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冬でも夏でも快適?二つの城跡と一座を回遊

塒ケ森、陣ケ森、城台(佐川町)( 中国・四国)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

曇り

登山口へのアクセス

マイカー
その他: 国道33号で佐川町へ行き、ローソンやヤマト運輸のあるT字路を南に折れ、国道494号(バイパスの新道の方)を南下する。
岡崎地区で県道302号に合流、由留岐橋南袂東側の三差路沿いに駐車する。

この登山記録の行程

駐車場所11:47・・・塒ケ森で休止12:18~12:39・・・陣ケ森で休止13:34~14:03・・・途中、若干ルートを誤り、時間をロス・・・城台で休止15:06~15:24・・・県道302号15:43・・・駐車場所16:24

コース

総距離
約6.7km
累積標高差
上り約381m
下り約381m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

冬期はスーパー低山の登山時期だが、夏場でも海や川沿いの山では、潮風や川風がそよぎ、ある程度快適な登山・ハイキングができる場合がある。
その一つが佐川町の柳瀬川北沿いに連なる山脈。送電鉄塔や共同アンテナの巡視路が通じる塒(とや)ケ森(274.9m→なぜか最新の地形図には三角点が記載されていない)から西に稜線が延び、越知町界まで連なっているが、その途中には遠見ケ城跡である陣ケ森(424.6m)があり、そこから南に派生する支尾根突端には尾川城跡である城台(しろうだい・240m)が盛り上がって存在感を見せている。

塒ケ森から陣ケ森までの縦走路は、中世の武者たちが行き来していたせいか、尾根上の各ピークを除けた巻道があり、起伏は少ない。城台までもほぼ下り一辺倒。
展望は優れないものの、城跡の堀切や郭に歴史を感じることができ、道沿いにはシダ等の植物や雑木等の自然林も多く見られる。
尚、塒ケ森は「点の記」では点名の読み方が「ときがもり」になっているが、これは三角点設置当時、測量資料に測量員がカタカナで手書きした「トヤガモリ」の「ヤ」の字の右のはねが左側まで伸び、「キ」に見えたためだと思われる。
「塒」の意味は「鳥屋」とほぼ同義なので、昔は鳥たちの塒(ねぐら)になっていたことだろう。似たような誤りは他にも多々見られ、例えば土佐市の宇都賀山も、本来は北麓の地名「宇津賀」と同じ漢字の「宇津賀山」だったものと思われる。

[コース]
駐車場所から登山口までは、終始視界に塒ケ森から陣ケ森に連なる稜線が入っている。
柏原バス停の所の三差路角には、米森玄蕃妻子の墓とミニ霊場石仏がある。米森玄蕃と言えば、拙著「龍馬が辿った道」でも触れたが、玄蕃は町内斗賀野にあった斗賀野城主。寛正3年(1463)、大平氏一門の田原氏が斗賀野に来て、米森姓を名乗った。長宗我部元親公が土佐平定の際、近隣郷の領主が皆、降伏する中、米森玄蕃元高だけは抵抗し、元亀元年(1570)11月24日、斗賀野で戦死した。
が、玄蕃は領民から慕われており、玄蕃亡き後、城を元親公から与えられた安並但馬は農民の竹槍によって殺害され、城も炎上した。明智光秀の三日天下を想起させる物語である。

霊場石仏の北側に送電鉄塔の標柱があり、鉄塔巡視路が延びている。これが点の記にも記されている塒ケ森の登山道である。傾斜はある程度急だが、整備されているため、非常に登り易い。川風もそよいでおり、言うほどの暑さも感じない。
鉄塔を過ぎると起伏は緩くなるが、尾根道は未整備。
塒ケ森山頂は狭く、雑木に囲まれているが、空は開けているので明るい。
四等三角点標石は通常のものではなく、石柱の天辺に銘板をはめ込んだタイプ。しかし現にこうして比較的新しい三角点標石があるのに、なぜ最新の地形図には三角点が表記されていないのだろうか。尤も、標石が残っていても廃点になっているケースがない訳ではないが。

ここから陣ケ森までの尾根道は前述のように、起伏が極力少ないように配慮して付けられているが、一部、シダが藪化している箇所があったかも知れない。そういう藪を刈り、各分岐に道標を設置すれば、立派なハイキングコースになる。
陣ケ森山頂は塒ケ森より広く、植林に囲まれている。確か、山頂の北西の尾根に2本ほどの浅い堀切が残っていたように思う。

塒ケ森にはなかったが、ここの山頂には「いつものように割られた」キティ山岳会の登頂記念板がある。実は県内の無名峰ピークハンターの中には、高知県内の山に設置された手製の記念板や道標を片っ端から壊して回る器物損壊の犯罪行為を繰り返す輩がいるのである。当方が以前、ネット掲示板でその者(以前、「閑理職」というハンネを使用していた)に「もし道標がなくなったせいで道迷いを起こす登山者がいたら、どうするのか」と質すと「そんな者は勝手に遭難すればいい」という応えだった。その者は県内の登山ネット界では知られる(現実世界では無名)「三角点に登ろう会」というサイト運営者と親交が深く、意気投合しているように見えた。もし皆さんの中でその犯罪者を知っている方がいたらご一報戴きたい。一報を戴くと薄謝を進呈したい(郵便か振込で)。
社会悪に対しては制裁を下さないといけないと思っている。因みに当方は以前、ある公的機関の職員にネットで一種の制裁を下し、その地元県のマスコミから電話取材を受けた経験がある。

山頂からは南に派生する尾根を下らないといけないのだが、コンパスの針と地図上での進路が一致せず、最初は尾根の形状も不明瞭なため、若干迷ったが、少し下ると尾根は明瞭になった。
城台手前のコルは堀切になっており、下山路が北西に折り返すようについている。尾川城詰の段(山頂)は陣ケ森よりはるかに広く、300㎡もある。昭和期までは抜群の展望を誇っていたようだが、現在は樹木のせいで展望は皆無。
なぜか山頂の南端には、三角点がないにもかかわらず「三角点を大切にしましょう」の白いポールが立っている。
詰の段下方にも複数の郭があったと思うが、南東隅の下に舌状郭があったことは覚えている。

城主の近沢将監祐清は弓と筆を持たせると土佐に並ぶ者はいなかったという位の文武両道の武人で、元親公の居城・岡豊城下で弓術や砲術の師範を務めていたという。しかし長宗我部家滅亡後は国外に去り、廃城となった。
因みに町史や麓の城跡の解説板では、ここの標高を300mとしているが、これは古い5万分の1図か何かを参考にしているものと思われる。2万5千図での等高線標高は240mである。

城台からは植林帯の中の道をジグザグに下って行き、尾川川(柳瀬川上流)の支流の右岸を下り、コンクリート護岸上の道になると山田集落に到る。当方は右岸をそのまま進み、「老人憩の家」に突き当たると西に折れ、桃源寺跡の民家から南に折れて県道に出た。が、後に詳しい地図を見ると、本来の公道は、最初の民家手前から東に川を渡り、そのまま南下して県道に出ていた。
舗装車道歩きはあまり長時間したくないため、県道が柳瀬川から一旦離れる箇所の分岐から、川沿いを走る未舗装の軽トラ道を歩いた。

再び県道に合流してほどなくすると、県道が陸橋のような形状になり、路側帯は車道の下を通るようになる。すぐ下が川で眺めが良い。
路側帯がまた車道と平面に並行するようになると、もう前方にマイカーが見えている。

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