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群馬藤岡駅周辺(富士浅間神社~藤岡城跡~庚申山公園など)

龍源寺、一行寺、富士浅間神社、奧浅間神社古、良信寺、関孝和の顕彰碑、藤岡城跡、光徳寺、山崎神社、庚申山総合公園、庚申山、常岡城跡、別所堂山古墳、大神宮山城跡、上藤岡諏訪神社、天龍寺、増信寺、日航機墜落事故遭難者遺体安置所の碑、藤岡町道路原票、藤岡事件慰霊碑( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

バス
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→新町→日本中央バス上野村行→群馬藤岡駅

復路:群馬藤岡→八高線→倉賀野→上野東京ライン→赤羽→埼京線→新宿→山手線→目黒

この登山記録の行程

群馬藤岡駅バス停7:02→龍源寺7:12→一行寺7:22→富士浅間神社7:26→奧浅間神社古墳(藤岡町2号墳、八坂神社)7:33→良信寺7:46→西蓮寺7:54→関孝和の顕彰碑(藤岡中央公園)7:57→城山公園8:03→稲荷神社(藤岡1563-10)7:06→藤岡城跡(芦田城)8:10→光徳寺8:30→山崎神社8:52→ふじふれあい館8:56→ふじの咲く丘9:00→ひょうたん池9:12→だるま池9:16→庚申山(189.5m)9:30→常岡城跡9:58→溜め池10:17→平地神社10:24→別所堂山古墳(美久里村38号墳)10:35→さくら山展望台11:00→神明宮11:13→大神宮山城跡11:16→おおぎや藤岡店11:24~40→上藤岡諏訪神社11:53→天龍寺12:04→一丁目の道標・増信寺12:10→日航機墜落事故遭難者遺体安置所の碑12:14→金光寺(鮭稲荷)12:12→藤岡町道路原票12:24→成道寺(藤岡事件慰霊碑)12:26→群馬藤岡駅12:38

合計5時間22分(ラーメン除)

コース

総距離
約15.3km
累積標高差
上り約255m
下り約255m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

4月13日(土)は、再び群馬藤岡に戻り、駅西側を群馬百名山の庚申山まで行って、一回りして来ました。こちら側には「藤岡城跡」等もあり、東京ではだいぶ散ってしまった桜が満開でした。

今日のスタートも「群馬藤岡駅バス停」です。八高線で来るより新町から上野村行のバスで行った方が早いのでまたそれを使いました。群馬藤岡駅前は今はシャッター通りばかりですが、十石峠街道と信州姫街道が合流する地点にあったため、江戸時代は桐生と並び称される絹の集積地として大いに栄えていたそうです。

藤岡には、徳川時代にここを治めていた「芦田氏」ゆかりの寺が多くあり、最初の「嶺嶽山 龍源寺」もその1つの曹洞宗寺院です。天正年間(1573~93)に芦田康国が開基となって創建されたため、石柱門に「芦田康寛公持佛得大勢至菩薩」と刻まれています。他に日露戦争の戦死者の慰霊を目的に奉られた162体の軍人木像も有名だそうです。

次の浄土宗寺院の「藤岡山 一行寺」には、巴御前(源義仲の妾)の持仏ともいわれる平安時代から鎌倉時代初期に制作された観世音菩薩があります。この像は法然の弟子の津戸三郎為守入道尊願法印によって仁治元年(1240)にもたらされたそうです。一行寺身代わり観音として今も信仰を集めており、昭和43年(1968)に藤岡市指定重要文化財に指定されています。寺は、天正19年(1591)に芦田幸正が現在の場所にを移転しています。

「富士浅間神社」は、藤岡の地名の由来となったといわれる神社です。創建は平安時代に高さ5m・径40×44mの「浅間神社古墳」(藤岡町1号墳)の上に社を祀り、「従五位上郡御玉明神」と称したのが始まりとされています。その後「日蓮」が、御赦免され佐渡から帰る途中に富士山の分霊を祀って富士浅間神社とし、いつしか「富士岡」と呼ばれるようになりました。この富士岡を漢字で書くと隣の富岡と紛らわしいため、藤岡と書かれるようになったのが藤岡の地名の始まりだそうです。

富士浅間神社の隣の浅間公園にも「奧浅間神社古墳(藤岡町2号墳)」という高さ5m・径25×30mの古墳が存在しており、上には八坂神社が祀られています。

曹洞宗寺院の「士峰山 良信寺」も芦田氏ゆかりの寺です。天正19年(1591)藤岡城主・芦田康勝が、祖父信守の菩提を弔うため創建しました。寺名は信守の法名の昌林院殿月桂良信大居士からとられています。康勝が奉納した不動尊が芦田厄除け不動として信仰を集めており、かつては不動堂がありましたが、現在不動尊は本堂内に安置されているそうです。他に群馬県立藤岡高創立の碑があるはずだったのですが、寺が保育園の中にあるような感じになっていて、あちこち覗けなかったので、発見できませんでした。藤岡高卒業生には元BOOWYの氷室京介やBUCK-TICKの櫻井敦司、今井寿、星野英彦らがいるそうです。ちなみに中山秀征も藤岡市出身ですが、中3で神奈川県川崎市の中学に転校しています。

「清涼山 西蓮寺」は芦田家とは関係ありませんが、平成27年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公だった吉田松蔭の妹「文」(井上真央)の姉で、後に群馬県令になる小田村伊之助(※後に楫取素彦と改名。大沢たかお)の妻となる「寿」(優香)ゆかりの浄土真宗寺院です。吉田松陰の育った山口県は浄土真宗が盛んで、松陰の母滝や寿は熱心な信者でした。しかし移住した先の群馬県には真宗寺院が1つもなく、この状況を嘆いた寿は夫の楫取素彦に相談し、京都西本願寺の御門主「第21代明如上人(大谷光尊)」に手紙を書き、山口から開教使「小野島行薫」が派遣されることとなりました。行薫の下で群馬・埼玉地域の布教を行った艸香唯道が開基となって創建されたのが西蓮寺とのことです。

西蓮寺の東側の「藤岡中央公園」にある「関孝和の顕彰碑と銅像」は、寛永14年(1637)藤岡で生まれの「算聖」とも呼ばれる和算の大家「関孝和」(宝永5年(1708)没)の碑です。円周率の小数点以下第15位まで算出していたそうで、ライプニッツやニュートンと並ぶ世界3大数学者と地元ではいわれています。孝和は才能を買われて、甲府藩の徳川綱豊に仕え、30歳の時に勘定吟味役となり、土地の測量などの仕事をしていましたが、その後、綱豊が第六代将軍の座につくと、直参となって江戸へ赴き、西の丸御納戸組頭に任ぜられ、金品の出納の仕事をするようになり、最終的には宝永元年に小普請役にまで上り詰めています。墓は江戸にありましたが昭和33年に藤岡の光徳寺に移されています。関孝和の関家は利根川と江戸川の分岐点周辺を治めていた関藩の関家と同族で、下野の小山・結城の流れをくみます。孝和は内山家から両親の死後ここに引き取られるのですが、関家が遠い藤岡にも存在していた背景には関東進出を目指していた武田が小山と姻戚関係を結んでいたことがあるようです。ちなみに孝和の旧姓内山は武田の一族だそうです。

「藤岡中央公園」は単なる広場なのですが、藤岡城趾に移転した藤岡第一小学校が1977年まであったそうです。あえて城跡を潰してまで移る必要があったのかと思ってしまうんですけど…。

その先の「城山公園」は、城跡の一部になるようですが、単なる普通の児童公園です。

「稲荷神社(藤岡1563-10)」は、本庄の城山稲荷神社のような城に関係のある稲荷かとも思ったのですが、駐車場の中にある元屋敷神のような小さな神社でした。由緒も不明です。

そして「藤岡城跡」です。栃木県にも藤岡城(黒袴藤岡城、下野藤岡城)があるため、区別するため「上野藤岡城」とも呼ばれるようです。また江戸時代にこの地を領有した芦田氏の城なので「芦田城」ともいうようです。単純な方形の居館といってもおかしくないような城で、現在は藤岡第一小学校が建っています。小学校裏の城址緑地に巨大な土塁が残っています。土塁は2つに分かれていて、東側の土塁の上にある「藤岡地区英霊碑」の所に95.2mの三角点があります。西側の土塁には「井元たい女史の像と顕彰碑」があります。この方は作家やフェミニズムの活動家ではなく、藤岡城跡の土地をを所有していて寄付してくれた方だそうです。

「藤岡城」は、天正18年(1590)に芦田(依田、松平)康勝によって築かれました。しかし慶長5年(1600)大阪で囲碁を打っていた時に、家康の家臣小栗三助に、何度やっても康勝に勝てないはらいせに「兄のお古で満足している奴の気が知れない」と、戦死した兄松平康国の嫁を不憫に思い娶っていたことを馬鹿にされ、激高して三助を刺殺してしまったため改易となり、藤岡城も廃城となりました。ただそういう話なので、高野山で謹慎し浪人生活を送った後、結城秀康に召し抱えられ越前木本で5千石を与えられています。藤岡は幕末まで旗本領を主に細分統治されたそうです。

「芦田氏(依田氏)」は、佐久地方の芦田城を拠点としていた武田の武将で、康勝の父信蕃は勇猛果敢なことで知られ、天正10年(1582)の武田氏滅亡の際も、駿河田中城で徳川家康の猛攻に耐え抜き、その姿に感銘を受けた家康に家臣になるように求められますが、その場は「義が通らず」ということで国に帰り、後日、徳川の家臣となって信長没後の信州を平定し、家康から諏訪・佐久郡を与えられています。信蕃は佐久岩尾城攻略の折、鉄砲で撃たれた傷で没しますが、家康は嫡子康国に松平姓を与えて小諸城主に抜擢します。その康国も天正18年(1590)に上州石倉城の戦いで討死したため弟の「康勝」が家督を継ぐこととなります。

「龍田山 光徳寺」は芦田家の菩提寺である曹洞宗寺院です。創建は、文明2年(1470)佐久郡立科町芦田に芦田光徳の菩提を弔うための寺を建てたのが始まりで、天正18年(1590)、芦田康寛が藤岡に領地を得たため一緒に移転してきました。芦田家の五輪塔の他、関孝和の墓があります。正月明けの厄除け猿の大祭で有名です。願いがかない、厄が猿(去る)」ことを願って奉納された木のお猿さんがたくさん奉納されています。

「庚申山総合公園」を目指します。入口にある桜の園地のようになっている「山崎神社」は旧村社です。御祭神が倉稲魂命、火産霊命、菅原道真公となっているので、稲荷社をベースに愛宕社、天神社を合併して地名をつけた神社なのだと思われます。庚申山のある辺りは常岡(ときおか)といい、藤岡発祥の以前はこの辺り一帯は常岡郷と呼ばれていたそうで、神社の旧社殿建設の際に鎌倉期の板碑十数枚が発見されたそうです。あと天明大飢饉の供養塔もあります。

山崎神社の上には「ふじふれあい館」があり、その先が「ふじの咲く丘」です。季節柄、藤よりも桜が満開でした。藤岡の地名の由来には、富士浅間神社の富士岡説以外に単純に藤の咲く丘があったという説もあるため、それを表現する場所として造られた場所だと思われます。

北側の尾根から真ん中の谷戸に下りると、川の上流部にひょうたん池・だるま池・たぬき池という三段になった溜池のような池があります。ただ一番上のたぬき池は普段は水がないようです。

池から「ぐんま百名山」の中で最も標高が低い「庚申山」を目指します。谷間の小さな庚申塔が並ぶ道を登って行くと「庚申山山頂(189.5m)」に着きます。山頂には展望台と大きな庚申塔があって、この庚申塔が山名の由来だということです。

山頂でひと休みしたら、南麓の常岡城を目指します。庚申山は駐車場から周回が一般的なせいか、南側に下る国土地理院の地図にある道が通じておらず、大回りする必要があります。「常岡城跡」はラブホテルの手前から笹藪の中に細道が通じているのですが、奥に椎茸の栽培場があり、その先に堀切のある土塁に囲まれた平坦地があります。後で行く予定の「上藤岡諏訪神社」に、永享3年(1431)、「有田大舎人小属定景」(出自不明)が常岡城に居城するにあたり、諏訪大社の上社・下社を勧請して、上社は男神、下社は女神として、2社を崇敬祭祀していたという伝承が残っており、有田氏の城なのではないかといわれています。ただ有田氏の城は栃木県の藤岡にあるといわれ、断言はできないようです。また平井城支城との説もあります。城跡の南側には「城の腰」という小字名が残されているそうです。

常岡城跡の下の溜池あたりが笹川の源流です。その先にある「平地神社(本郷1658-4)」は、藤岡市で2つある平地神社の1つで、もうい1つの古墳の上にある方が有名で、こちらの小さいのはその分社ではないかといわれています。

「別所堂山古墳(美久里村38号墳)」は読めない説明板がある墳長34m、後円部径19m、前方部幅20m、高さ3m、6世紀後半築造の前方後円墳だそうです。墳頂に手長神社があります。

古墳から再び庚申山の尾根道に戻ると桜の園地になっている「さくら山展望台」に着きます。ここも満開でした。

さくら山展望台から北に下ると、配水場の先に「神明宮」があります。芦田康勝が祖先の芦田光玄の霊を祀った信州芦田・神明神宮をこの地に移転し、芦田大明神と称したのが始まりだそうで、今は藤岡神明宮もしくは芦田町神明宮と呼ばれているようです。神明宮があるので、ここの辺りを「大神宮山」と呼ぶそうです。

「神明宮」から道の無い尾根の林の中の戻るように進むと、盛土の上に建てられた「摩利支天」の堂宇があり、その先に土塁のような物が残っている場所が「大神宮山城跡」です。土塁の向こう側に堀の跡のような物もありますが、その先は笹藪が酷くて入れませんでした。ここは築城者不明の城跡で、場所的に平井城の支城の一つなのではないかといわれています。

庚申山を離れて群馬藤岡駅の方に戻ります。本郷交差点のそばに「おおぎや 藤岡店」があったので、そこで昼飯にしました。くるまやから分かれた味噌ラーメンのチェーン店で、群馬県を中心に店舗を展開しています。この間、児玉でもつ煮のセットを食べたので、今回は「マル得味噌ラーメンと半チャーハン」のランチセット1,060円を頼んでみました。ラーメンの味はこの間と一緒の濃厚味噌ラーメンなのですが、チャーハンは薄味のちょっとピラフっぽい優しい味でした。

「上藤岡諏訪神社」は、古くから「お諏訪様」と呼ばれ、藤岡宿の人達に親しまれてきた神社で、前方後円墳の「諏訪古墳」上に社殿があります。創建は、常岡城跡のところで書いたように、上代から上野国緑野郡正四位椙山明神として、明神の荒魂と和魂を上下二社に分けて祀っていたものを、永享年代には常岡城に居城していた「有田大舎人小属定景」が崇敬祭祀していたそうです。ただ永禄9年(1566)芦田下野守信守が藤岡城に居城した際に、信濃国一の宮諏訪大社の上社下社から剣一口、鏡一面を請い受け神霊として南山に上社、当社に下社を奉斉して領民と共に崇拝するようにしたという伝承もあります。芦田氏が藤岡を去った後に上の社は下の社に合祀せられたようですが、その後も藤岡領18村の総鎮守として崇拝されてきたそうです。ただ明治に入り村社は砌谷町の神社がなり、無格社となったそうです。境内には別に「諏訪神社北古墳」もあり、その上には高山社の「高山長五郎功徳碑」が建てられています。

日蓮宗寺院の「福聚山 天龍寺」は、元は長源寺という名前で、日蓮が佐渡の流刑地に赴く際に泊った谷川長源の屋敷だったそうです。鎌倉帰還時にもこの邸に宿泊しており、日蓮直筆の「方便品十六字」なるものが残されています。長源寺は文禄2年(1593)、領主の室の了源院殿日脱大姉によって藤岡城下へ移転され天龍寺となりました。

「増信寺」の門前にある「一丁目の道標」は天保3年(1832)11月建立の道標で、路に迷う旅人が多かった三又路に建立されたとのことです。昔は今の一丁目交差点から少し東へ進んだ辺り(藤岡市藤岡447)に建てられていました。ここで交わる街道は十石街道と下仁田街道(姫街道)ですが、道標には「左 江戸」「右 秩父」と記されています。

「佛道山 増信寺」は、天正14年(1586)に斉藤増信が創建した浄土宗寺院です。

増信寺を出て、先ほどの藤岡中央公園に沿って進むと、地域づくりセンター藤岡の前に「日航機墜落事故遭難者遺体安置の碑」があります。1985年(昭和60年)8月12日に墜落した日本航空123便の乗客の遺体が安置されていた旧藤岡市民体育館がかつてここにあったそうですが、さすがに体育館はそのまま使えなかったんでしょうね。南無阿弥陀仏。

天台宗寺院の「白狐山 医王院 金光寺」は、また芦田氏ゆかりの寺です。今から650年ほど前に、信州佐久郡芦田郷において釈光全法印が開山し、芦田備前守光徳が信州芦田郷に築城の際に城の鎮護寺としたのが始まりで、150年後の天正19年、信州から藤岡に移封となった芦田右衛門太夫松平康貞が藤岡城を築くにあたって正鬼門の鎮守として信州よりこの地に移転されたそうです。そのため古くから「鬼門封じ」「厄除け」のお寺として信仰を集めてきたそうです。境内には伝教大師の伝説がある「鮭塚稲荷」があり、その縁起から山号を「白狐山」と称したと伝えられています。また、宗派が違うと思うのですが、藤岡成田山節分祭が有名です。

駅の方に向かうと今度は「藤岡町道路元票」が四丁目交差点の北東側の食堂山形屋の角にあります。これは大正時代に全国に建てられた道路の起点の標識で、ここが藤岡町の町道の起点でした。

「十劫山 大通院 成道寺」も、天正14年(1586)に斎藤左次右衛門増信を開基とし、頂蓮社上譽上人大通和を開山として創建された浄土宗寺院です。増信寺と開基と年号が一緒なので同じ寺が分かれたのかもしれません。ここの墓地には「朝鮮人犠牲者慰霊の碑」が建っています。大正12年9月1日に関東大震災が起こり、9月5日、猟銃や日本刀、竹槍で武装した群集は藤岡警察署へ押しかけ、留置所内にいた17名の朝鮮人を虐殺しました。この事件は「藤岡事件」といわれています。

「群馬藤岡駅」に戻って来ました。ちょうど高崎行の八高線の時間だったので、今日は倉賀野で高崎線に乗り換えて帰ります。

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