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鎌倉街道上道(関戸~原町田)

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パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:徒歩

復路:古淵→横浜線→橋本→中華そば榊→橋本→京王相模原線→多摩センター

この登山記録の行程

寿徳院観音堂(寺方大屋敷跡)5:05→山神社5:07→寿徳院5:10→武蔵国一之宮小野神社5:30→一ノ宮の渡し5:35→聖蹟桜ヶ丘駅(耳をすませば青春のポスト)5:40→有山屋敷跡5:44→観蔵院5:47→大栗川5:48→いろは坂通り5:52→関戸熊野神社/金比羅宮5:56→関戸城天守閣跡5:58→延命寺/佐伯屋敷跡6:10→関戸古戦場跡6:15→無名戦士の墓/観音寺6:20→阿保入道親子の墓6:26→関戸熊野神社(関戸関所跡)6:30→原峰公園/伝武者の屋敷6:49~6:40→鎌倉古道6:49→多摩市役所(古市場跡)6:55→乞田五差路7:00→乞田川7:07→麦花塚7:11→貝取山緑地公園(鎌倉古道)7:20→大福寺7:27→貝取さんぽ道7:32→南多摩尾根幹線道路(恵泉女子大学前交差点)7:57→妙桜寺/鎌倉古道古道標柱8:00→石久保子育地蔵尊8:19→関谷の切通し8:20→小野路宿(小野路里山交流館)8:30→小野神社8:34→白道寺(鎌倉街道旧道/大山道入口)8:43→小野路一里塚/野津田公園入口8:50→展望広場9:00→村野常右衛門生家跡9:22→道迷い→鎌倉街道上道堀割跡9:53→鎌倉古道の碑9:55→鶴見川10:01→七国山緑地登山口10:09→七国山鎌倉古道の碑/鎌倉井戸10:25→七国山山頂128m10:28→今井谷戸交差点10:40→日向山公園入口10:52→宏善寺10:57→義運寺11:07→鶴川街道/恩田川上流端標識11:14→菅原神社(井出の沢古戦場跡、殿ノ城跡)11:21→鎌倉街道・鶴川街道分岐11:30→JR町田駅11:53→境川11:56→おふろの王様町田店12:23~14:33→古淵駅14:51

合計7時間36分(温泉除く)

コース

総距離
約26.0km
累積標高差
上り約616m
下り約590m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

8月13日(火)は、お盆なので多摩の実家から徒歩スタートで、鎌倉街道上道を関戸から原町田まで行ってみます。ここは東京都なのですが山深く、ある意味埼玉の比企丘陵より秘境。

今日は実家から徒歩スタートなので、出発点は「寺方大屋敷跡(寿徳寺観音堂)」です。大屋敷という地名が残っているだけなのですが、関戸が後北条氏の直轄領となり松田盛秀が治める前の時代の土豪の屋敷があったのではないかといわれています。関戸城を最初に築いた土豪の寝小屋の跡ともいわれています。

寿徳寺観音堂のすぐ上には「山神社」があります。寿徳寺の弟子守頓坊が生国山城国から持ってきた岩石を寿徳寺内に弘治3年(1557)に祀ったのが始まりとされる神社です。明治の神社合併策により山王神社と稲荷神社の相殿となり、寺方村の村社になっています。

山神社の上にある「吉祥山 寿徳寺」は、関戸城代の「佐伯三河守道也」がその父佐伯一助道永の菩提を弔うために廃寺状態だったものを、日舜宗榮を開山に迎えて再建した曹洞宗寺院です。元は念阿法印護法が明徳元年(1390)真言宗寺院でした。江戸時代には幕府より寺領7石の御朱印状を拝領しています。

続いて「武蔵国一之宮 小野神社」に向かいます。府中市の武蔵総社「大国魂神社(六社宮)」の一宮に揚げられる神社で、宝亀3年(772)の太政官符にも名前が記載され、式内社論社となっています。ただ大国魂神社のある武蔵国府で権勢を振るっていた武蔵七党の「横山党」が祖先の「小野篁」を祀る神社を強引に一宮にしたという説もあります。その横山党も和田義盛の乱で和田側についたため滅ぼされ、神社は一時期荒廃しますが、大国魂神社と共に後北条氏や徳川家から取り立てられ、江戸時代には朱印地15石を寄進されています。

小野神社の多摩川寄りにあるのが「一ノ宮の渡し跡」の石碑です。昔、多摩川にはいくつかの渡し場があり、多摩市一ノ宮と向かい側の府中市四谷とを結んでいたのが 「一ノ宮の渡し」で、昭和12年に関戸橋が架かるまで存在していたようです。鎌倉街道上道はここか、関戸橋と京王線の踏切の間にあった「関戸の渡し」で多摩川を渡っていました。「関戸の渡し」は府中市側に「中河原の渡し」の碑があります。

「聖蹟桜ヶ丘駅」に到着しました。駅名の由来「連光寺御狩場」に明治天皇が度々ウサギ狩りに来たことにちなみます。旧駅名は「関戸」で、藤原秀郷が「 霞ノの関」を築いて平将門を打ち破った古事から来ていますが、関戸が関所として歴史に登場するのは鎌倉時代からです。

聖蹟桜ヶ丘駅西口には、駅の南の丘(ジブリの丘)にある桜ヶ丘団地がスタジオジブリの映画「耳をすませば」のモデルとなったことから、「耳をすませば青春のポスト」が2012年4月に設置されています。隣には駅周辺の観光案内板もがります。聖蹟桜ヶ丘駅の列車接近メロディーも、「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」となっています。

駅とジブリの丘の間にある「有山屋敷跡」は、後北条氏時代の土豪「有山源右衛門」の屋敷跡です。観蔵院とその裏の真新しい住宅とアパートが並ぶ一角です。北条氏より出された古文書五通によると、有山源右衛門は関戸宿の商人問屋の権利を認められる一方で、伝馬負担を負っていたそうです。

有山屋敷跡の一部といわれる「瑠璃光山 観蔵院」は、創建年代は不明ですが、天正6年(1527)に有山左衛門が開基となり、寛永2年(1625)に含室傳秀大和尚が開山した寺方の寿徳寺末の曹洞宗寺院で、かつては水堀の跡が残っていたそうです。

「大栗川」を渡ります。今は真っ直ぐですが、かつては激しく蛇行した川で、頻繁に洪水を起こしていました。後ろに見える急斜面がジブリの丘の絶景ポイントですが、現在は立入禁止になっています。

さらに「いろは坂」を登ります。坂の名前は日光のいろは坂に雰囲気が似ていることからつけられました。桜の名所です。

いろは坂を登りきった場所にあるのが「関戸金比羅宮」です。旧村社であった関戸熊野神社が合祀されているようです。金比羅宮は、文化年間に関戸の名主紺屋井上林蔵が勧請したもので、大きな社殿があったようですが、昭和33年(1958)6月、火災により焼失し、その後、昭和46年(1966)に京王電鉄㈱による桜ヶ丘団地の開発に伴い、現在地に新しい社殿を建てて再建されました。神社のある場所は万葉集にも歌われた景勝地「霞ヶ関」の候補地の1つで、『江戸名所図会』にも掲載されています。でも今は周囲の木が成長して何も見えません。

金比羅宮すぐ南の南東が一望できる​高台が「関戸城跡(天守台)」です。元弘3年(1333)に新田軍が関戸合戦で勝利した後、陣を据えた場所といわれていますが、義貞は間髪を入れずに鎌倉に攻め込んでいるため、この伝承は疑問視されています。明応3年(1494)8月、扇谷上杉定正が山内上杉顕実を攻めた際に落としたとされる「関戸の塁」が関戸城と同一ではないかという説もあります。その後、後北条氏の時代には戦国時代に陸奥国で討ち死にした家臣の「佐伯道永」が関戸城代を務めています。城址は標識の北側の丘陵の山頂にある給水場辺りに天守台があり、そこから東西と南側の尾根に郭と堀切が展開していたのだと思われます。下を鎌倉街道が通る東の尾根には出城のような「佐伯屋敷跡」があります。

関戸城の東の尾根を下っていくと「關門山 地蔵院 延命寺」があります。「佐伯屋敷跡」だったのではないかといわれる時宗寺院です。元は延命地蔵の祀られた隠居寺の庵室だったようです。造成地なので遺構は残っていませんが、南側の竹藪の奥に沢の源頭部があるため、水には困らなそうです。北条泰家の家臣で弓の名手だった横溝八郎の墓とされる「八郎塚」があるそうですが、場所がわかりませんでした。

延命寺から真っ直ぐ下った場所が「関戸古戦場跡」です。元弘3年(1333)5月16日に、分倍河原の合戦で勝利した新田義貞軍が北条泰家率いる鎌倉幕府軍を打ち破った「関戸の合戦」の跡地です。泰家は家臣の横溝八郎や阿(安)保左衛門入道父子(父:宗実、入道後は道潭(堪)。子:名前不明)の奮戦によって一命を取り止め鎌倉に逃走しますが、わずか6日後の5月22日に鎌倉幕府は滅亡します。

関戸古戦場跡前の道が「鎌倉街道上道」です。現在の鎌倉街道は乞田川沿いの低地を通っていますが、鎌倉街道上道は西側の山沿いをの一段高いところを通っていました。古くからの集落があるため、今も路線バスはこの道を通っています。

関戸古戦場跡の少し先には「無名戦士の墓」という古びた五輪塔2つが、お諏訪様と呼ばれる石祠の脇に立っています。関戸の合戦で命を落とした名も無き足軽たちを弔った供養塔といわれています。

その奥の「慈限山 観音寺」は、創建年代等は不詳の真言宗豊山派寺院ですが、天保年間(1830~44)に堂宇の修理がなされたといいます。ここでは現在でも毎月16日に関戸合戦で亡くなった兵士のために供養を行っているそうです。

観音寺の向かい側の民家の庭にある「阿保入道親子の墓」は、私有地で入れませんが、鎌倉幕府の重鎮で関戸の合戦で討ち死にした阿保入道父子の供養塔といわれるものです。阿(安)保氏は埼玉県の丹荘を本拠地とする丹党の諸流で、子孫は祖先が新田義貞に討たれたせいか、他の武蔵武士団がみな南朝側について滅亡する中、北朝の足利側について生き延びます。その後は後北条氏に従い、後北条氏滅亡まで勢力を維持しました。

「関戸熊野神社」の前には、関戸の地名の元となった「関戸関所(霞ノ関)跡」があります。鎌倉街道上ノ道の重要な関所で、和田合戦(1213)を契機に北条氏が北関東との間の防衛上の要衝として設置した関所といわれています。熊野神社の参道から「霞ノ関南木戸柵跡(東京都指定文化財)」が発見されており、レプリカが展示されています。観音寺付近には北木戸柵(未調査)があったともいわれ、観音寺〜熊野神社までが関所だったと考えられています。

関所跡の奥にある「関戸熊野神社」は、延徳元年(1498)創建の関戸村の鎮守社です。江戸時代は熊慶寺(廃寺)持ちでした。

熊野神社の横には自然を生かした梅の名所である「原峰公園」があります。その南東端に「伝武者の屋敷」と呼ばれる場所があり、広場の周辺に土塁のような物が残っています。いつの時代に誰が住んでいたかはわかっていないようです。

原峰公園南側の「狼谷戸」は、狼谷川が流れる、実際に狼に旅人が襲われたといった言い伝えも残っている寂しい場所だったようですが、今は水田が保全され、公園の延長のようなのどかな場所となっています。

狼谷戸の入口から多摩市役所に行く細道は「鎌倉古道」といわれています。古くからの切通しも残っています。

「多摩市役所」に着きました。「古市場」という地名が残っていて、月に6回、3と9の日に六斎市が開かれていた地域の中心地だったそうです。市は北条氏政印判状を有する公認のもので、寛文3年(1663)の貝取村の検地帳にも名前が記されているそうです。

市役所の先の「乞田五差路」は、今来た鎌倉街道上道と関戸城(桜ヶ丘団地)の山の西側を回って一ノ宮や高幡、柚木方面から来た道が交わる場所でした。広い道の西側に鎌倉街道の旧道が通っています。

続いて「乞田川」を渡ります。乞田は肥田、つまり川沿いに肥沃な田園地帯が広がっていたことからついたといわれています。

京王相模原線と小田急多摩線の線路をくぐった先にある「麦花塚」は、古墳や墳墓ではなく、明治14年(1881)に、麦花という歌人の和歌と裏に漢詩2編、それに多摩・町田市域の歌人30名の和歌が刻まれた石碑を上に建てた塚です。麦花は、本名を浜田助左衛門といい、貝取村で「乞田鍛治」の屋号を持ち刀鍛治を職業とするかたわら、和歌・俳句を詠んでいたそうです。現在は道路整備などで塚の形状を保っていませんが、元は鎌倉街道の道標だった可能性もあります。隣に、多摩市指定有形民俗文化財「地蔵菩薩像・阿弥陀如来像・庚申塔」もあります。

麦花塚の横から、鎌倉街道上道は川沿いから尾根に上がります。「貝取山緑地」に古道の跡が遊歩道として残っており、手書きの標識も設置されています。

尾根道となった鎌倉街道上道は「貝取山 大福寺」という曹洞宗寺院のところで一旦終わります。ここも寿徳寺末だそうで、江戸幕府より5石5斗の寺領を拝領しています。本堂よりも古い地蔵堂には等身大の地蔵菩薩が祀られています。

大福寺から先の鎌倉街道上道は「貝取さんぽ道」という多摩ニュータウンの団地内の遊歩道のような道に入ります。

その道を出た南側が多摩市と町田市の間の尾根を走る「南多摩尾根幹線道路」です。この道で多摩ニュータウンは終わり、町田市側の多摩丘陵の森の中へと入って行きます。

尾根幹線を越えたところには「太平山 妙櫻寺」という日蓮宗寺院があります。杉並区から移転してきた比較的新しい寺です。この寺の周辺に左に曲がる道が4本あり、2本目はよこやまの道に通じる道で、4本目はここを行っても小野路に出られる間違いではない道なのですが、鎌倉街道上道は3本目の妙櫻寺の駐車場入る道を行き、入ってすぐ右の山道へ曲がります。3本目と4本目の間には多摩よこやまの道の「鎌倉街道上道」の説明が書かれた標柱があります。

この山道をたまに左手に山上に切り開かれた畑を見ながら進み、最後は右に大きく曲がって深く掘られた「鎌倉街道上道の古道」に飛び出します。その古道をさらに下っていくと子供をかかえた「石久保子育地蔵尊」があり、「関谷の切通し」のところで「布田道」という近藤勇が三鷹から町田まで出稽古に通ったと伝わる別の古道と合流します。

さらにもう少し下ると鎌倉街道上道と大山道の宿場町であった「小野路宿」に飛び出します。最近は観光化されているので、宿場町っぽく民家の木塀が黒く塗られています。

小野路宿を小野路交差点まで行くと、「小野路資料館」という幕末に新選組の近藤勇や土方歳三が剣術の出稽古に名主小島鹿之助のもとを度々訪れていた元豪農の屋敷があります。鹿之助も天然理心流の免許皆伝で、見返りに近藤勇に漢学を教えていたそうです。屋敷は新しい建物に建て替えられていますが、見学は有料で出来ます。

小野路資料館の向かい側には古民家を改造した「小野路宿里山交流館」もあります。資料展示の他、手打ち蕎麦も食べられますが、駐車場はありません。

交流館の裏手の高台にあるのが、本日2つ目の「小野神社」です。小野篁の七代孫小野孝泰が武蔵国司として赴任した天禄年間(972)頃、祖である「小野篁」の靈を祀ったといわれる神社で、武蔵国一之宮小野神社や横山党との関連が指摘されています。

「白道寺」という平成に出来た新しい浄土真宗のお寺のところから脇道に入ります。この脇道が鎌倉街道上道&大山道です。

この2つの道は「野津田公園」入口にある「小野路一里塚」まで一緒に行きます。一里塚も基本的に大山道のもので、東海道の裏街道であった大山道を使い、静岡の久能山に埋葬した徳川家康の遺骨を元和3年(1617)に日光東照宮に移葬する際に街道の整備との一環として造られたものだそうです。

「野津田公園」の中に少し遊歩道化された大山道が残っているので「展望広場」まで辿って行ってみます。展望広場は昔は富士山や丹沢が見えたのでしょうが、宅地化が進んで今は園内しか見えません。

鎌倉街道上道は、2024年にJ2から昇格していきなりJ1トップ独走中の「FC町田ゼルビア」のホームグランドである「町田GIONスタジアム」を突っ切って進みます。

スタジアムの脇を抜けるとバラ園と町田市指定有形文化財の「村野常右衛門生家」があります。町田の自由民権活動家としては北村透谷とも交流があった石阪昌孝が有名ですが、彼も多摩地区有数の自由民権運動家だったそうです。

村野常右衛門生家からまた鎌倉街道上道の山道が始まるはずだったのですが、公園内で余計な道が多く、道に迷ってしまいました。

ようやく鎌倉街道上道の古道に戻りました。丘陵の斜面に掘られた「掘割」の跡と、その下に「鎌倉古道の石碑」があります。

続いて「鶴見川」を渡り、「七国山」に取りつきます。手前にある野津田神社への道は見送り、農園の標識を曲がります。車両通行止の山道に入るとすぐ七国山緑地の案内板が出てきます。

藪っぽい道を蜘蛛の巣をはらいながら登ります。しかし途中に鎌倉街道上道の手書きの標識があります。最後、薬師池公園からの道と合流するところにも同じ標識があります。この合流点のすぐ先の峠に「七国山鎌倉街道の碑」と「鎌倉井戸」という旅人に水を供給した井戸の跡があります。「七国山山頂」128.5mは峠の横の高台ですが上には何もなく景色も見えません。しかし隣の畑からの展望は良いです。昔は相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の七つの国を見ることができたそうです。

七国山から南に下ると今の鎌倉街道の今井谷戸交差点に出ます。鎌倉街道上道はここから菅原神社まで今の交通量の多い道を行くのですが、暑いので恩田川の源流沿いの鎌倉街道上道「成瀬道」を行きます。まず「日向山公園」の入口に着きますが、今日は暑いので入りません。

「久住山 善立院 宏善寺」は、文永8年(1271)10月10日に日蓮が佐渡へ向かわれる途中、この地にあった観音堂で休憩を取った折に、寺の住職を真言宗から改宗させた日蓮宗寺院です。広くて立派な寺院で、町田市では町田市内では小山田大泉寺・三輪妙福寺と並び称される大寺だそうです。慶安2年(1649)には幕府より寺領7石の御朱印状を拝領しています。

「鶏足山 義運寺」も広くて立派な浄土宗寺院で、高台にあるので丹沢の眺めが良いです。こちらは文永年間(1264~74)に天台宗寺院として創建したものの、永禄10年(1567)に誓誉重南が浄土宗寺院に改めています。江戸幕府より寺領3石の御朱印状を受領しています。

義運寺の先で成瀬道は「鶴川街道」にぶつかります。右折して菅原神社に向かう途中に「恩田川上流端」の標識があります。この少し上流の左から沢が合流する地点が起点のようです。

鶴川街道と今の鎌倉街道が合流する交差点の横にあるのが、本日最後の「菅原神社」です。この周辺は「本町田」といい、鉄道が通るまでは町田の中心地でした。菅原神社はその本町田の総鎮守です。寛永7年(1630)に「大沢玄蕃」が井出ノ沢の山上に社地を寄進し、祖先の大沢七郎正純の守り本尊である渡唐の天神像を本尊として祀ったのが始まりとされています。江戸時代は天神宮寺という神仏習合の寺院でしたが、明治に入って菅原神社と名を改め、町田天満宮、南大谷天神社とともに町田三天神の1つになっています。

菅原神社には、「殿ノ城(井出沢城)」という築城者築城時期不明の城があったといわれています。鎌倉街道上道の要衝にあるため、その防御のため築かれた城で、城主は足利持氏に仕えていた一色伊予とも大沢玄蕃の祖先ともいわれています。

菅原神社は鎌倉幕府滅亡後、北条氏の遺児である北条時行と足利尊氏の弟・足利直義軍が戦った建武2年(1335)の「中先代の乱」の「井出の沢の戦い」の古戦場ともされています。北条時行は先日紹介したアニメ『逃げ上手の若君』の主人公です。この頃の時行は、連戦連勝で、ここで勝利後、そのまま鎌倉街道上道を南下して鎌倉奪還を果たします。しかしすぐに都から援軍に駆けつけた足利尊氏の大軍勢にすぐに鎌倉を追われることとなります。

菅原神社の先で鎌倉街道と鶴川街道が再び分かれますが、鎌倉街道上道は、市街地を避けて国道16号と合流する今の鎌倉街道ではなく、町田駅に向かう細道の鶴川街道だったようです。

小田急線の踏切を渡って町田駅前に向かいます。この辺りは「原町田」といって、室町時代に足利基氏に従って京都から関東に下向した三橋一族(土方氏・夏目氏・山村氏)が、後北条氏の時代に帰農して開拓した原野でした。明治時代に生糸の輸出が盛んになり、八王子から横浜へ橫浜線が開通して駅が出来たことにで町田の中心地となりました。

JR町田駅を通って南口に出たら、東京都と神奈川県の境を流れる「境川」沿いを「お風呂の王様 町田店」に向かいます。料金は平日900円、土日1050円。泉質はナトリウム-塩化物 炭酸水素塩温泉、源泉温度は30.8℃、ph7.7の多摩丘陵らしい黒湯です。町田駅近くでお盆休み中ということもあり結構混んでいました。

お風呂の王様からの帰りは、町田駅ではなく「古淵駅」まで歩きます。

古淵から橋本まで横浜線で行って、京王相模原線に乗り換える際に、「中華そば榊」という無化調の店で昼飯にすることにしました。「特製中華そば」を注文。味は、先週熊谷で食べた出汁中心の中華そばと違って、醤油+鶏ガラ+煮干しのこれぞ正しい昔ながらの中華そばといった感じでした。

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最適日数
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コースタイプ
周回
歩行時間
1時間30分
難易度
コース定数
6
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