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荒幡富士から武蔵野坐令和神社・滝の城跡・平林寺など

荒幡の富士、鳩峯八幡神社、将軍塚、久米川古戦場跡、勢揃橋、山崎遺跡、日月神社、北秋津城跡、安松神社の富士塚、長源寺、氏照院跡、松井陣地跡、武蔵野坐令和神社、滝の城、平林寺、睡足軒の森、野火止用水陣屋跡跡( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇り時々晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:
目黒→山手線→池袋→東武東上線→西所沢→西武山口線→下山口

復路:新座→武蔵野線→北朝霞/朝霞台→東武東上線Fライナー元町中華街行→渋谷→東急東横線→学芸大学

この登山記録の行程

下山口駅6:02→荒幡富士6:15→鳩峯八幡神社・八坂神社・久留米水天宮6:38→将軍塚6:55→久米川古戦場跡6:59→徳蔵寺の塁7:04→勢揃橋7:21→山崎遺跡7:31→北秋津富士塚7:34→日月神社7:37→北秋津城跡(大堀山館跡)7:44→下ヶ谷戸遺跡7:52→氏照院跡8:13→長源寺8:15→安松神社の富士塚8:20→松井陣地跡8:31→スーパー銭湯 湯の森 所沢8:37→ところざわサクラタウン(角川武蔵野ミュージアム・武蔵野坐令和神社)8:50~9:02→富士仙元灯籠9:21→滝の城址公園(滝の城跡・城山神社)9:21~10:00→ゆとりの湯 にいざ温泉10:37~11:52→平林寺12:09~56→睡足軒の森12:58~13:04→野火止用水陣屋跡13:09→新座駅13:40

合計6時間18分(温泉除く)

コース

総距離
約26.4km
累積標高差
上り約266m
下り約306m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

6月5日(土)は、西武山口線の下山口駅から「荒幡富士」に登り、東京と埼玉の境目あたりを、最近出来た「ところざわさくらタウン」の「武蔵野坐令和神社」経由で、「滝の城跡」と「平林寺」まで行って来ました。

この辺りというのは、丘陵地帯は荒幡富士の少し先の将軍塚で終わるのですが、川が多く、その河岸段丘が発達していて、その上に城跡だの富士塚だのが造られています。東京の清瀬市や東久留米市の延長といった感じ。

街のつくりは、所沢駅周辺が一番宅地化が進んでいて、都心に近い東に行くにつれて、どんどん畑が多くなって行きます。新座市とかも、練馬区のすぐ隣なのでもっと宅地化が進んでいると思っていたのですが、予想以上に自然がいっぱいでのどかなとても良い所でした。

下山口駅から「荒幡富士」は標識が整備されているので、それに従って進めば迷うことなくたどり着くことが出来ます。ここは2~3年前にも登ったのですが、狭山丘陵の上に造られた標高119m(富士塚は約10m)の人工の富士塚です。その昔、荒幡村には小字ごとに鎮守があり、民心の統一がとりずらかったため、村にあった三島神社・氷川神社・神明神社・松尾神社の4者を浅間神社に合祀し、山の上にあった松尾神社の社地に新しい社殿に遷し、さらに浅間神社にあった富士塚を移築したのが「荒幡富士」です。完成までに15年もかかったそうです。ちなみに、富士塚というと富士講の人が造ったもののように思われますが、荒幡村には御嶽講や榛名講はあったものの富士講は存在せず、集落の中にあった小高い塚とその上にあった浅間様を移築しただけだそうです。良くモチベーションが続いたな…。

荒幡富士から一旦下に降りて、次は「鳩峯八幡神社」に向かいます。ここも前に来たのですが、「鳩峯八幡神社」の他に「八坂神社」「久留米水天宮」も祀られていて、メインの八幡神社の由緒は山城国綴喜郡(京都府八幡市)の男山に鎮座する石清水八幡宮より分祀を受け祀ったことによるそうで、社号の「鳩峯」は、男山の正式名・鳩ヶ峰にちなむのだそうです。

「八坂神社」は、柳瀬川の勢揃橋の北側に鎮座していたものを、遷座したものです。前に、新田義貞が八国山の将軍塚に陣を布いた時に兜を掛けたという「兜掛の松」があります。あと鎧を置いた場所には「鎧稲荷神社」を祀ったとのことなのですが、これは見落としました。

「久米水天宮」は壇ノ浦の戦いで母方祖母に連れられて入水した安徳天皇を祀っています。水天宮もたぶん八坂神社同様に下の川沿いから移されたものだろうと思いますが、他と少し離れているのは源氏の末裔である新田義貞と源氏に殺されたに等しい安徳天皇を一緒の場所で祀るのはマズいという配慮でしょうか?

「鳩峯八幡神社」から住宅地を横切って「将軍塚」に向かいます。ここは新田義貞が陣を構えた場所と言われていますが、他に久米川の戦いに勝った後に新田義貞が塚を築き源氏の白旗を立てた場所であるとか、戦死した新田義貞方の武将たちを供養するための塚だとか、単なる富士塚であるとか、いや古墳だとか、いろいろな説があるようです。たぶん元々塚があった場所を戦争の物見台とか本陣に使ったのだろうと思います。なお戦死した武将たちを供養するためにここに立てられたとされる光明真言が刻まれた「元弘の板碑」は、現在は麓の「徳蔵寺」の板碑記念館に移されて大事に保管されているそうです。

将軍塚から下に下りると、住宅地の一角に「久米川古戦場跡」の碑があります。小手指ヶ原の合戦で鎌倉幕府軍を破った新田義貞と軍を立て直した幕府軍の第二戦が行われたのが、狭山丘陵東端のこの辺りと言われています。小手指ヶ原で破れた幕府群に当初の勢いはなく、新田軍の勝利に終わります。敗走した幕府軍は北条高時の弟泰家率いる10万の軍勢と合流し、天下分け目の分倍河原の合戦へとなだれ込んで行きます。

久米川古戦場跡から川を渡った場所にあるのが、先ほどの元弘の板碑を保管する臨済宗の「徳蔵寺」です。ここには鎌倉時代に板倉氏の居館があり、江戸時代頃まで「徳蔵寺塁」という土塁の跡が残っていたらしいのですが、今は何もありません。ただ裏の川が堀のようになっています。板倉氏についても、足利氏の一族という説があるようですが、実際は良くわからないそうです。

徳蔵寺から北に向かうと、柳瀬川にかかる「勢揃橋(せいぞろいばし)」という小さな橋があります。ここは久米川の戦いで新田義貞の兵士たちが勢揃いした場所だそうです。

「山崎遺跡」縄文時代の集落の跡らしいのですが、単なる茶畑で標識も何も無し。

山崎遺跡の前の道をそのまま進むと「北秋津富士塚」があり、そのすぐ先に「日月神社」の入口があります。神社から広い車道を渡ったとこらに「北秋津城跡(大堀山館跡)」もあり、この2つはセットで北秋津城の殿様がパワハラ大魔王で、家来に「蜻蛉を自分の年齢だけ捕えてまいれ」と命じたが捕えた蜻蛉の数が一匹足りず、これを怒った殿様は家来を斬り、蜻蛉を一固まりに握りつぶして日月大明神の神木へ投げつけ「祠の主、神としての力があるならば、蜻蛉の固まりをこの木の宿生木としろ、できなければ祠を取り壊す」というとたちまち御神木から宿生木が生え、同時に殿様は声が出なくなり二度と無理が言えなくなったという話が残されています。

「日月神社」は、明治時代に北秋津村と南秋津村に分かれた北秋津村の鎮守で、祭神は大日霊貴尊、月読尊だそうです。

「北秋津城跡(大堀山館跡)」は、鎌倉時代以降の豪族(一説によると村山党の久米氏)の館と推測されていますが、大石遠江守信重の城館で北条氏によって改修・利用されたという説もあるようです。民家の裏の河岸段丘の林の中に、今も少し土塁や空堀が残っているそうですが、私有地なので入れません。

その先の「下ヶ谷戸遺跡」も縄文の遺跡らしいのですが、ここも何も無い畑で、しかも畑を潰して宅地造成の真最中でした。

そのままさらに真っ直ぐ進むと武蔵野線の線路にぶつかります。それをくぐったあたりに「氏照院跡」という秀吉の小田原攻めによって滅んだ北条氏の菩提を弔うため北条氏照の旧臣により創建された大きな天台宗の寺院があったそうです。目印の庚申塔があるはずだったのですが、畑が住宅地に変貌しており、その所在を確認することは出来ませんでした。氏照院は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、次に行く「長源寺」に合併されたとのことです。氏照の三尊仏像というのが長源寺に移されて、今も残っているそうです。

再び武蔵野線をくぐって戻ると、氏照院を合併した「長源寺」に着きます。ここは北條氏照、及びその養父の大石定久が開基となり、傑用徳英(元亀3年1572年寂)が曹洞宗寺院として開山したという伝承が残っているのですが、それだとあえて氏照院をつくる必要性がなくなるので、氏照関係なく、古くからこの地にあった寺なのではないかと思います。

長源寺が建つ柳瀬川の河岸段丘の上にあるのが、「安松神社の富士塚」です。この神社は近隣にあった稲荷神社二社と氷川神社・八雲神社・神明社・日枝神社の六社を合併するため長源寺から土地を買って、大正3年に造られた神社です。その中に浅間神社は含まれていないのですが、祭神の中に大山咋命が加えられており、境内に「富士塚」があります。ただここは上に石祠も何もないので、神社の土地を整地した時の残土を積み上げたものか、あるいは削り残しなのかもしれません。あるいは元からあった意味不明の塚か古墳の可能性もあります。

安松神社と長源寺の北東に「松井陣地跡」というのがあって、戦国時代の本陣か何かが置かれた場所かと思ったら、太平洋戦争の陣地の跡のようです。この辺、飛行場とか多いのでその関係でしょうか?

松井陣地跡から、先日行った隣りが巨大パチンコ屋の温泉「スーパー銭湯 湯の森 所沢」の脇を抜け「ところざわサクラタウン」に向かいます。ここは角川が手がけた、あの松岡正剛や荒俣宏もかかわっているという「コンテンツモール」、要するにちょっとウンチクがお洒落なショッピングモールです。中には、松岡正剛の「本棚劇場」や荒俣宏の「妖怪伏魔殿」がある「角川武蔵野ミュージアム」などもあって見所満載なのですが、まだ開場前なので、そちらはパスして「武蔵野坐令和神社」に向かいます。そもそも角川ミュージアムは土日4,000円も取られるので、駆け足で見るのはもったいない。

あと食堂街に「ラーメンWalkerキッチン」もあるそうです。

「武蔵野坐令和神社」は、新国立競技場を設計したクマさんこと「隈研吾」が設計した神社で、どういう神社かというと、説明が面倒なんでコピペすると、
「元号<令和>の典拠となった『万葉集』の舞台でもある武蔵野。
この地に建設された「ところざわサクラタウン」に鎮座する神社名を国文学者の中西進先生に命名していただきました。正式名称「武蔵野坐令和神社(むさしのにますうるわしきやまとのみやしろ)」 通称「武蔵野令和神社(むさしのれいわじんじゃ)」。武蔵野に坐(ま)す<令(うるわしき)和(やまと)=COOL JAPAN>の社(やしろ)。
武蔵野坐令和神社は「ところざわサクラタウン」で行われる事業の安全・繁栄を願い、 各事業を有機的に結合させる役割を持ちながら、 施設内において・<祈りの場>・<憩いの場>・<賑わいの場>としての機能を果たします。富士山を望む武蔵野台地に建設された「COOL JAPAN の聖地」にある<祈りの場>として、 日常の喧噪から離れ、安らぎを感じる水と緑に満ちた<憩いの場>として、地域のコミュニティを活性化し、 公共的機能を担う市民と来訪者のための<賑わいの場>として、 所沢から新たな物語を創造・発信する起点となることを目的として創建されました。」
とのことです。

祭神は、天照大御神で相殿に素戔嗚命といなってるのですが、それならば埼玉が世界に誇る大宮の「氷川神社」を単にひっくり返しただなので、別に「新中氷川神社」でもいいじゃんと思うんですけど、それじゃあつまらないので、個人的には荒俣さんが関わっているのだから「平将門」も合祀して欲しかったです。あとモール全体の構成に関しては、やはり神社を一番奥まった場所に配置して、店舗は参道の仲見世のような形に、ミージアムは宝物殿のような形に配置したら、より気分が高まるような気がしました。神社の建物も古代の出雲大社のような長い階段の上に置くようにしたら、最高じゃないですか。今の配置だと単なる屋敷神!

ところざわサクラタウンを出てまた武蔵野線の線路をくぐると、畑の中に結構大きな「富士仙元灯籠」があります。富士講の道標だったのだと思いますが、大山の文字も見てとれ、昔の街道が通っていた雰囲気です。場所的にみると、次に行く滝の城と八王子の滝山城を繋いでいたのかな?

富士仙元灯籠から少し行った柳瀬川の河岸段丘上にあるのが「滝の城(本郷城)跡」です。ここは源頼朝の挙兵に応じて土豪が築城した城の上に、東管領上杉氏の家臣で武蔵国守護代であった大石定重が滝山城の支城として築いた城で、多摩西部と北関東を結ぶ「伝えの城」として重要な役割を担っていたそうです。その後、大石定久が小田原北条氏の配下に下ると、北条氏照の八王寺城の支城になり、氏照が北関東方面へ出陣する時に、度々使用されていたらしいのです。豊臣秀吉の小田原征伐の時は、浅野長政率いる豊臣方に急襲され八王子城と共に落城し、徳川家康の関東入国によって廃城となったそうです。

と、まとめようと思っていたのですが、城跡にあった説明書きでは「大石」が「太田」に書き直されていました。太田道灌築城説というのもあるのかも知れません。

「滝の城」は城跡としては、堀や郭などが再生されて非常に良く残っています。全体の感じは、同じ人物が造ったので当然なのですが、八王寺の滝山城を小ぶりにした感じで、大石定重が基本構造を造った城を城マニアであった氏照が徹底的にほじくり返して整備したといった感じの城です。そこまでやっても所詮は後ろが平地の河岸段丘なので、さほど防御力は高くならないと思うのですが、やりたくてしょうがないんでしょうね。

ちなみに太田道灌はもう少しコスパ重視すると思います。

あとここには「横穴墓群」というのもあり、城になるはるか昔は古墳地帯だったのかもしれません。

最後に滝の城の名前の由来になった滝の跡を見たら、柳瀬川を渡って「平林寺」に向かいます。この手前に「ゆとりの里 にいざ温泉」というのがあるので、せっかくなので先に汗を流して行きます。

「ゆとりの里 にいざ温泉」はpH8.0のナトリウム・炭酸水素塩・塩化物温泉(黒湯)の温泉で、料金は土日880円。埼玉スポーツセンターというちょっと離れた場所にあるボウリング場とかゴルフ練習場とかやっているスポーツ施設が経営している温泉なのですが、時間が早かったせいか運動帰りの人は見かけませんでした。温泉自体は広い銭湯もしくは昔ながらの健康センターといった感じで、一応サウナはありますが露天風呂はなく、ちょっと古びた感じです。値段が多少安目なので、地元の常連さんが通う温泉といったところでしょうか。

温泉を出たら、汗をかかないように「平林寺」に向かいます。ここは寺自体よりも、寺をとりまく広大な武蔵野の林が名高い臨済宗の寺院で、イメージを言うと小金井公園が全部お寺の敷地といった感じです(拝観料500円)。これだけ広いとさぞかし古くからあったお寺のように思えるのですが、最初はさいたま市岩槻区にあったらしく、新座に移転したのは川越藩主・松平伊豆守信綱の遺命によるものだったそうです(寛文3年(1663))。

松平信綱という方は、柳生宗矩、春日局と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人で、幼少期に自ら志願して松平家の養子になり、そこから才能で出世し、みんな尻込みする島原の乱鎮圧した功により、川越藩主となって、川越を小江戸と称されるまでに発展させた、まあ埼玉の偉人です。あまりに優秀すぎて仲間内からは多少疎まれていたそうですが…。とにかくこの方の遺命により広い土地を与えられて造られた寺なので、本堂の裏には立派な「松平信綱夫妻の墓」およびその一族の墓があります。他には彼が鎮圧した「島原・天草の一揆供養塔」や、武蔵野の野火=野原や畑を焼く火災を監視するための物見台だったと言われる「野火止塚」「業平塚」なども残されています。

平林寺を一周したら、すぐ前に小ぶりですが「睡足軒の森」というのもあるので、そこにも寄って行きます。ここは「電力の鬼」と言われた、茶人としても著名だった松永安左エ門が昭和13年に飛騨高山周辺に建てられていた江戸後期の民家を移築し、草庵として使用していたもので、元は平林寺の所有物だったのですが、平成14年に新座市に寄贈され、市が管理しているそうです。そのため入場は無料。

睡足軒の森の裏の畑にあるのが「野火止用水陣屋跡」です。高崎城主松平輝貞(松平信綱の孫)が旧大和田地区の知行のためと、平林寺を守るために武士を住みつかせたもの、土塁が残っているらしいので行ってみたのですが、土塁だと思っていた物は、野火止用水の堤でした。用水の本流ははあちらこちらに水を分配するために地面より多少高い位置を流れていたのかもしれません。

じゃあ陣屋跡はどこかというと、先程行った睡足軒周辺にあったようです。

野火止用水陣屋跡から武蔵野線の「新座駅」に向かいます。新座駅は武蔵野線から見た感じから、結構大きな駅だと思っていたのですが、意外と飯屋が少なく、しょうがないので駅下の「餃子の王将」で「ダブル餃子定食」を食べて帰りました。個人的には「餃子の満州」のシャキシャキした餃子の方が好き。

ところざわウォーキング・ナビ Vol.2 中央エリア(PDF:3,290KB)
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/kanko/tokorozawawalk/walk02.files/tyu-29-omote.pdf

ところざわサクラタウン
https://tokorozawa-sakuratown.jp/

滝の城跡 所沢市ホームページ
http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/bunkakyoyo/bunkazai/kenshiteibunkazai/bunzai_20100126153048508.html

ゆとりの郷 にいざ温泉
http://www.esta.co.jp/mizuho/index.html

野火止 平林寺 公式サイト | 臨済宗 妙心寺派
http://www.heirinji.or.jp/

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