行程・コース
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晴後曇
登山口へのアクセス
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この登山記録の行程
キビオ(6:10)三合目(1,540m/7:05)赤林山(9:05)麦草岳(12:20)木曽前岳(14:15)木曽小屋素泊(15:10/5:00)木曽駒ヶ岳(5:05)将棋頭山(6:20)茶臼山(7:20)大棚入山(11:05~30)水沢山(13:35)駒寄橋(15:00)キビオ(16:10)
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
夜半、新和木曽スキー場の広場のアスファルトの上にテントを張り、翌朝、食事を済ませて、キビオ峠の登山口ヘ車を走らせる。
登山口には清潔なトイレが設置してあり、入山届けの箱(用紙、筆記具が入っている)も設置されている。周辺は整地中で、既に幼木が植えてあり、1年位後には立派な公園になる事だろう。
赤松林の中の広い登山道を歩き出す。やがて雑木林となり、緩やかなよく踏まれた道を歩くと小鳥の艶やかな鳴声が静けさを一層際立たせて、頭が空っぽになってくる。とは言え、登りはやはりしんどい。1時間も持たずに途中で一本立てて(1,450m、6:45)、三合目のキビオ・コガラの分岐へ着く。
「キャンプ場へ1時間」の表示があり、これがスキー場へ通じている道のようで、笹の間の道は時々は人が通っている様に見える。木曽見台の方の落葉松林の色合いが魅力的だが、ガスって視界が無いので割愛し、一息入れて先を急ぐ。
尾根の西面を絡んで桂や檜、栂、岳樺の大木が欝蒼と茂った樹林を登る。尾根の上に出ると陽光がガスを透かして明るく、道も広くなって緩い登りを気持ち好く歩く。四合目(1,800m、8:00)を過ぎ、赤林山の東面を2,000mのコンター沿いに大きく巻いて鞍部へ出る(地図上には2,100mの位置に巻道あり)。
ここに荷物を置いて赤林山を往復する(8:45/9:15~30)。踏跡は無く、頂上には山名表示も無くて三等三角点と、僅かにギンリョウソウが地肌から伸び出さんとしているのみだ。
この上はほぼ尾根通しに登る。イワカガミが散見され、六合目(2,400m、10:50)には、『七合小屋まで30分、麦草岳30分』の古い道標が立っている。麦草岳までは標高差が300m以上あるのに合点が行かないが、元気を出す。
道は急に細く踏跡程度になり、油断すると見失ってしまいそうだ。シラビソの小枝が払ってあるので(まだ青く枯れていない)、辛うじて「道を外れていない」と確信が持てる。標高2,350m以上では岳樺が芽吹き始めたばかりだ。薄い踏跡が残雪に隠されて怪しくなり、急な雪渓を数十m登ると稜線の這松の中にはっきりした夏道が現われる(2,650m、11:55)。
ここは上松Bコースとの合流点の上で、遠くまでは望めないが、尾根上の小突起がガスの切れ間に時々黒く霞んで見え、頂上まではまだまだ距離がありそうだ。這松に混じって黄花石楠花がジャストタイミングで咲いており、コケモモも薄黄白色の小さな花を無数に着けている。
「天気が好ければ最高の稜線歩きだろうに」と梅雨空を残念に思い、喘いで登って六合目から1時間半を要してやっと麦草岳に着く。立派な道標が設置されて、福島Aコースは『難路』と表示してある。確かに、道が不明瞭で下降の際には迷う心配が大いにあり、今日みたいに視界不良の場合には充分注意して下らないと手強いだろう。大体止して食事を取っていると、縦走路上に吃立する岩峰や北東斜面の豊富な残雪が見え、木曽駒ヶ岳が3,000mの高山である事が実感され、今までの低山歩きの気分を振り払って少し厳しい見方に変える。
玉ノ窪には黄色いテントが張ってある様だ。山頂を後にしようとする時、中学生位の子供を連れた3人組(夫婦か男だけか判別出来ず)が尾根の端に姿を現わし、「この先、前岳の方は大丈夫だろうか」と大声で問い掛けてくる。自分も初めてで道の状況を知っている訳ではないが、幕営装備をしているのを見て取り、「大丈夫でしょう」と答える。
直ぐ目の前の最高点2,733mを越えて麦草岳西面の大崩れを見下ろすと、荒ましい崩壊が尾根にまで迫り、縦走路は尾根の東側の斜面に追い遣られてへばりつく様に細々と付いている。肩から急落する尾根に続く斜面には多種の高山植物が無数に伸び、ショウジョウバカマが咲いてハクサンイチゲの蕾はもう2、3日もすれば花を開くと思われる。ミヤマオダマキの幼葉が多数目に付く。
灌木の生えた斜面は見た目よりは楽しい所で、木曽前岳へ続く標高2,700m弱のほぼ水平な尾根を、小さい上下を繰り返して進む。玉ノ窪からトラバース道を下って来た男性はピッケル、アイゼンの重装備で、「急な雪渓を数か所横断するが、手強い」と言っている。牙岩には木製の確りした梯子が取り付けられており、これを越えると玉ノ窪山荘への分岐点に着く(2,680m、13:20)。
ここから、豊富に雪の残った巻道が前岳の北斜面を横切って玉ノ窪山荘まで続いている。雪渓の傾斜は急で、アイゼン無しでは相当手強そうだ。近道を止めて忠実に尾根を辿り、前岳を越えて登る事にする。尾根の東面寄りを絡んで登ると、急な所にはトラロープが張ってあり、数か所の残雪の上をアイスバイルに頼りながら慎重に登る。木曽前岳の頂上は這松に覆われた緩い起伏になっている。疲れた体を投げ出して、這松の匂いに包まれながら黄花石楠花の花を眺めて暫し憩う(14:15~30)。
今回の山行目的である大棚入山と水沢山へは、茶臼山から先の道が無いので薮漕ぎに挺子摺ると考え、極力荷を軽くすべくテントー式を省いて西駒山荘に泊る(役場の話では50人程の収容力があり、営業期間外は開放している)計画にしたので、雨露を凌ぐ場所が要る。木曽駒を越えもしないでバテルとは想像もしなかったのだが、この変則的なスタイルは空振りに終ることになる。
好天が予想出来れば、祖母・傾山に登った際の障子岳でのビバークのようにシュラフだけで寝るのも可能だが、この梅雨空では無理だ。木曽小屋が営業していなければ、将棊頭山の西駒山荘まで足を伸ばす外無い。
頂上から雪渓を拾って下ると、直ぐに鞍部の玉ノ窪山荘に着く。小屋の周りにも雪渓が豊富に残っており水を得るのは容易だが、肝腎の小屋が営業していない。「無料開放していないだろうか」と小屋を一巡りして入口を探すが、厳重に釘止めしてあり落胆甚だしい(14:35)。気を取り直して頂上直下に見える木曽小屋を目指し、石畳みたいな道を1歩に1呼吸、あるいは2呼吸費やしてゆっくり休まず確実に登る。
小屋を覗くと番人が居て無料で済まないのでがっかりする一方、ほっとして宿泊をお願いする。荷を解いて一息入れ、寝場所を決めてもらい、布団を敷いて4時の気象通報まで横になって体を休める。
小屋は天水で、炊事等にはこれをそのまま使用し、飲料水には湯ざましを準備してある。先客が2人居る。1泊2食付き6,000円で、素泊り4,000円は安くないと思うが、気持ちの好い寝具と清潔なトイレ、利用客が少なく静かでよく眠れそうなこの時期の小屋なら、満足すべきかも知れない。
今冬の北陸地方は雪が多かったそうだが中央アルプスの方は逆で残雪も少ないと言う。しかし、麦草コースは道が不安定なので、小屋では「7月一杯は通らない様に指導している」と言う。食事を済ませて早々に布団に潜り込み、日頃の睡眠不足を解消しようとでもするかの如く只管眠る。夜は冷えるだろうからと、アンカを点けてサービスしてくれるのが嬉しい。
夜が白み始める頃、小屋の外に出てみると雲一つ無い予想もしない好天だ。5時きっかりに出発する。
昨日の疲れが嘘の様に元気に登って、直ぐに木曽駒ヶ岳山頂に着く。既に7、8人が展望を楽しんでいる。朝日の中に御岳山が一際どっしりと立派に見え、頂上付近の沢筋にはまだ雪が白く残っている。南アルプスは逆光の下で、峰々がシルエットになって連なり、各々名の有る山を違える事無く確認出来る。木曽駒ヶ岳が、甲斐駒ヶ岳から聖岳へ到る三千mの峰が連なる南アの最高の展望台である事を、今更ながら気付かされる。
将棊頭山へは長い尾根が続き、這松と残雪の上を辿って快調に下る。雪は凍って靴の喰い込みが悪く、油断するとスリップする。この靴は縦走用との触れ込みで踝が高く軽量な点が気に入っているのだが、底が軟らかく曲がり易いので、爪先で雪渓を登る時は歩き難く感じる。最低鞍部(2,655m、5:50)を過ぎ、『聖職の碑』を見て、新田次郎の山岳小説に熱中した一時期を懐かしく思い出す。
安川茂雄の本で、『岩と雪の悲劇』と言う山岳遭難の4冊シリーズがある。第一巻『穂高に死す』は、前穂での大島亮吉「北尾根に死す」や北鎌尾根での加藤文太郎「大いなる墓標」の遭難、松本高校山岳部の活躍、井上靖の小説にもなった前穂東壁での遭難に関する当時の状況「ナイロン・ザイル事件」等数編を収録し、第二巻『あるガイドの系譜』は、北アルプスに於ける信濃のガイドや剣岳周辺に於ける富山岩峅寺のガイドの活躍とそれに付随する遭難、薬師岳の愛知大パーティー13名の遭難を、第三巻『谷川岳の霧と星』は、谷川岳東面の岩場での数々の遭難や平標での秋の遭難を、そして第四巻『北岳の夕映え』は、大正2年8月末の将棊頭山付近での中箕輪中学37人の遭難「木曽駒、大正2年夏の惨事」他を収録している。
シリーズは1965.7.31から1967.9.30に亘って出版されており、68年の夏に神田の古本街で偶然にその中の一冊を見付けて魅了され、熱心に探し歩いて全4巻を揃えた時の嬉しさを今でも記憶している。日本に於ける登山の黎明期からの遭難の記録と、山に対する飽く無き情熱と山と人との運命的ドラマをある感動を持って読み、同時に登山家(の端くれ)としての常識を企まずして身に付ける事が出来た忘れ難い本である。
将棊頭で一休みして食事を取る。直ぐ下に、昨夜泊る予定だった西駒山荘が赤い屋根の確りした造りを覗かせているが、敢えて下ってみる気はしない。
茶臼山目指して、殆ど歩かれていない山道を大樽小屋の分岐まで下る。ここから行者岩の下の鞍部への道が尾根の東面に付いているが、全く手入れがなされず木の枝が繁るままになっており、下手をすると道を見失ってしまう。よりはっきりした尾根道が合わさると直ぐに鞍部で、木にアルミ板が取り付けてある。「日本縦断分水嶺山行」と2段書きになって、3段目に4個の名前がローマ字で刻印してある。「同じ様な山行をしている人が居るんだなあ」と感心し、自己の本州横断山行の達成を押され焦らされる気がする。
這松を漕いで喘ぎながら行者岩の上に出て一息入れ(7:05)、茶臼山へ進む。頂上には朽ちた道標があるが、親和スキー場のコガラヘ下る道は木の枝で覆われてしまっている(7:20)。
大棚入山へは2つの標高点ピークを越えて行くのだが、視界良好なので方向に迷う心配は無さそうだ。その第一歩はここから鞍部まで450mの下りで、上部100mが這松に覆われた手強そうな尾根が控えている。所々に岩の出た所の這松の上を適当に歩いて下るが、次第に丈が大きくなり身を没する程の這松漕ぎが標高2,450m付近まで続く。下りだから髄分楽ではあるが、木の枝に足を捕られて時間を喰い、消耗する。
やがてシラビソの高木と下生えの幼木が混じった薄汚れた五月蝿い林となり、樹の間を擦り抜けて下る。鞍部(2,210m、8:25)付近では下生えが無くなり、枯枝や落葉、苔を踏んで歩くと弾力があって山道を歩くのよりも楽だ。P2,283の肩へ登り、慎重に方向を定めて西へ向かい、ピークを越える(9:00)。この付近でギンリョウソウを見る。2,195mの鞍部(9:15)では笹が現われて危惧するが、大した事も無くP2,260に登り返すと、シラビソの幹に白テープと区画班境の標識を発見する(9:30)。
頂上からは少し方向が定め難いが、広い斜面を北に方向転換して、次第に尾根状になる所を大棚入山との鞍部へと下る(2,125m、9:55)。東面は一面の笹だが、尾根を境に見事に植生が変わって西面は笹が1本も生えない草原状になっている。ここにはギョウジャニンニクの群落が尾根に沿って続く。
大棚入山へは鞍部から250mの緩い登りで、腰上から胸の高さの笹が頂上まで途切れる事無く続いている。密生している訳ではないが、足を前へ出そうとすると笹に足を捕られて疲れが倍化し、長い笹の登りに辟易する。赤テープに元気付けられて大棚入山頂に着き、大休止していると嬉しさが込み上げてきて口元が綻ぶ。
水沢山へは380m下るだけなので、気持ちがすっかり楽になる。上半身裸になって笹に囲まれた二等三角点の横に腰を下ろしてゆっくりと休み、食事をする。頂上のシラビソの枝に朽ちて半ば千切れた赤布が下がっており、「92′分水嶺縦走、登歩‥‥」と読み取れる。自分も白いテープを木の枝に巻き付ける。笹原で食べ頃の筍を採って土産とする。
茶臼山を後にする頃には綿雲が現われて天気は下り坂を思わせたが、この頃になると木曽駒は雲に包まれてしまい、大気が青んで見通しが悪くなる。しかし、まだ尾根の高さにまでは雲は下がってきていない。
高山帯の細い尾根を歩いていると目の前数mの所にカモシカが立ちはだかってじっと動かない。手を上げて「しっ、しっ」と追い払うと、「シュー」と唸りながら不承不承動き出し、さらに一声大きく叫ぶと、人が歩けない様な細くて急な岩稜を驚く程の速さで駆け下って姿を消す。
右手前方に姥神峠へ続く尾根を確認して進み、正午にP2,320に達する。背の高い樹や灌木の枝を掻き分けて歩くと、P2,143へは以外と時間を要する(12:50)。木漏れ陽が射してシダ類が明るい、水沢山との按部まで来てほっとする。
ここから鯨の背の様な所を越えると、次のちょっとした瘤が水沢山頂で、緩い下りに掛かる所に三角点が立っている。少し行った林班境の木杭の脇にザックを下ろし、中央アルプス最北端の二千m峰で満ち足りた大休止をしてエネルギーを補給する。頂上は樹林に囲まれて薄暗いが、西面の一角が伐採されて明るい。
しかし、雲が濃くなって麓は霞んでよく見えない。林班の木杭には、「庚二六四 63.11.17 奥田、茂木、新原」と赤ペンキの上に墨書きされ、更に「H6.10.14茂木、志水、下平」と鮮やかに読み取れる。ここまでの縦走中、シラビソ等の小枝が鋭利な刃物で切断されていたが、「葉が枯れているのは62年の分水嶺縦走隊か63年の林班の人に拠るもので、切口は乾燥しているものの葉が今年の雪解け後に切ったと思われる程に青々としているのは、昨秋に払われた枝だろう」と想像する。
水沢山からは南に向かって流下している沢を下降する予定で補助ザイル35m、シュリンゲ、アイスバイルを持参したが、今日1日歩いた感じでは尾根に下生えが五月蝿く繁っている可能性は少ないと思われ、「沢よりも安全で、時間的にも早いだろう」と考えて南西方向に派生している尾根を下る事にする。
頂上部は尾根が発達していないので、方向を定めてトラバース気味に一直線に進むと、1,880m付近から次第に尾根らしくなる。薄暗い苔生した原生林の朽ちた倒木を乗り越えて思ったよりずっと緩い尾根を下ると、次第に広葉樹が混じって上空が明るくなる。標高が1,800mを割ると岳樺が多くなり、標高点1,767mで尾根は2つに分かれる。分岐点の伐採後の草原には太くて立派なワラビが芽を出しており、採っているうちに「隣にも分けて遣ろう」と熱が入る。
左の尾根を採って下ると、始め岳樺や山梨の疎林には灌木や茅等の下生えが見られるが、次第にミズナラの純林となり、小轢の上に落葉が積もった急な斜面を下る様になる。雨水に浸食された溝状の部分に落葉が分厚く積り、その上を気持ち好くハイピッチで下る。そのうちに雑木林に変わるが、獣道があって立木に邪魔されずに通ることが出来る
標高1,600m付近で落葉の単色の上に山ツツジの赤い蕾を見付けて心和らぐと、高度を下げるにつれて開花して彩りを添える。傾斜はますます急になるが、軟らかい下地の上をリズミカルに下るので、足の裏の負担が小さく膝も楽で捗る。
川原の白い流れが見下ろせる頃、落葉の堆積した涸れ沢を横断して下流の方へ進路を修正し、建物の赤い屋根が樹の間から見えてどんぴしゃりに駒寄橋の袂に下る。標高差900mを60分で下った訳で、「道の無い尾根の下降としては上出来だ!」と満足する。駒寄橋ではまだ昼間だと言うのに、狸が悠々と橋を渡って行くのを目撃する。
正沢の川原に降りて汗を流してすっきりして舗装道路に戻ると、道の脇に置いていたザックが無くなっている(15:30)。車の鍵もお金も全てザックの中で手元には日本手拭が1本あるのみなので「いったい如何やって帰れと言うのだ!」と怒りを覚え、途方に暮れる。「通り掛かりの車が持って行ったのだろう」と憤懣遣る方無いが、為す術も無く道路にしゃがみ込む。暫くするとワゴン車が下って来て踏ん切り悪く停まりトランクからザックを取り出すが、「こんな所に放置してあったから」と謝りもしない(15:45)。
これに懲りて林の中にザックを隠して空身でキビオまで引返して車に戻り(16:10)、途中の薬師ノ湯のラジウム温泉に入る。今日は行働11時間で、濃橙色の温泉から出ると足に力が入らない程に疲れている。





