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竹沢二郎館跡~金勝山~吉野砦跡など

竹沢二郎館跡、金勝山、ゴリラ山、木部津島神社、吉野砦跡、木呂子吉野神社、勝呂白鳥神社、吉野家住宅、三光神社、笠原諏訪神社、原川駒形神社、笠原熊野神社、長尾四郎高勝墓( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山の手線→池袋→東武東上線→小川町→〃→東武竹沢

復路:小川町→花和楽の湯 小川町店→ギャラリーレストランエシカル→小川町→東武東上線→和光市→副都心線→渋谷→東急東横線→学芸大学

この登山記録の行程

東武竹沢駅6:44→雲龍寺・熊野神社(竹沢二郎館跡)6:50~7:00→慈光尊7:06→根岸山の大グミ7:12→金勝山東登山口7:15→第一避難小屋7:32→金勝山263.4m7:41→前金勝山7:49→裏金勝山7:55→小川げんきプラザ7:59→ゴリラ山8:08→西金勝山8:15→浅間山8:17→金勝山南登山口8:27→津島神社8:29→吉野砦跡8:52→吉野神社9:01→白鳥神社9:17→吉野家住宅9:29→三光神社9:45→慈恩寺9:57→安照寺10:08→駒形神社10:22→諏訪神社10:29→熊野神社10:42→長福寺(長尾四郎高勝墓)11:00→天神山(伝・長尾四郎高勝墓)11:12→小川町駅11:46

コース

総距離
約15.8km
累積標高差
上り約651m
下り約670m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

3月19日(土)は、色々と忙しくて2週間出掛けられなかったので、久しぶりに小川町の先の竹沢周辺の城跡などを回って来ました。前日大雨で天気がイマイチ確信が持てなかったので、今日はショートコースです。この辺りはあまり大したものはないので、ついでに未登だった「金勝山」にも登って来ました。

スタートは「東武竹沢駅」です。地図で見た感じだと駅の東側に川があるので、出入口は西側だけかと思っていたら東口もあったので、出だしから予定とは違うルートで出発です。

まず最初は「雲龍寺」と「熊野神社」に向かいます。この2つは隣り合っていて、「竹沢二郎館跡」と言われています。竹沢氏は武藏七党の児玉党の一族で、平安時代末期に児玉保義の五男「行高」が竹沢氏を名乗りここに館を構えたのが始まりだそうです。城主は竹沢二郎行高、竹沢三郎行定、竹沢右京亮良衝と続きますが、竹沢左近将監が「武州平一揆」に加わり、応安2年(1369)所領を没収され、竹沢郷は猪俣党の寄居を本拠地にしていた「藤田覚能」のものとなり、その後鎌倉の円覚寺に寄進されて円覚領となるそうです。また「竹沢右京亮」は畠山国清にそそのかされ、江戸高良や同冬長とともに「矢口渡し」で新田義貞の次男「新田義興」を謀殺した人物とされ、江戸時代中期にこの事件を題材にした平賀源内の浄瑠璃『神霊矢口渡』の悪役「竹沢監物」としても有名だそうです。

「雲龍寺」は曹洞宗の寺院で、嘉元2年(1304)に、後深草天皇に仕えていた竹沢左近将監が、この地に草庵を設けて開創したものであるという伝承が残っています。またその裏側にある「熊野神社」の南側には「竹沢二郎行高」の墓であるといわれている「五輪塔」があります。雲龍寺と熊野神社は最初に書いたように「竹沢二郎館跡」と言われていて、神社の右手にその跡地といわれる平坦地が残っています。ここにあった館は火災で焼失し、雲龍寺の場所に移ったといわれていますが、雲龍寺自体にも天正18年(1590)に大火によって焼失したという口碑が残っており、話がゴッチャになっている気がしないでもありません。

再び東武竹沢駅に戻り、金勝山登山口に向かうために線路を潜って西口に出ます。目の前に「慈光尊」という小さなお堂がありました。未チェックだったものの、説明書きに竹沢氏がどうのこうのと書いてあったので一応写真を撮っておきました。しかし家に帰って調べ直してみると、竹沢氏とは関係のないもののようで、この近辺に「慈光平」というときがわ町の名刹「慈光寺」の最初の鎮座地であるという伝承を持つ場所があり、そこを道路工事で掘り返したところ約600年前の供養塔(石碑)が発見され、これこそ慈光寺があった証拠ではないかと、約300年前の石仏2体と共にお堂を作って祀ったもののようです。

「金勝山東登山口」は「根岸山の大グミ」の少し先に大きな看板が立っています。看板を左折すると五叉路に出て、途中に低山らしからぬ避難小屋があるとのことなので「尾根コース」を登ります。この道は階段だらけの急登なのですが、山頂までの標高差150mぐらいしかないので意外と簡単に登れます。途中にある「第一避難小屋」は避難小屋というより、小学生のガイダンス施設のような造りで中に黒板があります。避難小屋からもうひと登りすると山頂手前の無名ピークに着いて、軽く下って最後岩場を登り返すと「金勝山」山頂263.4mに着きます。山頂手前の岩は「金勝山石英閃緑岩」とよばれており、断層によってその本体から切り離され北からやってきたペルム紀の根無し地塊だそうです。金勝山山頂は適度に木々が刈り払いされた場所で、小川町方面と奥武藏の山並みが良く見えます。

金勝山山頂からまず南に下り「前金勝山」をピストン往復します。ここからは「小川げんきプラザ」が良く見えます。

再び金勝山山頂に戻り、西に向かうと今度は「裏金勝山」があります。ここはたいした展望はありません。

裏金勝山から少し行ったところにあるのが「小川げんきプラザ」です。ここは山の上にある小川町の社会教育施設で、キャンプ場やプラネタリウムなどがあります。

小川げんきプラザの北側にあるのが「ゴリラ山」です。名前の由来は不明ですが「笠山」や「堂平山」がよく見えます。

小川げんきプラザに戻って、西から南に回り込むように進むと「西金勝山」と「浅間山」があり、みかんと梅の果樹園を回って下ると「南登山口」に出ます。

南登山口から八高線の線路を渡って西に進むと「木部津島神社」があります。ここは元は「天王さま」と呼ばれる雨乞いの神社だったらしく、干ばつ時には群馬県の榛名神社にお水をもらいに行っていたそうです。気づかなかったのですが、裏には天王池と呼ばれる貯水池もあるそうです。

津島神社を過ぎると、進行方向に「吉野砦跡」の小高い丘(御狐山)が見えてきます。ここは松山城の出城もしくは鉢形城の出城ではないかといわれている城跡で、城主は不明なのですが、松山城主上田案独斎の家臣でこの辺りを領有していた「木呂子丹波守」あたりが怪しいのではないかと推測されています。いずれにせよ、小川町から寄居町へ通じる街道が通っていたので、見張りのための城や砦があっても不思議ではない場所です。ただ問題は完全なヤブ山で登る道が見当たらないことで、しょうがないので休耕になっている畑の横から強引に登ると、まず東側のピークに上下二段になった平場のような物があり、上の平場と下の平場の間には人工の段差があります。ただ上の平場は近所の農家の放棄された別荘のようになっていたので、それを造った時に造成された物かもしれません。

続いて、昔は峠道が通じていたような鞍部まで下りて、ヤブこぎして西側のピークに登ります。こちらも山頂付近は西側と北側がするどく着れ落ちた結構広い平場になっています。ここに山城か砦があったとすると、一段高いここが本丸で東側のピークが二ノ丸、三ノ丸といった感じでしょうか。鞍部に堀切があった可能性もあります。吉野砦跡からの下りは、西側ピークの平場の片隅に送電線鉄塔があったので、その巡視路を使わせてもらいました。

吉野砦から西側に下った場所が「木呂子」の集落で、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣の「木呂子氏」の居館があったといわれています。集落の中心にあるのが「木呂子吉野神社」で、ここは鎌倉時代の作いわれる天満天神座像がある天神社があり、そこに明治に入って山神社・八王子神社・稲荷神社合祀し、吉野の里にちなんで吉野神社と名付けられた神社だそうです。また摂社として寄居方面に多い「天手長男神社」と「梅之宮神社」が祀られているとのことです。

吉野神社からひと山越えると、今度は「勝呂白鳥神社」があります。坂戸に居館のあった勝呂氏と関係のありそうな地名なのですがその記述はなく、ここは古くからマンガン・黄鉄鉱などを産出する場所とのことで、その採掘に関係のある神社のようです。創祀伝説に、「村内の谷津(現在の宇神山)で夜毎光るものがあり、村人は恐れおののき、近づく者もいなかった。ある時、当地を通りかかった一人の落ち武者がその話を耳にし、光の発する場所を掘り起こしてみると、十一面観音が現れた。ときあたかも上空を二羽の白鳥が舞い、掘り終わると同時に白鳥は向かい側の山の中腹に舞い下りた。武士と村人らはこの白鳥を神の使いと崇め、白鳥のとまった場所に十一面観音像を安置した」という話が残っています。また白鳥神社の創建には「増尾氏」が関わっており、増尾氏は勝呂村がその昔、猿尾庄を唱えていたころ、猿(ましら)から猿尾氏を名乗り、その系統から木呂子村を所領とした「木呂子氏」が出たそうです。増尾氏も木呂子氏も「畠山重忠」の後裔の一族であるといわれています。

白鳥神社から集落の中心に向かうと、平成元年に国の重要文化財建造物に指定された「吉野家住宅」があります。ここは、徳川吉宗・大岡越前守時代の享保6年(1721)に建築された県内最古の茅葺屋根の入母屋造の民家です。昭和59年の調査時、柱に貼りつけてあった「享保六丑歳霜月吉祥日」と記された祈祷札が発見され築年が確定されました。この民家を建設したときのであることがわかりました。現在は入館無料の古民家レストランのようになっており、地粉使用自家製たもぎうどん、炭火で焼いた田舎だんご、竹の香りと甘みがあるカッポ酒、田楽なども食べられるそうですが、残念ながら閉まっていました。コロナのせいかな?

吉野住宅からもうひと山越えると「三光神社」に着きます。ここは「竹沢氏」の子孫が建立したと伝えられている神社で、江戸時代までは「妙見社」といわれ北辰妙見大菩薩を祀っていた関係で、明治の神仏分離で神社に改名する際に、日・月・星を祀っていることから「三光神社」と称したようです。東秩父村安戸の身形神社に「妙見様は三姉妹で、長女は小川町木部の三光神社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されているので、妙見信仰は峠を越えて秩父から伝わったものだといわれています。またここにも「手長男神社」が末社として祀られています。

三光神社から谷戸を下っていくとある「慈恩寺」は臨済宗妙心寺派に属する寺院で、江戸時代は、現寄居町の泉福寺の末であったそうです。本尊は阿弥陀如来。

その先にある「安照寺」は天台宗の寺院で、ここも寄居町塚田普光寺の末寺だそうです。寄居は昔はこの辺りの文化的先進地区だったんでしょうね。門外の道路沿いにある砂岩に六地蔵を浮き彫りにした石幢は、この付近では例の少ない形式のものだそうです。

いったん広い道に出て回り込むと「原川駒形神社」と「笠原諏訪神社」が近接してあります。天正18年(1590)の松山城陥落の際、松山城にいた3人の家老の1人、「原川丹波守」が落ち延びて隠れ住んだのが当地で、後裔に当たる原川健家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、この当時の神体だったそうです。

「笠原諏訪神社」は、また別の信州諏訪から落ち延びて来た武者「小笠原内膳」が当地に住み着き、守護神として奉持して来た「建御名方命」の神体を祀ったことに由来するという神社です。小笠原氏は諏訪大社の神官家の家系ともいわれており、社紋も諏訪大社と同一の「穀」となっています。かつては寄居町白岩の諏訪神社と小川町奈良梨の諏訪神社と共に「兄弟三社」と称されていたそうです。

諏訪神社からさらに奥へ進むと、山の入口にもう1つ「笠原熊野神社」があります。ここも柑名桜井氏という信州方面から来た落人が創始した神社です。ただ創建に当たって修験の行者が紀州の熊野熊野本宮から持ち帰ったという白い石を神宝として祀ったという話も残っているので、修験道色の濃い神社だったようです。社殿の左手には石の金精様も残っており、その奥に御嶽塚もあります。

熊野神社からまたひと山越えると「長福寺」という天台宗寺院に着き、ここには「長尾四郎高勝墓」といわれる宝篋印塔が残されています。2つある墓の1つは高勝夫人の墓とも、上杉一族の菩提を弔ったものともいわれています。これは次に行く天神山から移されたものだということです。長尾四郎高勝に関しては上杉氏の一族ということしかわかっていませんが、康安元年(1361)に時の住職栄範法印と力を合わせて長福寺を再興したといわれています。

続いてその「天神山」に向かいます。ここは左右を川で削られた独立した小丘で、山頂付近には掘って造られた小平坦地と塚とも土塁ともとれる物が残っています。先程見た「長尾四郎高勝墓」はかつてこの一角にあったそうです。土塁や平坦地から長尾四郎高勝の居館があったとする説もあるようですが、あまりに小規模なので、戦乱の際に小規模なので砦が設けられた跡と考えるのが自然だと思われます。平坦地には下から道が続いているので、長尾四郎高勝を奉るお堂があったのかもしれません。

天神山から小川町駅に戻ります。駅に到着したのが12時前だったので今日も「花和楽の湯 小川町店」で汗を流して行きます。まんぼうも今週末までとのことで、今日はさすがに混んでるかなと思っていたら、昨夜の大雨と時間が早かったせいもあり、また空いていました。料金は1100円、ph10.0アルカリ性単純温泉です。

花和楽の湯を出たら小川町駅に向かいます。昼飯は武州めんとその向かいの中華屋は行ったので、小川町駅前に「小川カレー」の目立つ看板のある「エシカル」というというギャラリーレストランに入ってみました。ここは小川町産の野菜を使った半分自然食レストランのような店で、カレーはそのような店なので野菜がゴロゴロいっぱい入ったカレーを想像していたのですが、具のほとんどない全分ドロドロに溶けたアレルギーの人用のヴィーガンカレーのようなカレーでした。辛さもあまり辛くないです。個人的な好みとしてはスパイスのきいたインドカレーの方が好きなのですが、辛いのが苦手な人には良いかもしれません。なお食後にはコーヒーがつきます。

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登った山

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金勝山

264m

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最適日数
日帰り
コースタイプ
縦走
歩行時間
4時間
難易度
★★
コース定数
21
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