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ジョン万次郎帰国道から三光ノ辻山回遊

三光ノ辻山(仁淀川町と久万高原町との境界)( 中国・四国)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

マイカー
その他: いの町下八川弘瀬で、国道194号から国道439号に入り、仁淀川町北浦で北浦橋に右折して旧道の方の439号に出て、また右折。
用居瓜生野(もちいうりゅうの)の「瓜生野」の道路標識がある三叉路をそちらの右上に折り返す。
瓜生野集落を過ぎ、細長い尾根の切通しを抜けた所の「林道瓜生野 桧谷線終点」標柱付近に駐車。
尚、距離的には国道33号から国道439号に入った方が若干近いが、信号が殆どない194号の方が時間的には早い。

この登山記録の行程

林道瓜生野 桧谷線終点10:43・・・松山街道入口10:52・・・往路の尾根取付き部11:05・・・林道の急カーブ部11:30・・・高度計高度990m地点で休止11:49~12:05・・・林道終点12:29・・・山頂で休止12:53~13:26・・・境野峠で休止14:06~14:09・・・往路の尾根取付き部14:27・・・林道瓜生野 桧谷線終点14:45
※コース図の林道のジグザグ(折り返し)の数は適当。

コース

総距離
約5.3km
累積標高差
上り約544m
下り約546m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

近年、アメリカの学校等で人気が上がっている偉人の中に土佐出身のジョン万次郎がいる。少年時、カツオ船での初漁時に難破、長い無人島生活を経て、アメリカの捕鯨船に救出され、米国で教育を受け、各種差別や偏見と闘いながら成長して行った様が現代のアメリカでも共感を呼んでいるのだろう。
成人後、帰国してからは英語力を買われて幕府直参となり、坂本龍馬にも間接的に影響を与えたと言われている。
明治期には東大前身の江戸開成学校の教授になる等、異例の出世を遂げている。

ジョン万次郎は日本に戻った後、薩摩や長崎等で取り調べを受けた後、土佐藩に身柄を引き渡され、伊予の三津浜港に上陸、松山街道を辿り、嘉永5年(1852)7月11日、高知城下に着いた。その帰国の際に越えた、伊予と土佐との国境が境野(サレノ)峠で、そこから登山コースが続いている山が三光ノ辻山(1215.3m)である。山頂から三方向に尾根が分かれ、山頂部が辻になっていることから、この山名が付けられた。ほぼ全山植林山だが、笹が下草になっているため、無味乾燥としている訳ではなく、山頂部は灌木のみで明るく、木の間越しに石鎚山系を遠望することができる。
登山ルートについては、前述の境野峠からのコースが最も知られているが、変化をつけた回遊ルートにするため、松山街道の高知県側の途中から支尾根を登って作業車道に出て、その終点から再び尾根を登って登頂し、復路は境野峠に下りる急勾配のコースを辿った。
尚、今回、アイゼンは持参しなかったが、4本爪の軽アイゼンをつけた方が、急勾配時は安心。また、復路の踏み跡は積雪で消え、尾根の幅も広いので、読図力が乏しい者はルートを踏み外す危険がある。故に自信のない者はこの復路を往復し、往路、テープを付けながら登るようにされたい。

[コースの詳細]
一週間前、松山街道の下見に訪れた際は既に起点の林道にも雪があったが、その後、気温が高い日があったため、林道や街道に積雪は見られなかった。
林道瓜生野 桧谷線終点から先にも未舗装林道は続いているが、各所に落石があり、路面を横断する素掘りの水切り溝も深いため、キャタピラー車以外の車は通行不可。
松山街道入口付近は林道化されており、且つ、下り坂となっているため、下見に来た際は当初、ここから街道が続いていることに気付かなかった。が、すぐ先の沢近くで古道となる。
道沿いは植林だが、所々現れる石垣が往時を偲ばせている。
標高780mの支尾根を横断する箇所は浅い切通しとなっているが、ここからその尾根を登る。造林作業時に歩かれる薄い踏み跡があり、幅広の尾根を西に東にと左右に振りながら登って行く。

東側の尾根が当尾根に合流しようとする手前辺りで踏み跡は消え、伐採の倒木等で尾根はやや荒れ気味になるが、そのままの進路で登って行くと林道の急カーブ部に出た。街道起点から続くキャタピラー車道だろうか。この辺りでは尾根の形状を成しておらず、ただの斜面で日当たりもいいため、積雪はない。路面の水溜りに薄い氷が張っている位である。
林道は大きくジグザグを繰り返しながら高度を上げて行くが、路面の雑草が藪化しているため、長らく造林作業は行われていないようである。
林道は至る所に支道がある。近道になりはしないかと、最初の内は支道を辿ってみたが、どれもルートにはなりそうになかったので、本道を終点まで上がることにした。

11:37頃、谷沿いに達した辺りで一瞬、終点に達したかと思ったが、よく見ると路面が急傾斜の藪になっているだけで、林道は左に折り返し、更に上へと続いていた。
やがて終点となったので、西に斜面をトラバースしたが、勾配が急で登り辛かったため、少し登った後、斜めにトラバースして東に移動すると、北東上に平坦地が見えたので上がると、別経路の林道に出た。こちらの林道の方が本道で、気づかないうちに支道を上っていたのかも知れない。
相変わらず林道はジグザグを繰り返しながら上がって行くが、高度計高度が1110m地点で遂に本当の終点となる。積雪で終点から先に踏み跡は見えなかったが、斜面に国土調査の赤い杭らしきものが見えたので、そこへと斜面を進み、杭から急勾配の斜面を直登して行った。
国土調査の杭があるということは、ここは尾根であることを示しており、ほどなく尾根の形になった。しかしとにかく傾斜が急なため、西にトラバースして行って境野峠から上がる尾根に出ようかとも思ったが、西方を見ると藪が広がっていたので、踏ん張って這い上がって行った。
が、そんな超急勾配の尾根は短時間で終わり、少しは登り易い尾根になった。尾根から東は植林帯で西は低木の藪になっている。

やがて西側に境野峠から立ち上がる尾根が接近したため、その尾根に乗った。マイナー山のため、雪上に登山者の足跡はないが、若干の窪みがあるため、尾根道が付いていることが分かる。
上部に行くと植林帯の尾根上を覆う笹原が絨毯のような広がりを見せている。
三角点周囲は植林がなく、明るく、雑木の木の間越し北方には、斜めに伸び上がる気多山の稜線が望め、その奥には二ノ森辺りから堂ケ森周辺の石鎚山脈が広がっている。3月下旬頃には、堂ケ森から鞍瀬ノ頭(一ノ森)を縦走してみたいものである。
帰路は急勾配の県境尾根を下るが、このルートは利用者が多い(と言ってもメジャー山より入山者は格段に少ないが)ため、赤テープが付けられている。しかし往路との合流点から下方は段々尾根の幅が広がって行き、その内、ただの斜面ではないかと思う位の広さになる。

県境線が南西から南向きに変わる辺りで薄い三叉路になっていたと思うが、西にトラバースする道は遠回りになるため、そのまま県境を下る。
960mピーク北のコルで県境から外れ、南西にトラバースする巻道に入る。地形図の破線はコルの西下に描かれている。
地形図では破線は910m地点から南に一直線に下りているが、その道は廃道化しており、実際の道は東に折り返し、県境尾根の西直下まで接近後、南に向きを変え、境野峠まで下っている。

峠には峠名を記した標柱が建てられているが、「松山征討」の文字が記載されているため、設置したのは高知県側の機関若しくは自治体だろう。四境の役(第二次長州征伐)の大島口の戦いで長州軍(第二奇兵隊が主力)と戦った幕府軍の松山藩は朝敵とされ、慶応四年1月11日、土佐藩に対して松山藩征討の朝令が下された。そして同月21日、土佐軍約二千の兵が高知城下から松山に向けて出陣したのである。が、山内容堂公は松山藩を征伐する意思はなく、むしろ、松山を救うための出陣だった。実は大島口の戦い時、松山藩では士気が低く、兵もなかなか集まらなかったため、前科者や極道者まで借り出した始末。その結果、進軍した長州の周防大島では物取り、放火、強姦、殺人等が相次ぎ、長州人の恨みを買っていたのである。そこで松山藩主の家系と繋がりのある山内家の容堂公は、長州軍が松山に上陸する前に土佐軍を進軍させ、松山城を無血開城し、平和裏に平定するつもりをしていた。そして1月27日、土佐軍は松山城に到達、無血開城させ、翌日には無事、武装解除も終わったのである。
峠の高知県側には、地震で傾いた小さな石室があり、中に二体の地蔵が安置されている。
そこから街道を少し下った所は斜面が少し崩れているが、難儀するようなことはない。万次郎たちに思いを馳せ、街道を踏みしめたい。

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