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陸軍壕と城跡と洞窟と坂本龍馬

大森山、蛸ノ森(南国市)( 中国・四国)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

マイカー
その他: 県道14号(黒潮ライン)で高知市から南国市十市に入り、南国十市郵便局のある信号交差点を北に折れる。
十市保育園のある集落を過ぎ、田園になると右手に小さなメダカ・トラストの看板がある広場があるので、本来はそこに駐車すべき。ただ、この日は登山口を車で探していたため、その少々先の「ドミール緑ヶ丘」があるT字路を北に折れ、その先の十字路も右折、歩道が交わる四差路を北に折れた所から北西に上がる道に入り、そこの広場に駐車してしまった。

この登山記録の行程

登山口11:35・・・メガソーラー上の尾根12:07・・・107m独標点で休止12:31~12:39・・・標高150mのジャンクションピーク13:00・・・大森山で休止13:13~13:31・・・蛸ノ森トンネル上の素掘り排水路14:37・・・100mピークで休止15:10~15:27・・・県道32号15:35・・・北代健助墓16:28・・・登山口17:08
※各遺構等を探して尾根から斜面の上り下りを各所で繰り返したので、コースタイムは通常の縦走・回遊時よりもかなりの時間を要している。

コース

総距離
約7.6km
累積標高差
上り約372m
下り約372m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

「高知市の南の屋根」南嶺は宇津野峠の東方で浦戸湾に接して終わるが、浦戸湾が形成される以前の太古は、大畑山(143.8m)から葛目山(154.2m)、大森山(160.3m)、蛸ノ森(147m)へと続いていた。そして南嶺から蛸ノ森までの浦戸湾を挟んで東西に伸びる尾根は戦争末期、陸軍の絶対防衛ラインに設定されており、今でも稜線や支尾根周辺に多くの壕跡が残る。
今回の山行の目的は、大森山の西方と蛸ノ森の北東の山域にあると言われる陸軍の記念碑と、蛸ノ森周辺尾根にあると言う陸軍トーチカを発見することだったが、原資料が不正確なこともあり、発見するには至らなかった。

それでもルート沿いにはいくつかの壕跡や城跡があり、周回で麓に下りてからは、意外な所で無名の洞窟を発見したり、明治維新時、外国の日本に対する不条理により、切腹するはめになった複数の郷士の墓や、坂本龍馬が暗殺される2ヶ月前に帰国した際、会っていた道場の師範代の屋敷跡等、史跡巡りも兼ねた山行となった。

[コース]
当方の駐車した場所は私有地の可能性があるので、メダカトラストの広場からのコースをガイドする。メダカトラストは湿地帯で、メダカの保存活動がなされているものと思われるが、当日は完全に水が干上がっており、その環境はなくなっていた。
県道を先に少し進むと、右手の果樹畑沿いに歩道が分岐している。これを辿ると、楠上神社東、尾根の突端の四差路に突き当たる。その尾根の突端に登山道が上がっているので登る。最初は墓地や竹林だが、たまに大木も見かける。

この道をジャンクションピークまで上がると、目指す陸軍碑には行けないので、尾根幅が極端に広がる所で、適当に藪の中、北西へトラバースして行く。
資料では、二つ目の尾根のピークに碑があるはずなのだが、一つ目の尾根に乗ると、開発で二つの尾根に挟まれた谷部が一変していた。谷側の斜面が鋭角的に削り取られ、そこには一面のメガソーラーのパネルが敷き詰められていた。これ位大規模な施設だと、過去にニュースで取り上げられていたはず。

尾根直下が平坦になり、歩き易くなっていたので、これを歩いて二本目の尾根に乗り、碑があるはずのすぐ西の120mピークに登ったのだが、それらしきものは見当たらない。藪はないので見落とすはずはないのだが、原資料の地図が間違っている可能性もある。戦史研究家や郷土史家等は読図の専門知識を有していないので、図示した遺跡や史跡の場所が誤っているケースが多々あるのである。そこで107mピークまで縦走してみたのだが、やはり見当たらない。他所に移設されたのだろうか、それとも図示の尾根自体が間違っているのだろうか。

因みに探していた碑というのは、当時の写真から推察すると戦時中に建立されたもので、陸軍第43連隊のもの。軍人精神を漢字五文字で表したような碑である。
因みに43連隊は坂本龍馬と間接的に関係がある。実は連隊長・多田金治大佐の宿舎が、土佐勤王党党首・武市瑞山旧邸の近所に今もある、才谷屋分家の坂本家(通称:大坂本)だったのである。平成に入って坂本家の近くの連隊本部跡側には、軍旗奉焼地跡碑も建立された。
資料には碑の近くに壕がある旨、記述されていたが、それも見当たらない。
落胆して前述のジャンクションピークに上がり、大森山を目指したが、山頂の少々手前の尾根直下に壕跡があった。しかし碑の側にあると言われる壕は、こんな浅いものではない。

大森山頂は去年登った高天ヶ原山のような雰囲気で、藪っぽい雑木の中にある。標高は旧地形図では159.9mだったが、平成20年発行のものでは160.3mになっており、その新標高でのキティ山岳会の登頂記念板があった。旧標高時代に登頂した「レジェンド」MH2氏らの記念板は撤去されている。
この次に目指すのは、10年ほど前、「かまぼこ型のトーチカが付近にあるから」ということで某自治体施設の副館長に案内して貰った城跡の蛸ノ森。しかし副館長の記憶が曖昧だったせいでトーチカは発見できなかった。
大森山から蛸ノ森に到る尾根直下にも壕跡があったような気がする。

蛸ノ森山頂に戦国期にあった蛸ノ森城の城主は下田駿河守で、平時は麓の下田土居に居住していた。長宗我部元親の父・国親に攻められ、落城した。
城郭は山頂の詰の段と、その下段周囲を囲む二の段からなり、二の段の手前に二条、先に一条の堀切が残っている。
二の段の詰の段寄り一角に水生植物のような植物が円形に生えているが、そこは井戸跡ではないだろうか。

蛸ノ森は山頂から四方八方に支尾根が派生していることから名付けられた山名だが、南側の尾根に多くの陸軍の壕が掘られている。塹壕や、塹壕を伴った横穴壕、竪穴壕等様々である。塹壕の両端が横穴壕になっているものもある。
この日は確認しなかったが、以前、前述の副館長と登った時は、斜面を竪に掘り、前面に銃台としてのセメントのバーを渡した、変わった蛸壺壕(一人用竪穴陣地)も見つけた。

ここから先に進む際、多くの支尾根があるため、誤って稜線ではなく、一つ南の支尾根を下ってしまった。しかし山頂まで引き返すのは面倒なので、左手下方の竹林の谷状地形沿い斜面をトラバースして稜線に移ることにした。その谷沿い最奥部斜面上にも横穴壕があったかも知れない。
少し下ると谷沿いに踏み跡があったので、それを辿って谷をUターンし、稜線がすぐ先に迫った時、左手斜面に奇妙な遺構が現れた。直径数十センチの赤煉瓦造りの円筒が二基、並んでいたのである。円筒は小径側の半分が崩れ落ち、半円形になっている。一瞬、下に竹林があるから竹炭の窯跡では、と思ったが、円筒の下に窯はない。まさか、陸軍の迫撃砲跡なのか。しかしこんな造りのものは今まで見たことがない。

稜線はすぐ蛸ノ森トンネル上のコルに達するが、コルの手前辺りは藪っぽかった記憶があり、一旦、東下の谷側を進んだ後、素掘り排水路沿いを登ってコルのやや東の稜線に乗った。
資料では蛸ノ森の約400m北東の尾根に歩兵第12連隊(本部は稲部)の碑がある旨、記載されていたため、てっきりコルから上がった所の稜線にあるものと思っていたが、ここでもなかった。谷を一つ挟んだ東の100mピークの方だろうか。
稜線はV字型に屈曲し、そのピークに到るが、こちらにも碑はなかった。そのピーク周辺の北側は伐採されて開けており、鉢伏山(拙著収録)東方から117m峰、75.9m三角点の森や稲生の田園地帯を一望できる。117m峰南東の尾根には海軍高角砲台跡、その北東のピーク周辺には陸軍壕群、75.9m峰東麓には海軍の発電壕(拙著の戦跡ガイド書に収録)等が残っている。

実は南国市は、陸海軍の陣地密度が全国一高い、と言われている。それは米軍が昭和20年10月末、高知県に上陸する計画を立てていたためだった。これは南九州へ本格上陸する(オリンピック作戦)前の陽動作戦で、大本営もそれを想定していた。だからこそ、高知県には回天や震洋(ベニヤボート)の特攻基地跡が多いのである。
余談だが、オリンピック作戦に於いて米軍は、国際法で禁止されていた毒ガス兵器を九州全土で使用する計画で、大量の毒ガスドラム缶を用意していた。もし8月に日本が降伏していなければ、現在でも九州では多くの毒ガス後遺症で苦しむ人がいたことだろう。
日本陸軍の毒ガス工場跡を巡る山行もいずれ投稿したい。

ここのピークから北東の尾根は藪化しており、南側斜面も猛烈な竹藪で下るのは難儀。故に開けた北の急斜面を下るしかない。回遊を考えていたため、北麓に下ると若干遠回りになるが、それしか方策はない。
斜面に藪はなく、下方は畑になっており、難なく短時間で県道32号に下りることができた。
東進して行った所の「千壇ノ木」バス停の手前だったか少々先だったか忘れたが、右手上に岩場をやり過ごした地点でふと振り返ると、その石灰岩に横穴が開いていた。入口まで行って覗くと、それは石灰洞窟で、奥で左にカーブして更に奥へと続いていた。南国市教育委員会の史跡や天然記念物等を掲載した冊子にも載っていない無名の洞穴が、こんな県道沿いにあるとは意外である。ここの地名は千田ノ木だから、もし洞窟に名称がついてないとすれば、「千田ノ木洞」と名付けたい。
しかし洞窟は小さく、四つん這いにならないと探訪できない。夕刻も近づいているため、先を急ぐ。

更に東方のY字路で、右の生活路に入る。するとすぐまたY字路に出くわすが、ここは左。その先の十字路は南に折れる。
稲生と十市との境界は切通しとなっており、車道でもハイキングの雰囲気がある。
そこから左手に一軒の民家を過ぎた辺りだったと思うが、「十一烈士八番隊長・西村左平次墓」の標柱が立っている。左平次は慶応4年2月15日、大阪の堺市で起こった「堺事件」の犠牲者の一人。土佐藩兵は征討総督府の命により、徳川家領地の一つ、堺を警固していたのだが、この日の夕刻、フランス船デュプレー号の水兵が無断で港に上陸し、乱暴行為を働いた。通報を受けた左平次たちが駆け付けると、水兵たちと衝突となり、水兵らは隊旗を奪って逃げた。そこで左平次らが追いかけ、銃撃となり、水兵十数名を殺傷したのである。

これにフランス側は激怒し、関わった土佐藩兵20人の死罪と藩主・山内豊範公の謝罪、15万ドルの賠償金支払いを日本政府に要求してきた。本来であれば土佐藩兵の行動は正当性が認められるべきものだが、政府は外交問題になることを恐れ、フランス側の要求を無条件で受け入れた。
政府の土佐藩兵に対する取り調べでは、銃撃に関わったのは29人だったが、要求の人数に合わせるため、くじ引きで20人を決め、斬首することになった。内、16人は切腹を願い出て、それが認められた。

8日後、堺の妙国寺でフランス行使等、関係者が見守る中、一人ずつ、切腹が行われていった。左平次は八番小隊隊長ということもあり、二番目の割腹となった。が、切腹の凄まじさに行使らは驚愕・恐れをなし、臨検の席を離れ、12人目の切腹が開始されようとする間際、切腹は中止された。
戊辰戦争も終わり、近代国家の礎も出来上がった頃、本来切腹するはずだった左平次と同郷の垣内徳太郎は、明治25年の国会に同志らと連名で切腹した十一烈士の靖国合祀を請願、叶えられた。

左平次の墓標は明治百周年記念事業の一つとして、建て直されている。しかし標柱から小径に入り、山林内の墓地に入ると道標がなく、道も整備されていないので分かり辛い。いくつかの小道を辿ってみたが、どれも途中で切れている。そこで中央の道を上がり、道が途切れた先に立つ二本の大木の間を抜け、更に進むと再び踏み跡が現れた。そしてほどなく右手に西村家の墓所が現れた。が、何としたことか、左平次の墓は倒木により、倒壊していた。教育委員会の書籍には、他の烈士の墓は記されていたのに、佐平次の墓が記載されてなかったのは、このためだったのかも知れない。昭和期であれば、地元の英雄の墓は自治体が公費で修復したのだろうが、平成の世は世知辛くなったものである。
左平次の辞世の句は「風に散る露となる身はいとはねど かかる国の行く末」、享年24歳だった。左平次の墓と想いは露にはしてほしくないものである。

道路に戻り、先に進むと辺りが開け、慕谷集落に到る。狭い道路は畑沿いでは築堤のようになっており、鉄道廃線跡を想起させる。
ほどなく蛸ノ森トンネルから出てきた道路を横断するが、この辺りの集落名は国政。尚も道路は南西に進むが、この辺りは土居姓が多い。右手に迫り出す尾根を過ぎた先の集落は土居ノ谷。
末廣宮を右手に過ぎると西和集落だが、最初の右手の三差路角に、十一烈士の一人、北代健助邸跡の標柱が立っている。南国市教委の書籍では、健助を「人形谷の人」と記しているが、現在、人形谷と言えば北西の尾根の先の集落を指す。
健助は冷静沈着な性格で、切腹時も一礼し、静かに絶えた。辞世句は「見命はかくなるものとうち捨てて とどめほしきは 名のみなりけり」、享年36。

邸跡は標柱背後の家ではなく、三叉路を右折した突き当たりの家。苗字が違うから子孫ではないだろう。その手前右手の山際に墓所の標柱があり、墓地へ上がると左手に現れる。墓は祠になっているが、墓所を示す標柱は朽ちて倒れている。
三差路からも狭い道路はくねくねと南西に進んで行く。
土居杉吉郎翁像を過ぎ、右にカーブした先の右手上の果樹畑沿いに吉村春峰庄屋屋敷跡碑が建っている。春峰(しゅんぽう)は高知市春野町森山に生まれ、先祖代々庄屋職を務めていた。春峰はここ十市村庄屋を十余年務めた。前述の二人の烈士とも当然交流はあっただろう。明治期になると県庁に出仕し、地租改正業務に携わったが、国学者・史家としての方が有名で、名著も残している。

碑からはそのまま直進した方が近道だが、龍馬関係者関連地に寄るため、碑の先の三差路を左折し、新宮神社の石段を上って丘の上の社殿横を通り、子育神社前を過ぎ、高知新聞十市販売所手前に下りた。販売所の所のT字路は東に折れる。その前方、大浦川の東の山裾には広大な田畑が広がっているが、この辺りに龍馬が通っていた日根野道場師範代・土居保(楠五郎)の屋敷があった。保は龍馬の継母・伊与が嫁いでいた川島家とは姻戚関係にあったため、私的交流もあった。
道場で体術の稽古を龍馬につけていた時、龍馬は何度倒されても起き上がり、「先生、もう一本、もう一本」とかかってくるので困った、という逸話を自身の子や孫に伝えている。

龍馬が暗殺される二ヶ月前の慶応3年9月、龍馬が土佐藩に新式銃一千丁を売却するための「最後の帰国」時、高知市種崎の小島亀次郎邸で二人は偶然再会した。その時、保は孫を連れていたのだが、龍馬はその孫に京での騒動時にできた身体の傷を見せたり、旧大正町の藩林・佐川山での脱藩を臭わす行動を語り、帰り際、土産にギヤマンの鏡を孫と保に手渡した。その孫とは木岡海軍大佐の父・木岡一(はじめ)である。

高知新聞販売所まで戻ると、後は県道をメダカトラストまで戻るのみ。

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