行程・コース
天候
快晴
登山口へのアクセス
電車
その他:
往路:武蔵小山→東急目黒線→田園調布→東急東横線→橫浜→東海道線→大船
復路:鎌倉→らぁめん三代目OKAWARI鎌倉店→鎌倉→横須賀線→武蔵小杉→東急目黒線→武蔵小山
この登山記録の行程
大船駅6:10→玉縄首塚6:17→岡本神明社6:27→岡本神社(お伊勢山神明神社)6:34→玉泉寺6:40→龍宝寺6:53→玉縄城跡7:05~20→相模陣稲荷神社7:22→久成寺7:31~45→二伝寺(村岡良文塚、二伝寺砦跡)7:52~8:08→渡内日枝神社8:17→村岡城址公園(高谷砦)8:26→長福寺8:34→宮前避溢橋りょう8:45→鎌倉古道(上の道)標識8:58→宮前御魂神社9:11~26→古館橋(柏尾川)9:36→梶原御魂神社(梶原景時墓)9:49~10:08→山の上ロータリー10:20→山ノ内配水池10:32→葛原岡神社10:40→日野俊基朝臣の墓10:43→源頼朝像10:57→太田道灌墓11:07→寿福寺(北条政子墓/源実朝墓)11:13→英勝寺11:24→旧川喜多邸別邸(旧和辻哲郎邸)11:29→鶴岡八幡宮11:34→畠山重忠邸址11:39→西御門跡11:45→史跡法華堂跡(源頼朝墓)11:50→〃北条義時墓他)11:54~12:02→北条義時屋敷推定地①12:03→東御門跡12:05→荏柄天神社12:08→鎌倉宮12:15→北条義時屋敷推定地②12:24→関取場跡(北条義時屋敷推定地③)12:28→大蔵御所(幕府)跡12:32→宝戒寺(北条執権邸旧跡碑、推定地④)12:40→青砥藤綱旧跡(東勝寺橋)12:45→葛西ヶ谷(葛西清重屋敷跡)12:46→東勝寺跡12:49→北条高時腹切りやぐら12:52→妙隆寺13:00→日蓮上人辻説法跡13:03→蛭子神社13:06→本覚寺13:13→妙本寺(妙本寺)13:18~36→鎌倉駅14:00
合計7時間50分
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
10月12日(土)は、鎌倉街道上道最後の藤沢から鎌倉までを歩いて来ました。若干距離が短いので、隣の大船からスタートし、玉縄城跡と村岡城跡に寄っていきます。
大船駅と言ったら大船観音です。でも朝早すぎて開いていないので「柏尾川」の橋の上から観音様を眺めるだけです。観音像のある「佛海山 大船観音寺」は、昭和2年(1927)に護国観音を建立のためにできた「護国大観音建立会」が母体となっており、観音像の製作は戦争で中断されますが、戦後あらためて(財)大船観音協会が設立され、昭和35年(1960)に完成します。昭和56年(1981)に宗教法人へ移行し、現在は曹洞宗の大本山・總持寺直末となっています。
「玉縄首塚」は、大永6年(1526)に、安房の里見氏と玉縄城の後北条氏との間で起きた村岡合戦で、多数の死傷者を出たため、双方首級を交換し、北条方の戦死者「甘糟太郎左衛門」ら35名の首を埋葬した場所です。「甘糟塚」「甘糟榎」とも呼ばれます。甘糟氏は猪俣党の一族で、最初は扇谷上杉氏に仕えていましたが、後に後北条氏に仕えるようになりました。
トンネルをくぐった先にある「岡本神明社」は元村社で岡本地区の氏神です。『風土記稿』に神明寺と書かれていることから、江戸時代にはすでに祀られていたものと考えられています。
もう1つ「岡本神社(お伊勢山神明神社)」というのもあって、これは天慶1年(938)頃、村岡良文一門の三浦一族に属していた角田家によって建立された神社です。その後、後北条氏の玉縄城建設で取り壊されますが、平成10年1月に再建されました。かつて岡本神社の奧宮は現在の場所から300m上にあったそうです。
「聖天山 歓喜院 玉泉寺」は、玉縄城の家老を務めた若狭一族の1人「小林若狭(一歩沙弥)」が邸内に作った寺が元となった真言宗大覚寺派寺院です。山号はかつて背後に聖天の祠があったのに由来するそうです。本尊の不動明王像は鎌倉時代に願行上人が作った地嘶不動尊を胎内に安置しています。
「陽谷山 龍宝寺」は、玉縄城3代城主・北条綱成が開基となり、泰絮宗栄を開山として文亀3年(1503)に創建された曹洞宗寺院です。栄光学園の辺りにありましたが、4代目城主・北条氏勝が父の氏繁を弔うために今の場所に移したそうです。江戸時代の旗本で学者の「新井白石」由来の寺でもあり、白石はこの辺に家禄を得て200石を献上したそうです。享保10年(1725)の銘がある「朝散大夫新井源公碑」碑は、白石がここを朝鮮通信使の宿舎として使用したことを示すものです。また17世紀後半に建てられた旧石井家住宅が横浜市の重要文化財になっています。
「玉縄城跡」に向かいます。ここは永正9年(1512)に北条早雲が扇谷上杉氏と三浦氏に対する抑えのため築いた城です。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する防御拠点となります。外堀が柏尾川に直結し、相模湾に舟を出すことが可能な水軍を統括するのに最適な城で、鎌倉街道上道と中道双方を見下ろす鎌倉の重要な防衛拠点でもあるため、城主は伝統的に後北条氏一門が務めていました。堅城として知られ、武田信玄や上杉謙信の攻撃も退けています。天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐では、徳川家康の軍に包囲され、籠城していた北条氏勝は龍宝寺住職の説得により投降し、下総地方の北条方の降伏開城に尽力した後、徳川家臣となり、下総1万石の岩富藩主となりました。玉縄城は徳川時代も存続しましたが、慶長20年(1615)の一国一城令で元和5年(1619)に廃城となりました。
「玉縄城跡」は、「七曲り」の急坂を登ると「太鼓櫓跡」という物見台跡に到着します。その先の清泉女学院高等学校の正門が「大手門」で、校舎がある場所に土塁に囲まれた本丸があったようです。その先の少し高い場所に「玉縄城址碑」があります。
玉縄城址碑の前の坂は「陣屋坂」と呼ばれており、途中にある「相模陣稲荷神社」は、玉縄城を守るための陣屋があった場所です。松平正綱という人物が陣屋の主だったそうです。稲荷は伏見稲荷の分霊を祀っています。
「光円山 久成寺」は、足利11代将軍義澄に仕えた梅田尾張守秀長の宅地を寄進し、日舜を開山として永正17年(1520))に創建された日蓮宗寺院です。徳川家康が小田原攻めの際に祈祷を頼み、恩賞として三石を与えたと伝わり、寺には「鎌倉郡玉縄郷ノ内三石のこと」と書かれた五代将軍綱吉の朱印状が残されています。また境内には源実朝を暗殺した公暁を討った長尾定景一族の墓があります。定景は長尾景虎(上杉謙信)の祖先にあたるそうです。松平正次の内室「松平甚之助新兵衛内室の墓」もあります。
「戒法山 二伝寺」は、永正2年(1505)に北条氏時が開基となり、正空が開山となって創建された浄土宗寺院です。旗本で玉縄領主の松平甚右衛門正次が中興し、正次の妻と直系の子孫が眠る「松平正次一族の墓」があります。また玉縄城支城の「二伝寺砦」があったといわれ、寺の裏には「(村岡)良文三代の塚」という村岡良文~忠光~忠通三代の墳墓があります。鎌倉五郎景政は忠通の孫です。
「渡内日枝神社」は、村岡城内に守護神として日吉山王大権現を勧請した神社です。応永27年(1421)に地頭の福原左衛門平忠次が現在の場所に移築した際に祭神に村岡良文が追加されました。明治6年に村社に列格しています。
「村岡(平)良文」の居館「村岡城」があった場所は高台にある「村岡城址公園」になっています。「鎌倉五郎景政」の産湯の井と伝わる「三日月井跡」の石碑があります。戦国時代は玉縄城の支城「高谷砦」があり、新田義貞が元弘3年(1333)に鎌倉を攻めたときに陣を構えたという伝承もあります。「平良文」は桓武天皇の孫の高望王の五男で、相模國の村岡に拠点とし「村岡五郎良文」を名乗りました。平将門の叔父にあたり、三浦・梶原・大庭・長尾・畠山・千葉・上総・土肥の「関東八平氏」の祖です。なお村岡は、埼玉県熊谷市村岡であるとする説もあり、『今昔物語集』に荒川を挟んで対立していた平良文と源宛が一騎打ちした話が載っています。
村岡城址公園下には広い墓地と曹洞宗寺院の「高谷山 長福寺」があります。
「宮前避溢橋りょう」は東海道線の線路の下の天井が低いトンネルですが、元は大雨の時に水が線路の土手に堰き止められて溜まるのを防ぐ水抜き穴だったようです。
線路脇にある「旗立山」の東側の山道には「鎌倉古道(上の道)」の標識があります。が、柏尾川の氾濫原のため確証はないそうです。
「旗立山」の西側ある「宮前(村岡)御霊神社」は、天慶3年(940)に村岡良文が平将門の討伐祈願のために京都市上京区の(桓武天皇が祀った)御霊神社を勧請した神社で、神奈川県内に16社ある御霊神社はここから分社したものだそうです。祭神は桓武天皇の弟の「早良親王(崇道天皇)」で、その後、五代執権北条時頼の命により鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王が加えられました。下の集会所の辺りに、元別当寺で廃寺となった「村岡山 徳寿院」があったそうです。
「古館橋」で柏尾川を渡り、用水路沿いの道を東にを進みます。左側の未開発の土地は「JR鎌倉総合車両センター跡地」です。この辺りはかつて台風の度に水没する湿地帯で、大昔は船が入れる大きな湖があったそうです、湘南モノレール「湘南深沢駅」の深沢も、この辺りに細長い湖があったことからついた地名そうです。
深沢小学校の中に「梶原景時墓」といわれるやぐらがあるのですが、入れないので、大回りして「梶原御魂神社」に向かいます。建久元年(1190)に梶原景時によって創建されたと伝わる神社で、江戸時代は鎌倉権五郎景政夫婦の像に加え梶原景時の像も安置されていました。梶原氏は平氏の一族で鎌倉権五郎景政を祖とするそうです。なお梶原景時は駿河国で亡くなっており、墓は東京都大田区の万福寺にもあります。
山上の住宅地を「山ノ内配水池」まで行き、源氏山公園に向かいます。
「日野(藤原)俊基朝臣の墓」の日野俊基は後醍醐天皇の側近で、倒幕計画を巡らせますが発覚し、元弘2年(1332)6月3日に北条高時らによってに葛原岡で処刑されました。死ぬ前に『秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん』という歌を残しています。明治維新後、南朝側の武将や公家が復権され、その一環として明治20年(1887)に墓と「葛原岡神社」が建立されました。
「源頼朝像」がある「源氏山」は白旗山または旗立山とも呼ばれます。
源氏山から「寿福寺」の方へ下ると「太田道灌墓」があります。道灌の墓は伊勢原や越生にもありますが、これは文政9年(1826)に英勝寺住職によって再建されたものです。
「寿福寺」の墓地には「北条政子墓」(左)と「源実朝の墓」(右)があります。五輪塔が置かれたやぐらが2つ並んでいます。
寿福寺は、正式名称を「亀谷山寿福金剛禅寺」という鎌倉五山第三位の臨済宗建長寺派寺院です。北条政子が、頼朝の父義朝の旧邸跡に栄西を招いて正治2年(1200)に創建されました。「寿福寺境内」は国の史跡に指定されています。栄西は二度宋に渡った比叡山の僧で、禅密兼修の立場から中国で学んだ禅を広めようとしましたが、延暦寺から圧力を受け、59歳で新天地を求めて鎌倉にやってきました。栄西が書いた『喫茶養生記』が寺の宝物になっています。
「東光山 英勝寺」は鎌倉唯一の尼寺です。徳川家康の側室「お勝の方(英勝院)」が、家康の死後、家光より「太田道灌屋敷跡」を賜り寺とした浄土宗寺院です。お勝の方は初代水戸藩主・徳川頼房の養母を務めたため、水戸藩との関係が深く、住持は水戸家の姫が代々務めていました。寛永20年(1643)建立の仏殿、山門、鐘楼が国の重要文化財となっています。
横須賀線の踏切を渡ると「旧川喜多邸別邸」があります。哲学者・和辻哲郎の江戸後期の民家を改造した練馬の屋敷を、昭和36年に映画制作者の川喜多長政・かしこ夫妻が移築したもので、海外の映画監督や映画スターを迎える場として使用されました。平成22年9月1日に景観重要建造物に指定され、春と秋2回、一般公開されています。
そして「鶴岡八幡宮」です。源頼義が平忠常を打ち取れたことに感謝して、康平6年(1063)に京都の石清水八幡宮の分霊を由比若宮の辺りに祀った鶴岡宮が元となっており、5代後の源頼朝が鎌倉入した際、源氏の氏神として北側の山に新たに鶴岡八幡宮を造営しました。鎌倉の街は平安京の内裏の位置に鶴岡八幡宮があり、幕府は八幡宮の脇に置かれていて、これは朝廷に仕える真心を表現したといわれています。
鶴岡八幡宮の東側には「畠山重忠の屋敷」がありました。『吾妻鏡』に「畠山重忠の南御門の家」という記述があり、流鏑馬道の角に「畠山重忠邸址碑」が立っています。坂東武士の鑑といわれる畠山重忠は秩父平氏の嫡流で鎌倉幕府の有力御家人でしたが、元久2年(1205)に北条時政に謀反の疑いをかけられて二俣川で討死します。
鎌倉大学附属小中学校の東北角が鎌倉幕府の「西御門跡」です。
国指定史跡の「源頼朝墓(法華堂跡)」は、墓の上に持仏堂を建てたもので、法華堂の中には石橋山の戦いで源頼朝が髻の中に納めていた小さな観音像が祀られていました。現在の法華堂は安永8年(1779)に薩摩藩主・島津重豪によって再建されたもので、元の場所には「白旗神社」が建っています。
第2代執権「北条義時の墓」も史跡法華堂跡に指定されていますが、場所が特定されたのが平成17年(2005)のため、石碑と建物の基礎の杭があるだけです。上に毛利季光、大江広元、島津忠久、三浦泰村一族の墓もあります。
北条義時墓の南側の住宅街が「北条義時屋敷推定地①」です。仕事大好き人間であった義時は幕府の建物から歩2~3分の場所に住んでいました。しかし暗殺の危険があったため複数の屋敷を所有し、引っ越しを何度も繰り返したため、正確な場所は特定できていません。4箇所紹介しますが、①~③は大倉邸と呼ばれています。
「東御門跡」先の「荏柄天神社」は、長治元年(1104)に菅原道真を勧請して創立されたと伝わる神社ですが、脇を朝夷奈切通を抜けて金沢八景に通じる結ぶ鎌倉街道下道(金沢街道)が通っており、『新編相模国風土記稿』には、幕府の鬼門鎮護のために祀られたと記されています。武家政権の守護神として、鶴岡八幡宮とともに信仰された神社です。
「鎌倉宮」は、後醍醐天皇の皇子「護良親王」が最期を迎えられた二階堂の地に明治天皇の勅命によって明治2年(1869)に創建された神社です。護良親王は鎌倉幕府打倒のために征夷大将軍となって活躍しましたが(元弘の乱)、足利尊氏と対立して建武元年(1334)に鎌倉二階堂の東光寺に幽閉の身となります。その後、鎌倉幕府の執権・北条氏の遺児「北条時行」が起こした「中先代の乱」に乗じて鎌倉を脱出しようとしますが、尊氏の弟・直義に殺害されます。
二階堂川と水路に挟まれた住宅地が「北条義時屋敷推定地②」です。
「北条義時屋敷推定地③」の「関取場跡」は、(後)北条氏康が荏柄天神社の修復に充てるため通行税をとった関所の場所で「徒歩は五文、背負人は十文、里人の行き来及び僧侶は無料」と書かれたその掟書が荏柄天神社に残っています。
今一回りした一角の中心にあるのが「大蔵御所(鎌倉幕府)旧蹟」です。清泉小学校の南西隅に石碑があります。元は源頼朝の屋敷でしたが、北条氏の時代には仕事専門になり、治承4年(1180)から承久元年(1219)までの39年間、あるいは嘉禄元年(1225)までの45年間使われたそうです。度々火災にあい、その度再建されましたが、承久元年(1219)12月24日の焼失後は再建されずに、南方の二階堂大路仮御所(1219~25)を経て、宇津宮辻子御所(1225~36)、若宮大路御所(1236~1333)と三転しています。
「金龍山 釈満院 円頓宝戒寺」が「北条義時屋敷推定地④」で「北条執権邸旧跡碑」が建てられています。ここは①~③の大倉邸とは違い「小町邸」と呼ばれ、義時の代に造営された後、北条得宗家の居所となり、新田義貞軍に攻められた最後の執権・北条高時はこの屋敷に火を放った後、裏山の東勝寺で自刃し、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は滅亡します。「宝戒寺」は、北条氏滅亡後の建武2年(1335)に、醍醐天皇の命を受けた足利尊氏によって北条一門の慰霊のために東勝寺から名前を変えて創建されました。開山は天台五代座主国師円観恵鎮慈威和上、開基は後醍醐天皇となっています。加賀白山の薬師寺、伊豫の等妙寺、筑紫の鎮弘寺と共に遠国四箇の戒場といわれたそうです。
滑川を渡って「東勝寺跡」に向かいます。「東勝寺橋」のたもとにある「青砥藤綱旧跡」の碑は、鎌倉幕府の重鎮であった葛西氏の家臣「青砥藤綱」の伝承が残る場所です。『太平記』に、藤綱が夜中に東勝寺橋の上で、滑川に誤って銭十文を落としたので、家来に五十文で松明を買わせて探していると、同僚が「十文を探すのに、五十文も使って損だ」と笑われたため、藤綱は「銭が川に沈んだままでは永久に損だ。五十文で松明を買えば、銭は流通し、合わせて六十文は天下の利益だ」と諭したという話が記されています。青砥(戸)氏は葛飾区青戸を本拠地としていました。
東勝寺橋の先の小路は「葛西ヶ谷」と呼ばれ、「葛西清重屋敷」があった場所といわれています。葛西氏は畠山氏、河越氏、江戸氏などと同じ秩父平氏の一族で、最初期に頼朝に従った武将としても知られています。
「東勝寺跡」の東勝寺は、13世紀中頃に第3代執権北条泰時の命で栄西の弟子退耕行勇を開山に迎えて創建された北条得宗家の氏寺です。室町時代には関東十刹の第三位に叙せられる名刹でした。鎌倉幕府滅亡時に焼失しますが、名刹であるため宝戒寺とは別にすぐ再建されたともいわれていて、古河公方足利政氏が妙徳を東勝寺住持に任命したとの記録が残っています。ただいつまで存在したのかはわかっていません。奧にある「北条高時腹切りやぐら」は、高時が一族郎党870余人とともに自害した場所で、遺骨を埋葬した場所ともいわれ、宝戒寺によって供養が行われています。ただ寺伝には死者は釈迦堂谷に埋葬されたと書かれています。
「叡昌山 妙隆寺」は、至徳2年(1385)に鎌倉幕府の有力御家人・千葉常胤の子孫の「千葉胤貞」が、祖先追福のために別邸の場所に中山法華経寺の日英上人を開山に迎えて創建しました。「千葉屋敷跡」ともいわれています。千葉胤貞の念持仏と伝えられる木造釈迦如来像の他、日蓮上人直筆の曼荼羅本尊の他、日拓、日英、日親の曼荼羅本尊を有しています。
「日蓮上人辻説法跡」は、南無妙法蓮華経と刻まれた石碑と説明板と隣に2021年に新たに建てられた「鎌倉日蓮堂」があります。この碑は国柱会の田中智学が整備したものですが、実際に辻説法を行ったのは、蛭子神社や本興寺辺りだそうです。
「蛭子(えびす)神社」は、本覚寺にあったという夷三郎社(夷堂)が明治の神仏分離でこの地にあった七面大明神と宝戒寺の山王大権現を合祀し「蛭子神社」と名を改めた神社です。現在の祭神は大己貴命です。社殿は、明治7年(1874)に鶴岡八幡宮の今宮から譲り受けた物だそうです。
「妙厳山 本覚寺」は、頼朝が幕府の守り神として創建した夷堂が幕府滅亡時に焼失した跡に、永享8年(1436)に日出によって建立されました。その時に天台宗から日蓮宗へと改められました。現在の夷堂は昭和56年(1981)に再建されたものです。身延山から日蓮の骨を分けたことから「東身延」とも呼ばれています。
「夷堂橋」の先の「長興山 妙本寺」は、2代将軍源頼家を要して北条氏を排除しようとした「比企能員」の末子で儒学者の「比企能本」が開基となり、自らの屋敷を日蓮聖人に提供して、文応元年(1260)に創建されました。日蓮は、能員に「長興」、母に「妙本」の法号を与え、寺の名前を「長興山 妙本寺」としたそうです。境内に比企一族の墓や若狭局を祀る蛇苦止堂などがあります。また入口に歴史的建造物のような比企谷幼稚園もあります。
「鎌倉駅」に到着しました。
駅東口すぐのところにあった「らぁめん三代目OKAWARI鎌倉店」で昼食にします。よく知らないのですが「山嵐」というロックバンドが経営に関わっている無化調の店だそうです。「特製鶏白湯らぁめん」1480円を注文。あまり白濁していない白湯ラーメンで生ハムのようなチャーシューと温泉卵が乗っていました。わりと普通っぽかったので、鎌倉らしい湘南シーフードラーメンとか江の島しらすラーメンてか旬の鎌倉野菜ラーメンとかがあると良かったなと思いました。
フォトギャラリー:120枚
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今日は「大船駅」からスタートです。大船と言ったら大船観音ですが、朝早すぎて開いていないのでご尊顔のみ。観音像のある「佛海山 大船観音寺」は、昭和2年(1927)に護国観音を建立のためにできた「護国大観音建立会」が母体となっている新しい寺で、現在は曹洞宗の大本山・總持寺直末となっています。
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朝の「柏尾川」を渡ります。
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「玉縄首塚」は、大永6年(1526)に、安房の里見氏と玉縄城の後北条氏との間で起きた村岡合戦で、北条方の戦死者「甘糟太郎左衛門」ら35名の首を埋葬した場所です。「甘糟塚」「甘糟榎」とも呼ばれます。甘糟氏は猪俣党の一族で、最初は扇谷上杉氏に仕えていましたが、後に後北条氏に仕えるようになりました。
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玉縄首塚の横のトンネルをくぐります。まだ大船ですが、地形的に切通しやトンネルが多い鎌倉に来たという感じです。
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急な階段の上にある「岡本神明社」は元村社で岡本地区の氏神です。『風土記稿』に神明寺と書かれていることから、江戸時代にはすでに祀られていたものと考えられています。
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もう1つ「岡本神社(お伊勢山神明神社)」というのもあって、ここも急な階段の上にあります。元は岡本神明社と同じ神社だったのではないかという気もしますが、天慶1年(938)頃、村岡良文一門の三浦一族に属していた角田家によって建立された神社で、その後、後北条氏の玉縄城建設で取り壊されますが、平成10年1月に再建されたそうです。
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岡本神社からの眺めです。
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「聖天山 歓喜院 玉泉寺」は、玉縄城の家老を務めた若狭一族の1人「小林若狭(一歩沙弥)」が邸内に作った寺が元となった真言宗大覚寺派寺院です。山号はかつて背後に聖天の祠があったのに由来するそうです。本尊の不動明王像は鎌倉時代に願行上人が作った地嘶不動尊を胎内に安置しています。
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「陽谷山 龍宝寺」に着きました。茅葺き屋根の立派な山門があります。玉縄城3代城主・北条綱成が開基となり、泰絮宗栄を開山として文亀3年(1503)に創建された曹洞宗寺院です。栄光学園の辺りにありましたが、4代目城主・北条氏勝が父の氏繁を弔うために今の場所に移したそうです。
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龍宝寺は玉縄城と関係が深い寺なので「玉縄北条氏供養塔」があります。
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龍宝寺は、江戸時代の旗本で学者の「新井白石」由来の寺でもあり、白石はこの辺に家禄を得て200石を献上したそうです。享保10年(1725)の銘がある「朝散大夫新井源公碑」碑は、白石がここを朝鮮通信使の宿舎として使用したことを示すものです。
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龍宝寺の庭園のコスモスです。最近一気に涼しくなったのでようやく満開。
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龍宝寺境内にある「旧石井家住宅」は17世紀後半に建てられたもので、横浜市の重要文化財になっています。
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龍宝寺を出ると目の前に「玉縄城跡」のある山が見えてきます。右上のマンションの上が玉縄城です。
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玉縄城跡に着きました。まずは「七曲坂」という階段のになっている急坂を登ります。
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七曲坂にたくさん咲いていた萩を鮮やかにしたような花はムラサキセンダイハギという外来種のようです。
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同じく坂の途中に咲いていたノハラアザミです。春に咲くノアザミと良く似ていますが、これは夏から秋にかけて咲き、咲く季節によって見分けます。
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同じくノコンギクです。コスモス同様、涼しくなって一気に咲き始めました。
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太鼓櫓跡にあり玉縄城跡の説明板と見取り図です。本丸の周囲を土塁が囲んでいたようです。玉縄城は永正9年(1512)に北条早雲が扇谷上杉氏と三浦氏に対する抑えのため築いた城です。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する防御拠点となります。外堀が柏尾川に直結し、相模湾に舟を出すことが可能な水軍を統括するのに最適で、鎌倉街道上道と中道双方を見下ろす鎌倉の重要な防衛拠点でもあるため、城主は伝統的に後北条氏一門が務めていました。
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山頂にある「太鼓櫓跡」という物見台跡に到着しました。小園地になっています。木が繁っているため、展望はありません。
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太鼓櫓跡にあった夏ミカンの木です。実ってはいませんでしたが、玉縄城は湘南なので柑橘類がよく似合います。
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清泉女学院高等学校の工事中の正門あたりに「大手門」がありました。校舎がある場所に本丸があったようです。堅城として知られ、武田信玄や上杉謙信の攻撃も退けています。天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐では、徳川家康の軍に包囲され、籠城していた北条氏勝は龍宝寺住職の説得により投降し、下総地方の北条方の降伏開城に尽力した後、徳川家臣となり、下総1万石の岩富藩主となりました。なお玉縄城は徳川時代も存続しましたが、慶長20年(1615)の一国一城令で元和5年(1619)に廃城となります。
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「玉縄城址碑」は、住宅街の角のわかりにくい小高い場所にひっそりとたたずんでいます。恐らく宅地造成で移転させられたのだと思います。
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玉縄城址碑の前の坂道が「陣屋坂」です。同名のバス停があります。
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「陣屋坂」の途中にある「相模陣稲荷神社」は、玉縄城を守るための陣屋があった場所です。松平正綱という人物が陣屋の主だったそうです。稲荷は伏見稲荷の分霊を祀っています。
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車が登れる最大傾斜に近い急坂を下ります。風情があるけれど、今日は朝イチからこんなアップダウンばかりで、距離のわりに時間がかかってしょうがないです。
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「光円山 久成寺」は、足利11代将軍義澄に仕えた梅田尾張守秀長の宅地を寄進し、日舜を開山として永正17年(1520))に創建された日蓮宗寺院です。徳川家康が小田原攻めの際に祈祷を頼み、恩賞として三石を与えたと伝わり、寺には「鎌倉郡玉縄郷ノ内三石のこと」と書かれた五代将軍綱吉の朱印状が残されています。
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久成寺の墓地には源実朝を暗殺した公暁を討った「長尾定景一族の墓」があります。定景は「長尾景虎(上杉謙信)」の祖先にあたるそうです。
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この辺りの領主であった旗本・松平正次の内室「松平甚之助新兵衛内室の墓」もあります。
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「戒法山 二伝寺」は、永正2年(1505)に北条氏時が開基となり、正空が開山となって創建された浄土宗寺院です。旗本で玉縄領主の「松平甚右衛門正次」が中興しています。玉縄城支城の「二伝寺砦」があったともいわれています。
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二伝寺には松平正次の妻と直系の子孫が眠る「松平正次一族の墓」があります。
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二伝寺の裏山には「(村岡)良文三代の塚」という村岡良文~忠光~忠通三代の墳墓があります。これは「村岡良文の墓」ですが、両隣に忠光と忠通の墓もあります。鎌倉五郎景政は忠通の孫にあたります。
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「渡内日枝神社」は、村岡城内に守護神として日吉山王大権現を勧請した神社です。応永27年(1421)に地頭の福原左衛門平忠次が現在の場所に移築した際に祭神に村岡良文が祭神に追加されました。明治6年に村社に列格しています。この辺りから先々週の鎌倉街道上道の続きとなりますが、宅地造成されているため、道はハッキリしません。
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「村岡(平)良文」の居館「村岡城」があった場所は「村岡城址公園」になっています。野球のできる広場のある住宅地の中の公園で、当然のことながら遺構は残っていません。「平良文」は桓武天皇の孫の高望王の五男で、相模國の村岡に拠点とし「村岡五郎良文」を名乗りました。平将門の叔父にあたり、「関東八平氏」の祖です。なお村岡は、埼玉県熊谷市村岡であるとする説もあります。
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公園の片隅に立つ「村岡城址碑」です。ここには戦国時代は玉縄城の支城「高谷砦」もあり、新田義貞が元弘3年(1333)に鎌倉を攻めたときに陣を構えたという伝承もあります。
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あと「鎌倉五郎景政」の産湯の井と伝わる「三日月井跡」の石碑があります。これはニ伝寺にあったものを移転したものだと思われます。
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「村岡城址公園」は高台にあるので眺めが良いです。
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村岡城址公園を下から見るとこんな感じです。
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村岡城址公園下には広い墓地と無住の曹洞宗寺院の「高谷山 長福寺」があります。寺の敷地を別の団体が分譲墓地として開発したのかもしれません。敷地内に土塁のような土盛りがありますが、墓地造成時の残土の可能性もあります。
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「宮前避溢橋りょう」で東海道線の線路の下をくぐります。単なる天井が低いトンネルですが、元は大雨の時に水が線路の土手に堰き止められて溜まるのを防ぐ水抜き穴だったようです。そのため中央に水路が残っています。
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東海道線の線路を潜ると、線路脇に「旗立山」が見えてきます。かつてこの辺りは入江だったので、昔は稲村ヶ崎のような岬か江の島のような島だったのだと思われます。
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旗立山の東側には「鎌倉古道(上の道)」といわれる山道が残っています。ただ海が干上がった後も、この周辺は度々洪水に襲われる柏尾川の氾濫原だったので確証はないそうです。
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「鎌倉古道(上の道)」の標識です。脇に石碑もあります。
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反対側の入口まで行ってみたした。ここにも「鎌倉古道(上の道)」の石碑があります。
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反対側の入口の先は昔の石切場に造られた工場の敷地で、通れなくはないのですが、通常は通行止なのだと思います。
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「旗立山」の西側ある「宮前(村岡)御霊神社」は、天慶3年(940)に村岡良文が平将門の討伐祈願のために京都市上京区の(桓武天皇が祀った)御霊神社を勧請した神社で、神奈川県内に16社ある御霊神社はここから分社したものだそうです。祭神は桓武天皇の弟の「早良親王(崇道天皇)」で、その後、五代執権北条時頼の命により鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王が加えられました。
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この近所にあるはずの鎌倉権五郎景政が後三年の役で兜を埋めたと伝わる「兜松」がどうしても見つからなかったのですが、御霊神社の隣にある「七面宮」は兜山の兜の埋められた場所から、現在の場所に移築されてきたものだそうです。ただ名前の七面は日蓮宗の七面山が関係している可能性もあります。
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急な山道をよじ登って「旗立山(兜山)」にも一応登ってみます。
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「旗立山山頂」はこんな感じの下草が伐採された平坦地になっています。ここにも兜松はなし。
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平坦地の縁に土塁のようなものがあり、平坦地自体も上下二段になっているため、ここも後北条氏の玉縄城の支城だったのかもしれません。
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あと御霊神社の下の集会所の辺りに、元別当寺で廃寺となった「村岡山 徳寿院」があったそうです。
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「古館橋」で柏尾川を渡り、用水路沿いの道を東にを進みます。
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左側に広がる広大な荒地は、調整池を地下化した再開発予定地です。この辺りはかつて台風の度に水没する湿地帯で、大昔は船が入れる大きな湖があったそうです。
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湘南モノレールの下をくぐります。奥に見える「湘南深沢駅」の深沢も、この辺りに細長い湖があったことからついた地名そうです。
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道は深沢小学校に突き当たって大きく迂回します。この小学校の裏には「梶原景時墓」といわれるやぐらがあるのですが、当然のことながら入れません。なお梶原景時は駿河国で亡くなっており、墓は東京都大田区の万福寺にもあります。
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でも、深沢小学校の裏に入っていく怪しげな道があったので行ってみました。途中に岩に掘られたやぐらが幾つかあるなかなか風情のある道ですが、しばらく行くと墓地で行き止まりになってしまいました。しかし昔は小学校の裏から梶原御魂神社の前まで道が通じていたと思われ、そのまま源氏山に続く尾根に上る「鎌倉古道」であったのかもしれません。
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小学校を大回りして反対側の「梶原御魂神社」に着きました。拝殿と神楽殿が一体化した物が下にあり、上に本殿がある少し変わった構造の神社です。
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階段の上にある「梶原御魂神社本殿」です。建久元年(1190)に梶原景時によって創建されたと伝わる神社で、江戸時代は鎌倉権五郎景政夫婦の像に加え梶原景時の像も安置されていました。梶原氏は平氏の一族で鎌倉権五郎景政を祖とするそうです。
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梶原御魂神社の横には古びた五輪塔が置かれていますが、これは梶原氏代々の供養塔とも、新田義貞の鎌倉攻めの戦死者の供養塔とも伝えられているものです。
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梶原御魂神社を過ぎると、鎌倉街道上道は深沢中学校の前の長い坂道を登り、道を源氏山へ続く山の上に上がります。
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登りきった山頂には「山の上ロータリー」があります。今登ってきた道は「西の坂」というようで、これから進む道は「山の上通り」というようです。
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「山ノ内配水池」を過ぎ、少し行ったところにあるこの標識のから源氏山公園に行く細道に入ります。
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源氏山公園の中にある「葛原岡神社」に到着しました。明治維新後、南朝側の武将や公家が復権され、その一環として明治20年(1887)に日野俊基の墓と共に建立された、比較的新しい神社です。
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神社の近くには「日野(藤原)俊基朝臣の墓」もあります。日野俊基は後醍醐天皇の側近で、倒幕計画を巡らせますが発覚し、元弘2年(1332)6月3日に北条高時らによってに葛原岡で処刑されました。死ぬ前に『秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん』という歌を残しています。
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日野俊基朝臣の墓近くからの眺めです。鎌倉駅は見えませんが、奥の山はおそらく「鎌倉アルプス」です。
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源氏山公園の中のよく整備された道を寿福寺方面に進みます。しかしこの辺りは、公園を一歩でも出るといきなり木の根が張り出した登山道になるので注意が必要です。
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真夏に咲くタマアジサイがまだ少し残っていました。タマアジサイの名前の由来は蕾が球形をしていることです。
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源氏山公園のシンボル「源頼朝像」に着きました。源氏山は白旗山または旗立山とも呼ばれています。
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源頼朝像がある園地では、まだほんの少しですが、モミジの紅葉が始まっていました。
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源氏山から「寿福寺」の方へ下る途中に「太田道灌墓」があります。道灌の墓は伊勢原や越生にもありますが、これは文政9年(1826)に英勝寺住職によって再建されたものだそうです。
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「寿福寺」の墓地には「北条政子の墓」(右)と「源実朝の墓」(左)があります。2つ並んだやぐらの中に五輪塔が置かれているもので、これは「北条政子の墓」です。
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こちらが「源実朝の墓」です。
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「寿福寺」に着きました。正式名称を「亀谷山寿福金剛禅寺」という鎌倉五山第三位の臨済宗建長寺派寺院です。北条政子が、頼朝の父「源義朝の旧邸跡」に栄西を招いて正治2年(1200)に創建されました。鎌倉幕府をここに造る計画もあったようです。そのため「寿福寺境内」は国の史跡に指定されています。栄西は二度宋に渡った比叡山の僧で、禅密兼修の立場から中国で学んだ禅を広めようとしましたが、延暦寺から圧力を受け、59歳で新天地を求めて鎌倉にやってきました。
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寿福寺の隣の「東光山 英勝寺」は鎌倉唯一の尼寺です。徳川家康の側室「お勝の方(英勝院)」が、家康の死後、家光より「太田道灌屋敷跡」を賜り寺とした浄土宗寺院です。お勝の方は初代水戸藩主・徳川頼房の養母を務めたため、水戸藩との関係が深く、住持は水戸家の姫が代々務めていました。
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英勝寺の前にある「太田道灌邸旧跡」の石碑です。太田道灌の城や屋敷はあちこちにあるのですが、ここは鎌倉府に出仕する時に使用されたものだと思われます。
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横須賀線の踏切を渡ります。
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「旧川喜多邸別邸」は、哲学者・和辻哲郎の江戸後期の民家を改造した練馬の屋敷を、昭和36年に映画制作者の川喜多長政・かしこ夫妻が移築したもので、海外の映画監督や映画スターを迎える場として使用されました。平成22年9月1日に景観重要建造物に指定され、春と秋2回、一般公開されています。
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「鶴岡八幡宮」に着きました。源頼義が平忠常を打ち取れたことに感謝して、康平6年(1063)に京都の石清水八幡宮の分霊を由比若宮の辺りに祀った鶴岡宮が元となっており、5代後の源頼朝が鎌倉入した際、源氏の氏神として北側の山に新たに鶴岡八幡宮を造営しました。鎌倉の街は平安京の内裏の位置に鶴岡八幡宮があり、幕府は八幡宮の脇に置かれていて、これは朝廷に仕える真心を表現したといわれています。
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鶴岡八幡宮の東側には「畠山重忠の屋敷」がありました。流鏑馬道の角に「畠山重忠邸址碑」が立っていて、『吾妻鏡』に「畠山重忠の南御門の家」という記述があります。
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「畠山重忠邸址碑」の拡大です。坂東武士の鑑といわれる畠山重忠は秩父平氏の嫡流で鎌倉幕府の有力御家人でしたが、元久2年(1205)に北条時政に謀反の疑いをかけられて二俣川(鶴ヶ峰)で討死します。
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鎌倉大学附属小中学校の東北角が鎌倉幕府の「西御門跡」です。鎌倉幕府(大倉御所)は鶴岡八幡宮の東側にありました。
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「白旗神社」に着きました。「源頼朝墓(法華堂跡)」はこの上にありますが、現在の法華堂は安永8年(1779)に薩摩藩主・島津重豪によって再建されたもので、元は「白旗神社」が建っている場所にあったそうです。
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国指定史跡の「源頼朝墓(法華堂跡)」です。墓の上に持仏堂を建てたもので、法華堂の中には石橋山の戦いで源頼朝が髻の中に納めていた小さな観音像が祀られていました。今は建物はなく供養塔のみが残されています。
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第2代執権「北条義時の墓」も史跡法華堂跡に指定されていますが、場所が特定されたのが平成17年(2005)のため、説明板と建物の基礎の杭があるだけです。
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北条義時の墓の奥には、「三浦泰村一族」を供養するやぐらがあります。三浦泰村は北条義時亡き後も長期に渡り鎌倉幕府の有力後家人でしたが、宝治の乱(宝治元年(1247))で北条時頼に破れてこの法華堂で自害しました。
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北条義時から階段を登った上には、大江広元(左)、毛利季光(中)、島津忠久(右)のやぐらがあります。これは「大江広元」のやぐらです。大江広元は朝廷と鎌倉幕府の橋渡し的な役目を担っていた公家で、和田義盛の乱で義盛に味方した横山党が滅亡すると、横山党の本拠地・八王子にある片倉城を与えられています。なお墓は鎌倉市十二所にもあります。
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北条義時墓の南側の住宅街が「北条義時屋敷推定地①」です。推定値は全部で4箇所あり、①~③は大倉邸と呼ばれています。仕事大好き人間であった義時は幕府の建物から歩2~3分の場所に住んでいました。しかし暗殺の危険があったため複数の屋敷を所有し、引っ越しを何度も繰り返したため、正確な場所は特定できていません。
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北条義時屋敷推定地①から東に進むと「東御門跡」があります。先程の西御門跡と結んだ線の南側の清泉小学校辺りを中心に鎌倉幕府(大倉御所)の建物は存在していたようですが、上に住宅が密集していることと、遺跡が地下3mの深い場所にあるため、発掘は進んでいないそうです。
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「荏柄天神社」は、長治元年(1104)に菅原道真を勧請して創立されたと伝わる神社ですが、脇を朝夷奈切通を抜けて金沢八景に通じる結ぶ鎌倉街道下道(金沢街道)が通っており、『新編相模国風土記稿』には、幕府の鬼門鎮護のために祀られたと記されています。武家政権の守護神として、鶴岡八幡宮とともに信仰されたそうです。
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白い鳥居が印象的な「鎌倉宮」は、後醍醐天皇の皇子「護良親王」が最期を迎えられた二階堂の地に明治天皇の勅命によって明治2年(1869)に創建された神社です。護良親王は鎌倉幕府打倒のために征夷大将軍となって活躍しましたが(元弘の乱)、足利尊氏と対立して建武元年(1334)に鎌倉二階堂の東光寺に幽閉の身となります。その後、鎌倉幕府の執権・北条氏の遺児「北条時行」が起こした「中先代の乱」に乗じて鎌倉を脱出しようとしますが、尊氏の弟・直義に殺害されます。
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鎌倉宮の脇には「南方社」という小祠があり、南朝を祀ったものかと思って調べてみたら、護良親王とともに鎌倉に下り、親王に仕えた藤原保藤の娘「南の方」を祀る神社だそうで、南の方は妙法寺中興開山の日叡の母でもあるとのことなので、護良親王の死後も生き延びたのだと思われます。妙法寺に墓があるそうです。
南方社に植えられている河津桜は、年末から正月にかけて見頃となる超早咲き。Exif情報
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二階堂川と水路に挟まれた住宅地が「北条義時屋敷推定地②」です。
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「北条義時屋敷推定地③」の「関取場跡」は、(後)北条氏康が荏柄天神社の修復に充てるため通行税をとった関所の場所で「徒歩は五文、背負人は十文、里人の行き来及び僧侶は無料」と書かれたその掟書が荏柄天神社に残っています。右の道は金沢八景に抜ける「金沢街道」で、平行して朝比奈切通を抜ける鎌倉街道下道も残っています。
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清泉小学校を中心にした一帯が「大倉御所(鎌倉幕府)跡」です。元は源頼朝の屋敷でしたが、北条氏の時代には仕事専門になり、度々火災にあっていますが、治承4年(1180)から承久元年(1219)までの39年間、あるいは嘉禄元年(1225)までの45年間使われたそうです。
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「大倉幕府旧蹟」の碑の拡大です。
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「金龍山 釈満院 円頓宝戒寺」が「北条義時屋敷推定地④」で「北条執権邸旧跡碑」が建てられています。ここは①~③の大倉邸とは違い「小町邸」と呼ばれ、義時の代に造営された後、北条得宗家の居所となり、新田義貞軍に攻められた最後の執権・北条高時はこの屋敷に火を放った後、裏山の東勝寺で自刃し、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は滅亡します。
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こっちの石碑の方が分かりやすい気もするので、一応載せておきます。
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「宝戒寺」です。北条氏滅亡後の建武2年(1335)に、醍醐天皇の命を受けた足利尊氏によって北条一門の慰霊のために東勝寺から名前を変えて創建されました。開山は天台五代座主国師円観恵鎮慈威和上、開基は後醍醐天皇となっています。加賀白山の薬師寺、伊豫の等妙寺、筑紫の鎮弘寺と共に遠国四箇の戒場といわれたそうです。
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宝戒寺の裏山に鎌倉幕府滅亡の地=北条氏滅亡の地である「東勝寺跡」があります。祇園山ハイキングコースが通っているので、プチ縦走できます。
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東勝寺橋のたもとにある「青砥藤綱旧跡」の碑は、鎌倉幕府の重鎮であった葛西氏の家臣「青砥藤綱」の伝承が残る場所です。『太平記』に、藤綱が夜中に東勝寺橋の上で、滑川に誤って銭十文を落としたので、家来に五十文で松明を買わせて探していると、同僚が「十文を探すのに、五十文も使って損だ」と笑われたため、藤綱は「銭が川に沈んだままでは永久に損だ。五十文で松明を買えば、銭は流通し、合わせて六十文は天下の利益だ」と諭したという話が記されています。青砥(戸)氏は葛飾区青戸を本拠地としていました。
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「東勝寺橋」で千葉の養老渓谷を思わせる「滑川」の清流を渡ります。
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東勝寺橋の先の小路は「葛西ヶ谷」と呼ばれ、「葛西清重屋敷」があった場所といわれています。葛西氏は畠山氏、河越氏、江戸氏などと同じ秩父平氏の一族で、最初期に頼朝に従った武将としても知られています。
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立入禁止の広場になっている「東勝寺跡」に到着しました。東勝寺は、13世紀中頃に第3代執権北条泰時の命で栄西の弟子退耕行勇を開山に迎えて創建された北条得宗家の氏寺です。室町時代には関東十刹の第三位に叙せられる名刹でした。鎌倉幕府滅亡時に焼失しますが、名刹であるため宝戒寺とは別にすぐ再建されたともいわれていて、古河公方足利政氏が妙徳を東勝寺住持に任命したとの記録が残っています。ただいつまで存在したのかはわかっていません。
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「東勝寺跡」の奧にある「北条高時腹切りやぐら」は、高時が一族郎党870余人とともに自害した場所で、遺骨を埋葬した場所ともいわれ、宝戒寺によって供養が行われています。ただ寺伝には死者は釈迦堂谷に埋葬されたと書かれています。なおこの前が祇園山ハイキングコースの入口です。
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「叡昌山 妙隆寺」は「千葉屋敷跡」ともいわれています。至徳2年(1385)に鎌倉幕府の有力御家人・千葉常胤の子孫の「千葉胤貞」が、祖先追福のために別邸の場所に中山法華経寺の日英上人を開山に迎えて創建しました。千葉胤貞の念持仏と伝えられる木造釈迦如来像の他、日蓮上人直筆の曼荼羅本尊の他、日拓、日英、日親の曼荼羅本尊を有しています。
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「日蓮上人辻説法跡」は、日蓮が「国が乱れれば外国に攻められる」と蒙古襲来の予言の説法をした場所です。日蓮はこの説法が原因で佐渡に流されることとなります。南無妙法蓮華経と刻まれた石碑の前に説明板があります。この碑は国柱会の田中智学が整備したもので、実際に辻説法を行ったのは、蛭子神社や本興寺辺りだそうです。
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日蓮上人辻説法跡の隣に2021年に新たに建てられた「鎌倉日蓮堂」があり、中には辻説法をする日蓮像があります。
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「蛭子(えびす)神社」は、本覚寺にあったという夷三郎社(夷堂)が明治の神仏分離でこの地にあった七面大明神と宝戒寺の山王大権現を合祀し「蛭子神社」と名を改めた神社です。現在の祭神は大己貴命です。社殿は、明治7年(1874)に鶴岡八幡宮の今宮から譲り受けた物だそうです。
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「妙厳山 本覚寺」は、頼朝が幕府の守り神として創建した夷堂が幕府滅亡時に焼失した跡に、永享8年(1436)に日出によって建立されました。その時に天台宗から日蓮宗へと改められました。身延山から日蓮の骨を分けたことから「東身延」とも呼ばれています。
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神仏分離令で「夷堂」は蛭子神社に合祀されましたが、戦後の昭和56年(1981)に本覚寺境内にも再建されました。
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「夷堂橋」を渡って最後の妙本寺に向かいます。
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「長興山 妙本寺」は、「比企能員」の末子で儒学者の「比企能本」が開基となり、自らの屋敷を日蓮聖人に提供して、文応元年(1260)に創建されました。日蓮は、能員に「長興」、母に「妙本」の法号を与え、寺の名前を「長興山 妙本寺」としたそうです。山門の右側にある歴史的建造物のような建物は「比企谷幼稚園」で、運動会が催されていました。
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妙本寺山門前には「比企能員邸址」の石碑があります。「比企能員」は妻の「比企尼」と共に伊豆に流されていたころからの源頼朝の支援者で、2代将軍源・頼家の乳母も務めていました。その後、娘の「若狭局」を頼家に嫁がせ、頼家と共に北条氏を幕府から排除して実権を握ろうとしますが、建仁3年(1203)9月2日に北条義時らによって誅殺されます(比企能員の乱)。
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妙本寺は広い寺で、一番奥にある祖師堂の前に立派な仁王門があります。
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仁王門をくぐった先の右側に「比企一族の墓」があります。比企一族の本拠地は埼玉県の比企丘陵周辺で、館跡は候補地が3箇所あって特定されてはいません。
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比企一族の墓の前に咲いていたオレンジ色の彼岸花です。「ショウキズイセン(鍾馗水仙、ショウキラン)」という品種で、花言葉は「あの人を忘れない」だそうです。
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妙本寺にはあと、入口の山門から左奥に入ったところに「若狭局」を祀る「蛇苦止堂」もあります。ただここは、お堂の右前に井戸を祀る神社があり、名前に水神である蛇がつくので、元は湧水を護る神様だった可能性があります。
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連休の観光客でごった返す「鎌倉駅」に到着しました。
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駅東口すぐのところにある「らぁめん三代目OKAWARI鎌倉店」で昼食にします。よく知らないのですが「山嵐」というロックバンドが経営に関わっている無化調の店だそうです。
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「特製鶏白湯らぁめん」1480円を注文。あまり白濁していない白湯ラーメンで生ハムのようなチャーシューと温泉卵が乗っているラーメンで普通に美味しいのですが、鎌倉らしさに欠ける気がしたので、湘南シーフードラーメンとか江の島しらすラーメンてか旬の鎌倉野菜ラーメンとかがあったら良かったな~と思いました。あとサザエが載ってるサザンさんラーメンもいいな!
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- 最適日数
- 日帰り
- コースタイプ
- 周回
- 歩行時間
- 2時間1分
- 難易度
- ★
- コース定数
- 8
目黒駅は品川区さんの登山記録
確認




























































































































