黄金に輝く大麦が眩しいティンキュー、そしてシーメンを進み、ドゥンター村に到着

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僧侶・河口慧海の足跡をたどり、ドルポ核心部へと足を進める稲葉香さん。今回のルポでは、ティンキュー村で映画「キャラバン」で知られる画家のテンジン・ヌルブ氏の生家を訪ねたのちに、美しい大麦畑が広がっているシーメン、そしてコマ~サルダン~ドゥンターと進んだ様子を紹介する。

 

9/18 ティンキュー村で休養(4110m)

今回の旅のルート、ティンキューからシーメン、そしてコマ~サルダン~ドゥンターへ――


「ティンキュー」と言えば、2020年テレビ朝日によってドルポの特集を撮影されたことで知られている。元テレビ朝日のディレクター・プロデューサー、そして登山家の大谷映芳氏がサポートして“ナスD”の出演で一躍有名になった(この私の日記の遠征は2016年なので、有名になる前の話だ)場所だ。

大谷氏は、NPO法人アースワークスソサエティの理事長であり、長らくティンキュー村をサポートしている。中でもテンジン・ヌルブ氏(映画「キャラバン」のモデルになった僧侶・画家)を日本に招いて絵画展を開いていたことは、この世界ではよく知られている。私はテンジンさんの大ファンで、以前に何度かカトマンズにある家を訪ねていた。今回の遠征では、テンジンさんが育ったドルポのお寺や家に行ってみたいと思っていた。2007年に故・大西保氏と一緒に訪れた時に場所を教えてもらっていたので、それはしっかり覚えていた。お寺は地図を見ればわかるかもしれないが、山の上にあり、実際に下からは全く見えない場所にある。

坂を上っていくと「トロンゴンパ」と呼ばれる寺院の仏塔が見えてきた


ちなみに、お寺の名前は「トロンゴンパ」という。ティンキュー村の学校の裏側を登っていくような感じで進んでいくと、かすかに道が見えてきた。その道を、どんどん登っていくと仏塔が出てくる。登り切ると想像以上の世界が広がっていた。見下ろすと、ちょうど村に光が差し、村の全貌が見えた。大麦の畑は収穫時期を迎え黄金に輝いてる。さらに、私が2007年に故 大西保隊で登ったカンテガ(6060m)が見えてきた。聖なる山・クーラカン(5999m)も目の前、まさに天空の場所だった。

山上に建つ寺院からは素晴らしい展望が広がっていた


テンジンさんは、このトロンゴンパ寺院で20歳まで暮らしていたという。映画「キャラバン」の監督エリック・バレィが訪れた時に、彼はその才能を見出されたようだ。現在は、ニマ・ドンドックラマという方がお寺を守っていた(6年目)。テンジンさんの父は他界されているのだが、テンジンさんの父の兄弟のようだった。そして テンジン・ドゥンドップという14歳の修行僧がいて、あと3年修行をすると言っていた。

お寺の中を見学させて頂くと、タイムスリップしたように感じられた。代々受け継がれている仏像について説明してくれ、その足元には大きな石が敷き詰められていた。いつの時代にどこからこれだけのものを運びあげたのだろうか。

寺院の床は大きな石が敷き詰められていた。どうやってここまで運んできたのだろう?


ティンキューでの河口慧海師の行程について触れると、私達と同じく1日休養している。案内人が足腰の痛みを訴えたため進むことが出来ないと書いている。そこで慧海師は哲学書を読んだり、読経ざんまいの日を過ごしたようだ。ここティンキューの村からカンテガ峰が見えるのだが、慧海師は三尊峰と呼び記している。ちなみに、現地の人はチャム・ヅーと呼んでいたようだ。

 

9/19 ティンキュー~シーメン(3850m)

出発の前に学校の見学に行くと、テンジンさんの息子さんがいて、自宅にも案内してくれるという。家は立派で室内は整理整頓されていて、今はあまり使われていないように感じるほど綺麗だった。家具にはテンジンさんが描いた絵がいくつかあった。

奥さんがいて、2012年にドルポで行われた12年に一度のチベット仏教の大祭でお会いして以来の再会となった。どこかで再会出来たらと思い写真を持参していたのだが、本当に会えた。私のことを覚えていてくれたようで、とても嬉しかった。最後に、チベット式でオデコとオデコを合わせてお別れした。

 

テンジンさんの息子の奥さんに2012年以来の再来。チベット式の挨拶で別れを惜しむ


ティンキューの村は、比較的平らな大地で歩きやすい。大麦の畑はちょうど収穫の真っ最中だったため、子供から大人まで早朝から忙しく働いていた。

収穫期のティンキューは、大麦の収穫で忙しそうだった。


ティンキューの村の西端の最後までクーラカンが見えており、メッケンコーラ(川)の手前には沢山の仏塔やマニ石(お経が掘られた石)を見ることが出来る。それは以前、故 大西保氏に教えてもらった場所なのだが、イギリスの仏教学者ディヴィット・スネグローブの著書「ヒマラヤ巡礼」の表紙となった写真の撮影ポイントで、聖なる山クーラカンとカンテガを背景とした仏塔群がある。

聖なる山クーラカンとカンテガを背景とした仏塔群


その地点を過ぎると間もなく隣村となり、パンザンコーラ沿いには特徴的な石にチベット仏教の真言が彫られているマニ石が、あらゆる箇所に出てくる。どうやって掘られたのだろうか? と思うほど、流れの早い川の中にあり、石の壁面にまでしっかりと彫られている。この土地の人々の古き時代からの信仰の深さを感じさせるものであった。

流れの早い場所にも、チベット仏教の真言が彫られている


バンザンコーラ沿いをさらに進んでいくと、途中に対岸にプーゴンパというお寺がある。以前(2012年)に立ち寄ったので今回は立ち寄らないことにした。なお、慧海師の日記にも、このお寺についての記載はない。

シーメンに到着する手前には、黄金に輝く大麦が眩しく、そしてマニ石が沢山敷き詰められていて、とにかく美しい。そこから大きな仏塔が村の門のように立ち並び、ドルポには珍しい緑の木々が沢山見えてくる。それは慧海師の時代と同じ柳の木であった。この場所について慧海の日記から抜粋すると、以下のように表現している。

慧海師の時代からあった、マニ石が敷き詰められた美しい道を歩いていく

この行道の辺りにマニの塔多くして列をなせり。また村落の荒廃せるもの、処々の山の間に見ゆ。これ山形変動して田野に水を得ざるによりて移転せしものなり。路は大抵幅二、三尺ありてはなはだ危険ならず。

正午30分発足して西に下れる大流と黄色なる巌山の間を下ること一里、巌山絶壁、空を突くがし高し。我は命名して雪山の黄壁と云ふ。

~河口慧海日記~


このルートは慧海師の時代から、危険な場所はなく比較的歩きやすかったようだ。そして、山の間に時折見られる荒廃、西に下れる大流と黄壁というのは、このあたりではないだろうか。

河口慧海日記にある「巌山絶壁、空を突くがし高し」とは、この場所だろうか?


約120年の月日は、ヒマラヤでの時間の流れでは一瞬に過ぎず、ここは当時とほぼ変わっていないかのように見える。慧海師が訪れたのは6月だったため、「紫色の蓮華草、菫菜、タンポポ、山薔薇、その他薬草類が沢山咲き染めたりと」述べているが、私は9月中旬だったためどの村でも大麦の収穫時期と重なり、植物は少なかったが美しかった。ちなみに慧海はシーメンのことは“シミン”と記している。村は18戸の家があり、この村の医師の宅に逗留したようだ。案内人の足はまだ癒えていなかったようだ。

 

9/20 シーメン~コマ~サルダン~ドゥンター (3957m)

今日は、故 大西保氏の三回忌だったので、大西さんが好きだった八海山のお酒を日本から持参して祈りを捧げた。今回のネパール人スタッフには、偶然にも大西さんとのドルポ遠征の経験者が2名いて、2009年に私が大西隊で一緒だったキッチンポーターがいた。まるで、大西さんが私達を再会させてくれたように感じた。たまに思い出話が出来てとても良かった。さらにドルポへの思いと拘りも理解してくれて心強かった。

シーメン村を見下ろす。収穫期を迎えた麦畑が美しい


この日は、長距離を歩くのがわかっていたものの、やりたいことも満載。村の見学・調査、峠でバラサーブに祈りを奉げるなど、時間を使うことばかりが重なっている。でも今回のメンバーは、急がせることもなく、私の気持ちを汲みとってくれて、私がやりたいことを全部やらせてくれて感謝である。

ネパール人スタッフとの記念撮影。2009年の遠征の際にもお世話になったスタッフもいる


この日は2つの峠を越えるという、なかなかハードな1日だった。コマからの途中にドゥンターへと至る近道があり、それはサルダン経由しないでドゥンターに行ける道となる。ポーター達はそのルートを行く。慧海師はコマを経由してシェー山に向かっているので、サルダンを経由してると思っていた。私は近道をせず同じルートを歩きたい思いがあり、サルダン村経由でドゥンターを目指した。

慧海師と同じルートと思って歩いたルートは、果たして?


しかし今(2022年)、このコラムを執筆するために、あらためて地図を見直してみて気がついたのだが、私が辿ったルートはシーメンからコマまでは合っているが、コマからサルダン村を経由してからのルートは慧海師のルートではないと思われる。慧海師の日記には方角は書いていない。この当時は気付かなかったが、コマからのルートは地図にはいくつかあり、私はメインルートを登ったものの、今改めて見ると私の読図が甘かったようだ。その点について、私なりの解釈を以下にまとめたい。

*     *     *

故 大西保氏の記録を改めて良く読むと――

慧海師は、コマンからセラ・レク、4800m目前の尾根に向かって登り、峠からナムグン・コーラへ急尾根と坂を下り、渡渉して河岸段丘のドゥンター村着。村はずれのルー神(水神の龍)前の草地で逗留


こう述べている。「セラ・レク、4800m目前の尾根」――。これだ、私は地図でこれが読み取れていなかった。そのため慧海師は、やはりサルダン村経由ではなくてダイレクトにドゥンター村に向かっている。私はルー神に気を取られていたようだ。

河口慧海日記ではこう言及されている。

コマからは、はなはだ急なる坂道を上ること一里にして細き泉水を得て米を煮て食う


このとおり、方角のことについて記載がなかったので、私にはわからなかった。これに続く慧海日記は、花の詳細を詳しく丁寧に書かれている。その名をチベット語でメトク・ウク・チュ、滋養命花と記載し、ここで一句書いている。

いきたえんほどに険しきひまらやの山路の花やいのちやしなふ


この花は、1958年西北ネパール学術探検隊員だった並河治氏によれば、インカルヴィレア・マイレイ・マイレイ(ノウゼンカズラ科)に間違いないという。

余談になるが、並河氏とは2021年12月22日に京都大学での雲南懇話会でお会いすることが出来た。私は並河氏が当時登られた、ムクトヒマールのことを聞きたかったので、この件についてすぐさま質問させて頂いた。ムクトヒマールが見たいと思って現場に行ったが、どこからも見えていない。ムー・ラ(峠)から見えるだろう思っていたが、わからなかった。それを並河氏に聞くことが出来た。

やはりそこからは見えていない。本で読むだけでなく、体験した方の生の声を聞くことが一番リアルで感激した。

*     *     *

話を戻そう。結局この日、私はガイドやポーター達ともはぐれたため、また合流出来るのか不安なまま歩き続けた。私がサルダン村を経由してドゥンターに着いたのは夕方ギリギリ。村には街灯や案内の目印などはないので、ポーター達のテントを探すのは一苦労だった。

唯一の日本人メンバーの伴ちゃんとは、ドルポを歩くのは2回目だ。お互いに自分のペースで歩いて、離れて歩くことも多く、前後どこにいるか見えない状況は当たり前。しかしこの日の後半は、彼女とはぐれないように意識して歩いた。

日が沈み切ったら道がわからなくなるだろうと思い、足を早めた。そして、テント場に到着すると、私も含めてみんながものすごく疲れきっているのを感じた。一度座ったらもう動けなくなると思い、そのまま一気に自分のテントを設営したら、すぐにダルバートが出てきた。それを食べてたら心身共に生き返えった。

長い行程を終えて食べた「ダルバート」に、心身ともに癒される

 

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

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