行程・コース
天候
晴れ
登山口へのアクセス
電車
その他:
行き:JR高崎線「北本駅」
帰り:東武東上線「東松山駅」
この登山記録の行程
北本駅(11:35)・・・高尾氷川神社(12:00)・・・高尾さくら公園(12:14~33)・・・吉見町さくら堤公園(13:17)・・・横見神社(14:25)・・・八丁湖(14:44)・・・ポンポン山(15:34)・・・武蔵松山城跡(17:04)・・・東松山駅(17:45)
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
高尾山という山は、群馬の八王子丘陵にある高尾山とか町田の本家高尾山から飯縄権現を勧請した高尾山とか、あちこちにあるのですが、埼玉県の高尾山は大宮台地の最高地点で桜の名所でカタクリの群生地もある知る人ぞ知る場所です。その埼玉県の高尾山から、ポンポン山と武蔵松山城跡とブラブラと縦走して来ました!桜はまだでしたが、カタクリや菜の花、スミレが満開でした!来週になって桜が咲くと絶景間違いなしだと思うので行ってみて下さい!
フォトギャラリー:67枚
JR高崎線の「北本駅」からスタートです!埼玉県の高尾山へ行くには西口駅前の道をひたすら真っ直ぐ行くだけなので迷う心配は皆無です!
広い車道が突き当たったら、そのまま狭くなった未知を真っ直ぐ行けば高尾さくら公園に着くのですが、せっかくなので左折して高尾氷川神社に寄って行きます。曲がってすぐ出て来る「伝鎌倉街道」の案内板は、鎌倉街道中道から枝分かれして群馬県へと通じる脇街道の「鎌倉街道上野道」のものです!
「高尾(北本)氷川神社」に着きました!大宮氷川神社から勧請された神社で、高尾・荒井・北袋・石戸宿・石戸上村の総鎮守社です。明治6年に村社となっています。
高尾氷川神社の境内はタチツボスミレが満開でした!
高尾氷川神社の近くには神社が3つまとまっているので、それにも寄って行きます。「荒井須賀神社」は荒井村単独の鎮守社だった神社で、元は牛頭天王社として別当寺の双徳寺が管理していたようなのですが、神仏分離で寺が廃寺になったった後の明治6年に須賀神社と名前を改め、村社となりました。
最後は「高尾厳島神社」です。江戸神田新銀町中島屋久四郎という者が弁財天のおつげにより、宝暦6年(1756)わざわざこの地を訪れ奉安したといわれる神社です。石戸領を知行した旗本牧野氏が祈願所として崇敬していたそうでです
「高尾さくら公園」に着きました!北本市の天然記念物に指定されている「蒲桜(エドヒガンザクラ)」があるはずなのですが、色んな種類の桜があるので、どれかわからず!
公園の前に「高尾阿弥陀堂」に寄っていきます。今は墓地にお堂と鐘楼門があるだけの場所なんですが、かつては西龜山無量寺泉蔵院という真言宗寺院があったそうで、大宮台地最高地点32mとのことです!また『新編武蔵風土記稿』には、阿弥陀堂はかつて石戸宿にあり、石戸賴兼といへる人が娘で源範頼の妻であった「亀御前」の追福を願って建立したものだと書かれています。
鐘楼門は登れるので登ってみました!鐘楼門から荒川方面の眺めです!
高尾阿弥陀堂の墓地にあった満開の桜の木です!何桜かはわかりません!
高尾阿弥陀堂の墓地の横が「高尾カタクリ群生地」です!大宮大地唯一の天然の自生地だそうです!
カタクリの写真もう一枚!
せっかくなのでさらに追加です!
高尾さくら公園に戻ります。しだれ桜が満開でした!
高尾さくら公園の展望台です!奥に見えるのは荒川の堤防の菜の花です!
荒川沿いの低地から高尾山を振り返ります!
高尾橋で荒川を渡ります!この辺りの荒川は市野川、都幾川、高麗川といった河川が流入する前の、荒川の流路変更に使った和田吉野川のままなので、これが荒川と思うぐらい細い流れです!で高尾橋周辺には「高尾河岸」という荒川水運の荷揚馬がありました。
荒川の河川敷に広がる広大な畑の中を行きます!
土筆が鬼の様に出ていました!
そして菜の花満開の堤防に上ります!
吉身町さくら堤公園に着きました!でも桜はまだ咲いていません!
しょうがないので菜の花の絶景をもう一枚!
堤防の下にたたずむ道祖神様です!
この辺りは日本一川幅(河川敷の幅)が広いらしい!
どこまで続くのか、この菜の花ロードよ!
堤防に咲いていたノジスミレです!
荒川の河川敷はこんな感じです!
堤防から下りて、比企丘陵の方に向かいます。とってもこの辺りも広大にな水田地帯!
「横見神社」に到着しました!延喜式神名帳に記載されている式内社で、「御所陣屋跡」という「源範頼」の館跡の候補地にもなっています。横見神社は、和銅年間(708-715)に創建された、当時の郡名横見郡の名前がつけられた神社で、中世には源範頼の子孫吉見氏の崇拝を受け、繁栄していたそうなのですが、吉見氏が衰退すると名主などの有力農民層の管理する神社となり、長らく「飯玉氷川明神社」と呼ばれていました。明治維新後に「横見神社」と社号を改め、郷社に列格されたそうです。
次の「伊波以神社」もも延喜式神名帳に記載されている式内社です。ただあちこちに論社のある出雲伊波比神社と名前が似ていますが別の神社だそうです。和銅年間(708-715)に創建、嘉祥2年(849)に従五位下に叙せられ、貞観元年(859)に盤井神として官社に列格したとのことです。ただ主祭神に関しては出雲伊波比神社と同じ武蔵国造の遠祖の出雲系の神だったのではないかといわれています。その後「源範頼」の子孫「吉見氏」により八幡神を併せ祀って「岩井八幡宮」と称していたそうです。
「八丁湖」に着きました。桜の名所なのですが、さすがにまだ咲いていませんでした。八丁湖は水田耕作のために徳川時代に造成さ溜め池で、面積は約52,000平方メートルあるそうです。
この辺りは吉見町のハイキングコースになっていて、次に行くポンポン山へは、標識通りに進めば行けます!
山桜だけが僅かに咲いていました!
ここも至る所でタチツボスミレが満開!
八丁湖の1番奥まで来ました。ここから山の中の散策路に入ります。
山に入ると「黒岩横穴墓群」に着きます。ここは古墳時代後期~終末期に造られたと考えられる横穴墓群で吉見百穴のような横穴墓を少数ですが見ることができます。別名「十六穴」とも呼ばれるそうですが、実は横穴墓の数はもっと多く、総数は500基以上と推定され、吉見百穴よりも大規模な横穴墓群とのことです。大正14年に県指定の史跡となっています。
これはナガバスミレサイシンでしょうか?
山道をぽんぽん山を目指して進みます。
ぽんぽん山がある「高負彦根神社」に着きました!ここも延喜式神名帳に記載されている古社です。「髙負彦根神社」は、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列した神社で、武蔵国の班幣対象社四社の内に「横見郡高負比古乃社」として名前が載っているそうです。ただ中世以降は「玉鉾氷川明神社」と呼ばれていたそうです。かつては神社の鎮座する「玉鉾山(ポンポン山)」の真下を荒川が流れる水運の要所で、海洋貿易を盛んに行っていた渡来系ともいわれる「吉志氏」との関わりも推測されています。
髙負彦根神社とポンポン山の説明板です!
ポンポン山へは神社の裏から登ります!
「玉鉾山(ポンポン山」山頂はこんな感じの岩場になっています。標高こそ28mと超低いものの、秩父~奥武蔵~比企丘陵と続いてきた山塊のしんがりをつとめるに相応しい岩峰です。
ポンポン山の山頂標識です。ポンポン山の名前の由来は、岩山の頂上の岩盤を踏み鳴らすと鼓のようにポンポンと響くところから名付けられたそうです。
ポンポン山からの眺めです!
超うっすらと筑波山が見えます!
ポンポン山の下からの眺めです!低いながらも岩壁を備えています!
帰りは東松山駅を目指します。畑の中にあった満開の桜の木!これも何桜かわからず!
ダイコンソウがあちらこちらで大群落を作っていました!
比企丘陵の谷戸の道を行きます!
武蔵松山城入口に着きました!
入ってすぐ空堀がお出迎え!この城は遺構が非常によく残っています!
まずは曲輪4に着きます!
そしてまた深い空堀!曲輪と曲輪の間はこのような空堀で隔てられています。
三ノ曲輪に到着!
さらに空堀を越えて二ノ曲輪に到着!
最後に本曲輪に到着!後ろにあるのは八幡神社の跡のようです。「武蔵松山城」は基本的に小川町の奥の東秩父村の和紙の里を本拠地とした上田氏の城なのですが、上杉氏と北条氏の対立により、その時々の状況により、つく側が変わっています。天文6年(1537)には北条氏綱によって河(川)越城攻め落とされた「上杉朝定」の居城ともなり、また上杉謙信や武田信玄のものともなっていまます。
武蔵松山城の案内板です。2008年には、菅谷館、杉山城、小倉城など共に「比企城館跡群」の名称で国の史跡に指定されています。
本曲輪跡にある57.9mの三角点と西側の眺めです。
ここもタチツボスミレが満開でした!
松山城の裏側には「吉見百穴」があります。入場料とられるのと、時間的にどうせやっていないので、横目で見ながら通り過ぎます。この穴はおよそ1400年前の古墳時代後期の横穴古墳群で、全部で219個あり、国内最大規模であることから、1923年に国の史跡に指定されています。また景観がトルコの世界遺産であるカッパドキアによく似ていることから、日本のカッパドキアとも呼ばれているそうです。
吉見百穴の入口にある「岩室観音堂」は「龍性院」の境外仏堂で、弘法大師が諸国遊歴の際に、当地で観世音の尊像を彫刻しこの岩窟に納めて創始したという伝説が残っています。豊臣秀吉の小田原攻めで松山城と共に焼失するも、龍性院中興第3世・堯音法師が再興したということです。観音堂の懸造りの建物は2階に上ることができ、天気が良ければ奥武蔵の山々を一望することができます。
吉美百穴の穴は、空襲が激しくなった太平洋戦争末期の中島飛行機工場の「地下軍需工場」としても使われた歴史も持っているそうです。また戦後アパートとして住んでいた人もいたそうです。
市野川を渡って東松山駅に向かいます!
女子大の校舎のような東松山駅に到着!
他に選択肢がないので「餃子の満州 東松山駅前店」で遅い昼食にします!
いつもの「ダブル餃子定食」を頼みました!

