行程・コース
天候
晴れ
登山口へのアクセス
その他
その他:
徒歩
この登山記録の行程
鶴川台尾根緑地・・・真光寺公園・・・黒川毘沙門天堂・・・真光寺公園・・・鶴川台尾根緑地
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
朝飯前のご近所散歩。今度は北側を目指してみた。
出戻り登山者の住処は、東京郊外のありふれた新興住宅地にある。幸い、住宅に蚕食された残りの葉脈のように、丘陵の尾根筋は細長い緑地が、切れ切れに残っている。足を伸ばせば、いまだに営農している谷戸もあり、里山の面影を忍ぶこともできる。
この道は町田市と川崎市の境をなすもので、車一台がようやく通れる細いものだが、左側によれば町田市、右側を歩けば川崎市だ。時折墓参にも歩いているし、二十年前にこの地に住宅を購入した当時は、まだ小さかった子供を連れてカブトムシやクワガタムシを取りに出掛けたところでもある。宅地開発も及ばなかった尾根なので、視界が開けると西側に大きく丹沢や富士山の眺望が楽しめる。今回は、意識してその少し先に進み、以前耳にしたことがある毘沙門天を訪ねた。
勝手を知ったつもりでいた住宅地の縁、さらにはその先に、秘密の花園のようなところがいまだに隠れているのは、ありがたいことである。石仏に刻まれた「天明」や「寛政」といった年号から、江戸時代中期の人々の境遇にしばし思いを馳せ、片道1時間の朝飯前の散歩を楽しませてもらった。
そういえば、庚申塔に刻まれている青面金剛(しょうめんこんごう)は、疫病を流行させる鬼神が転じて、疫病を防いでくれるものとして祀られていたそうだ。コロナ禍で外出自粛が呼びかけられる中、これも何かの縁かしら。
いやいや、結局のところ人は外界と接しない限り生きてはいけないし、その際には良いものも悪いものも入ってくる。悪しき物だけは塞ぐよう願うのは今も昔も変わらない人々のありふれた願いで、「塞の神」に出会ったのも殊更偶然ではないのかもしれない。
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整然と区画された住宅地を進んだ先に、尾根道が続いている。
二十年前は、小さかった子供を連れてカブトムシなどを取りにきたものだ。
尾根なので、視界が開けると丹沢と富士山の展望が広がる。我が家からは、富士山はちょうど神奈川県の最高峰、蛭ヶ岳に遮られて、山頂辺りしか見られないのだが、10分も歩けば角度が変わってよく見えるようになる。
足元まで新興住宅地が迫る。
細々とではあるのだが、尾根伝いに緑道が伸びる
起伏も大したことなく、雨後でぬかるんでいなければ、ズンズン進める。
薫風に吹かれ快適な散歩道だが、所々、スズメバチに注意するよう促す看板もあるので、秋などは要注意かも。また、これから季節が進むと、虫が出てきそう。
電車の最寄り駅を中心に考えてしまうが、この街とあの街は尾根ひとつ挟んだ隣町だったのだと「意外な」発見をする。
真光寺公園へ
芝生広場があるいかにも新興住宅地の整備された公園だが、周囲は里山の面影を残している。真光寺川源流の池もある。
忙しく車が行き交う鶴川街道を渡り、「町田いずみ浄苑」の脇を上がり、町田市と川崎市の境をなすもうひとつ隣の小さな尾根をこえる。
尾根を跨ぐと川崎市黒川で、多摩川水系となる。
長閑な里山の景観
黒川の谷戸
今日のお目当ての石碑群。黒川の谷戸の道端に庚申塔などの石碑が並ぶ。
寛政十二年庚申との名が残っているから、庚申塔である。四本の腕が見えるが、にわか勉強によれば、庚申塔に刻まれることが多い青面金剛(しょうめんこんごう)であろう。
背後には寛政十二年庚申(かのえさる 1800年)と銘が残っている。
谷戸から少し上った先に、最終目的地、毘沙門天堂があった
鳥居と石仏群、奥に毘沙門天堂
石仏は全て頭部が失われているが、明治の廃仏毀釈運動の爪痕だという。
左から二番目の石像には「天明八 戊申(つちのえさる 1788年)」と銘が残っている。何が刻まれたのか判然としないが、龕の形状は光背のように見え、仏像であろう。
天明八年といえば、二年から始まった「天明の大飢饉」の最後の年。前年には、江戸や京都で米問屋が襲われた「天明の打ち壊し」、庶民が救済を求めた「御所千度参り」などが起こり、さらには「寛政の改革」を行う老中松平定信が登場している。当時の人々はどのような思いで、像を刻んだのだろう。
毘沙門天は1995年に盗難に遭い、今は15センチほどの木像が納められている。
かつての黒川の毘沙門天像は、甲冑をつけない坐像で、珍しい形態だったそうだ。
里山は、不法投棄などされやすい「裏」と見做されているのだろう