行程・コース
天候
曇り
登山口へのアクセス
マイカー
その他:
黒潮町役場の南西、スーパー「サンシャイン大方店」角の国道56号の信号交差点を北に折れる。
平成14年発行の地形図「土佐佐賀」に於いて、幅員3m以上の道路線が幅員1.5m以上の道路線に変わる地点のやや北西が登山口であるため、手前の三叉路角に駐車したが、更に手前の墓地公園の駐車場に駐車する方が無難。
この登山記録の行程
登山口12:30・・・杖立地蔵12:56・・・山伏峠への道と八丁山山頂への道との分岐13:10・・・現在地把握を誤り、山伏峠から240mピークを往復13:18~13:38・・・山伏峠への道と八丁山山頂への道との分岐13:44・・・八丁山で休止14:04~14:57・・・山伏峠への道と八丁山山頂への道との分岐15:13・・・杖立地蔵15:23・・・登山口15:43
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
[ドランクドラゴン塚地の先祖も越えた山伏峠]
2週間ほど前のNHKの「ファミリー・ヒストリー」をご覧になった方はご存知のことと思うが、塚地武雅の先祖は高知県黒潮町入野にあって、家の玄関先には土佐西街道兼遍路道の一里塚があった。そのことにより、先祖は明治期、塚地姓を名乗った。当主は代々左官の棟梁だったが、酒癖が悪く、よく喧嘩をしていたという。
その塚地先祖の屋敷跡はサンシャイン大方店北東角の四差路北側の道路西側。家の基礎が残っている。
尚、土佐西街道はジョン万次郎の他、坂本龍馬も16歳の頃、四万十川の堤普請での出張時に歩いている。
武雅の祖父家族は昭和10年、大阪に出て財を築いたが、昭和20年、当主の祖父が屋根から落下して仕事ができない身体になったため、家族は入野に帰郷した。帰郷後は祖母が家で食堂をして家計を支えたが、昭和30年代後半頃、再び大阪へと出た。
武雅の父は祖母たちより先に地元の高校を卒業後、大阪に出て就職し、結婚して武雅を授かった。
前に一里塚があった塚地家先祖邸跡の南側は前述の四差路になっているが、昔、そこは地元の交通の要衝で、山伏峠へと上る橘川古道が交差していた。その峠道と、古道から登山道が分岐する八丁山(287.8m)は平成15年、「八丁山古道保存会」によって整備され、当時、高知新聞等でも報道された。そのせいもあり、新・分県登山ガイドやヤマケイ「日本の山」にも収録されている。
この山は他の海岸に近いウルトラ・スーパー低山(標高300m未満の山を私はこう呼ぶ)同様、植生はシダと雑木が殆どだが、山頂は保存会によって樹木が伐採され、武雅の父や伯父・叔父たちが少年時によく遊んだ入野松原から太平洋が一望できる。
また、途中まで辿ることになる橘川古道は昔の往還だったこともあり、幅員が広く、最初の方は国土地理院の作図者も車道と勘違いして描いてしまったほど。
道を間違えやすい各分岐には道標が立てられている。ただ、その道標に於ける山伏峠の表記にはやや問題がある。道標の中には「橘川古道(山伏峠)」と書かれたものがいくつもあるため、場所によってはその道標が建つ地を山伏峠だと勘違いしてしまうケースがあるのである。実際、個人のホームページ等の登山コース図では、実際の峠の位置よりかなり南方の分岐に峠を表記しているものが見受けられる。
[コース]
登山口のすぐ上には木製道標が設置されている。
最初の内、道はシダに覆われがちだが、そのうち、幅員の広い参勤交代道並の道になる。
かつて木材や薪炭類の搬出道としても使用され、また、橘川地区の中学生の通学路だったこともあり、路面は踏み固められており、場所によっては踏圧で堀切道のようになっている箇所もある。
ある程度上るとまるで車道のような、大きく描く左急カーブと右急カーブが連続する箇所がある。荷車等の行き来を考慮したものだろう。てっきり地形図の標高140~150m地点に描かれたカーブだと思い、高度計をセットし直したが、後に八丁山山頂で高度計を見ると高度がかなりオーバーしていたため、この最初に現れる連続急カーブは、地形図に描かれていないカーブである可能性が高い。
平成14年の地形図では、その急カーブ北西で図が切れるのだが、地形図「蕨岡」に目を移す際、尾根と谷を見誤ったため、現在地確認ができなくなってしまった。これは老眼により、等高線が見辛くなっていることが影響している。故にコース図が実際とは異なる部分があるかも知れない。
後日、コースタイムのメモを見る限りでは、杖立地蔵の位置は標高170m地点の破線が南北になっている辺りか、若しくは標高200mの破線が北から西向きに変わる辺りだろう。
いずれにせよ、地形図が蕨岡に変わってほどなくして、実際のコースは破線のコースと分かれる。破線は支尾根の北側斜面を西に一直線に上がっているが、実際のコースはその支尾根の南側を比較的緩やかに上がっており、稜線に乗る地点も破線よりも南方になる。
稜線に乗って以降も橘川古道はピークや急勾配の尾根部分は避け、それらの箇所では尾根直下を極力緩やかに上っている。
八丁山山頂と山伏峠分岐に到ると、まず後者へと進んだ。塚地の先祖が隣村で仕事をする際、越えた峠でもあるからである。
相変わらず起伏の少ない道だが、途中、倒木帯があるため、枝をかき分けて通る必要がある。
山伏峠の現地の道標は根元が腐って倒れていた。やはり古道を恒久的に整備することは至難の業なのだろう。塚地武雅が高知県の観光大使にでもなり、毎年、一緒に歩くイベントでも開催すれば、古道保存会のモチベーションも高まることだろう。
現在地把握ができていないので、峠の位置も正確には分からず、そこから尾根を上がってしまった。高い所を目指せば八丁山に行けるのではないかと思ったからである。しかしピークに達しても三角点はない。ふと木の間越しに東方を見ると別の尾根が見える。そこで初めて、このピークは八丁山西の240mピークであることに気付いた。このピークと八丁山を繋ぐ尾根もあるが、見た所、下れそうなルートはない。そこで引き返すことにした。
八丁山分岐まで戻ると、道標の示す山頂への道を進むが、道はかなり東に振ってから西に向きを戻し、再度稜線に乗った。
そこから山頂までは地図で見るより遠く感じられる。
途中、二ヶ所ほど、足元の道脇に陸軍の蛸壺壕(一人用防衛陣地の竪穴壕)跡らしきものが確認されたが、更に進むと「旧日本軍陣地跡」の看板があり、そこにも蛸壺壕が残っていた。蕨岡地区にはある連隊の本部があり、南東の小川か早咲辺りの丘陵にも山砲連隊が展開していたため、この周辺の山域には壕が多いのである。それは入野松原が長い距離に亘って砂浜になっているため、米軍の上陸を警戒してのこと。
石積み祭壇のような箇所を上がると、そこは石造の観音立像が建立された展望所だった。眼下には塚地先祖邸跡のある入野本村の集落、そして入野松原から、火立場跡や防空監視哨跡のある遠見(149m)を擁す井の岬まで一望できる。
三角点は展望所のすぐ先にある。
武雅の父が大阪府泉大津市在住の頃、帰省した時に写真を撮った小島は今、防波堤によって陸続きになっている。
癌で亡くなった武雅の父は病院のベットの上で、何度も武雅に「もう一度故郷の入野の海を見たい」と言っていたという。
そんなことを考えながら太平洋を望見していると、曇っていた空が晴れてきた。
PS:塚地家の先祖邸跡や昭和20~30年代に居住していた家等についての記事は、今日中に自己のオリジナルブログにアップ予定。
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装備・携行品
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