行程・コース
天候
晴
登山口へのアクセス
その他
その他:
自宅(23区内)からパスハンターで自走、途中にデポ、そして徒歩。
この登山記録の行程
甲州道中 - 駒木野 - 荒井宿 - 一里塚跡 - 伊能尾根(仮) - 金比羅台(七盤嶺) - 1号路 - 薬王院 - 高尾山山頂(紫陽関)
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
今年は伊能忠敬没後200年、高尾山と「伊能図」にまつわるルートを紹介しようと考えていたのですが… はや師走! あわててUP(:
先に、七曲と花見ぞねとされる近世の古道を紹介、そしてそのいずれかが「伊能図」に描かれている山道では? という話も。
ルートの候補ともなる山道はもう一つあり、ここが本命ではないかと考えてます。その紹介ですが、あくまでも一史観。
200年が経過しているため、この一帯の地形にも変化が見られるでしょう。現在、危険箇所多数。特に取り付きからの直登は崩壊が激しく、気安く登ると降りれなくなる可能性が。
注・ルートの推奨ではありません。「伊能図」の謎を考える上での参考になればと思い公開です。
このルートも近世の古道です、もしも訪れるのであれば、生態系に配慮し、踏み荒らすことのないよう心がけて下さい。
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時は1811年5月5日、新暦の6月末。その初夏の高尾山で伊能隊による測量が行われた。
すでに第7次遠征、幕府もその重要性を認識。幕府直々の事前通達により測量予定地は再整備、当日は現地ガイドなどの現地要員も含めると一個小隊ほど、およそ50人ほどの人数に。
伊能忠敬の好きな食べ物リストまでが密かに出回っていたとされ、それほどに万全のバックUP態勢が整っていた。当然ヤブは払われ、浅瀬に仮設の橋をかけるくらいの勢いはあったでしょう。
(早いケースでは、1年前に通達が、つまり1年かけて伊能隊を迎える準備をしていた。階級社会なので、宿はランク別に用意され、風呂もランク別。一泊のために風呂が新築されたケースも。極例だと思うのですが、スタイリストまで待機させ、まるでエステサロンかのような態勢を整えていた村も。いずれにしても当時、伊能隊の訪問は一大事だったようです。)
測量が行われた尾根を(間道区間)、仮に伊能尾根とします。伊能図を見れる方は「大図」の原図に近いものを参照していただけれぱ。
伊能図の高尾山ルートは、甲州道中の荒井宿と稜線上の本参道とが間道で結ばれている。本参道と間道との出合付近には「佛寺」の地図記号が。
当時、その記号に符号すると思われる社は、伊能尾根(仮)ルートでは金比羅社、花見尾根ルートでは金比羅社もしくは浄土院が。
ただ伊能図には全ての社が記載されているわけではなく、おそらくポイントとなる位置にある社のみが記載されたと思われます。
(伊能日記にも「坊中十八院」とあり、それが全て記載されているわけではない、省略もされている。ただここの記号は、薬王院の塔頭の一つ浄土院と見るのが妥当では?)
伊能隊は小仏宿から甲州道中を東に進み、荒井-駒木野にかかり、測量の印を一里塚に置いた、というのが私の見立てです。
(この一里塚は、西は小仏山の取り付き、東は散田村新地の一里塚につづくものです。新地の一里塚跡は番地までは特定しましたが、すでに跡形もない。)
実は古い地図には一里塚のほぼ真南に橋があり、今回紹介した尾根にストレートにつづいています。さらにその尾根筋に道筋も描かれています。
(一里塚南の橋は現在消滅。そして現在、高尾天満宮側にかかる橋は古い地図にない。)
当時、戦国期-江戸期で、不動の目印になるのは一里塚のみでしょう。寺社に石碑、そして関所などは地勢に応じて閉鎖取り壊し-移設-再開を繰り返してきました。
単純に主要ルートの計測であれば、なぜ道標の設置された蛇滝道をパスした? またはなぜ当時のメインルートである七曲で測量が行われなかったのか?
ローカルルートの花見尾根に取り付いたのであれば、なぜ高尾天満宮の「佛寺」地図記号がないのか?
(ただ高尾天満宮は小社として省略された可能性が高いとも考えています。)
これは測量の検証よりも、そもそもその尾根を選択した理由のようなものを特定すれば、自ずと進んだ道筋も明らかになるであろうという仮説によるもの。
伊能図と現代の地図とを重ねてみれば済むようで、200年前とは全てが変化、そう簡単には。であればルートファインディングの理由から突き止めようと。
(ちなみに伊能図補正版となる「デジタル伊能図」でも、この間道区間はルート不明とされています。)
ところで伊能図製作は、技術的には、たとえば欧州に比較すると劣る、100年の遅れがあったそうです。にもかかわらず世界標準レベルの地図となる理由には、まめな修正があります。
それは天測による経緯度の補正、また交会法による誤差修正、さらに大量な現場でのスケッチと詳細なメモなどによる補足修正です。
その誤差修正が、この尾根でどのように行われ、その際、基点をどこに求めたのか?
またこの尾根は荒井-駒木野の字または御料林-民有林の境界尾根でも、では、境界ということでこの尾根が選ばれたのか?
(古くから、この尾根筋-一里塚が字の境界になっていたのは確かだと思います。)
一里塚南、この尾根上に置かれているのが画像にある宮標石「界」で、もちろん後年のものですが、なんらかのヒントにならないか?
まだまだ謎は深まるというわけで、しかも行き詰まり、伏せていたルートですが、伊能忠敬没後200年を機に公開してみようと思った次第です。
というわけで、今回つづけて紹介したルートは、いずれも伊能忠敬にまつわる疑惑ルートなんです。
実は後日談というか… 再検証のような話もあり、また機会があれば紹介します。
フォトギャラリー:13枚
荒井宿で小仏川を渡り、ここが入口。ヤブ!ヤブ!ヤブ! 師走の冬枯れでこれ、三季は近寄れない。
古地図を基に慎重にヤブに突入、すると、道があるんです。ヤブの奥深くに隠れて、まさか道が通じているとは! それがこのルートが知られていない一つの理由。
道を辿ると、このV字谷に。右(西)の尾根に取り付く、急登の直登です。ちなみに左側の尾根は危険というか、ただの崖。沢筋を進むのも危険。
尾根筋の様子。この画像は目線、壁のような急斜面が間近に迫る。おまけにズルズル、とにかく滑る。
尾根上に。第一の難所クリア? 肩の部分で小休憩。この先が… また急登。ありがちな急登ですが、ここがリスキーなのは滑りやすい点。
そしてまた尾根上の肩に。第二の難所クリア? するとそこには…
俗称「ひょうたん」。御料局の宮標石がお出迎え。宮内省は御科林の境界標、そもそも高尾山は幕府の直轄地、後、宮内省の管理下に。
ひょうたん確認後、ほっと一息。この先にも急登が… そこが最後の上りです。
わかりづらいかもしれませんが、やがて、つづら折りの踏み跡に。オリジナルルートの名残でしょう。
途中、トラバース道との出合い。本来、このトラバースで金比羅台古参道に合流するのですが、崩落が激しくあぶない、このまま尾根を詰めます。このトラバースとの出合い付近が「伊能図」に描かれている「くの字」の区間になると考察しています。
ようやく尾根上、金比羅台まであと一息。一気に脱力。お茶の時間。あとは金比羅台を経由、薬王院、そして高尾山山頂に。
ところで最初のヤブ、なぜあそこを入る? その理由がこの古い水準点で、いわゆる荒井-駒木野の一里塚跡。甲州道中に沿うものですが、厳密には私有地内、この時は地主の方に立会っていただいています。
宮標石で記念撮影。日の出直後、ちょっと寒い、それでこわばってます。真後ろがほぼ真北、ちょうどその先に荒井-駒木野の一里塚跡が位置する。赤テープがやたらにあるのはルート目印ではなく、ここを外すと滑落するという危険表示でしょう。
装備・携行品
シャツ | アンダーウェア | ダウン・化繊綿ウェア | ロングパンツ | 靴下 | レインウェア |
登山靴 | バックパック | スパッツ・ゲイター | 水筒・テルモス | ヘッドランプ | タオル |
帽子 | グローブ | サングラス | 着替え | 地図 | コンパス |
ノート・筆記用具 | カメラ | 登山計画書(控え) | ナイフ | 修理用具 | ツエルト |
健康保険証 | ホイッスル | 医療品 | 虫除け | 熊鈴・ベアスプレー | 非常食 |
行動食 | テーピングテープ | トレッキングポール | ライター | ||
【その他】 ロープ スリング カラビナ パスハンター |
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