行程・コース
天候
晴れ
登山口へのアクセス
マイカー
その他:
国道33号で越知町に入り、町の中心街を過ぎ、横倉山自然の森博物館の標識を見て左折。以後、「横倉山第三駐車場」の道標に従い進む。
この登山記録の行程
第三駐車場14:12・・・杉原神社14:20・・・安徳水14:30・・・安徳帝行在所跡14:40~14:45・・・横倉山三角点14:56・・・石切場跡15:25・・・星ケ滝洞穴15:50~16:11・・・田口社16:35・・・第三駐車場17:00ほど
※記録ノートは香川県の山で紛失しているため、タイムは正確ではなく、各史跡観察時間や小休止の時間も含まれている。また、稜線から石切り場跡、星ケ滝洞穴間は斜面の上り下りを繰り返しながら洞穴を探した。
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
[100回目の投稿は四国第二位の竪穴]
横倉山(横倉日向の嶽・玉室の嶽・日置の嶽とその周辺山岳の総称)は、日本列島形成に於ける重要な地層を擁す山で、地質学会では全国的に有名。また、花の百名山にも選定されている。山は古生代シルル紀からデポン紀(4億3千年前~3億6千年前)の日本で最も古い地層の一つが纏まってあり、かつては赤道付近に位置していた。それが気の遠くなる長い年月をかけ、現在地へと移動してきたのである。それだけに各種サンゴや三葉虫等の化石も多く含み、日本最古のコノドント(脊索動物の摂食濾過器官)の化石や、日本で唯一の筆石の化石も発見されている。
その特性上、各所に大規模な石灰岩も露出しているが、山域には「横倉山洞穴群」と総称される石灰洞が点在している。稜線に近い所では「平家穴」が有名だが、’00年代に入って町が作成した山のコース図には、三角点(774.3m)下方に星ケ滝洞穴(標高692m)が記されている。これは帰宅後(当日この洞穴の存在を知ったため)、自宅書庫で調べたところ、町史に掲載されている「横倉第二洞(仮称)」であることが分かった。
そこは4億年以上前のシルル紀の地層にあり、人一人が入れるほどの傾斜角約45度の竪穴で、深さは大野ヶ原の竜王洞に次ぐ四国第二位で52mにもなる。竪穴故、ケイビング装備がないと奥まで入洞できないが、入口から10m少々位は横穴であり、その区間だけはヘッドランプさえあれば誰でも探訪できる。平家穴よりは探検気分を味わえるだろう。
また、山中には宮内庁所管の安徳帝御陵参考地があり、各所に帝や従臣たちの伝承地や関連地名が残る。平家穴も平家の武器庫兼帝の緊急避難所として使用されていた遺跡で、洞内からは刀剣や槍等が出土している。
因みに当日は本来、平家穴を探訪予定だった。しかしその前に立ち寄った「越知の駅」(特産品販売所)で新しい横倉山のコースマップを見た際、この洞穴が記載されていたので、急遽変更した。が、コースマップは等高線も描かれていない簡易マップ故、洞穴を地図上で比定することは無理。そこで、そのマップに記されていた石切り場跡から三角点下方までを、斜面を上下しながらトラバースして探す「ローラー作戦」を行うことにした。体力は要すが、斜面を虱潰しに探すから確実に発見できる。当方のプロフィール画像である、海軍手結第二砲台も同様の方法で探し当てた。
余談だが、当日、越知の駅に寄ったのは、‘08年に高知放送で放送されたテレビアニメ「土佐むかし話」スペシャル『安徳帝四国潜幸説』エンディングテーマの「横倉の風」(新屋まり)のCDを取り寄せて貰っていたため。この曲が収録されたアルバムは新屋まりのホームページから購入できるが、シングルCDは越知町でしか購入できない。
尚、分県登山ガイド(旧版)では、横倉山の標高を800mとしているが(新版は未確認)、これは誤り。本に記載のコースの最高所は横倉宮で、宮を擁す玉室の嶽(馬鹿だめし)の標高は785m(森林基本図高度)である。
[コース]
第三駐車場隅に鳥居があり、ここが横倉山最短コース登山口となる。丸木階段も設置され、コースは遊歩道となっており、道沿いにはモミ、ユズリハ、カゴノキ等の自然林が豊富。
アカガシの大木もあるが、この横倉山のアカガシを主とした原生林は日本唯一とされている。
ほどなく、境内に杉の巨木・大木が立ち並ぶ杉原神社に到る。樹齢400~600年、樹高50m、幹周5~7mに及ぶ杉が何本かあり、天を突くかのように聳え立っている。
横倉山山頂(安徳帝崩御以降、玉室の嶽を指す場合が多い)に鎮座する横倉宮(上ノ宮)の摂社で、中ノ宮とも呼称される。文治3年(1187)8月、横倉山に行在所が完成し、安徳帝が潜幸された際、創建された。現在の社殿は明治17年に新築されたもの。
帝の潜幸ルートは諸説あり、それは帝の替え玉による偽潜幸が含まれているとも言われているが、町では祖谷から土佐の旧物部村に入り、大豊町、本山町、土佐町、大川村、旧本川村、仁淀川町の各山間部を経由し、旧仁淀村別枝の都行在所から移られたものとしている。
進路が南西から西向きに変わる手前だったと思うが、右手に広場と山小屋がある。その傍らには「武家屋敷跡」と記された標柱があったと思うが、この辺りの地名を「天ノ高市(たけち)」と言い、帝の従臣たちの屋敷が25軒あり、「別府(べふ)の都」と呼ばれていた。
一角には「安徳水」と書かれた道標もあり、それに従い、北西へ下って行くと、沢水が溜まった泉がある。帝に供した水と言われているが、これは後世に再現されたもので、環境庁の「全国名水百選」に選定されている。実際は沢の上流の行在所側にあった。
遊歩道に戻り、西進して行くと平安社(訪ねたと思うが記録してないので割愛する)分岐があり、そこから間もなく行在所分岐が現れる。左折して行った突き当たりには、一段高い平地が広がっている。何もないが、ここが行在所跡である。
行在所跡の南の山際から斜面を少し探ってみると、一角に長方形の小さな削平地があった。「何か」を納めた跡かも知れない。
再び遊歩道に戻り、西進を再開するとほどなく分岐があるので、ここを左折する。尚、直進すれば安徳帝御陵参考地から横倉山山頂・横倉宮に登る道がある。
これを上り詰めれば稜線コルの「青ぬたの十字路」に出る。この名称も以前のコースマップにはなかった。この稜線の尾根道も「四国のみち」に指定されているので、路面状態や道標の整備等、問題はない。
東に登ったピークが三角点のある箇所で、町が設置した山名看板もあるせいで、ネット等ではここを「横倉山の山頂」と記しているケースが多いが、歴史的に見るとそれは誤りであると言わざるを得ない。標高にしても最高所ではない。
近年の町が作成した各種コースマップや登山口周辺の林道沿いに建つコース図板には、三角点のやや東方から星ケ滝洞穴に下る道が記載されているが、これは恐らく横倉山自然の森博物館の学芸員が辿ったルートだと思われる。しかし実際には、今も昔もそのルートには道は存在しない。それに傾斜も急。
そこでマップで、洞穴の東方に記載されている石切り場跡へ下ってから、斜面をトラバースしようと思った。しかしいくら尾根道を東に進んでも石切り場跡に下りる道は現れない。このルートの道も元々存在しなかったのかも知れない。
遂に兜嶽の看板が建つ箇所まで下ってしまった。こうなれば、少し西に引き返し、適当な所から斜面を下りるしかない。
西に少し引き返した後、下りられそうな所から下りてみたが、斜面を下って行くと下方に歩道が見えた。急斜面故、1.5mほどの落差を飛び降りてその道に下りた。記憶が定かではないのだが、この道を西に進んだ終点に石切り場跡があったのか、この道が途中で途切れており、更に下方の踏み跡を探したのかは覚えていない。
とにかく、特に現地に標識はなかったが、石切り場跡に到った。岩盤から切出したまま、放置されている立方体の切石がいくつか見られる。
ここからは、斜面をある程度上下しながら西に移動して行き、石灰岩が露出している箇所を探す。地形図の等高線を見ても分かるように、斜面はかなりの急傾斜だが、藪は殆どないので、木々に掴まりながらトラバースして行く。
しばらく進むと前方に大規模な石灰岩が現れた。その岩盤の下部へと下りて行き、上を仰ぎ見ると、岩盤の東寄りに若干、岩庇状になっている箇所が見えた。その下に洞穴があるのではと思い、岩盤を登って行くと案の定、開口していた。しかし思っていたより穴は小さい。
早速、洞窟探訪用にしている、LEDビデオ・ライトをカメラシューに取り付け、入洞した。
開口部は細いが内部はそこそこの高さがあり、そんなに暗くはない。
少し進んで振り返ってみると、この横穴が東方向に偏心していることが分かる。40度以上傾いているのである。地殻変動によるものだろう。
入口から10m少々は横穴で、普通に立って歩ける。入口に近いこともあり、氷柱石や石筍等の鍾乳石はないが、確か、天井部には、大洲市の大川鍾乳洞に似た、二つに分かれたような空間があったと思う(記憶違いかも)。
写真を見る限りでは、壁面はライトが当たると星のように光る箇所があったようである。そしてそこにはカマドウマやヤスデが棲息している。コウモリは見られないが、それは奥が細い竪穴になっているからだろう。
探訪を終え、岩盤の西側から斜面を登って行くと、三角点の側に出た。ということは、星ケ滝洞穴があった場所は、地形図で標高680mから720m部にかけて描かれている岩マーク内だったことが分かる。だから本来、尾根道を東に進むことなく、三角点から直接斜面を下りた方が近い。かなり大規模な岩盤故、道がなくても簡単に探せるはずである。
帰路、行在所跡分岐西方の三叉路まで戻ると、その西側にあったと思う田口社に寄った。これは従臣の一人で、阿波の豪族・田口成良を祭ったもの(田口一族の祠だったかも)。この成良がいなければ、安徳帝の潜幸は不可だったとも言える。
元々平家方だった成良は屋島に一千の兵を送り、寝返って源氏方の味方をすると見せかけ、帝らを救出し、祖谷から土佐へと導いた一番の功労者。
その他、横倉山周辺山中には帝につき従ってきた従者88人を祭る祠があるとされているが、確認されているのは80基弱である。
♪とこしえの平安の世を願いつつ 谷を渡る風に 若き命散らした御霊
八百余年の来し方を 樹木は我が胸に語らんと♪(「横倉の風」新屋まり)
PS:ここしばらく、関西の山の山行記録を投稿していたので、中四国の記録投稿は久方ぶりです。
5月末、仁淀川町の庵沢山登山時(下山時)、くるぶし周辺の筋を痛め、一週間ほど、ギブスをつけていました。熾烈な藪漕ぎを要す無名峰登山は当分できません。登山自体再開はまだ先です。
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装備・携行品
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腕時計 | カメラ | 行動食 |
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