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西東京市周辺(東伏見稲荷神社~田無神社~満行寺など)

下野谷遺跡、東伏見稲荷神社(保谷氏館跡)、柳沢津島神社、田無神社、總持寺、下田半兵衛屋敷跡、養老畑碑、尉殿権現社、宝樹院、如意輪寺、宝晃院、保谷天満宮、南入経塚遺跡、下保谷天神社、福泉寺、大乗院、四面塔稲荷神社、武野神社、満行寺、野寺カタクリ山( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇り(朝のうちほんの少し小雨)

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→新宿→徒歩→西武新宿→西武新宿線→東伏見

復路:清瀬→西武池袋線→池袋→山手線→目黒

この登山記録の行程

東伏見駅5:33→下野谷遺跡公園5:39→東伏見稲荷神社(保谷氏館跡)5:53→東禅院別院柳澤禅寺6:03→徳雲寺別院金剛寺6:05→柳沢津島神社6:11→田無神社6:16→總持寺6:38→下田半兵衛屋敷跡6:46→田無駅6:54→養老畑碑6:59→遍立寺7:09→西浦北向地蔵尊・石裂尾張藩鷹場標柱7:20→心光寺7:26→宝樹院7:36→宝晃院7:42→如意輪寺7:51→尉殿権現社7:59→東禅寺8:06→保谷天満宮8:19→南入経塚遺跡8:24→下保谷天神社8:36→福泉寺8:49→下保谷森林公園8:53→新井憩いの森8:57→大乗院9:04→常勝院9:10→四面塔稲荷神社9:18→満行寺(野寺)9:44→武野神社9:49→野寺カタクリ山10:15→黒目川8:38→石神稲荷神社10:43→浄明寺10:49→瀧見観音10:57→スパジアムジャポン11:10~13:20→野火止用水13:32→新堀一丁目憩いの森13:45→山田太郎 清瀬北口店14:05~14:30→清瀬駅14:31

合計6時間13分(温泉、ラーメン除く)

コース

総距離
約19.4km
累積標高差
上り約67m
下り約67m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

4月6日(土)は、午前中雨が降りそうだったので、先週の続きで、空白になっていた西東京市に行って来ました。空白になっていた理由は平坦な台地の上で起伏がないので、城も山も何も無いせい。しかも東京23区に近くて洪水の心配もないのため宅地化が進んでいる。でも無理矢理神社仏閣をつないで縦走してきました。

今日のスタートは西武新宿線の「東伏見駅」です。すぐ近くに早稲田大学の施設があるため、思いの外雰囲気の良い駅でした。駅名の由来は昭和4年(1929)に近所に東伏見稲荷神社が創建されたことに由来するそうです。それまでは「上保谷」という駅名だったそうです。

駅から早稲田大学の横を南に進むと、まず「下野谷遺跡公園」があります。下野谷遺跡は東伏見二丁目、三丁目、六丁目の広範なエリアに複数存在した縄文時代中期の環状集落跡で、環状集落が石神井川の谷を挟んで存在しており、平成27年3月に一部が国史跡に指定されました。公園の地下には、西集落の一部が保存されており、解説板や立体模型が置かれています。

続いて駅名にもなった「東伏見稲荷神社」です。京都の伏見稲荷神社から分霊を奉迎して建てられた伏見稲荷の東京支店のような神社で、東伏見と云う神社名は京都伏見から見て東あるためで、「東のお稲荷様」と親しまれています。祭神は稲荷で一般的に祀られている農業と衣食住の神の「宇迦御魂大神」の他、交通の神「佐田彦大神」、芸能の神「大宮能売大神」を祀っています。

東伏見稲荷神社は「保谷氏館」があった場所ともいわれています。石神井城や練馬城などと同じ石神井川沿いの河岸段丘に造られた城で、保谷氏は出自不明ですが、この辺りを開発した一族といわれています。後で行く予定の「東禅寺」の開基に「保谷出雲守直政」の名が残っています。東禅寺の創建は秀吉の小田原征伐後の文禄3年(1595)年とされるため、保谷氏が城館を築いた年代も同じ頃と推測されてます。この辺りは元々太田道灌の曾である康資の領地でしたが、第二次国府台合戦で里見氏とともに後北条氏と戦って敗れ、その後北条氏も秀吉に滅ぼされたため、保谷氏は、領主が不在になったのこの土地に移住してきたと考えられています。保谷の地名は、先週の「穂谷」という豊かな穀倉地帯だったという説の他に保谷氏が開拓した土地だからとう説もあります。

東伏見稲荷神社の西側に「東禅院別院 柳澤禅寺」という東禅寺と関係がありそうな寺があったので覗いてみましたが、この辺りに多い斎場の1つのようでした。

並びの「徳雲寺別院 金剛寺」も覗いてみました。ここは斎場でこそないのですが、雑居ビルの1回にある小さなお寺です。ここは前田家三代藩主前田利常公(妻は徳川玉姫)の生母「寿福院」を中興の祖とする石川県七尾市にある「徳雲寺」の別院の曹洞宗寺院です。北斗山と号します。関東地方で教化活動をするために創建されたそうです。寺は小さいですが、八王子に大きな墓地を所有する他、幾つかの墓地の管理も行っているようです。

「柳沢津島神社」は家と家の間の狭い路地の奥にある拝殿がトタン建ての小さな神社ですが、奧には平成3年に神田神社の厚意によって譲り受けた江戸城中に鎮座していた江戸城最古(西暦721年)の江戸神社の本殿が収められているそうです。現在は田無神社の兼務社となっており、田無神社の境内にも境内社があります。

「田無神社」は、江戸に石灰を運ぶために造られた青梅街道の重要な宿場町であった「田無宿」の鎮守社です。鎌倉時代の正応年間に創建された当時は、1kmほど北に離れた北谷戸の宮山に鎮座しており、「尉殿権現社」と称していましたが、田無に宿場町が創設されたため、北谷戸の住人たちと共に1670年に移ってきました。その後、石灰の運搬は川越から舟を使うようになり、田無宿は寂れかかりますが、青梅から大菩薩峠を経由して甲府へ至る甲州裏街道が開通し再び賑わいを取り戻します。また武州御嶽山への参詣するための道としても結構な人の往来があったようです。神仏分離令により明治5年(1872)に尉殿権現社から田無神社と社名を改め、その後地域内の神社を合併しています。浅草の名匠「嶋村俊表」を招聘して造られた本殿は東京都指定文化財になっています。田無神社の元となった尉殿権現社は楠木正成が祀ったという伝承を持つ神社で、祭神の「尉殿大権現」は、級長津彦命と級長戸辺命(男女二座の風の神)を垂迹神としており、これらは雨と水と風を司る豊穣と除災の神様とされ、本地仏は倶利伽羅不動で、田無神社では顕現する際に金龍の姿をとると伝えています。この金龍神を中心に神社の東西南北に青龍神、白龍神、赤龍神、黒龍神が祀られています。

田無神社の道を隔てた西側にある真言宗智山派寺院の「田無山 總持寺」は、尉殿権現の別当だった西光寺が神社と共にこの地に移転してきたもので、明治維新後に近隣にあった密蔵院・観音寺と合併して、名前を総持寺に改めました。江戸時代に尉殿大権現社の拝殿に掲げられていたこの扁額は、権現の文字があるため神社に掲げることができないため總持寺が引き取り、「尉殿大権現 神号額」として西東京市指定文化財になっています。また天保13年(1842)から嘉永3年(1850)にかけて行われた本堂の再建工事の落慶を記念して植えられた樹木総持寺のケヤキは田無地区最大の樹木で、これも指定文化財となっています。境内の妙見堂には安政6年(1859)に製作された田無村名主の「下田半兵衛富宅の木像」が残されています。

總持寺の南西にある「下田半兵衛屋敷跡」は田無村の名主で、幕府の天領の代官だった下田半兵衛の屋敷跡で、ここも西東京市指定文化財となっています。ただし現在も子孫の方が住んでいるので中は見ることができません。「半兵衛」は下田家の歴代当主が襲名する名前で、下田半兵衛富永(1779~1850)とその養子である富宅(1801~60)が名代官として良く知られています。富永は飢饉に備えた救済用穀物を貯蔵する「稗倉(駐車場脇に現存)」を建て、また自分の所有する畑を「養老畑」として提供し、収穫物から得た金銭を村の70歳以上の老人に与えました。

「田無駅」に着きました。田無の地名の由来は、青梅街道の宿場町として栄え、地名についても「田んぼが無いほど栄えていることから田無と呼ばれるようになった」という説があります。本当かな~?

駅の西側の田無小学校にあるのが「養老畑碑」です。創設されたのは安政年間(1854~59)と推定され、下田半兵衛富宅は自分の所有地1町歩(約1ha)を提供しました。なおこの石碑は当時養老畑のあった田無神社の裏手付近標識として立っていたのを、この場所に移したものだそうです。

朝倉山一乗院と号する真宗大谷派寺院の「遍立寺」は、寛永5年(1628)に越前一乗谷城主朝倉義景の末男朝倉信景(法名慶専法師)が東本願寺12世教如上人の弟子となって出家し、戦乱を避けて江戸桜田門外に創立したのが始まりで、その後谷中車坂、三十三間堂前浅草松葉町への移転しますが、太平洋戦争で全焼したため、昭和27年当地へ移転してきたそうです。

田無の付近は尾張藩徳川家の鷹狩場でもあって「石裂尾張藩鷹場標柱」が道路脇に集められています。解説板が設置されています。この鷹狩場は享保2年(1717)に復活した物で、同じような境界石が83本、上保谷村に9本の御定杭があったそうです。すぐ近所にある「西浦北向地蔵尊」も同じ頃に設置されたものだそうです。

「心光寺」は普通の家のような浄土真宗本願寺派寺院で、昭和46年に宗教法人として登記されています。布教所でしょうか?

この先「保谷四軒寺」という寺が続きます。寺が集まっている辺りは若干の窪地になっており、湧水があったようで、今も地下を流れる水の音を聞くことができます。一軒目の「慈光山 薬王寺 宝樹院」は真言宗智山派寺院です。源空法印(正徳元年(1711)寂)により旧字上宿に薬師如来を本尊とする密教の祈祷寺として開山し、昭和6年(1931)に現在地に移転してきました。江戸時代初期の万治2年(1659)に、如意輪寺・寶晃院と共に石神井公園の三宝寺の末寺となっています。

保谷四軒寺の2件目は「金輪山 明王寺 寶晃院」です。ここも三宝寺の末の真言宗智山派寺院です。創建年代は不詳ですが、江戸期には尉殿権現(尉殿神社)と杵築大社の別当寺を勤めていたといいます。

3件目は「光明山 福生院 如意輪寺」です。ここも三宝寺の末の真言宗智山派寺院です。創建年代は不詳ですが、正保4年(1647)銘の墓石があるので、上保谷村とほぼ同時期に創建されたものと推定されています。

「尉殿権現社」は先ほどの田無神社の旧地です。ただより古くは谷戸の宮山にあり、元和8年(1622)に現在の上保谷(上宿→住吉町)に移ってきたようです。田無神社の場所に遷座されるのはその後の正保3年(1646)です。古くから上保谷村の総鎮守社で、創建は上保谷の伝承では建長年間(1249~56)、田無の伝承では正応年間(1288~92)とされています。幕末まで本地垂迹思想=神仏習合に基づく神社で、生活用水を守護する水の神ジョードノを祀っていました。ジョードノとはインドの神様のように見えますが、漢字で「重殿」「増殿」「水殿」と書いてこのように読むらしく、いずれも湧水や用水を意味するそうです。あと別当寺ですが、田無神社と別当寺の西安寺が移転した後は寶晃院が務めていたようです。

保谷四軒寺の最後は「祥髙山 東禅寺」です。西光寺が移転したため保谷四軒寺に加えられた寺で曹洞宗の寺院です。浄牧院十二世蘭室秀芳和尚の隠居寺として、13世蘭室芳大和尚(寛文11年(1671)寂)が開山となり、保谷氏館跡の「保谷出雲守直政(法名禰祝祥高居士、元和7年(1621)寂)」が開基となって創建された伝えられています。幕末の万延元年(1860)の六地蔵菩薩立像が西東京市指定文化財となっています。

「保谷天満宮」は、国立の谷保天満宮を想起させる名前の神社ですが、岩崎源兵衛さんという方が昭和57年11月吉日に設置した石祠だけの小さな神社です。横にある報恩感謝の碑によると、岩崎さんは幼少の頃から天神様を信仰していたお陰で成績優秀で難関高へも合格し、卒業後、教師になってからも自身の教育法が受け入れられ、学校はモデル校になるなど脚光を浴び、校長先生まで上り詰めることができたそうです。

「南入経塚遺跡」は西武池袋線の線路をくぐるトンネルの手前に解説板だけが残っている遺跡です。解説板にありし日の写真が掲載されています。ここには古くから「弾中塚」「経塚」と呼ばれる大きな塚があり、『新編武蔵風土記稿』には「鐘塚 村の北にあり 経塚 村の南にあり 相伝うこの二つの塚は、隣村小榑村妙福寺開山日延聖人改宗の日、経文及び鐘をこのところへ埋め、その上へ塚を築きたる」の記述が残っていますが、発掘調査の結果、経塚であることは確認できなかったそうです。かといって古墳でもなく、道標か村と村の境界をしめす境塚だったのではないかといわれています。塚にあった3基の石塔は福泉寺に移されており、題目塔には大梵天王・帝釈天王が刻まれていることから、「天王山」とも呼ばれていたそうです。

西武池袋線の北側に移ると、先週同様日蓮宗の影響が強くなってきます。「下保谷天神社」は天正期(1573~91)の初めに福泉寺持の三十番神社として創建された神社で、明治維新の神仏分離令で三十番神のうちの天神を祀る天神社となりました。奉納題目塔2基が遺されています。

その「福泉寺」は保谷山と号する日蓮宗寺院です。創建年代は不詳ですが、僧日眼(大徳年間(1297~1307)遷化)による開山したと伝えられています。下保谷天神社に祀られていた木彫彩色三十番神神像があり、西東京市の文化財となっています。

「下保谷森林公園」「新井憩いの森」は、市街地に残された武蔵野の林です。

工事中の「新井山 円福寺 大乗院」は、西中山 妙福寺の末寺頭であった日蓮宗寺院で、日讃上人(永徳2年(1382)没)により創建されたと伝えられています。関宿藩久世大和守の祈願所になっていました。また寅さんで有名な柴又帝釈天題経寺の帝釈天の分身である帝釈天王像が帝釈堂に祀られており、庚申の日に帝釈天例祭が行なわれています。

「常勝院」は資料がない普通の家のような寺なのですが、幸福の科学の映画のポスターが張られていました。

「四面塔稲荷神社」まで行って折り返します。神社の名前の由来は、近くに題目塔の四面塔があったことから来ているそうです。創建年代等は不明ですだが、江戸時代初期頃から祀られていたと伝わっています。覆屋内にある本殿は「西大泉の稲荷神社本殿」として練馬区有形文化財に登録されているそうです。この辺りの小社はみな諏訪神社(西大泉3-13-3)に合祀されたのですが、この神社だけそれを拒んだため、現在も残っているということです。別当は円福寺(現大乗院)持だったそうです。

黒目川の河岸段丘を下ります。下にある「八幡山 彌陀院 満行寺」は武野神社の元別当寺であった真言宗智山派寺院です。平安時代の歌人在原業平や、『廻国雑記』を著した聖護院門跡道興が歌に詠んだ「野寺」ではないかといわれる古刹です。

「武蔵野の野寺の鐘の聲聞けば遠近人ぞ道いそぐらん」(在原業平/825-880)

「音に聞野寺を問えば跡ふりて こたふる鐘もなき夕哉」(道興准后/1430-1527)

創建当時は旧十二天村(現新座市道場)にあり、七堂伽藍が甍を連ね、鎮守正八幡宮以下三十餘座の末社を持つ巨大な寺院でした。後北条氏の時代の終わりに現在の地に移り、以後満行寺周辺を野寺村と称するようになったということです。その後、元禄年間に石神井公園の三宝寺第十九世日宥の弟子権大僧都栄秀が入寺して中興開山しています。さらに大正8年、高尾山薬王院貫首第二十七世武藤範秀大僧正の弟子である菅谷秀元師が中興十八世として入寺し、現在は高尾山薬王院の法類寺院となっています。

河岸段丘にある「武野神社」は、源義家が前九年の役(平安時代後期)で東征の途上で立ち寄り、戦勝祈願した際に社を北向きに変更したという伝承が残っています。そのためかつては源氏の氏神を祀る八幡社で、丘陵上の八幡山と呼ばれる場所に祀られていました。八幡山の麓から湧き出す湧水は、この辺りの田畑を潤していたそうです。

歩いていたら「野寺カタクリ山」の道標を発見したので急遽向かいます。黒目川の河岸段丘の北斜面を整備した緑地で、この日は天気があまり良くなかったため、カタクリの開き具合もイマイチ。でもニリンソウやムサシアブミなども見ることができました。

「黒目川」を渡ります。目黒川と並び称される桜の名所なのですが、桜並木は上流と下流だけのようで、この辺りは桜はあまりありません。

石神会館の横にある「出世稲荷神社」のある場所は、元は氷川神社が建っていたそうです。氷川神社は広い境内を持つ神社でしたが、八幡神社と共に武野神社に合祀され、跡地には稲荷神社が建てられました。

「浄明寺」は現在は墓地になっている単立寺院です。宝永年間(1704~10)に、石神村の字清水から観音銅像と瀧山浄名寺と記載された鐸とが発見されたため、黄檗宗の僧を招待して庵室を草創したのが始まりということですが、この辺りの土地は満行寺の持であったため、起訴されて堂宇は破却されたそうでです。

浄明寺の「瀧見観音堂」は残っていないものだと思っていたら、黒目川の対岸の河岸段丘にありました。先程のほぼ廃寺状態だった浄明寺との関係は不明。

そして本日の温泉「スパジアムジャポン」に着きました。広くて人気のある日帰り温泉なのですが、泉質は無色透明でpH7.8の弱アルカリ性のナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉で、あまり温泉感はありません。そのせいか料金は平日850円、土日950円と安めです。食堂がフードコートになっていて、ピザとかも食べられます。

「新堀一丁目憩いの森」は未整備の緑地で、入れる場はあまりありません。

今日は清瀬駅前にある山田うどんの新業態のタンメン屋「山田太郎 清瀬北口店」で昼飯にします。一度入ってみたかったのですが、店舗が少なくて今日になってしまいました。山田太郎という名前はニューヨークで山田うどんが出したTAROというレストランから来ているそうです。当店イチオシと書かれた「濃厚タンメン」とランチセット「彩の国黒豚餃子」を注文!濃厚タンメンは鶏ガラと豚骨の合わせスープに地元埼玉県産野菜を乗せたヘルシーなタンメンで、スープは濃厚というほど濃厚ではなく食べやすい味でした。埼玉県産の黒豚を使った餃子は肉餃子かと思っていたら、満州風の野菜餃子でこれもヘルシーな味。

清瀬駅に着きました。

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