文時代中期の大規模な集落跡で、白子川源流域は縄文の昔から人が生活する豊かな場所だったそうです。
大泉学園駅の方に向かいます。駅の手前にある「牧野富太郎旧居・終焉の地」は、NHKの朝ドラ「らんまん」の植物学者の牧野富太郎が晩年を過ごした場所です。家は残っていませんが、博士が採取した植物を育てていた庭が植物園として整備されています。他に記念館や銅像などがあります。
「大泉学園駅」を通って南口から北口に出ます。大泉学園の名前はこの駅に大学を誘致しようとしたことからつけられました。結局大学誘致には失敗するのですが、その空いた用地に東映がスタジオを造り、映画制作の街となります。ただ駅北口に最近造られた鉄腕アトムや銀河鉄道999のメーテルなどの銅像が並ぶ大泉アニメゲートは東映のスタジオとは関係なく、練馬区に縁がある漫画家のキャラクターを並べただけのものです。
駅北口から北西に斜めに進と「北野神社(東大泉4-25-4)」の参道入口に出ます。この神社は元は日蓮宗の「三十番神社」でした。祀ったのは元別当の妙延寺で、江戸時代初期には創建されていたと推測されます。三十番神は1ヶ月=30日を日替わり国家や国民を守護する神仏習合の神様のことで、天台宗の祖・最澄によって祀られたのが最初とされますが、日蓮宗や吉田神道にも取り入れられています。明治7年に神仏分離令により30の神々の中から「北野(天)神」のみを祀ることとなり、名前も北野神社と改称し、上土支田村の村社となったそうです。
大泉学園には日蓮宗の寺が多いのですが、その中心となるのが「西中山 妙福寺」です。近隣に大乗院、本応院、法性院、善行院、本立寺を塔頭(末寺)として擁していました。嘉祥3年(850)に創建された当時は天台宗寺院で、慈東山 大覚寺と称していましたが、鎌倉時代に日蓮宗に改宗しています。天台宗時代の大覚寺は、南大泉町の井頭池の東岸の丘の上にあり、「がらんど」という地名が残っているそうです。「がらんど」とは大寺の伽藍があつた跡の意味です。妙福寺は、江戸時代には徳川将軍家の祈願所になり、21石5斗の朱印地を授かっています。
妙福寺のすぐ裏にある日蓮宗寺院の「本応院」は、西中山妙福寺の塔頭の1つですが、今は斎場となっているようです。
「諏訪神社(西大泉3-13-3)」も日蓮宗の天正10年(1582)頃に本照寺によって祀られた三十番神社でした。明治時代の神仏分離令により、信州諏訪神社から建御名方命を勧請して、諏訪神社と改称し、小榑村の村社となっています。
その「本照寺」ですが、了光山と号する日蓮宗寺院です。日勇上人が天正10年(1582)に創建といわれています。ここは妙福寺末ではなく、千葉県市川市中山の法華経寺と本末関係をもっており、「中山の隠居寺」と呼ばれていたそうです。本堂は明治時代に小榑村の役場として使われたこともあったそうです。
本照寺の並びに「旧大泉村役場跡」もあります。大泉村は本照寺小榑、橋戸、上土支田の3つの村が合併して明治24年(1891)に発足した村で、昭和7年(1932)に東京都に編入され板橋区に吸収合併されるまで続きました。役場は本照寺から本照寺隣接する村長宅に移った後、大正11年(1922)にこの橋に新しい木造2階建ての建物が建設されたそうです。
白子川を渡って学校の間を北野神社入口近くまで戻り、東に進むと日蓮宗寺院の「倍光山 妙延寺」があります。永禄11年(1568)に加藤作右衛門(日安)が開基となり、円乗陰日宣上人を開山に迎えて創建された寺で、加藤作右衛門についてはよくわかっていないものの、土支田村の中心人物だったようです。樹齢400年の本堂前の大銀杏が東京都指定保存樹となっています。またこの寺で幕末から開かれていた寺子屋は、大泉村の学校の前身となったそうです。
再び白子川沿いまで戻る途中に「弁天池」という小さな池があります。後で行く「弁天池跡」の関係はよくわかりませんが、もしかしたら繋がっていたのかもしれません。
白子川を渡って狭いわりに交通量の多い道を北に進むと「西円山 教学院」という橋戸村に土着した荘氏の菩提寺の真言宗智山派寺院があります。教学院は、文永5年(1268)長全法印が永福寺という名前で北方の丸山に開山したのが始まりで、一時期衰退していたのを、永禄3年(1560)良賢法印が中興開山し、江戸時代中期には、石神井公園の南にある三宝寺の末寺となって当地に移転した際に、現在の西円山教学院と改称したということです。境内には荘氏由緒碑と荘家累代の墓があります。ただ伝承が少し異なっており、ここでは本庄城主の荘弘泰、弘朝父子が武蔵野合戦の後橋戸村に土着したということになっています。
「大泉氷川神社」も、庄(荘)氏が橋戸村に土着した際に祀られた神社といわれていて、『新編武蔵風土記稿』橋戸村の項に「氷川社 村民庄忠右衛門ガ宅地ノ内ニアル小祠。祭神は在五中将ナリ。其家ニテハ。中将東国下向ノ時。庄春日江古田ト云3人ノモノ慕ヒ来リテ。此地ニ祭リシト相伝レドモ。信ズベカラズ」とあり、この「在五中将」とは在原業平のことで、業平が東国に下向した際に付き従っていた庄・春日・江戸田の3人がこの地に祀ったと書かれた部分は、「信ズベカラズ」とある通り信憑性に欠けますが、江戸時代から荘氏の系図が曖昧だった証明にはなります。ただ「村民庄忠右衛門ガ宅地ノ内ニアル小祠」は信ずるに値し、現在神社のある場所の周辺に庄(荘)氏の屋敷があったと推測されます。神社は明治7年に橋戸村の村社になり、明治24年大泉村が成立すると、引き続きその村社となっています。
橋戸村は庄(荘)氏の領土であった他に、江戸時代にはかの服部半蔵の領地でもあったので、大泉氷川神社には「伊賀衆が奉納した御手洗」が現存しています。水盤には伊賀衆が大泉の領地を与えられた経緯が、また水盤と鳥居には計108人の伊賀衆の名前が刻まれています。ただここれは大泉JCTあたりにあった愛宕神社の摂社の稲荷神社が高速道路建設で廃社となったため移されてきたもののようです。練馬区の服部半蔵関係の史跡は他に練馬区高松の御獄神社に半蔵奉納の仁王像があります。
伊賀衆の御手洗があったといわれる稲荷神社はもしかしたら大泉JCTの東側にある「精進場稲荷神社」なのかもしれません。この神社は元はJCTの場所にあり、土支田村下屋敷精進場の鎮守社として祭祀されていたそうですが、明治40年に政府の神社合併策により大泉氷川神社に合祀され、その後悪疫が流行したため元の場所に返されたのですが、しかし昭和44年に関越高速建設のため広い敷地の中央部分が買収されてしまったため、現在の高速道路脇に狭い場所に移ってきたそうです。境内に小さな御獄塚があります。
精進場稲荷神社の下にあるのが「弁天池跡」です。ここは昔ここにあった巨大な弁天池の跡で、池には弁財天が祀られていたそうです。弁天様は今は大泉氷川神社に合祀されているそうですが、すぐ隣に白子川の地下に造られた調整池と復元された田んぼがあります。
しばらく白子川沿いの道を行きます。「中里富士(大泉富士)」は東京23区内で3本の指に入る比高12m、径が30mの立派な富士塚です。明治初期に丸吉講によって築かれたと言われていますが、文政5年(1822)の石碑があることから江戸時代からその原型があったと推測されています。隣にある「八坂神社」は江戸時代には天王社と呼ばれる橋戸村の鎮守社だったそうです。
そしてようやく、東京23区内なのにカタクリが見られる「清水山の森」に到着しました。ここは前にも来たことがあるのですが、昭和49年(1974)に区民から白子川流域の斜面林に「カタクリ」が自生しているとの情報が寄せられ、その後、カタクリが群生しやすい環境を保つため、昭和51年に「清水山憩いの森」という公園として整備された場所です。公園といってもカタクリの時期以外は入ることはできません。カタクリの開花時期は桜の開花時期とほぼ一緒で、令和6年は3月8日(金)~4月15日(月)まで午前9時~午後5時に公開されています。園内にはカタクリ以外に「東京の名湧水57選」に選定された「清水山の湧水」や、その周辺で「ニリンソウ」を見ることができます。なおトイレはないので隣の稲荷山憩いの森まで行く必要があります。
その「稲荷山憩いの森」にも、数は少ないですがカタクリが自生しています。公園の西側の入口には「豊楽園神社」という小祠があります。名前の由来は、昭和7年(1932)頃に地主の加藤氏によって一般開放されていた「豊楽園」という行楽地に由来するそうです。ただ基本的に稲荷のようで、そこから稲荷山の名前がついたのだと思われます。
稲荷山憩いの森のカタクリを観察した後、細長い園地を東側に抜けると「土支田八幡宮」入口に出ます。鎌倉時代末創建といわれる神社で、明治7年(1874)に村内の八幡社、神明社、稲荷社を合祀して、北野神社と改称し、地元では「俵久保の天神様」と呼ばれていましたが、昭和22年(1947)に祭神を改めて「土支田八幡宮」としたそうです。「伊賀の松」と呼ばれた篠塚伊賀守時成(篠塚重広)が戦勝を祈願して植えた松がありましたが、落雷により倒木が危ぶまれたため伐採されて、今は切り株のみ残っています。
白子川の渓谷を対岸に渡ると河岸段丘上に「越後山憩いの森」があります。越後山の名前の由来は越後の人が来て開拓した所という意味だそうです。
そのまま白子川に沿って進むと「極楽湯 和光店」に着きます。ここも2~3回来たことがあるのですが、練馬区と埼玉県の境にある日帰り温泉施設で、光が丘団地からも近いため利用者は東京人の方が多いようです。平日980円、土日1080円、泉質はPh7.8の弱アルカリ性ナトリウム-塩化物温泉の黒湯です。埼玉に多い茶褐色の塩泉ではありません。浴槽は普通ですが、サウナが3つあります。帰りは、成増駅、光が丘駅に行く無料送迎バスがあります。
でも成増駅まで歩きます。途中にある「長久山 妙安寺」もまた日蓮宗寺院です。江戸幕府初期に江戸町奉行、京都所司代などを歴任した「板倉伊賀守勝重」(寛永元年(1624)没)が開基となり、駿河蓮永寺の日雄上人(元和元年(1615)没)開山となって創建されました。勝重は、徳川家康江戸入府以前からの重臣で、天正十四年(1586)駿府町奉行を勤めました。家康入府後、勝重がこの辺りを知行したことが練馬区西部~和光市東南部に日蓮宗寺院が多い理由のような気がします。勝重は広大な寺領を寄進し、徳川家の武運長久を祈願して長久山と名付けたといいます。本堂手前の板碑形題目碑は八世日如上人(享保19年(1734)没)の時代に造立された貴重な石造物です。また見上げるような巨大な、文政10年(1827)の宝篋印塔があります。
最後の「出世稲荷神社」は、川越城主が江戸への行き帰りに出世祈願をしたところから名前がついたといわれる神社です。川越藩には松平信綱や柳沢吉保のように老中、大老の要職についた人物がいるため、流行り神となりました。昔は小祠のみでしたが、出世した人たちの寄進により、深川神明宮から移築した立派な社殿が建てられました。
成増は何度も来ているため、武藏家も福しんも入ったことがあったので、今日は「花木流味噌ラーメン 成増総本店」という味噌ラーメン屋に入ってみました。濃厚白湯か博多豚骨かというぐらい真っ白な白味噌を使った濃厚味噌ラーメンの店で、注文した「辛味噌ラーメン」は唐辛子の部分と味噌の部分がきれいに半分に分かれています。そのため味はさほど辛くはないのですが、テーブルに置かれた調味料の中に山椒があり、それを加えることでこだわりの担々麺専門店のような味に味変することが出来ます。大盛とご飯無料!
「成増駅」に着きました。すぐ南側にある「地下鉄成増駅」から副都心線を使うと東横線直通なので、そちらで帰ります。
スタートは、西武池袋線の「保谷駅」です。駅名の由来は江戸時代には「穂谷」と表記される穀倉地帯だったことに由来するそうです。駅の横を練馬区と西東京市の境界線が通っている東京23区と多摩地区の境目の駅です。
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KYOCERA KYF33
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駅から南に真っ直ぐ進むとセブンイレブンの横に1本の大きなスダジイの木があります。この下に「民族学博物館発祥の地」の説明板が設置されています。
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KYOCERA KYF33
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「民族学博物館発祥の地」は、渋沢栄一の孫で後継者の敬三が実業家の傍ら柳田國男の影響で民俗学・民族学の研究も行っており、保谷村の大地主で武蔵野鉄道(現西武鉄道)の取締役となった高橋文太郎が1937年に広大な敷地を提供したことから、「日本民族学会付属民族学研究所」に併設される形で日本初の野外博物館の「日本民族学会付属民族学博物館」が建てられた跡だそうです。
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KYOCERA KYF33
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「庄部稲荷神社(最上稲荷神社)」は、由緒不明ですが、荘(庄)氏に関係のありそうな神社です。場所的に荘氏の領地であった白子川の流域の水が涸れることないように祀ったのではないかという気がしますが、ただ別名の「最上稲荷神社」は最上流のという意味ではなく、岡山県の日蓮宗の神仏習合の寺院の「最上稲荷山妙教寺」の「最上稲荷」を勧請したものといわれているので何とも言えません。
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KYOCERA KYF33
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白子川源流の上流ににあたる暗渠が出ました。ここをたどると白子川源流の「大泉井頭公園」の池に着きます。
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KYOCERA KYF33
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コブシの花が満開です。よく似たハナモクレンとの違いは、コブシは花は小ぶりで全部開きますが、ハナモクレンは花が大きく花びらが落ちる寸前になるまでは花は全部開きません。
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「大泉井頭公園」の池に着きました。大泉学園の地名の元となった湧水の池なのですが、宅地化が進んだ今は湧水は涸れてしまっていて、ポンプで水を供給しているようです。
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大泉井頭公園内に「井頭のヤナギ」と呼ばれる2株の巨大なマルバヤナギの木があります。マルバヤナギは低地の川岸や池沼岸、放棄水田などの多湿地に多く成育する樹木だそうです。
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白子の両岸は桜並木になっている場所が多く、ほとんど咲いてはいませんでしたが、咲いている木もたまにありました。
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河岸段丘の住宅地の中ある「大泉井頭遺跡」は、標柱あるだけなのですが、縄文時代中期の大規模な集落跡で、白子川源流域は縄文の昔から人が生活する豊かな場所だったそうです。日蓮宗の妙福寺の元となった天台宗の大覚寺も嘉祥3年(850)にこちら方に創建されているので、大昔はこの辺りが地域の中心だったのかもしれません。
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大泉学園駅の南口にある「牧野富太郎旧居・終焉の地」は、植物学者の牧野富太郎が晩年を過ごした場所です。家は残っていませんが、博士が採取した植物を育てていた庭が植物園として整備されています。まだ開園前で入れませんでした。まだ開園前なので牧野富太郎の銅像が後からしか撮れませんでした。
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「牧野富太郎旧居・終焉の地」の説明です。
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中にはNHKの朝ドラ「らんまん」の幟も立っています。
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「大泉学園駅」南口に着きました。大泉学園の名前はこの駅に大学を誘致しようとしたことからつけられました。結局大学誘致には失敗するのですが、その空いた用地に東映がスタジオを造り、映画制作の街となりました。
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大泉学園駅北口に比較的最近造られた鉄腕アトムや銀河鉄道999のメーテルなどの銅像が並ぶ大泉アニメゲートがあります。ただこれは東映のスタジオとは関係なく、練馬区に縁がある漫画家のキャラクターを並べただけのものです。練馬や板橋は当時人気だった中央線沿線より家賃が安かったため、漫画家が集まったという事情があります。
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それでも日本アニメーション発祥の地碑が建っています。
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「北野神社(東大泉4-25-4)」の参道入口に着きました。広い境内と何本もの巨木がある神社です。この神社は元は日蓮宗の「三十番神社」でした。祀ったのは元別当の妙延寺で、江戸時代初期には創建されていたと推測されます。
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「北野神社(東大泉4-25-4)」です。三十番神は1ヶ月=30日を日替わり国家や国民を守護する神仏習合の神様のことで、天台宗の祖・最澄によって祀られたのが最初とされ、日蓮宗にも取り入れられています。明治7年に神仏分離令により30の神々の中から「北野(天)神」のみを祀ることとなり、名前も北野神社と改称し、上土支田村の村社となったそうです。
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大泉学園には日蓮宗の寺が多いのですが、その中心となる「西中山 妙福寺」入口に着きました。江戸時代には徳川将軍家の祈願所になり、21石5斗の朱印地を授かり、近隣に大乗院、本応院、法性院、善行院、本立寺を塔頭(末寺)として擁していました。
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妙福寺の入口から入ると奥に立派な山門(仁王門)があります。
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「妙福寺」です。元は嘉祥3年(850)に創建された当時は天台宗寺院で、慈東山 大覚寺と称していましたが、鎌倉時代に日蓮宗に改宗しています。天台宗時代の大覚寺は、南大泉町の井頭池の東岸の丘の上にあり、「がらんど(伽藍堂)」という地名が残っているそうです。
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妙福寺の三十番神社は独立せずに残っているようです。
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妙福寺にはふくしま政美の伝説的漫画『女犯坊』の竜水和尚を彷彿させるパワフルで精力絶倫な感じの日蓮聖人像があります。いやもしかしたら逆で、ふくしま政美も練馬漫画家の一人で、この銅像からインスピレーションを受けてあの怪作を描いたのかもしれません。
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妙福寺のすぐ裏にある日蓮宗寺院の「本応院」は、西中山妙福寺の塔頭の1つですが、今は斎場となっているようです。
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「諏訪神社(西大泉3-13-3)」入口に着きました。ここも広い境内と立派な鎮守の森があります。
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「諏訪神社(西大泉3-13-3)」も日蓮宗の本照寺によって天正10年(1582)頃に祀られた三十番神社でした。明治時代の神仏分離令により、信州諏訪神社から建御名方命を勧請して、諏訪神社と改称し、小榑村の村社となっています。
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諏訪神社の境内には入口が別の随分立派な稲荷神社があるのですが、この場所は元は稲荷神社の敷地だったのかもしれません。稲荷神社の奥に見えるのは御嶽神社です。
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「本照寺」です。了光山と号する日蓮宗寺院です。日勇上人が天正10年(1582)に創建といわれています。ここは妙福寺末ではなく、千葉県市川市中山の法華経寺と本末関係をもっており、「中山の隠居寺」と呼ばれていたそうです。本堂は明治時代に小榑村の役場として使われたこともあったそうです。
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本照寺の並びに「旧大泉村役場跡」もあります。大泉村は本照寺小榑、橋戸、上土支田の3つの村が合併して明治24年(1891)に発足した村で、昭和7年(1932)に東京都に編入され板橋区に吸収合併されるまで続きました。役場は本照寺から本照寺隣接する村長宅に移った後、大正11年(1922)にこの橋に新しい木造2階建ての建物が建設されたそうです。
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白子川を渡ります。この辺りは上流や土支田周辺と違って駅が近いので、完全な都市河川です。
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北野神社の別当だった日蓮宗寺院の「倍光山 妙延寺」に着きました。樹齢400年の本堂前の大銀杏が東京都指定保存樹となっています。
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「妙延寺」は鉄筋コンクリートのモダンな寺ですが、永禄11年(1568)に加藤作右衛門(日安)が開基となり、円乗陰日宣上人を開山に迎えて創建された寺で、加藤作右衛門についてはよくわかっていないものの、土支田村の中心人物だったようです。この寺で幕末から開かれていた寺子屋は、大泉村の学校の前身となったそうです。
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妙延寺で満開だったしだれ桜です。
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これはトサミズキだと思います。
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街角の商店のような「参寶院」は、平成20年に設立された浄土真宗の単立寺院です。それ以外よくわかりません。
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ルメちゃんハウスの跡地には白い別の家が建っていました。
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白子川沿いまで戻る途中に「弁天池」という小さな池があります。後で行く「弁天池跡」の関係はよくわかりませんが、もしかしたら繋がっていたのかもしれません。区別する時は東大泉弁天池と呼んでいるようです。
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練馬のたんぽぽはセイヨウタンポポばかりなのですが、1つだけシロバナタンポポを発見しました。
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「西円山 教学院」に着きました。ここは橋戸村に土着した児玉党の荘氏の菩提寺である真言宗智山派寺院です。
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教学院の説明板です。少しですが荘氏に関することが書かれています。
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教学院です。文永5年(1268)長全法印が永福寺という名前で北方の丸山に開山したのが始まりで、一時期衰退していたのを、永禄3年(1560)良賢法印が中興開山し、江戸時代中期には、石神井公園の南にある三宝寺の末寺となって当地に移転した際に、現在の西円山教学院と改称したということです。
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教学院の境内は至るところに荘氏の名前が刻まれているのですが、長距離走が得意そうなこの方が長老格で一番偉いのかもしれません。
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教学院の本堂の横にある荘氏由緒碑です。写真ではうまく撮せませんが、細かな字で荘氏の歴史について書いてあります。ただ伝承が少し異なっており、ここでは本庄城主の荘弘泰、弘朝父子が武蔵野合戦の後橋戸村に土着したということになっているようです。
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墓地には荘家の墓もたくさんあって、どれがどれだかよくわからないのですが、本家筋の由緒ある物はここにまとめられているようです。
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続いて「大泉氷川神社」に向かいます。ここも庄(荘)氏が橋戸村に土着した際に祀られた神社といわれていて、『新編武蔵風土記稿』によると昔は荘氏の屋敷に祀られた屋敷神だったそうで、居館もこの近所にあったものと推定されます
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「大泉氷川神社」です。『新編武蔵風土記稿』にはまた別の荘氏の伝承載っており、在原業平が東国に下向した際に付き従っていた庄・春日・江戸田の3人がこの地に祀ったと伝えられているが「信ズベカラズ」と書かれています。ここにも由緒碑があるはずなので確認してみたかったのですが、見つかりませんでした。神社は明治7年に橋戸村の村社になり、明治24年大泉村が成立すると、引き続きその村社となっています。
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大泉氷川神社の説明板です。ここにも荘氏の名前があります。
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神社でも荘茂氏の名前発見!こちらも石に刻まれた名前は荘氏だらけです。
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橋戸村は庄(荘)氏の領土であった他に、江戸時代はかの「服部半蔵」の領地でもあったので、大泉氷川神社には「伊賀衆が奉納した御手洗」が現存しています。水盤には伊賀衆が大泉の領地を与えられた経緯が、また水盤と鳥居には計108人の伊賀衆の名前が刻まれています。これは大泉JCTあたりにあった愛宕神社の摂社の稲荷神社が高速道路建設で廃社となったため移されてきたもののようです。
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大泉八幡神社の前にある紅白の花桃の木です。
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伊賀衆の御手洗があった稲荷神社は大泉JCTの東側にある「精進場稲荷神社」なのかもしれません。この神社は元はJCTの場所にあり、土支田村下屋敷精進場の鎮守社として祭祀されていたそうですが、明治40年に政府の神社合併策により大泉氷川神社に合祀され、その後悪疫が流行したため元の場所に返されたのですが、関越高速建設のため、現在の高速道路脇に狭い場所に移ってきたそうです。
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「精進場稲荷神社」の境内には小さな御獄塚があります。
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精進場稲荷神社の下にあるのが「弁天池跡」です。ここは昔ここにあった巨大な弁天池の跡で、池には弁財天が祀られていたそうです。弁天様は今は大泉氷川神社に合祀されているそうですが、すぐ隣に白子川の地下に造られた調整池があります。
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弁天池跡の横には復元された田んぼもあります。
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たまに桜が咲いている白子川沿いの道をしばらく進みます。これは綠の葉が出ているので大島桜の仲間のようです。
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こちらは待望のソメイヨシノのようです。
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この辺りまで来たら絶対に寄っていきたい「中里富士(大泉富士)」に着きました。東京23区内では3本の指に入るほどの立派な富士塚で、比高12m、径が30mですが、河岸段丘の上にあるため実際はもっと高く見えます。明治初期に丸吉講によって築かれたと言われていますが、文政5年(1822)の石碑があることから江戸時代からその原型があったと推測されています。
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崩れた階段の急斜面をよじ登ります。
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中里富士の斜面には、木が刈られて短くなっていますが、ボケの花がたくさん咲いていました。
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山頂に到着しました。浅間神社の石祠があります。
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中里富士の隣には「八坂神社」があります。江戸時代には天王社と呼ばれる橋戸村の鎮守社だったそうです。
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そしてようやく、東京23区内なのにカタクリが見られる「清水山の森」に到着しました。昭和49年(1974)に区民から白子川流域の斜面林に「カタクリ」が自生しているとの情報が寄せられ、その後、カタクリが群生しやすい環境を保つため、昭和51年に「清水山の森」という公園として整備された場所で、カタクリの時期以外は入ることはできません。
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清水山の森は白子川の河岸段丘の北西向き斜面を園地化したこんな感じの場所です。
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清水山の森のカタクリの咲き具合はこんな感じです。北関東や新潟のような足の踏み場もないくらいというわけには行きませんが、普通に鑑賞するだけなら十分な数は咲いています。
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カタクリの拡大写真その1!
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カタクリの拡大写真その2!
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カタクリの拡大写真その3!
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カタクリの拡大写真その4!
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カタクリの拡大写真その5!
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カタクリの拡大写真その6!
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カタクリの合間にタチツボスミレもたくさん咲いていました。
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園内には「東京の名湧水57選」に選定された「清水山の湧水」があります。
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湧水の周辺は「ニリンソウ」も見ることができます。
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清水山の森から稲荷山憩いの森への移動中に、民家の庭先に満開のヤマブキの花を見つけました。
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「稲荷山憩いの森」の西側の入口着きました。「豊楽園神社」という小祠があります。名前の由来は、昭和7年(1932)頃に地主の加藤氏によって一般開放されていた「豊楽園」という行楽地に由来するそうです。ただ基本的に稲荷のようで、そこから稲荷山の名前がついたのだと思われます。
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この入口にも湧水があります。水量はこちらの方が多いです。
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「稲荷山憩いの森」にも、カタクリの自生地があります。こちらは宣伝されていないので、カメラマンのおじさん1人の貸しきり状態!
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「稲荷山憩いの森」の自生地のカタクリはこんな感じです。前に来たときは全然花がなかったのですが、今年はたくさん咲いていました。
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稲荷山のカタクリの拡大写真です。
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稲荷山のカタクリの拡大写真、もう一枚!
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稲荷山憩いの森の細長い園地を東端まで進みます。
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すると「土支田八幡宮」入口に出ます。この神社まで白子川の河岸段丘の森は続いています。
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「土支田八幡宮」です。鎌倉時代末創建といわれる神社で、明治7年(1874)に村内の八幡社、神明社、稲荷社を合祀して、北野神社と改称し、地元では「俵久保の天神様」と呼ばれていましたが、昭和22年(1947)に祭神を改めて「土支田八幡宮」としたそうです。大泉学園駅前の北野神社と区別するために八幡宮にしたのかもしれません。
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土支田八幡宮の本殿の右手には「伊賀の松」と呼ばれた篠塚伊賀守時成(篠塚重広)が戦勝を祈願して植えた松がありましたが、落雷により倒木が危ぶまれたため伐採されて、今は切り株のみ残っています。
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あと境内には御嶽塚もありました。手前にお犬様がいます。
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白子川の渓谷を対岸の河岸段丘の上が「越後山憩いの森」です。
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「越後山憩いの森」はとくに何があるという場所ではないですが、上は風が心地よい園地になっています。なお越後山の名前の由来は越後の人が来て開拓した所という意味だそうです。
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しばらく白子川に沿って歩きます。この辺りからも遺跡が発見されています。
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本日最後の白子川の桜です。
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「極楽湯 和光店」に着きました。練馬区と埼玉県の境にある日帰り温泉施設で、平日980円、土日1080円、泉質はPh7.8の弱アルカリ性ナトリウム-塩化物温泉の「黒湯」です。埼玉に多い茶褐色の塩泉ではありません。浴槽は普通ですが、サウナが3つもあります。あと帰りは、成増駅と光が丘駅まで無料送迎バスもあります。
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成増駅まで歩く途中にある「長久山 妙安寺」に着きました。ここもまた日蓮宗寺院です。
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妙安寺の入口の横には、見上げるような巨大な、文政10年(1827)の宝篋印塔があります。
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「妙安寺」です。江戸幕府初期に江戸町奉行、京都所司代などを歴任した「板倉伊賀守勝重」(寛永元年(1624)没)が開基となり、駿河蓮永寺の日雄上人(元和元年(1615)没)開山となって創建されました。勝重は、徳川家康江戸入府以前からの重臣で、家康入府後、勝重がこの辺りを知行したことが練馬区西部~和光市東南部に日蓮宗寺院が多い理由のような気がします。
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妙安寺本堂手前にある板碑形題目碑は八世日如上人(享保19年(1734)没)の時代に造立された貴重な石造物だそうです。
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最後の「出世稲荷神社」の入口に着きました。川越城主が江戸への行き帰りに出世祈願をしたところから名前がついたといわれる神社です。川越藩には松平信綱や柳沢吉保のように老中、大老の要職についた人物がいるため、流行り神となりました。
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「出世稲荷神社」です。昔は小祠のみでしたが、出世した人たちの寄進により、深川神明宮から移築した立派な社殿が建てられました。
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今日は成増駅の「花木流味噌ラーメン 成増総本店」という味噌ラーメン屋で昼飯にすることにしました。
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濃厚白湯か博多豚骨かというぐらい真っ白な白味噌を使った濃厚味噌ラーメンの店で、注文した「辛味噌ラーメン」は唐辛子の部分と味噌の部分がきれいに半分に分かれています。そのため味はさほど辛くはないのですが、テーブルに置かれた調味料の中に山椒があり、それを加えることでこだわりの担々麺専門店のような味に味変することが出来ます。
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この店は大盛とご飯無料です。ご飯はおかわりも無料です。
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「成増駅」に着きました。すぐ南側にある「地下鉄成増駅」から副都心線を使うと東横線直通なので、そちらで帰ります。
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