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真下城跡~塩沢城跡~諸松城跡

北向き稲荷大明神、真下城跡、塩沢城跡、諸松城跡、満福寺、譲原掘ノ内、道の駅上州おにし( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

バス
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→新町→日本中央バス上野村行→鬼石保育園入口

復路:神泉総合支所→朝日バス本庄駅南口行→本庄→湘南新宿ライン→恵比寿→山手線→目黒

この登山記録の行程

鬼石保育園入口バス停7:41→林道分岐7:47→北向き稲荷大明神7:50~8:00→送電線鉄塔(登山道入口)8:03→真下城跡迄100m標識8:19→真下城跡8:25→標高400.4m三角点9:06→未舗装の林道9:13→塩沢城跡分岐9:35→塩沢城跡10:00~10:05→地蔵尊石碑・舗装された林道10:49→諸松方面分岐10:57→諸松集落11:10→諸松城跡入口11:12→2件目の廃屋11:17→諸松城跡11:25~30→満福寺12:55→譲原文明の板碑(譲原掘ノ内=真下氏居館跡)13:00→道の駅おにし13:09~13:29→神泉橋13:43→神泉総合支所バス停13:58

合計5時間7分(カレー除く)

コース

総距離
約13.1km
累積標高差
上り約956m
下り約952m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

4月20日(土)は、前から名前だけ出ていて後回しになっていた「真下城跡」を中心に「塩沢城跡」「諸松城跡」と「譲原掘ノ内」という真下氏の居館跡を回って来ました。つなぎの林道を除くとほぼ全部バリエーションルートなのですが、わりと道がわかりやすく、難所もなく、城跡の遺構もしっかり残っており、悪くない場所でした。ただ道に間伐の枝が散乱しているので、靴はトレランシューズではなく登山靴がお勧めです。

今日も新町駅から上野村行の日本中央バスに乗り、三波川を渡ってすぐの「鬼石保育園入口バス停」(151m)まで行きます。

バスを降りたら十石街道(国道462号)を渡り三波川沿いの集落に入ります。5分ほど行くと山に入る林道の入口(165m)があるので、そこを左折してひと登りすると「北向き稲荷大明神」(182m)があります。テーブルとベンチがあるので、ここで登山の準備を整えます。北向き稲荷大明神は由緒は不明ですが、茶色いペンキが塗られた意外ときれいな神社です。

そのままさらに林道を5分ほど進むと送電線鉄塔(215m)に突き当たったところで林道は終り、ここから山道となります。テープが貼られたところから荒れた竹林に入ります。道は、踏み跡は一応あるのですが、倒木の多いほぼバリエーションルートいった感じです。この道はグーグルマップで、江尻光良さんという青い服のちょっと白髪のある眼鏡をかけたおじさんが、2024年2月に撮影したストリートビュー載っているので、事前にパソコンやスマホで確認することができます。しかも山道に入って10分もたたないうちに、標高約250m辺りから堀切等の遺構が出くるので、思っていたよりはるかにイージーな城跡でした。そして短い急斜面と掘切で区切られた平坦地を2つ越えると古びた石祠のある広い平坦地に登りつき、ここが「真下城本郭」(316m)です。平坦地の南西端に真下城跡の標識があります。真下城は西側にも深い2本の堀切とそれに挟まれた平坦地があります。

「真下城跡(譲原城)」は、承平5年(935)に平将門が築城したとの伝承がありますが、これは城峯山の将門伝説の延線上に造られたものなので無視してよく、築城者は児玉党の子孫の「真下伊豆守吉行」と伝わっています。真下氏は平井城の山内上杉氏の陣営に属しており、天文年間(1532~54)に、その支城として造られたのではないかというのが定説となっています。おそらく同じ支城である安保氏の御獄城とも密に連携をとっていたのだと思われ、この安保氏との関係が真下氏は児玉党ではなく丹党ではないかといわれる要因となっている気がします。元の領地も隣り合っていますし、姻戚関係も結んでいたのでしょう。しかしその後、天文20年(1551)8月に北条氏康の平井城侵攻に伴い落城し、城を守っていた真下吉清は帰農しています。真下城はしばらく北条の城として使われますが、天正18年の秀吉の小田原征伐に伴い廃城となります。御獄城同様に途中で一時的に武田の城にあった可能性もあり、遺構には真下氏だけでなく、北条氏や武田氏の手が加わっている公算が高いそうです。南麓の満福寺がある辺りに「譲原堀の内」という地名が残っており、ここが平時の城主の居館であったといわれています。

真下城から稜線を西に進みます。尾根は標高295mの峠まで下ると上りに転じ、最後に多少岩っぽい場所を登り切ると石祠のあるピーク(400m)に着きます。その少し先に「標高400.4mの三角点」があります。三角点から先へ進むと左手に未舗装の林道が近づいて下くるので、適当なところで下り立ちます。

山腹を巻きながら未舗装の林道をしばらく進みます。「塩沢城跡分岐」(420m)は、桜山に行く「関東ふれあいの道」の分岐と一緒になっているので、標識もあって非常にわかりやすいです。関東ふれあいの道をしばらく下ると、道が右の谷底に下りて行くので、塩沢城跡へは尾根上を直進します。「塩沢城跡」(365m)は、分岐が420mなのでかなり下ります。いい加減ウンザリしてきたところで、植生が植林から自然林に変わり堀切が現れます。塩沢城跡のハッキリした遺構はこれだけなのですが、山頂までの間が2段になっていて、土塁の跡のような物も残っています。その他に東西の尾根に崩れた腰廓のような物も見てとれます。

「塩沢城」は、辿ってきた南側を除く三方が崖に囲まれている砦か物見台のような城跡で、西側にある「諸松城」もしくは東側の「真下城」の出城ではないかといわれています。戦争時の下の集落の避難所という見解もあるようです。築城者もはっきりしないのですが、諸松城の支城ならば栗本氏か本間氏、真下城の支城ならば真下氏、三波川の北谷衆を統括していた飯塚氏などが考えられるそうです。

今来た道を林道まで戻り、次は「諸松城跡」を目指します。林道を先に進むと「地蔵尊」がある三叉路(450m)にぶつかり、その少し先で広い舗装された林道(440m)に出ます。林道を少し進むと廃墟化した木造の体育館があり、「島田峠」の標識があります。この辺りに北に下る近道があるはずだったのですが、廃道になったのか見つからなかったので、そのまま林道を行きます。林道は、関東ふれあいの道の案内板がある450m地点で2つに分かれるので右側へ進みます。さらにその少し先の分岐(470m)で右側の三波川方面に下る林道に入ります。道の反対側には地面に置かれた桜山の標識もあります。

しばらく下るとほぼ廃村状態の「諸松集落」に着きます。集落の中のヘアピンカーブ(347m)が「諸松城跡」への取り付きです。先程の分岐の標高が470mなので、ここでも100m以上下ったことになります。この辺りも先ほどの勇者・江尻光良さんがグーグルマップに2024年3月にストリートビューを上げてくれているので、それで事前に確認するのがよいと思います。道は2件の廃屋を経由して登って行きます。2件目の廃屋を通過した先に折れた「大天狗」の石碑があり、その下に最初の堀切があります。戻って上に上ると、南側に土塁の跡のような盛り上がりがある平坦地があり、さらに登ると頂上の本廓跡の平坦地(388m)に着きます。北側の一段高い土塁の跡のような場所にさらに石垣が積んであって、その上に「諸松城跡石碑群」と呼ばれる数枚の石碑が置かれています。これは石碑の内容から判断すると御嶽塚です。その北側に深くて急な堀切があり、平坦地を挟んでその先にも掘切があります。ここで城跡は終わりのようで、2つ目の堀切の先は自然地形の平坦な尾根となります。

「諸松城跡」は、「栗本土佐守藤原義秀」が築城したと伝わっています。その後、関東管領の上杉憲政が上野から越後へと逃れた後の天文年間に、上杉氏家臣の「本間佐渡守」の居城となり改修が加えられたそうです。他に、三波川沿いで勢力を持っていた「飯塚氏」が築いた「三波川城郭群(真下城、尾ノ窪城、枇杷尾根城、塩沢城(砦)、妹ヶ谷城)」の1つであるという見方もあります。いずれにせよ、ここも上杉勢のみならず、北条や武田など所有者が何度も変わった城で、その度に手が加えられていると考えられます。

諸松集落に戻ったら、今来た道をひたすら戻って真下城の寝小屋(平時の屋敷)の場所と言われる「譲原掘ノ内」と「満福寺」を目指します。

立派な山門のある「三波山 清水院 満福寺」に到着しました。延文3年(1358)に真下伊豆守勘解由左衛門尉吉行が開基となって創建された時宗寺院です。そのため真下氏の平時の館の跡に建てられたのではないかという説もあります。国指定重要文化財である『紙本著色泰西王候図(二幅)』を所蔵しており、これは17世紀前半の作品で、ヨーロッパの武将や軍人が描かれている大変珍しい物だそうです。また県指定重要文化財である『紙本著色達磨図』も所蔵していて、こちらもヨーロッパ風に描かれています。現在は両方共、群馬県立歴史博物館に保管されているそうです。また山門横にある満願石は、石峡より運んできた重さ7.5トンの巨大な三波石で、満福寺まで運ぶという大願が成就したことから満願石と名付けられたそうです。

満福寺の北側のヤマザキショップ中桝商店の向かい側の高い土手の上にある「譲原文明の板碑」は、真下氏に与力した上州白旗一揆の「横田一族」の生き残りが、一揆で戦死した一族を供養するために文明元年(1469)8月に建立した、来迎三尊(阿弥陀如来・勢至菩薩・観世音菩薩)のす梵字が刻まれた高さ約2m、幅55㎝、厚さ2.5~3.5㎝の板碑です。藤岡市の指定文化財となっています。

この板碑の北側一帯が「譲原掘ノ内」といわれる平坦地で、満福寺とは別に真下氏の居館があった場所といわれています。南北に水路が走っており、奧の方に立派な櫓門を備えた旧家が残っています。この辺りの地名「譲原」の由来には2説あって、土砂崩れの多い場所として「ゆれる」「ゆする」を語源としてつけられたという説と、慶長8年(1603)に当地を関東郡代・伊奈忠次に「譲り渡した」ことからついたという説があります。忠次は群馬県では現玉村町周辺の新田開発を行っています。

満福寺の少し手前に「道の駅 上州おにし」があるのでちょっと戻って覗いていきます。この道の駅は廃校になった旧譲原小学校跡に建てられているそうです。三波石に関する資料や譲原石器時代住居跡も展示してあったらしいのですが、見逃してしまいました。今日の昼飯は道の駅の食堂「暖炉亭」の名物「下久保ダムカレー」です。大1200円を頼んだら、決壊しそうなぐらい山盛りでした。ちなみに下久保ダムは万場の手前にある神流湖のダムです。味は万人向けの洋風カレーでもう少し攻めてもいい気がしましたが、唐揚げの中に西上州名物のコンニャクが入っていました。

帰りは「神泉橋」で神流川を渡って群馬県から埼玉県に入り、神川町の「神泉総合支所前バス停」まで歩いて、朝日バスで本庄駅に出ます。本庄に出る理由は、新町に出るより早く駅に着いて、1時間に1本の湘南新宿ラインの特別快速に間に合うから!熊谷辺りだったら各駅でもいいのですが…。

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