行程・コース
天候
晴
登山口へのアクセス
マイカー
その他:
土佐市塚地と同市宇佐町宇佐との境界にある塚地坂トンネル南方のローソンの南の三叉路を西に折れ、宇佐八幡宮の参道の南に沿う道路に入る。そして南北に走る道路に突き当たる手前の適当な路肩に駐車する。但し、この道路は新しくできたものだけに、今後、縁石等が設置されれば路肩への駐車は不可になる。それでも何とか駐車できるだろう。
この登山記録の行程
駐車場所12:02-登山口のある墓地入口12:06-尾根道合流三叉路12:13-峠の十字路12:29-聴音壕13:01~14:13-茶臼山14:16~14:24-尾根下の谷状地形14:56-駐車場所15:11
高低図
標準タイム比較グラフ
登山記録
行動記録・感想・メモ
土佐市の桜名所、波介(はげ)山展望公園を擁する東西に伸びる尾根の中心、大峠を基点に尾根は十字になっており、北は横瀬山に続き、南は茶臼山(236.7m)から城ヶ森(148.6m)へと続く。
茶臼山山頂は、四国の低山に多数指定されている石鎚山遥拝所になっており、石鎚大権現の祠を祀る。大峠から南下した場合は分かり辛いかも知れないが、茶臼山頂部は急峻で、大権現の表参道がある東側には石鎚山同様、登攀鎖が設置され、聖なる山とされていた。
山頂の南下は幅広の切通しのような形になっており、底部の平地には戦時中の防空監視哨の哨舎の基礎が残る。更にその南のピークには、煉瓦を積み上げた筒状の聴音壕が佇んでいる。
聴音壕とは敵機の飛来を監視するため、この中に入り、耳を澄ませて航空機の音を聴いていた、という原始的施設。24時間交代制で、青年団等が受け持ち、敵機飛来を察知すると専用電話等で県庁にあった防空監視隊本部に連絡していた。
高知県は米軍が、原爆の使用を大統領が認めなかった場合、昭和20年10月末に陽動作戦(パステル作戦)で上陸予定だった地。これを大本営も予想していたため、高知県の海岸に近い山にはこのような防空監視哨や無数の陣地、海岸には回天(須崎市と高知市)を含む海軍の水中・水上特攻基地が設けられていた。
当方が以前茶臼山に登ったのはガイドブック「土佐のマイナー山PART2」(ヤマケイ誌新刊コーナー掲載)の製作を企図していた’00年前後。当時、山頂からは太平洋側の展望が少し開けていたが、聴音壕前からは180度の大パノラマが広がっていた。しかしそれも今は昔、どちらのピークからも展望は得られない。
大峠から南下時は今でも海の展望が開ける地があるらしいが、登山当日の午前中、「宇佐しおかぜ公園」で開催されていた旧車ミーティング(毎月第二日曜10時開催)を見学していたことから、宇佐地区の登山口から登ることにした。
当初、前述書に記載した、宇佐と須崎市灰方を結ぶ峠から北上して登頂し、帰路は元来た道を引き返し、更に城ヶ森まで南下し、宇佐の南方の集落に下り、半回遊するつもりだった。
が、現地に久方ぶりに行くと、山頂から東に下るルートが残っていることが分かり、完全周回するコースに変更した。余談だが灰方の県道沿いには、’90年代、高知県最恐と言われた都市伝説的心霊スポット「篠岡家」(通称「篠岡(死のうか)さん家」)跡がある。Googleストリートビューでも確認可。
《コース詳細》
峠道は「タンク山」南西にあるので、タンク山山麓の道路を東から南西へと回り込む。
ほどなく、農道と墓地への小径が交わる十字路に達するので、ここを墓地へ上がる。以後、分岐があっても本道のコンクリート歩道を進む。
滑り止め付き階段になると、東西に伸びる支尾根に出る。支尾根に出た地点まで墓地は続いている。
後は支尾根を上るのみだが、勾配がきつい所は道が蛇行している。
時たま、木製道標が現れ、シダが繁茂している箇所は定期的に刈り払いがなされている様子。四半世紀前とは違い、地元ではある程度、茶臼山のコースは知られてきているのだろうか。
峠にも立派な道標が設置されている。以前登った時、藩政期の道しるべかと思っていた、峠南の将棋の駒のような石板は、天明時代の「六十六部供養塔」だった。廻国大乗妙典六十六部修行僧がこの地で行き倒れにでもなったのだろうか。
稜線の尾根道は起伏もあまりなく、快適に進める。
前述の自著を読み返してみると、段畑跡のような所が続く箇所が終えた先のピークに聴音壕があるような記述になっていたが、壕は山頂のすぐ手前だった。四半世紀前、デジカメを持っていたら、各画像に記録された時刻を元に正確な記述ができたが、パソコンもデジカメもDVDプレーヤーも初めて買ったのは’00年代半ばだったから、致し方ない。
以前登った時の記憶はないが、壕のピークと山頂部の間に幅広の堀切のような切通しがあるせいで、壕のピークは山城の二の丸、山頂部は本丸跡のような景観になっている。
25年前、登った時は聴音壕の周囲は、藪は皆無だったが、今では壕内まで灌木が生えており、太平洋側の視界も雑木によって遮られている。残念無念。
壕の深さは今では、160cm少々ほどになっているが、戦時中は180cmほどあったのではないかと思う。入り口は尾根側にあり、塹壕が掘られている。
海側に地元小学校の校歌が記された木製看板が設置されていたが、それより防空監視哨のことを記すことの方が歴史的にも意義深い。
壕からは切通し側に下り、哨舎の基礎を観察後、山頂への上りにかかるが、崖になっており、ロープを掴みながら登る。
山頂も展望は消え失せていた。祠の清掃や供え物も以前ほどはされていない様子。高齢化や他界で難しくなったのか。
この山以外にも、山間部の千メートル級峰でも十数年から20年ぶりに登った山でパノラマが消えた山は複数あった。’90年代、300度近い展望を誇った仁淀川町の長坂山、180度の展望が楽しめた馬路村の雁巻山等。
これからも展望が消えるマイナー峰が増え続けることは寂しい限り。
帰路は哨舎跡の切通しに戻った後、東側に回ってみた。すると石鎚山を彷彿させる登攀鎖と鳥居、常夜燈があった。そしてそこから急角度の石段が下っていた。昭和6年に寄進されたこの石段には当然手摺はなく、幅も狭く、落ち葉が積もっているため、慎重に下らないと転倒し、何十メートルも下に転落してしまう。が、このコースを下ると完全周回コースになる。
何とか石段下まで降り、尾根沿いから尾根上のコースになる。最初は道標や赤テープがあったものの、すぐなくなり、踏み跡も消えていく。それでも尾根は明瞭だから心配するほどではない。
尾根や踏み跡が明瞭だと、ついつい読図を怠りがちだが、いざ、尾根の形が不明瞭になり、進行方向が藪で覆われると焦ってしまう。
当初、完全周回コースとなる宇佐西郷に下る道は廃道化しているものと思っていたため、この下っているルートは、塚地峠の峠道(複数の磨崖仏あり)に合流するコースだと思い込んでいた。が、地形図とコンパスを確認すると方角が違う。
とは言え、少々ルートを誤ったとしても、何キロもずれることはない。下れそうな所は左手下の谷状地形のみだったため、そこに下り、竹藪を若干藪漕ぎしながら進む。
ほどなく、前方が開け、墓場や小径が見える。小径を進むと集落に出た。住宅地図のコピーを確認すると、ここはどうやら西郷集落。そう、石鎚大権現の表参道登山口のある集落。この小径こそ、表参道。と、いうことはさきほどの墓場から上に続く道が表参道か。しかし最初から最後まで表参道を忠実に登る登山者はいるのだろうか。
















