行程・コース
天候
晴れ
登山口へのアクセス
マイカー
その他:
岩殿山公園駐車場を利用(十数台可)
※簡易トイレは使用不可の状態
※作業関係車両(?)が数台駐車、登山者のと思われる車両は、この日の9時台で4台だった。
この登山記録の行程
登山口(09:35)・・・畑倉ルート登山口(10:30)・・・岩殿山(11:05)・・・天神山(12:30)・・・稚児落とし(12:50)・・・浅利川の橋(13:15)・・・浅利公民館前バス停(13:25)・・・大月駅(13:38)[休憩 30分]・・・登山口(14:18)
高低図
標準タイム比較グラフ
登山記録
行動記録・感想・メモ
下調べをあまりしていませんでした。
ことほどさように、この山行を甘くみていたわけです。
だって、
標高はわずか634m、
登山地図の色分けも「緑一色」、駅前の低山です。
せいぜい2時間程度でホイホイ下りて来られるから、
その足で2座めへ向かい、南側にある「菊花山」もついでに歩いちゃおう
などと軽く考えていました。
大間違いでした。
周回コース上にある「天神山」に向かう途中、行く手を阻むようにいきなり現れたのが「クサリ場」。
崖を見上げながら、これか!と絶句。
少し前のこと、この山渓サイトにその投稿があったことを思い出しました。
さて、どうアタックすべきか?
まずは狭いすき間に足先を入れて、と。
半ば鎖に体重を預けながら手を伸ばして「コの字」の杭をつかみます。
ちょっとずつ体を引き上げていきました。
そのハラハラ感は、直近で言えば「焼岳」の、あの垂直の梯子を登ったとき以来です。
https://www.yamakei-online.com/cl_record/detail.php?id=325264&preview_flg=1
一つクリアしたら、またかい。
今度は、垂直に下りなくてはいけない漏斗状。10mはありそうです。
まず、ストックを投げ落とし先に行っててもらい今度は自分。
木の根っこだかが飛び出しているのを掴み、そろりそろり。
こんな箇所があろうとは。
登山口に「今月になってクマが出た」との情報が掲示してありましたが、
それを補足するように「稚児落とし」に向かう登山道にありました、
彼が排出したものと思われる「黒いもの」が。
まだ柔らかそうな感じなのを3回も見ました。
どんぐりが沢山落ちていますから冬眠はしないか、先のようです。
いくつか案内標識を目にして、ようやく着いた「稚児落とし」。
断崖絶壁じゃん。
帰宅して「山のぼり」というサイトを見たら、
「淵から見下ろすこと事態が危険と隣り合わせ」と表現してて、見事なくらいそのとおり。
ぞくぞくしました。
引き続きサーフィンしていると
「稚児落し」にまつわる話が出て来て、以下引用して要約。
戦国時代、織田信長と武田勝頼との直接決戦を経て勝頼は自刃。
信長は武田軍の旗頭小山田一族を許すことはなく、城主信茂を処刑。
岩殿城に織田軍が攻め入り、信茂側室の千鳥姫が従者らと城落ち。
姫と信茂の遺児二人のうち一人は赤子で万生丸。
谷を見下ろす崖の淵にたどり着いたときに、万生丸が泣き出し、
織田軍に気づかれることを恐れた従者がそのまま赤子を谷下に、ということだそう。
そうせざるを得ない心のうちは察するにあまりあるものがあります。
ちなみに、廃城は1582年。
ふと、「大月市民で岩殿山を登る人の割合」はどのくらいか?と打ち込んでみると、
AIが答えて曰く
公式の統計データはなし。
散歩で登れる「気軽さ」と装備をして登る「本格的」の二面性のある山だと。
ナメてた訳が分かった気がしました。
追記
1.丸山公園に立ち寄りました。
駐車場からすぐ入口が現われて上がって行くと「ふれあいの館」。
館内には入りませんでした。
本市出身の山岳写真家 白簱史朗氏が撮影した、富士山の写真、大月市の昔の写真を展示。
2.昼食は駅前の「めん処かつら」で
前述のとおり、この山行を軽く考えていたので、携行食は「バゲット3切れ」のみ。
途中、1切れを口にしましたが、
下山したら町中華に入ろうと決めて、あとは水分補給のみで歩きとおしました。
3.浅利川橋脇の登山口が分かりにくい件
「稚児落とし」からしばらく下って行くと笹が茂る道となり、
民家の屋根が見えて来て、ようやく車道に出るところ。
登山道を案内する表示が出ていないので、
ここから登る場合は、ちょっとわかりにくいかも。





















