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備後灘と燧灘を見渡す岬歩き~死の淵からの蘇り山行・後編~

三崎(三崎灯台)[三豊市]( 中国・四国)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

マイカー
その他: 紫雲出山分岐から県道232号を北西に進み、生里(なまり)バス停先のT字路を左折する。
次の仁老浜(にろはま)バス停のある三差路も左折して墓地のある方向に進む。すぐ仁老浜海水浴場に到るので、そこの駐車場に駐車する。

この登山記録の行程

仁老浜海水浴場(30分)立石休憩所(10分)三崎神社(10分)三崎灯台(8分)関の浦(25分)仁老浜海水浴場

コース

総距離
約4.6km
累積標高差
上り約348m
下り約347m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

荘内半島の最高峰・紫雲出山を訪れた次は半島の突端へのハイキングをすべく、仁老浜海水浴場へと移動する。そのハイキングコースは「四国のみち」にも指定されており、コース沿いの山の天辺に建つ古社や妖怪伝説のある石、鎌倉時代は海の関所があった美しい入り江の砂浜等の見所がある他、瀬戸内海の展望も広がっている。

仁老浜海水浴場のある生里「仁老浜」は浦島太郎の母・シモの故郷であり、太郎が竜宮城に行ってから348年後の西暦787年に帰郷(明治40年に刊行された「讃岐名勝栞」の記述を元に算出)し、一時室浜で過ごした後、玉手箱を開けて以降、移り住んだ地でもある。「仁徳のある老人の太郎が暮らした浜」という意味を持つ。

因みに交通アクセス欄にも明記していたように、仁老浜海水浴場へ向かうには生里北部のT字路を左折するのだが、大字の「生里」は「太郎の生まれた里」という意味を持ち、小字の北部には太郎の生家跡がある。その地が生家跡であることは当該地に先祖代々暮らす住人の所蔵する古文書に記されている。

海水浴場には竜宮城を模したトイレがあり、神社の賽銭箱の前には切り大根を日干ししている等、おとぎ話が息づくのどかな光景。
浜の上の林道に上がる箇所に四国のみちの道標が立っており、そのコースに指定されている悪路の林道を歩く。2月上旬とは思えない陽気で、中着のマイクロ・フリースジャケットを脱がないと暑い位。

半時間程歩くと標柱があり、「どんどろ石」という石が現れる。昔、空からこの石に雷獣が降ってきたという。その時の爪痕がこの石に今でも残っているとか。因みに国内には「雷神」と称する奇怪な動物のミイラも現存する。
このすぐ前方右が「立石休憩所」。ここの背後の一枚岩が「立石」で、昔から瀬戸内海を行き交う船からのシーマークになっていた。ここからは西の丘に建つ「三崎神社」の屋根が見えるが、その丘への登頂欲が湧く。

時刻は11時半。ベンチもあり、陽気も良く、潮風も心地よいことから、そんなに空腹感はなかったものの、ここで弁当を食べてみることにした。3週間ぶりに口にする固形物だったが、驚くほど食はすすみ、弁当をたいらげることができた。昨夜まで一切身体が固形物を受け付けなかったことが信じられないほど。荘内半島の山や海の自然が私の心と身体を癒し、治してくれたのだろうか。

三崎神社は道標から石段を上っていくと山門(神道での呼称は別)があるが、両脇の格子の中にいるのは仁王ではなく、弓矢を持った正装姿の武士である。
三崎神社の祭神は大己貴命だが社伝によると、讃留王という王がこの地に至った時、上津水童命、中津水童命、底津水童命と名乗る三人の神が現れ、ここで海上を守る、と言って消えた。そこで王はここに祠を祀ったのがこの神社の起こりだと言う。以後、菅原道真や藤原純之、小野好古等の歴史的人物からも崇敬された。

四国のみちまで戻ると再び西に向かうが、ここからは歩道になる。
半島先端部は幕末の三崎砲台跡で、ここに「三崎灯台」が建つ。ここからの展望はないが、先の小径を下ると一気に海原の展望が広がる。半島から北側が備後灘で、南側が燧灘である。海面のきらめきは私に何かを語りかけているようにも思えた。下の岩場には大勢の太公望がいる。

帰路、三崎神社入り口付近の分岐から入り江の砂浜「関の浦」へと下って行った。浜は少々狭く、当時、陰気な印象を受けたが、後日プリント写真を見てみると太陽光が当たった海面はエメラルドグリーンで美しい。ここでは鎌倉から室町時代、沖を航行する船から通行税を徴収し、山口県の上関、中関、下関と並んで四大関所と呼ばれていたという。また、明治から昭和初期にかけては漁船の水の補給基地や潮待所となり、盛漁期には各種店屋も置かれた。

まだ午後1時のため、仁老浜海水浴場と立石休憩所の中間から、北東の室浜に下る別経路の四国のみちを少し辿ってみた。そのうちコンクリート道に変わったが、ここからの室浜漁港の景色は美しい。

その別経路の四国のみちは室浜から糸の越を通って箱崎に出て、紫雲出山登山口のある箱峠へと上がっている(殆ど車道)が、「室浜」は「不老浜」が転化したもので、浦島太郎が竜宮城から帰った後、玉手箱を開けるまで暮らしていた地。糸の越には太郎の腰掛け石があり、箱崎には太郎と両親の墓、箱峠北側の旧箱浦小学校跡には、太郎を乗せた亀の遺骨を粟島の墓所(亀戎神社)から分骨して埋葬した祠がある。祠のある広場に太郎は村の子供たちを集め、竜宮城での日々等を語っていたという。

分岐まで戻り、元来た道を引き返して行くと、紫雲出山が前方遠くに現れてきた。もっともっと歩きたい気分だ。
今回のハイキングで私は心身ともに蘇った。その日からまともな生活を送れるようになったのである。

登山やハイキングは有酸素運動により、心肺機能を強化し、血行も促進され、新陳代謝も活発になり、老廃物は体外へ排出される。また、自然の中を歩くと、視覚、聴覚、嗅覚等からの影響により、ストレスホルモンが激減する。そういう意味で、登山やハイキングは人間にとって必要不可欠なものなのかも知れない。

余談だが、この後、春に起死回生に始めた新事業が成功し、夏には某ビジネス誌で昭和期に活躍したある俳優と誌上対談をし、翌年、一作目となるマイナー峰専門の登山ガイドブックの製作に取り掛かることになるのである。全くもって人生は分からないもの。

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装備・携行品

シャツ アンダーウェア ダウン・化繊綿ウェア ロングパンツ 靴下 レインウェア
登山靴 バックパック 水筒・テルモス 帽子 グローブ 地図
コンパス ノート・筆記用具 腕時計 カメラ ナイフ ホイッスル
医療品 非常食

みんなのコメント

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  • マローズさん、はじめまして

    浦島伝説は、こんなところが舞台だったのですね。
    とても興味深く拝読いたしました。

  • こちらこそ初めまして。
    そうなんです。全国に存在する浦島伝説地の中で、最も関連伝承地が多いのが荘内半島なのです。去年、自治体が浦島伝説マップを発行したので、もし興味がおありになれば送付(無料)して貰って下さい。但し、そのマップには太郎が釣りをしていた「どんがめ石」等、誤った図示と写真があり、生家跡(当記事の地図で図示)や旧小学校跡の竜王社(紫雲出山箱峠登山口北側)等は掲載されていません。

  • マローズさん、早速追加情報までいただきありがとうございます。紀行文としても、郷土史としても、また半生記としてもとても印象深く拝読しました。

    浦島太郎のお話は、読み聞かせの簡略なものにしか触れた機会がなく、あらすじが記憶に残っているのみ。けれど、考えてみれば太郎にも父母があったはずで、住んでいた場所がここ、ウミガメの墓がここ、と言われれば改めて驚きます。

    自分は東京在住なので、いつ四国に山登りに行けるかめども立ちませんが、いつかこの伝説に彩られた幻想的な光景を目にしたいものだと思いました。

  • 確か、関東の街中にも浦島太郎伝説地があったように思います。テレビ番組の「クレイジージャーニー」では他の伝説地を取り上げていたように記憶していますが。

    亀の本墓(亀戎)や乙姫が太郎を故郷に送り届けた後、潮待ちで滞在した地は「スクリュー島の二山」で解説していますから、宜しければ閲覧ください。また、荘内半島の浦島伝説は自己ブログに於いて地図入りで徹底的に解説しています(荘内浦島太郎伝説)。https://search.ameba.jp/search.html?q=%E8%8D%98%E5%86%85%E6%B5%A6%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E%E4%BC%9D%E8%AA%AC&aid=&row=10&prevRow=10&profileRow=

    景色を楽しむだけの山行もそれはそれで楽しみ甲斐があるのですが、伝説を追いながら集落から丘陵、山へと訪ね歩いて行くのも探訪のし甲斐があります。岡山の桃太郎伝説を追った登山記録「吉備路・桃太郎伝説」や二万年以上前の超古代伝説を追った広島の「二万三千年前の神殿跡・葦嶽山 」もまた機会があればご覧下さい。

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