【養老孟司が教える】「同じ自分」でいれば、飽きるに決まっている

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「ただ面白いから一日中、虫を見ているだけ。そうしているうちに、なにかがわかってしまう」(本文より)。 大の虫好きとして知られる養老孟司先生が、長年、虫と自然に教わってきた世界の見方、生き方のヒントとは――? 好評発売中のヤマケイ文庫『養老先生と虫』から、一部を抜粋して紹介します。

文=養老孟司、写真=伊藤弥寿彦

ファーブルはなぜすごい?

ファーブルの『昆虫記』は九十歳を超える一生の中で虫を見てきた記録である。これは凄いと思う。生活費も稼がなくてはならなかったのだから、虫だけ見ていたわけではない。ファーブルみたいな人がいたということが、虫が見るに値することの証拠になる。

ファーブルはまさに「この道一筋」の人だった。この慣用句は、一生同じ会社に勤めていた、というような意味ではない。「この道」というのは、あまり目立たない、地味な仕事という意味であろう。でも、それを一生、ひたすらやっていた。それがどうした。

その大前提は「人は変わる」ということである。現代社会では、人はどこまで行っても「その人」である。だから、名前も一生変わらない。でも、秀吉の時代なら、日吉丸から始まって、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉から「てんか」になった。名実ともに「人は変わる」ものだったのである。それは、地味な仕事を一生やっている職人だって同じである。

そんなに「人は変わる」のに、相変わらず虫を追いかけている。それができるということは、虫はそれだけやり甲斐のある仕事だ、ということを示す。「この道」は一見、地味でごく限られた世界に見えるけれども、じつは一生を懸けるに値する。そういう意味だと思う。

なぜ、毎日がつまらないのか

ところが、現代人の前提は「同じ自分」だから、そんなことを思いもしない。自分がいつも同じなら、同じことをやっていれば、飽きるに決まっているではないか。でも、自分が変われば、同じことが違って見える。

時代の前提に逆らう説明って、面倒ですよ、ねえ。ときどき若い人が「退屈だ」という。退屈なのは、どこまで行っても「同じ自分」で止まっているからである。「同じ自分」だったら、外の状況を変えるしかありませんよね。

じつはそれは大変に面倒で、エネルギーがいる。だから、なにもしないで、引きこもって、ネットの画面を見るのがせいぜい、ということになるのであろう。とりあえずネットなら、相手がどこか部分的には変わっていくからである。

でも、虫採りは違う。同じ山に虫を採りに行ったらわかる。なぜ、同じところに行くのかといったら、そのつどいる虫が違うからである。同じ虫もいるけれど、違うのもいる。こんなもの、こんなところにいたか、と思うような虫が採れる。

中・高校生のころ、国立科学博物館にいらした黒沢良彦先生にお世話になった。たまに珍しいと思う虫を持っていくと、「よく採ったね」といわれるのが口癖だった。先生にそういわれた虫は、いまでもすべて覚えている。思えばしかも、その後二度と採っていない。さすがにプロである。珍しい虫は専門外でもちゃんとわかっておられた。

それだけではない。山は行くたびに気分が違う。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。鐘は剛体である。剛体は固有振動数があって、叩けば同じ周波数で振動する。つまり、同じ音がする。じゃあなぜ、諸行無常なんだ。聞くほうの気分が、そのつど違うからであろう。

現代人は、「同じ自分」が備えているある範囲の気分があって、いまはそのどこかの気分に陥っている、と想定する。だから、いずれまた「同じ気分」が戻ってくるはずである、と。でも、人が変わるという想定をするなら、「同じ気分」なんかない。徹底して諸行無常である。すべての時は、違う時である。だから、一期一会。

虫に教わったこと

情報は時間とともに変化しないものを指す。そういうものは、じつは意識の中だけにしかない。現代人は意識中心で、自分自身を情報と見なすから、「同じ自分」になってしまう。意識で世界を扱おうとすれば、「同じ」になって当然である。意識は「同じというはたらき」といってもいいからである。

現代社会は意識が作り出したもので埋め尽くされている。だから、ゴキブリが許せない。ゴキブリが嫌いなのは、チンパンジーだって同じだから、しょうがない。でも、あそこまで憎むことはないでしょ。その憎しみの根本には、ゴキブリはヒトの意識が作ったものではないという暗黙の背景がある。

意識が作らなかったものは、「なにをするか、わかったものではない」のである。そういうものは撲滅しようとする。それが現代。そんな話は、ちっともわからない。そう思うなら、あなたは現代人だというだけのことである。

長年虫を見ていて、このようなことを私は教わった。虫が私に説教したわけではない。いつの間にか、そのように考えるように「なってしまった」のである。むろん、それが正しいとか、そう思うべきだ、などとは思っていない。私はそう思うようになった、というだけのことである。ここで「虫」と書いたことを、「自然」と置き換えても同じである。でも、自然は抽象的な言葉で、その分意味がぼけてしまう。私の場合には、だからやっぱり虫なのである。

※本記事は、ヤマケイ文庫『養老先生と虫』を一部抜粋したものです。

吉阪隆正+U研究室 山岳建築

養老先生と虫
~役立たずでいいじゃない~

長年、虫と自然に教わってきた世界の見方を明解に楽しく語る養老孟司流の生きるヒント。虫に憑りつかれた面々が虫好きの楽園・ラオスに集った命がけの採集記も収録。

養老孟司
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プロフィール

養老孟司(ようろう・たけし)

1937年生まれ。解剖学者。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得ている。大の虫好きとして知られ、現在も昆虫採集・標本作成を続けている。『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞受賞。著書に『バカの壁』『死の壁』(以上、新潮新書)、『唯脳論』(ちくま学芸文庫)、『まる ありがとう』(西日本出版社)、『養老孟司の人生論』(PHP文庫)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など多数。

note「ヤマケイの本」

山と溪谷社の一般書編集者が、新刊・既刊の紹介と共に、著者インタビューや本に入りきらなかったコンテンツ、スピンオフ企画など、本にまつわる楽しいあれこれをお届けします。
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