行程・コース
天候
晴れ
登山口へのアクセス
バス
その他:
往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→新町→日本中央バス上野村行→鬼石保育園入口
復路:神泉総合支所→朝日バス本庄駅南口行→本庄→湘南新宿ライン→恵比寿→山手線→目黒
この登山記録の行程
鬼石保育園入口バス停7:41→林道分岐7:47→北向き稲荷大明神7:50~8:00→送電線鉄塔(登山道入口)8:03→真下城跡迄100m標識8:19→真下城跡8:25→標高400.4m三角点9:06→未舗装の林道9:13→塩沢城跡分岐9:35→塩沢城跡10:00~10:05→地蔵尊石碑・舗装された林道10:49→諸松方面分岐10:57→諸松集落11:10→諸松城跡入口11:12→2件目の廃屋11:17→諸松城跡11:25~30→満福寺12:55→譲原文明の板碑(譲原掘ノ内=真下氏居館跡)13:00→道の駅おにし13:09~13:29→神泉橋13:43→神泉総合支所バス停13:58
合計5時間7分(カレー除く)
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
4月20日(土)は、前から名前だけ出ていて後回しになっていた「真下城跡」を中心に「塩沢城跡」「諸松城跡」と「譲原掘ノ内」という真下氏の居館跡を回って来ました。つなぎの林道を除くとほぼ全部バリエーションルートなのですが、わりと道がわかりやすく、難所もなく、城跡の遺構もしっかり残っており、悪くない場所でした。ただ道に間伐の枝が散乱しているので、靴はトレランシューズではなく登山靴がお勧めです。
今日も新町駅から上野村行の日本中央バスに乗り、三波川を渡ってすぐの「鬼石保育園入口バス停」(151m)まで行きます。
バスを降りたら十石街道(国道462号)を渡り三波川沿いの集落に入ります。5分ほど行くと山に入る林道の入口(165m)があるので、そこを左折してひと登りすると「北向き稲荷大明神」(182m)があります。テーブルとベンチがあるので、ここで登山の準備を整えます。北向き稲荷大明神は由緒は不明ですが、茶色いペンキが塗られた意外ときれいな神社です。
そのままさらに林道を5分ほど進むと送電線鉄塔(215m)に突き当たったところで林道は終り、ここから山道となります。テープが貼られたところから荒れた竹林に入ります。道は、踏み跡は一応あるのですが、倒木の多いほぼバリエーションルートいった感じです。この道はグーグルマップで、江尻光良さんという青い服のちょっと白髪のある眼鏡をかけたおじさんが、2024年2月に撮影したストリートビュー載っているので、事前にパソコンやスマホで確認することができます。しかも山道に入って10分もたたないうちに、標高約250m辺りから堀切等の遺構が出くるので、思っていたよりはるかにイージーな城跡でした。そして短い急斜面と掘切で区切られた平坦地を2つ越えると古びた石祠のある広い平坦地に登りつき、ここが「真下城本郭」(316m)です。平坦地の南西端に真下城跡の標識があります。真下城は西側にも深い2本の堀切とそれに挟まれた平坦地があります。
「真下城跡(譲原城)」は、承平5年(935)に平将門が築城したとの伝承がありますが、これは城峯山の将門伝説の延線上に造られたものなので無視してよく、築城者は児玉党の子孫の「真下伊豆守吉行」と伝わっています。真下氏は平井城の山内上杉氏の陣営に属しており、天文年間(1532~54)に、その支城として造られたのではないかというのが定説となっています。おそらく同じ支城である安保氏の御獄城とも密に連携をとっていたのだと思われ、この安保氏との関係が真下氏は児玉党ではなく丹党ではないかといわれる要因となっている気がします。元の領地も隣り合っていますし、姻戚関係も結んでいたのでしょう。しかしその後、天文20年(1551)8月に北条氏康の平井城侵攻に伴い落城し、城を守っていた真下吉清は帰農しています。真下城はしばらく北条の城として使われますが、天正18年の秀吉の小田原征伐に伴い廃城となります。御獄城同様に途中で一時的に武田の城にあった可能性もあり、遺構には真下氏だけでなく、北条氏や武田氏の手が加わっている公算が高いそうです。南麓の満福寺がある辺りに「譲原堀の内」という地名が残っており、ここが平時の城主の居館であったといわれています。
真下城から稜線を西に進みます。尾根は標高295mの峠まで下ると上りに転じ、最後に多少岩っぽい場所を登り切ると石祠のあるピーク(400m)に着きます。その少し先に「標高400.4mの三角点」があります。三角点から先へ進むと左手に未舗装の林道が近づいて下くるので、適当なところで下り立ちます。
山腹を巻きながら未舗装の林道をしばらく進みます。「塩沢城跡分岐」(420m)は、桜山に行く「関東ふれあいの道」の分岐と一緒になっているので、標識もあって非常にわかりやすいです。関東ふれあいの道をしばらく下ると、道が右の谷底に下りて行くので、塩沢城跡へは尾根上を直進します。「塩沢城跡」(365m)は、分岐が420mなのでかなり下ります。いい加減ウンザリしてきたところで、植生が植林から自然林に変わり堀切が現れます。塩沢城跡のハッキリした遺構はこれだけなのですが、山頂までの間が2段になっていて、土塁の跡のような物も残っています。その他に東西の尾根に崩れた腰廓のような物も見てとれます。
「塩沢城」は、辿ってきた南側を除く三方が崖に囲まれている砦か物見台のような城跡で、西側にある「諸松城」もしくは東側の「真下城」の出城ではないかといわれています。戦争時の下の集落の避難所という見解もあるようです。築城者もはっきりしないのですが、諸松城の支城ならば栗本氏か本間氏、真下城の支城ならば真下氏、三波川の北谷衆を統括していた飯塚氏などが考えられるそうです。
今来た道を林道まで戻り、次は「諸松城跡」を目指します。林道を先に進むと「地蔵尊」がある三叉路(450m)にぶつかり、その少し先で広い舗装された林道(440m)に出ます。林道を少し進むと廃墟化した木造の体育館があり、「島田峠」の標識があります。この辺りに北に下る近道があるはずだったのですが、廃道になったのか見つからなかったので、そのまま林道を行きます。林道は、関東ふれあいの道の案内板がある450m地点で2つに分かれるので右側へ進みます。さらにその少し先の分岐(470m)で右側の三波川方面に下る林道に入ります。道の反対側には地面に置かれた桜山の標識もあります。
しばらく下るとほぼ廃村状態の「諸松集落」に着きます。集落の中のヘアピンカーブ(347m)が「諸松城跡」への取り付きです。先程の分岐の標高が470mなので、ここでも100m以上下ったことになります。この辺りも先ほどの勇者・江尻光良さんがグーグルマップに2024年3月にストリートビューを上げてくれているので、それで事前に確認するのがよいと思います。道は2件の廃屋を経由して登って行きます。2件目の廃屋を通過した先に折れた「大天狗」の石碑があり、その下に最初の堀切があります。戻って上に上ると、南側に土塁の跡のような盛り上がりがある平坦地があり、さらに登ると頂上の本廓跡の平坦地(388m)に着きます。北側の一段高い土塁の跡のような場所にさらに石垣が積んであって、その上に「諸松城跡石碑群」と呼ばれる数枚の石碑が置かれています。これは石碑の内容から判断すると御嶽塚です。その北側に深くて急な堀切があり、平坦地を挟んでその先にも掘切があります。ここで城跡は終わりのようで、2つ目の堀切の先は自然地形の平坦な尾根となります。
「諸松城跡」は、「栗本土佐守藤原義秀」が築城したと伝わっています。その後、関東管領の上杉憲政が上野から越後へと逃れた後の天文年間に、上杉氏家臣の「本間佐渡守」の居城となり改修が加えられたそうです。他に、三波川沿いで勢力を持っていた「飯塚氏」が築いた「三波川城郭群(真下城、尾ノ窪城、枇杷尾根城、塩沢城(砦)、妹ヶ谷城)」の1つであるという見方もあります。いずれにせよ、ここも上杉勢のみならず、北条や武田など所有者が何度も変わった城で、その度に手が加えられていると考えられます。
諸松集落に戻ったら、今来た道をひたすら戻って真下城の寝小屋(平時の屋敷)の場所と言われる「譲原掘ノ内」と「満福寺」を目指します。
立派な山門のある「三波山 清水院 満福寺」に到着しました。延文3年(1358)に真下伊豆守勘解由左衛門尉吉行が開基となって創建された時宗寺院です。そのため真下氏の平時の館の跡に建てられたのではないかという説もあります。国指定重要文化財である『紙本著色泰西王候図(二幅)』を所蔵しており、これは17世紀前半の作品で、ヨーロッパの武将や軍人が描かれている大変珍しい物だそうです。また県指定重要文化財である『紙本著色達磨図』も所蔵していて、こちらもヨーロッパ風に描かれています。現在は両方共、群馬県立歴史博物館に保管されているそうです。また山門横にある満願石は、石峡より運んできた重さ7.5トンの巨大な三波石で、満福寺まで運ぶという大願が成就したことから満願石と名付けられたそうです。
満福寺の北側のヤマザキショップ中桝商店の向かい側の高い土手の上にある「譲原文明の板碑」は、真下氏に与力した上州白旗一揆の「横田一族」の生き残りが、一揆で戦死した一族を供養するために文明元年(1469)8月に建立した、来迎三尊(阿弥陀如来・勢至菩薩・観世音菩薩)のす梵字が刻まれた高さ約2m、幅55㎝、厚さ2.5~3.5㎝の板碑です。藤岡市の指定文化財となっています。
この板碑の北側一帯が「譲原掘ノ内」といわれる平坦地で、満福寺とは別に真下氏の居館があった場所といわれています。南北に水路が走っており、奧の方に立派な櫓門を備えた旧家が残っています。この辺りの地名「譲原」の由来には2説あって、土砂崩れの多い場所として「ゆれる」「ゆする」を語源としてつけられたという説と、慶長8年(1603)に当地を関東郡代・伊奈忠次に「譲り渡した」ことからついたという説があります。忠次は群馬県では現玉村町周辺の新田開発を行っています。
満福寺の少し手前に「道の駅 上州おにし」があるのでちょっと戻って覗いていきます。この道の駅は廃校になった旧譲原小学校跡に建てられているそうです。三波石に関する資料や譲原石器時代住居跡も展示してあったらしいのですが、見逃してしまいました。今日の昼飯は道の駅の食堂「暖炉亭」の名物「下久保ダムカレー」です。大1200円を頼んだら、決壊しそうなぐらい山盛りでした。ちなみに下久保ダムは万場の手前にある神流湖のダムです。味は万人向けの洋風カレーでもう少し攻めてもいい気がしましたが、唐揚げの中に西上州名物のコンニャクが入っていました。
帰りは「神泉橋」で神流川を渡って群馬県から埼玉県に入り、神川町の「神泉総合支所前バス停」まで歩いて、朝日バスで本庄駅に出ます。本庄に出る理由は、新町に出るより早く駅に着いて、1時間に1本の湘南新宿ラインの特別快速に間に合うから!熊谷辺りだったら各駅でもいいのですが…。
フォトギャラリー:82枚
-
新町駅から上野村行の日本中央バスに乗り、三波川を渡ってすぐの「鬼石保育園入口バス停」(151m)で降ります。何もないバス停なのでコンビニや自販機で買い物がしたい方は、1つ手前の三杉町バス停で降りると目の前にあります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:5050/10000 f値:2.4
-
バス停前の十石街道(国道462号)を渡り、道の反対側の集落に向かう道に入ります。左の山が真下城跡がある山で奥に見えるのが冬桜で有名な桜山です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:2500/10000 f値:2.4
-
5分ほど行くと左側に山に入る林道の入口(165m)があるので、そこを左折します。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:2300/10000 f値:2.4
-
さい先よく、今日もタチツボスミレの群落の中にアカネスミレを発見しました。でもこの日見つけたタチツボスミレ以外のスミレはこれだけ。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:3250/10000 f値:2.4
-
GW頃、野原いっぱいに咲くウマノアシガタが咲き始めていました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:800/100000 f値:2.4
-
ひと登りすると「北向き稲荷大明神」(182m)があります。由緒は不明ですが、茶色いペンキが塗られた意外ときれいな神社です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:4550/10000 f値:2.4
-
北向き稲荷大明神には、テーブルとベンチがあるので、ここで登山の準備を整えます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:4600/10000 f値:2.4
-
そのままさらに林道を5分ほど進むと送電線鉄塔(215m)に突き当たったところで林道は終ります。車の場合はここまで入ることが出来ます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1700/10000 f値:2.4
-
テープが貼られたところから荒れた竹林に入ります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:2050/10000 f値:2.4
-
竹林の先は、最初は古い山道があり、徐々に踏み跡程度の獣道に変わります。藪はないですが、倒木の多いほぼバリエーションルートいった感じです。倒木を乗り越えたりするところで手をつかうので、軍手があった方がよいです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 47 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
しばらく倒木だらけの悪路が続くのかと思っていたら、山に入って10分もたたない標高約250m辺りから堀切等の遺構が出てきました。真下城跡は思っていたよりイージーな城跡でした。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 184 Speed:30000/1000 f値:2.4
-
その後、腰廓のような微妙な平坦地と急斜面が交互に続くようになります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 72 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
そこを登りきると少し広い平坦地(300m)に出て、その角に「真下城跡まで100m」の標識があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 54 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
あと100mの標識の先は、2つの深い堀切とそれに挟まれた広い平坦地があります。これは1本目の堀切です。南側の竪堀へと続いています。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 218 Speed:30000/1000 f値:2.4
-
2つ目の堀切です。左側の崖の上が山頂(本廓跡)です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 134 Speed:30000/1000 f値:2.4
-
山頂の「真下城本郭跡」(316m)に到着しました。広い平坦地の真ん中にポツンと古い石祠があります。真下城(譲原城)は児玉党の子孫の「真下伊豆守吉行」が天文年間(1532~54)に、山内上杉氏の平井城の支城として建てた山城です。南麓に平時の居館である譲原堀ノ内があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 57 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
本廓跡の南西端には「真下城跡の標識」があります。真下城は、天文20年(1551)8月に北条氏康の平井城侵攻に伴い落城し、当時の城主真下吉清は帰農します。城は北条や武田に使われた後、天正18年の秀吉の小田原征伐に伴い廃城となります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 88 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
本廓跡の西側にも2本の深い堀切と間に平坦地があります。これは1本目の堀切を上から覗いたところ。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 57 Speed:30000/1000 f値:2.4
-
西側2本目の堀切です。真下城はここで終わりのようで、この後は弛い起伏のあるなだらかな尾根が続きます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 52 Speed:30000/1000 f値:2.4
-
真下城から稜線を西に進みます。最初は緩やかな尾根が続きますが、途中、標高295mの峠まで大きく下ると上りが続くようになります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 92 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
気持ちのいいやせ尾根です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 60 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
ダラダラとした上りは、最後に多少岩っぽい急坂にぶつかります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 59 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
その岩っぽい場所を登り切ると石祠のあるピーク(400m)に着きます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:11050/1000 f値:2.4
-
石祠から少し行った先に「標高400.4mの三角点」があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 47 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
三角点からさらに先へ進むと左手に未舗装の林道が近づいて下くるのが見えるので、一番近づいたところで下の林道に下ります。逆ルートで林道から入って真下城跡にアプローチすることも出来ますが、取りつきに何も無くわかりにくいので、あまりお勧めはできません。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 67 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
未舗装の林道をしばらく進みます。ハコベの花がたくさん咲いていました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 61 Speed:30000/1000 f値:2.4
-
こちらはミヤマキケマンです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 86 Speed:30000/1000 f値:2.4
-
日向だろうと日陰だろうと関係なく、この時期どこでも咲いてるタチツボスミレです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 55 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
林道をしばらく行くと、関東ふれあいの道の桜山方面に下る分岐(420m)があるので、塩沢城跡へは右折してこの道に入ります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 65 Speed:24900/1000 f値:2.4
-
少し下ると、桜山方面に行く道は尾根を堀切のような切通しで横切って右下の谷底に下りて行くので、塩沢城跡へは道を離れてそのまま尾根を直進します。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 57 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
塩沢城跡へ行く尾根には道はありませんが、倒木帯や危険な急斜面はないので普通に歩けます。ただ50m強下るので結構距離があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 59 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
マムシ草が咲き始めていました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 110 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
植林が自然林に変わると塩沢城跡まであと少しです。季節がら山ツツジが満開でした。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:10500/1000 f値:2.4
-
塩沢城跡入口の堀切に着きました。塩沢城跡のハッキリした遺構はここだけです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 50 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
堀切の上には、縁に土塁の跡のような物が残っている小平坦地があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 43 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
小平坦地の上が「塩沢城(砦)跡」山頂(365m)です。「塩沢城」は、今辿ってきた南側を除く三方が崖に囲まれている砦か物見台のような城跡で、西側にある「諸松城」もしくは東側の「真下城」の出城ではないかといわれています。戦争時の下の集落の避難所という見解もあるようです。築城者ははっきりしないのですが、諸松城の支城ならば栗本氏か本間氏、真下城の支城ならば真下氏、あと三波川の北谷衆を統括していた飯塚氏なども考えられるそうです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
あと東西の尾根に崩れた腰廓のような物も見てとれますが、腰廓だったのかどうかはなんともいえません。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 83 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
再び林道に戻り先へ進むと、「地蔵尊」の大きな石碑がある三叉路(420m)にぶつかるので、右に進みます。ここにも関東ふれあいの道の標識があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 98 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
地蔵尊石碑で右折すると、少し先で広い舗装された林道(440m)に出ます。ここも右へ進みます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:3300/10000 f値:2.4
-
舗装された林道を少し進むと廃墟化した木造の体育館があり、「島田峠」の標識があります。この辺りに北に下る近道があるはずだったのですが、廃道になったのか見つかりませんでした。しょうがないので林道を直進します。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1900/10000 f値:2.4
-
林道を西に進むと、関東ふれあいの道の案内板(450m)のところで、林道は2つに分かれるので右側へ進みます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1300/10000 f値:2.4
-
さらにその少し先の分岐(470m)で右側の三波川方面に下る林道に入ります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 59 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
道の分岐の反対側には地面に置かれた桜山の標識もあります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 58 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
林道を100m強下るとほぼ廃村状態の「諸松集落」に着きます。下に停まっている車は週末に庭いじりや農作業をしに帰ってきた人の車です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1900/10000 f値:2.4
-
諸松集落から見た、塩沢城跡の尾根です。城跡は左下の一番低いピークです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:2400/10000 f値:2.4
-
集落の中のヘアピンカーブ(347m)が「諸松城跡」への取り付きです。道が2本ありますが、右側の道に入ります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1950/10000 f値:2.4
-
右側の道を入ると廃屋があるので、庭の方には行かず、建物の右側の道を奥に入ります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:8850/10000 f値:2.4
-
建物の右側の道は、廃物置のような建物の前で左に鋭角に折れ、2件目の廃屋に着きます。この家の荒れた庭を抜けたところが諸松城跡の入口です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 82 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
庭を抜けると折れた大天狗の石碑があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 74 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
折れた大天狗の石碑から南に少し下った場所にまず1本目の堀切があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 60 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
戻って山頂を目指すと山頂の南側に縁に土塁の跡のような盛り上がりがある平坦地があります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 74 Speed:24900/1000 f値:2.4
-
その上の平坦地が頂上で「諸松城本廓跡」(388m)です。「諸松城跡」は「栗本土佐守藤原義秀」が最初に築城したと伝わっており、関東管領の上杉憲政が越後へと逃れた後の天文年間に、家臣の「本間佐渡守」の居城となりました。その後、北条や武田など所有者が何度も変わっているため、その度に手が加えられていると考えられています。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 63 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
諸松城は、本廓跡の北側に土塁の跡のような一段高い土盛りがあります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 72 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
土盛りの上にはさらに石垣が積まれていて、その上に「諸松城跡石碑群」と呼ばれる数枚の石碑が置かれています。これは石碑の内容から判断すると供養塔ではなく「御嶽塚」だと思われます。江戸時代に下の集落の人たちによって祀られたのではないでしょうか。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 43 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
土盛りの北側は深い堀切となっています。諸松城の尾根は塩沢城のように北側が崖になっていないため、北側から来る敵の侵入を防ぐために掘られた物と考えられます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 60 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
北側の堀切は、小さな平坦地を挟んでその先にもう一本あります。2本目の堀切の先にも平坦な尾根が続きますが、城の範囲はこの堀切までのようです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 46 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
諸松城跡から今辿ってきた林道をひたすら戻って、山の南麓にあったとされる真下城の寝小屋(平時の屋敷)である「譲原掘ノ内」と「満福寺」を目指します。途中、木々の間から「神流湖」が見えました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1300/10000 f値:2.4
-
反対側の木々の間からは、桜山がチラチラ見えます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:700/100000 f値:2.4
-
朝、真下城跡から林道に下り立った場所を過ぎると、日当たりのよいヘアピンカーブに出ます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1900/10000 f値:2.4
-
林道脇に咲いていた山吹の花です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 42 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
こちらはウツギです。卯の花とも言います。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 85 Speed:10000/1000 f値:2.4
-
譲原集落の上部に出ました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1000/10000 f値:2.4
-
耕作放棄地に咲くクサノオウです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:2500/10000 f値:2.4
-
この辺り、南斜面で日当たりが良いせいか、東京ではまだ咲き始めのハナミズキが満開になっていました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1600/10000 f値:2.4
-
立派な山門のある「三波山 清水院 満福寺」に到着しました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:5750/10000 f値:2.4
-
「満福寺」です。延文3年(1358)に「真下伊豆守勘解由左衛門尉吉行」が開基となって創建された時宗寺院で、そのため真下氏の平時の館の跡ではないかという説もあります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:3550/10000 f値:2.4
-
「満福寺」は、国指定重要文化財である『紙本著色泰西王候図(二幅)』を所蔵しています。これは17世紀前半の作品で、ヨーロッパの武将や軍人が描かれている大変珍しい物だそうです。東山道の出口にあたるこの辺りは、昔は都に近い関東地方の先進地域でした。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1400/10000 f値:2.4
-
また県指定重要文化財である『紙本著色達磨図』も所蔵していて、こちらもヨーロッパ風に描かれています。現在は両方共、群馬県立歴史博物館に保管されているそうです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:900/100000 f値:2.4
-
山門横にある満願石は、石峡より運んできた重さ7.5トンの巨大な三波石で、満福寺まで運ぶという大願が成就したことから満願石と名付けられたそうです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:6450/10000 f値:2.4
-
満福寺から少し鬼石方面に行くと「ヤマザキショップ中桝商店」があります。先日、少し手前の三杉町のセブンイレブンが神流川沿い最奥のコンビニであると書きましたが、最奥はここのようです。ヤマザキなので朝早くと夜遅くは開いてなさそうですが…。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:2000/10000 f値:2.4
-
ヤマザキショップの向かい側の高い土手の上が「譲原堀ノ内」という真下氏の平時の居館のもう一つの候補地です。真下氏は平時には麓の居館で生活し、戦時は山の上の真下城に詰めていたようです。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:2700/10000 f値:2.4
-
土手の上には「譲原文明の板碑」という、真下氏に与力した上州白旗一揆の「横田一族」の生き残りが、一揆で戦死した一族を供養するために文明元年(1469)8月に建立した板碑があります。来迎三尊(阿弥陀如来・勢至菩薩・観世音菩薩)の梵字が刻まれた高さ約2m、幅55㎝、厚さ2.5~3.5㎝の板碑です。藤岡市の指定文化財となっています。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:5350/10000 f値:2.4
-
譲原文明の板碑の解説板です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1750/10000 f値:2.4
-
土手の上の眺めです。民家と畑になっていて、奥に立派な門構えの家が見えます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:3200/10000 f値:2.4
-
満福寺の前のバス停から新町に戻っても良かったのですが、次のバスは14時半にならないと来ないので、神流川の少し上流にある「道の駅上州おにし」まで時間を潰しに行きます。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:700/100000 f値:2.4
-
「道の駅 上州おにし」に到着しました。この道の駅は廃校になった旧譲原小学校跡に建てられているそうです。三波石に関する資料や譲原石器時代住居跡が展示してあったらしいのですが、見逃してしまいました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1300/10000 f値:2.4
-
今日の昼飯は道の駅の食堂「暖炉亭」の名物「下久保ダムカレー」です。大1200円を頼んだら、決壊しそうなぐらい山盛りでした。ちなみに下久保ダムは万場の手前にある神流湖のダムです。味は万人向けの洋風カレーでもう少し攻めてもいい気がしましたが、唐揚げの中に西上州名物のコンニャクが入っていました。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 69 Speed:20000/1000 f値:2.4
-
この時期、忘れちゃいけない藤の花です。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:4450/10000 f値:2.4
-
帰りは「神泉橋」で神流川を渡って埼玉県の神川町の「神泉総合支所前バス停」まで歩いて、朝日バスで本庄駅に出ることにしました。新町行とバスの時刻は一緒なのですが、わざわざ歩いて本庄行に乗る理由は、新町行より早く駅に着いて、1時間に1本の湘南新宿ラインの特別快速に間に合うから!
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1200/10000 f値:2.4
-
初夏になった武蔵七党の児玉党の発祥の地「阿久原の牧」の眺めです。麦がスクスク育っています。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1750/10000 f値:2.4
-
「神泉総合支所」に着きました。ここもさっきの道の駅同様、廃校になった小学校の敷地を使っています。ただこちらはまだ校舎が残っています。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:1150/10000 f値:2.4
-
元校庭のど真ん中にある「神泉総合支所前バス停」です。終点なのでトイレがあります。
Exif情報
KYOCERA KYF33
ISO: 32 Speed:2800/10000 f値:2.4
装備・携行品
目黒駅は品川区さんの登山記録
確認
みんなのコメント