仕事探しは移住定住を実現するための大切なステップ。
自分の経験とスキルから、どんな仕事ができるのか考えてみよう。
希望する働き方や条件を整理して、情報収集からスタート!
好天に恵まれた稲刈り
白馬村
地元の人が農業の先生
大町市
ラーメン店を起業「麦一粒」
松川村
移住で民宿「山想」を開業したご夫婦
池田町
古民家や古い土蔵を改修してカフェなどを起業される方も
小谷村
「スノーギアの再利用サービス」を事業展開する「MONSTER CLIFF」
白馬村
観光ガイドを兼業する方もいます
大町市
気軽な安曇野旅を楽しめるブックホテル「深々」 books&stay
松川村
多くの医療関係者が従事するあづみ病院
池田町
土蔵を改修して素敵な工芸品などを販売する「紡ぎ舎」をオープン
小谷村

取材・文=大関直樹 構成=ヤマケイオンライン編集部 写真=熊野淳司(インタビュー)、北アルプス広域連合 取材協力=北アルプス広域連合

2018年に政府が行なった「東京在住者の今後の移住に関する意向調査」によると、移住する上での不安・懸念点のトップは、「働き口が見つからない(41.6%)」ことであり、これに加えて10~20代女性、30代男性では「給与が下がる可能性」という回答も多く見られた。このように、地方移住を検討する際に最も悩ましいのが仕事の問題だ。では、北アルプス山麓の5市町村ではどんな仕事にニーズがあるのか。そして、仕事を見つけるためには、どんな方法があるのか。「地域おこし協力隊」、「地方での起業」、「就業に対する公的支援」などについて、各自治体に聞いてみた。


小谷村

【人数】=1名

【担当業務】観光のインバウンド対応

白馬村

【人数】=2名(男性2名:20代~30代)

【担当業務】=移住定住支援、公営塾講師

大町市

【人数】=1名

【担当業務】まちづくり交流課国際芸術祭担当

松川村

【人数】=10名(男性7名、女性3名:20代~50代)

【担当業務】=移住定住支援、安曇野ちひろ公園活動、英語教育支援、子供の体育指導支援、農業分野支援、地域活性化支援活動

池田町

【人数】=3人

【担当業務】=移住定住、特産品開発、ITリテラシーの向上

「地域おこし協力隊」は、2009年度始まった地域活性化の取り組みで、都市から地方に移住を促進する制度だ。各自治体によって農業や観光、住民の交流の場作りなどの仕事を募集している。任期は1~3年の間で、その期間にスキルや人間関係を作って本格的な移住に踏み切る人も多い。令和4年現在で長野県の導入自治体は71市町村で、356名の隊員が活動している。男女比は6:4で男性の方が多く、年齢は20~60代までと幅広い。また、令和3年度に任期を終了した隊員のうち、長野県に定着した割合は78.4%。そのうち半数弱が就業ではなく起業(準備中も含む)している。



地域おこし協力隊の任務終了後の支援
小谷村 起業を希望する協力隊員に、地域おこし協力隊員起業支援補助金として100万円を限度として必要な経費を助成します
白馬村 起業をめざす隊員には、地域おこし協力隊起業支援補助金として最大100万円を支援しています
大町市 起業に不可欠な設備や備品費用の購入に対して最大100万円限度の補助制度あります
松川村 起業をめざす隊員には、地域おこし協力隊起業・事業継承支援補助金として最大100万円を支援しています
池田町 池田町地域おこし協力隊として2年以上活動し、町内で起業又は事業承継した人は、最大100万円の補助を受けることができます

起業・就農にあたり公的なサポート(たとえば資金援助など)
小谷村

【起業に関して】起業支援事業補助金(村内で起業する方に、必要な経費の一部を補助しています、上限100万円)

【就農に関して】農業次世代人材投資資金(就農直後の経営確立を支援する資金を交付します。最大3年、年間150万円)

白馬村

【起業に関して】創業支援補助金(村内で創業するために要する経費に対して最大100万円を補助します)

【就農に関して】農業次世代人材投資資金(就農直後の経営確立を支援する資金を交付します。最大3年、年間150万円)

大町市

【起業に関して】起業支援補助金(起業に不可欠な設備や備品費用に対して100万円を限度に補助いたします)

【就農に関して】農業次世代人材投資資金(就農直後の経営確立を支援する資金を交付します。最大3年、年間150万円)

松川村

【起業に関して】創業支援補助金(村内で創業するために要する経費に対して最大100万円を補助します)

【就農に関して】農業次世代人材投資資金(就農直後の経営確立を支援する資金を交付します。最大3年、年間150万円)

池田町

【起業に関して】
①池田町創業支援事業補助金
・創業経費補助:最大30万円(補助率1/2)
・店舗家賃補助:1年間、月額最大5万円(補助率1/2)
・店舗新設・改修補助:最大20万円(補助率1/2)
②UIJターン就業・創業移住支援金(申請は基礎自治体、補助は県から)
・都市部から長野県に移住し、就業または創業した方に以下の補助があります
移住支援金:単身最大60万円、2人以上世帯最大100万円(18歳未満の世帯員1人につき最大30万円加算)

【就農に関して】農業次世代人材投資資金((就農直後の経営確立を支援する資金を交付します。最大3年、年間150万円)

地方移住の促進は、都会への一極集中を分散させるために国が積極的に取り組んでいる。そのため、地方での起業や就業は、上記の表のように各種の公的支援を受けられることが多い。一般社団法人移住・交流推進機構(JOIN)のサイトでは、そのような支援制度や補助金などが自治体ごとにまとめて掲載されているのでチェックしてみるとよい。また、このような支援制度は、年齢や使い道などに様々な条件が決められていることが多い。しかも申請には必要な書類が多く、審査に時間がかかることもしばしばだ。しかし、返済する義務のないお金なので、ある程度の苦労は当然と考えてトライしてみてはいかがだろうか。



小谷村 移住相談で就業先の相談をいただくケースは少ないです(ご自身で起業したいという人のほうが多い)。就業企業が少ないため、ハローワークなどを通じて募集状況をお知らせしています
白馬村 「白馬村ではどんな仕事がありますか?」というベーシックな質問が多いです。白馬村は第3次産業といわれる「サービス業」が主たる業種になります。近年はスキー場が冬場だけでなく通年営業をしているため、雇用が生まれています。一方、移住を希望されても住居が少なく、白馬村で働きたいけど住めないという状況が発生しており、お隣の大町市や小谷村から通う方もいると聞いています
大町市 ①大町市ではどんな働き方があるか/観光業に従事する方も多く、季節によって勤務先をかえる人もいます。また、季節雇用の求人も多いです
②農業に携わりたいがどうすればいいか/「農業」の捉え方がさまざまなので、農業基盤がなく「業」として考える場合は、こちらに暮らしながら人とのつながりを作るところから始めてはどうですかとアドバイスしています。また、市担当部署へおつなぎすることもあります。設備や農機具等にいきなり投資することはおすすめしません
③林業はどうか/定住促進アドバイザーに林業に携わっている方がいるので、おつなぎしています
松川村 村内での就業事情ですが、村内での就業企業は少ないです。ただ、近隣市町村の安曇野市、松本市まで通勤圏内なので、広域で探すことをおすすめし、ハローワークなどで検索していただいています。農業での就農も比較的多くあるので、農業委員会や営農支援センターとも連携しながら、サポートさせていただいています
池田町 ・もっとも多い相談内容=「地方でも仕事を見つけることができますか」という相談
・町からのアドバイス=池田町に限って言えば、職種は限定されますが求人自体は多くあります。医療・介護・精密機械業等は、比較的多い傾向があり、安曇野市、松本市まで範囲を広げると、多種多様な求人を見つけることができます。池田町は、安曇野市や松本市のベッドタウンとしての側面もあり、多くの方が池田町から松本方面に通勤しています

移住先にどんな働き口が多いかは、移住希望者にとって最も気になることだ。医療系やWEB系、調理関係など専門スキルを必要とするものは、地方でも求人が多いので、すぐに働けることが多い。それに対し、一般企業の事務職などは、働き口が少なく都会よりも賃金水準が低いことを覚悟しておく必要がある。ただし、5市町村のなかでも南に位置する松川村や池田町は、松本市や安曇野市までは通勤圏内のため、広いエリアで探すことが可能だ。また、起業を考えている場合は、地元の商工会などに相談してみるとよいだろう。



小谷村 就業サポートはまだ体制ができていません
白馬村 商工会さんが創業塾という塾を開いており、参加後村内で起業を考えている方に、創業支援補助金最大100万円を支援しています
大町市 市役所やハローワーク等と連携して就業に関する情報提供をします。5月には起業就労相談会が開催されますのでご利用いただいています
松川村 就業サポートはありませんが、村内で起業を考えている方に、創業支援補助金最大100万円を支援しています
池田町 求人のご紹介は基本的にハローワークを通じてとなります。ハローワークインターネットサービスは、どこからでも対象地域を絞って検索することが可能です

就業についての相談は、基本的にハローワークが担当している。ハローワークインターネットサービスは、全国どこからでも希望する地域の求人を検索できるので、まずはチェックしてみよう。他にも長野県の移住ポータルサイト「楽園信州」では、県内の各種求人のサイトが紹介されている。また、地方での働き口は、住宅と一緒で口コミによる募集をしていることも多い。まずは移住をしてみて契約社員やアルバイト、地域おこし協力隊などをやりながら暮らし、地域に溶け込むと口コミの就職情報が回ってくることもある。



小谷村 小谷村内での企業は建設業が多いので、建設業経験のある方は仕事が探しやすいと思います。豪雪地で除雪機械を使うので、重機などの操作を学べる可能性があります
白馬村 スキー場、宿泊業、自営業、農業は比較的就業しやすい業種、職種になります。働き方に関しては、インターネット環境の整備が進んでいるせいか二拠点居住や、ネット店舗を構えることで、移住して自分の好きな場所で仕事ができるのが都会とは違う特徴だと思います
大町市 ・観光、製造、医療系、介護福祉施設の分野は、毎月求人が多い傾向にあります
・季節に応じた働き方をする人もいます。例えば、「夏期は農業×冬期はスキーのインストラクター」「山小屋従業員×会社勤務」などです
・松本市内への通勤も可能です。電車も道路もそれなりに混みますが、すし詰めの満員電車通勤というわけではありません
松川村 介護、医療系は比較的求人も多くあります。通勤に車、電車などの選択肢が広がり、通勤時間にそれほど時間がかからないため、ストレスも少ないのが地方の特徴です。通勤圏内の松本市(人口20万人越え)にはITやSEなどの仕事もありますので、松本市までの広域エリアでお仕事を探すのもひとつの手です
池田町 医療・介護・精密機械業等は比較的多くの求人があります

地方では、夏は農林業や建設業などで働き、冬はスキー場や除雪などの仕事をするなど季節によって就業先を変えながら生活している人が意外と多い。「季節労働は不安定」という印象を持つかもしれないが、5市町村では夏・冬に仕事の需要があるので、それほど珍しくはないのだ。また、地方は初期投資やランニングコストが抑えられるので、カフェやゲストハウスなどを起業する人もいる。とくに白馬村は、世界的な山岳リゾート地として人気なので、観光や飲食業の需要はこれからも増えていくと思われる。



小谷村 小谷村は豊かな自然と山岳が魅力的な地ですので、写真や映像制作のスキルがある方は、才能を活かせるかもしれません。また、近年は外国人の移住者も見受けられるので、英語など外国語を話せる方は重宝されると思います。小谷村は古民家や古い土蔵などの魅力的な建造物があり、それを改築して起業された方もいらっしゃいます
白馬村 インターネット環境も整っているため、ウェブ上に自分のお店を構えたり、村内にリアル店舗を構えることも可能です。なかには農家に弟子入りしたり、昔ながらの民宿に住み込みで働いたり、猟師もいれば林業師もいる。やろうと思えばなんでもできてしまうのが、白馬村で働くことのおもしろさかもしれません
大町市 空き家を古民家風に改修し、清閑な雰囲気をリラックス要素としてヨガスペースを開業した方、北アルプスの絶景を生かしたゲストハウスを開業した方、これまでの経験を生かして飲食店、コーヒー店、洋菓子店を開業した方など、移住後に起業し、活躍する方がたくさんいらっしゃいます
松川村 即戦力となるようなスキルとしては、医療系や保育士、介護系です。地方ではHPの作成やWebデザインなどに疎い方が多いため、ITスキルを持っている方の働き口はあります。なお、スキルを生かして起業をされる方もいますが、専門スキルはそれほど必要ないと思います。また、テレワークが可能な企業も増えてきているので、自然のなかで生活しながら以前と同じ仕事をするのもひとつの選択肢かもしれません
池田町 医療や介護の分野の求人が比較的多いため、医師や看護師・薬剤師、ケアマネ等の資格を有していると、就職に有利かと思います。薬剤師として町内に移住し薬局を事業継承した方や、医師として近隣の総合病院に就職し移住してきた方などがいらっしゃいます

医療・介護分野は、全国的も慢性的な人材不足といわれており、高齢化が進んでいる地方では、ニーズが高い。また、写真・映像・WEB制作などのスキルを持つ人も大都市と比べると少ないので、働き口が見つかりやすい。このような仕事はテレワークが可能なので、フリーランスとして都会と地方の両方で活動できるメリットもある。ほかにも5市町村は、インバウンドのニーズも高いので語学力のスキルがある人は、活躍の場が広がる傾向にある。


一般的なイメージとして、地方では仕事が少ないと思いがちだが、医療・介護・観光・製造業など即戦力が求められる仕事は、ニーズが高い。また、常時雇用ではないが季節ごとの短期雇用が多いのも5市町村の特徴だ。春には田植え、夏はキャンプ場や観光施設での仕事、秋は農作物の収穫、冬はスキー場や除雪の仕事など、年間を通して何らかの仕事はある。これらの季節労働をうまくミックスして暮らしている人も多い。また、地方は都会よりも一般企業の絶対数が少なく、一次産業も多いため自営業を営んでいる人の割合が高い。そこで、地方移住をきっかけに、うまく支援制度や補助金などを活用して起業にチャレンジしてみるのもひとつの方法だ。

2022~2023 移住者インタビュー
起業するからには地域に貢献したい!
山下慎司さん、由美子さん
白馬村在住
 
山下慎司(やました しんじ)さん  由美子(ゆみこ)さん

慎司さんは、埼玉県生まれ。由美子さんは、群馬県生まれ。群馬県太田市の小中高一貫校で知り合い、結婚。2018年に地域おこし協力隊として白馬村に移住した。任期終了後はジャイロ受験対策塾を起業し、白馬村から難関大学をめざす子どもたちをサポートしている。

最近、地方発のベンチャー企業の話題をテレビやネットのニュースで目にすることが多くないだろうか。移住者の増加や自治体による創業サポートなどが追い風となって、地方で起業する人が増えているという。一般的には人口の絶対数に勝る都会のほうが、ビジネスチャンスも多そうに思える。しかし、開業コストが安く済む、競合するライバルが少ない、宣伝活動をしなくても口コミで情報が広まりやすいなど、地方での起業は都会とくらべて有利な部分もある。その反面、地域にうまくなじめないと事業を継続していくのが難しいことも事実だ。そこで、今回は群馬県太田市から白馬村に移住し、地域おこし協力隊を経て進学塾を起業した山下慎司さん、由美子さん夫妻に、地方起業の実情について話をうかがった。

慎司さんが勤務している「しろうま學舎」の教室。平日の午後は、ここで生徒たちに個別指導をしている

理想の人生を求めて移住を決意

白馬高校から歩いて5分、開放感たっぷりの大きな窓が特徴的な3階建てのマンションが、山下さん夫妻が経営するジャイロ受験対策塾だ。中にお邪魔すると、天井が高く窓からは白馬三山が大きく目の前にそびえている。こんな塾なら、子どもたちもさぞかしのびのびと勉強できるではないかと思う。塾での指導科目は、中学生から高校生までの英語、数学、理科、国語など。すべての教科を慎司さんが、ひとりで教えている。

「理数系は専門だったので得意なのですが、文系科目を教えるために私自身も、毎日勉強しています。正直大変な部分もありますが、逆にそれがやりがいにもなっています」(慎司さん)

埼玉県入間市で生まれた慎司さんは、北海道大学大学院を卒業後、憧れの仕事であった教員の仕事に就いた。職場は群馬県太田市にある、世界中で通用する大学入学資格(IBディプロマ)の取得を目指す小学校から高校までの一貫校。そこで、中学校理科と高校化学を教えることとなった。

「先生の半分は外国人で、職員会議やホームルームなどはすべて英語で行なうなど先進的な教育を行なっている学校でした。仕事は楽しかったのですが、太田市はクルマ社会なので渋滞や信号待ちが多く、それがだんだんとストレスになっていったのです」(慎司さん)

由美子さんは群馬県太田市出身。ニュージーランドの大学を卒業後、横浜にあった国連食糧農業機関(FAO)などに勤務するかたわら、木管楽器のひとつであるファゴットの演奏家としても活躍。週末はコンサートのために日本全国を飛び回っていた。そんなとき、実家のある太田市の学校でバイリンガル教育のサポートスタッフとして働きませんかと声がかかった。

「ふたりとも同じ学校に勤務することになって、そこで知り合ったんです。彼が2015年に太田市に来て、翌年には結婚しました。その頃から、お互いに移住したいねと話していたんです。そこで、関東近郊や東北、信州などにふたりでドライブに出かけながら、移住先を探してみました」(由美子さん)

1 村内にある木流川親水公園は、ふたりのお気に入りの散歩コース
2 木流川周辺の自然は、地元の有志「木流川に親しむ会」が守っている
3 白馬高校の敷地内にある公営塾「しろうま學舎」
4 教えている教科が多岐にわたるため準備にも余念がない

独身時代は、毎日がガムシャラに働くだけの日々だったという慎司さん。それなりに充実していたが、結婚してからは理想の住環境で人生を送りたいと思うようになっていったという。そんな想いで各地をドライブしていたときに、由美子さんが子どもの頃によく遊びに来ていたという白馬村を訪れた。

「着いた日は大雨だったのですが、翌日に雨上がりの雲間から現われた白馬三山を見て、その美しさに驚きました。それまでは、北海道よりも自然が美しいところはないと思っていたんですが、あったんですよ(笑)。それで、白馬村に移住することを決めました。妻の実家である太田市に近いことも移住の決め手のひとつにもなりました」(慎司さん)

移住に際してもっとも気になったのが、自分の能力や経験を生かせる仕事があるか、そして地域に貢献できるかということだった。そこで、自宅に戻った慎司さんは、早速パソコンで「白馬 教育」のワードで検索を開始。ヒットしたのが「しろうま學舎」だった。「しろうま學舎」とは、白馬村と小谷村が協力して、県立白馬高校内に設置した公営塾だ。都会と較べて予備校や家庭教師が少ないこの地域で、大学進学を目標とする生徒たちをサポートする目的で設けられたものだった。しかし、しろうま學舎での講師募集は、2週間ほど前に締め切られていた。

「仕事の内容は生徒の学力を向上させるというものだったので、ここなら自分の能力や経験が生かせるし、地域にも貢献できると思いました。そこで、締め切りは過ぎていたんですが、お話だけでも聞かせていただきたいとメールを送ってみたんです」(慎司さん)

1 教育者としての経験と情熱をこの地でどのように活かせるだろうか。考え、悩み、努力してたどり着いた現在の慎司さんは、白馬村にとってなくてはならない人材のひとりだ
2 海外生活が長く語学が堪能で、ファゴット奏者として、教育者として活躍の場を自ら作ってきた由美子さんは、いつも笑みを絶やさず朗らかで、白馬村村内に知人友人が多い
3 撮影日は曇っていたが、ジャイロ受験対策塾の窓からは白馬三山が望める
4 独学で始めたピアノは、一年でベートーヴェンを弾ける腕前に

精神的な余裕は生まれたが収入は激減

慎司さんの熱意あふれるアプローチにより、しろうま學舎の担当者と翌週には面談が成功。もし空きができたら連絡を下さいと伝えたところ、3ヶ月後に『地域おこし協力隊として講師をもう1名募集しますが、いかがですか』という連絡が来た。こうして2018年に慎司さんと由美子さんの白馬村での生活が始まったのだった。

自然豊かな白馬村で暮らしてみると、慎司さんはストレスフリーで精神的にも落ち着きを取り戻すことができたという。以前の学校に勤務していたときは朝4時半に起きて授業の準備し、夜も22時を過ぎないと帰宅できないような生活だった。しかも通勤で渋滞に遭うことが多く、常にイライラがおさまらない。気分転換をしようと窓を開けても、目の前には大きな工場と住宅街の景色が広がるだけだった。

「そんなときは、ハードロックとかヘビメタを聞いてストレスを解消していたんです。妻がクラシックを聞いていても、何がいいんだろう、つまらないなあと思っていました。ところが、こちらに移住してきて窓から雄大な山が見ながらベートーヴェンやブラームスを聞くと、情景が目に浮かんでくるんですよ。そのうちクリスティアン・ツィマーマンというピアニストに憧れるようになって、3年前から独学でピアノを始めました」(慎司さん)

音楽の趣味が激変するような心境の変化があったのも、慎司さんに精神的にも肉体的にも余裕ができたからだった。現在は、職場まで歩いて5分。通勤時に渋滞に巻き込まれることもない。都市近郊に住んでいたときは、日々の雑務に追われて「こんな風に生きていきたい」といった長期的な人生の展望を考える時間がなかった。しかし、白馬村に来たことで、自分自身や由美子さんとのこれからの暮らしのことを俯瞰して見つめ直すことができたという。

「雄大な景色と対峙すると、自然と頑張ろうという気持ちが湧いてくるんです。日々の小さな悩みなんて吹っ飛んでしまって、もっと頑張らなきゃいけないな、いや頑張れるなと感じますね」(慎司さん)

住み心地という点では、まさに理想ともいえる住環境を手に入れた山下さん夫妻。しかし予想外に大変だったのは、収入面だった。地域おこし協力隊としての給与は、額面で24万円。そこから昨年の住民税などが引かれると手取りは16万円。さらに家賃を支払うと、手元に残るのは6~7万円程度だった。

由美子さんは、ファゴットの演奏家であったため、週末はオーケストラでの演奏。平日は、長野県警で通訳の仕事をしたり、知り合いのライン工場にも勤めて家計を支えた。

「最初の年はそれでも収入が足りませんでした。妻から愛車を売って欲しいと言われたときは男泣きをしました(笑)。でも、そういう状況になって考えたんです。地域おこし協力隊の任期は3年。それまでに安定した収入を確保しないと、ここには定住はできないなと。そこで2年目には、月から金曜日までは協力隊として「しろうま學舎」で働き、土曜日は自宅で受験対策塾を開講しました」(慎司さん)

1 地域おこし協力隊の面接に来た(2017年12月) /  2 群馬の教員時代に2人でよく長野に通った。松本城にて
3 小川村のアルプス展望道路から(2018年5月) /  4 自宅の窓から見る夕景の北アルプス
(写真提供・CAP=山下慎司・由美子)

新しい学習方法で難関大学をめざす

慎司さんが起業したジャイロ受験対策塾は、東京大学や早稲田大学でも行なわれている「反転授業」と呼ばれる方法を取り入れている。生徒は自宅で映像コンテンツを使って自主学習し、塾ではその知識を定着させるため、生徒自身が「問題解説」を行ない、講師とマンツーマンで「質疑応答」をするスタイルだ。さらに生徒が「何を勉強すればいいかわからない時間」をなくすために、個別の「受験計画表」を作成。合格という目標から逆算した毎日の学習計画を慎司さんが生徒と一緒になって立案した。

「授業を聞くだけだと、知識を確実に身につけるのは難しいと思います。人にわかりやすく説明することで、自分の理解があやふやだった部分が見えてくるんですね。また、漠然と勉強するのではなく、志望校に合格するためにはいつ、何を勉強するとよいかが分かると、気持ち的にも焦らないで済むんですよ」(慎司さん)

なるほど、登山でもコースタイムに準じて1日ごとの計画を立てると、自分のペースで歩けるので安心だ。受験計画表を作るのは、登山計画を作るのと同じと考えると、そのメリットがよくわかる。こうした独自の学習方法で学んだ第一期生2名は、志望校に合格。それが評判を呼び、塾に通ってくる生徒も増えたことで、起業から2年目には収入も増加。生活もなんとか安定させることができた。そして地域おこし協力隊の任期も最後の年を迎えた。

「自分では起業したジャイロ受験対策塾の実績を上げることで、事業を継続していこうと思っていました。そんなときに村役場の方から、『しろうま學舎の生徒の数が減少しているのですが、何かできることはないですか?』と相談されたんです。そこで、私ならこうして変えていきますというプレゼン資料を作って村長に説明させていただいたところ、『やってみてください』ということで、しろうま學舎の学習指導の一部を委託運営させていただくことになりました」(慎司さん)

プレゼン資料は、文字だけではなく図解することで生徒の学力をどのように向上させるのかをわかりやすく解説した。白馬高校の大学進学率は、年によってばらつきはあるが、約半数程度。難関大学をめざす生徒は、松本市内などに1時間以上かけて通学する必要がある。なかには長時間かつ経済的に負担の大きい通学時間を懸念して移住してしまう家族もいる。 「だからこそ、地元の白馬高校を、進学に対する不安のない高校にすることが私の仕事であり目標だと思ったんです。もともと白馬の子どもたちは、ポテンシャルを持っていると思っていました。生徒には白馬高校のスキー部の子が多いんですけど、部活でヘトヘトになっても塾の授業で寝たりしないできちんと勉強するんです。きっとスキーで鍛えられた精神力や体力が、勉強にも生かされているんだなと感じています。ただ、今は勉強のやり方がわからない子どもたちが多い。だから、そこを私がきちんとサポートすることができたら難関大学に合格することも夢じゃないと思うんです」(慎司さん)

1 協力隊時代の白馬高校公営塾しろうま學舎について信州大学で講演した
2 FAO広報官を務めた経験から、白馬に訪れた海外のインター生に対してエバーグリーンさんと妻の由美子が講義を行なった
3 いつもの散歩道、松川河川敷 /  4 漆塗りフルートとの演奏会(木曽ならかわ工芸館にて)
(写真提供・CAP=山下慎司・由美子)

目標が明確であることの大切さ

現在、しろうま學舎の生徒で2023年3月に受験をするのは4名。まずは彼らを志望校に合格させることが慎司さんの第一目標だ。そして、ゆくゆくは大学進学を希望する子どもたちが村以外の進学校に通わなくても、白馬高校で大丈夫という教育環境を整えたいと慎司さんは考えている。きちんと勉強の計画を立てて実行すると結果を出せることがわかると、在校生のヤル気もアップする可能性が高い。

慎司さんが最初にしろうま學舎に特進クラスを作って、東京の難関大学を目指しますと言ったときは「それは無理でしょう」、「白馬高生が行くのは夢物語だ」といった否定的な意見が多かったという。しかし、開講してみると、生徒が来てくれて一生懸命に頑張っている。その姿を見て、まわりの生徒や先生たちも応援してくれるようになった。

「このまま生徒たちが頑張ってくれたら、必ずよい結果が出せると思います。そして、難関大学の進学実績を作ることができたら、次は白馬高校に国際観光科という学科もあるので、海外の大学をめざす生徒もサポートしたいですね。海外の大学で揉まれてタフになってここに帰ってきて、白馬と世界をつなぐ観光人材を育成できたら素敵だなって思っています」(慎司さん)

「私も全く同感なんです。白馬村って世界中でも、ここにしかない魅力があるから外国からも多くの人々が訪てくれるんだと思います。それを子どもたちが世界中に飛びだして、伝えてくれたらと思っています。今、私は子どもたちに英語しか教えていないのですが、将来的には音楽も教えられたらなと思います。音楽は、英語と同様に世界中の人とつながるコミニュケーションツールのひとつですから」(由美子さん)

今回、山下さん夫妻からお話をうかがって思ったのは、地域に貢献したいという強い想いがあるから、どんどん活躍の場が広がっていることだ。移住をして、その地域に溶け込むためには受け身の立場に立っていては難しい。自分が当事者として、地域から何を求められているのか、そして自分の能力で何ができるのかを真剣に考える必要があることを感じた。

「自分の環境が変わるということにおいては、進学も移住も起業もすべて同じです。それを成功させるためには、大きな勇気と努力も必要ですが、それよりも自分ができること、そしてやりたいことが明確であることが最も重要だと思うんです。あとは、うまく環境とマッチしたら、自ずと道は開けてくるんじゃないでしょうか。私の大好きな芸術家、岡本太郎さんは『私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた』と言っています。一見、難しそうに思えることでも、具体的なゴールを決め、自分の能力を把握した上で到達までのステップに落とし込んだら、夢を実現することは可能なんだと思っています」