訃報・志鷹静代さん。温かい人柄で慕われた仙人池ヒュッテの「カーちゃん」
仙人池ヒュッテ志鷹静代さんが4月29日、病気のため他界した。93歳だった。昭和5(1930)年、富山県立山村(現立山町)宮路生まれで、芦峅寺の志鷹新正さんに嫁ぎ、長きにわたって追分小屋、仙人池ヒュッテの運営に尽力した。富山県警山岳警備隊時代から関わりの深かった阿曽原温泉小屋の佐々木泉さんに、静代さんの思い出をつづってもらった。

仙人池ヒュッテの「カーちゃん」こと志鷹静代さんがお亡くなりになられました。
私が阿曽原の経営を引き継いで30年余経ちますが、現役の山岳警備隊員時代からの付き合いを足せば、40年以上前からの付き合いになります。
仙人谷コースの草刈りに登っていったときや、全国初のグリーンワーカー制度の工事で泊まり込んで仙人池一帯の整備を行なった際には、食事だけではなく洗濯まで引き受けていただきました。北方稜線での遭難救助時には、夜遅くまで小屋の明かりをつけて待っていてもらったことも。梅雨末期の大雨で剱沢二股の吊り橋が流失した際には「アンタら橋直しに来てくれん?」と連絡が入り、阿曽原スタッフの“大仏”たちと仮設の橋を架けに行ったことなど、連携を取りながら山小屋運営を行なってことたことが思い起こされます。
「カーちゃん」のなにげない連絡で、登山者を早期に救助することができたこともありました。
朝一の電話で「今日は、スズを転がしたような?女の子が一人向かわれました~」という一報が入ったのですが、夕方になっても到着しないので、心配になって大仏が仙人温泉下部の支沢まで様子を見に行ったところ、倒れている女の子を発見して連れて帰ったことがありました。現場は崩壊が続いていて、きちんとした迂回路も作ることができず、頭を抱えていたポイントでした。
彼女は現場を通過する際に自然落石に当たって、その場で倒れて数時間気を失ってしまったようでした。大仏に発見され、介助されながら阿曽原まで下りてくることができましたが、あの当時は宿泊予約もない方が行き来しており、カーちゃんの連絡が入ってなかったらと思うと・・・。この事故がきっかけで、コース変更に本格的取り組んで「雲切新道」の伐開に繋がったのでした。
またある時は「イズミさーん、今日向かわれるお客さんがカレー食べたいって言っておられまーす」と遭難対策無線で言ってこられて・・・警察本部に筒抜けではないかとヒヤヒヤした覚えがあります。
どちらのケースも、カーちゃん流のおもてなし、サービス精神からの連絡であったのだろうと思います。
毎年仙人池ヒュッテの営業が終わると、阿曽原までスタッフと仙人谷コースを下りてこられました。阿曽原小屋では、毎年お疲れさまの意味を込めて、お年寄りでも食べやすいであろうと「おでん」を作って待っていたのですが、ある時「歳とってくると、歩いて降りて来るのは大変でしょう?下げ荷とヘリコプターに乗せてもらえばどう?」って話したことがあります。
しかし、カーちゃんは「一年に一回くらいは、お客さんの苦労を味わわないと」。心の底から「登山者思いの方」なのだと感心したことがありました。
ご冥福をお祈りいたします。





