【養老孟司が教える】ハチに刺されて意識朦朧で感じた「脳の不思議」

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「ただ面白いから一日中、虫を見ているだけ。そうしているうちに、なにかがわかってしまう」(本文より) 大の虫好きとして知られる養老孟司先生が、長年、虫と自然に教わってきた世界の見方、生き方のヒントとは――? 好評発売中のヤマケイ文庫『養老先生と虫』から、一部を抜粋して紹介します。

文=養老孟司、写真=伊藤弥寿彦

アシナガバチの攻撃

ラオスでの虫採りは今日で終わりということで、再度プーヤンに行った。最近開いた尾根道がよさそうだったが、前回は天気が悪かったから、短時間しか採集できなかったのである。もう戻ろうかという時間になって、道ばたの草むらを叩いたら、あっと思う間に額をやられた。アシナガバチである。

痛みは大したことはない。ところが、時間にしたら一、二分後には、景色が変わりだした。同行の伊藤君が刺されたとき、すぐに「景色がよくなった」といっていたが、その通りである。コントラストが上がって、明るく、キラキラ輝いているように見える。それがどんどん進んで、なんと空は真っ白く明るく、山は真っ黒く暗くなった。景色がいいどころか、白黒映画になった。

同時にはなはだ気分が悪い。立っていると、吐きそうな気がする。しょうがないから、車に這いずり込んで、座席に横になった。今度はそれまでケムシにやられていた場所が猛烈に痒くなる。暇な時間に数えたから知っていたのだが、カシにつくケムシにやられた場所が五十五カ所あって、それが全部、猛烈に痒くなった。

それからマツケムシにやられたところが一カ所、これも痒い。それを掻きむしると、みんなが掻いちゃダメだという。でも痒いものはしょうがないのである。そうしたら、それぞれが痒みの薬を出してくれた。やっぱりみんな薬を持っている。虫採りでケムシにやられるのは、避けられない事故だとわかっているからであろう。

なにが起こったのか。まさにアレルギー反応である。このハチには、以前にもラオスで刺されたことがある。二回目になると、二割足らずの人がアレルギー性のショックを起こすことがある。これをアナフィラキシー・ショックという。

このハチは道ばたの茂みに巣を作っていて、それが見えない。だからつい近所を叩いてしまう。それをやると、見張り番の数匹がいて、あっという間に刺しに来る。相手は自衛上だから、文句もいえない。日本のアシナガバチやスズメバチ級の巣だと、見通しのいいところにあって、避けられるのだが、ラオスのアシナガバチの巣は茂みの中で、あらかじめ巣が見えないことが多いから、こういう事故に遭う。

幻覚がはじまる

痒くなったのは、アレルギー反応でヒスタミンが放出されたからであろう。これが痒みのもとなのである。景色が変わったのは中枢症状で、こちらはアレルギーが関与しているのか、単なるハチ毒の成分による中毒なのか、わからない。たぶん複合作用であろう。

車で四十分ほど、プークンの宿に入って、ベッドに横になった。宿に着いたときは、立ち上がるとまだ吐き気があって、ちゃんと立って歩く気がしない。抱えられてベッドに横になったら、天井の電気の笠のなかに、虫がたくさん溜まっている。「あそこに虫がたくさんいる」と指さしたら、若原君の奥さんに「あれは笠の模様です」といわれてしまった。

しばらくしてかなり具合がよくなったので、見ると机の上に灰皿がある。タバコを吸おうと思って、ベッドの脇にいてくれた若原君に、灰皿をとってくれといったら「どこにある?」と訊く。「机の上にあるじゃないか」。そんなものはじつはなかった。あったのは私のメガネだけ。メガネが灰皿に見えたのである。

ハチに刺されてから、最後まで残ったのは、見るものが「欲しいものに見える」という症状である。こういう医学的な症状はあまり聞いた覚えがない。ケムシにやられて痒かった部分がさらに痒くなったことと同じだとすれば、私の脳は、見ているものを自分の都合のいいように解釈する癖がある、ということになる。ハチのおかげでそれが昂進したわけである。

これを最後に、約四時間後に、体調はほぼ戻って、吐き気も収まり、普通に動けるようになった。アナフィラキシーでは平滑筋が収縮して、気道が狭くなり、呼吸困難が起こることがある。あるいは血圧が急激に下がっていわゆるショックを起こす。私の場合には、そういう極端な症状は出なかった。ただ、気分が悪いだけではなく、どうも意識状態が低下していたという気がする。なぜなら車で運ばれた四十分の記憶がかなり曖昧で、残っていないからである。

ハチの思惑、ヒトの業

自分なりに考えをまとめてみると、ハチに刺されて起こったことは、結局は行動の抑制だったのではないか。なにしろ気分が悪くて動きたくないし、風景がまともでなくなるのだから、そんなところで動きたくない。ハチにしてみれば、相手が動かなくなってくれればいいのである。

呼吸困難や急激な血圧低下はむしろ刺された側の身体の過剰反応である。これも結果的には相手の動きを止めるが、直接ではない。ハチが刺す本来の目的が巣の防御だとすれば、ハチに刺されてこちらの行動が抑制されるのが、いわば「まともな」反応であろう。ハチだって、相手を殺そうとまでは思っていないと思う。

ただ、ヒトというのは性悪な動物で、せっかく見張りがちゃんと働いて相手の行動を抑えたのに、その付き添いがなにをしたかといえば、ラオス在住のゴンさんは相変わらず巣を拾って、ハチの子をその場で食べてしまったのである。

※本記事は、ヤマケイ文庫『養老先生と虫』を一部抜粋したものです。

吉阪隆正+U研究室 山岳建築

養老先生と虫
~役立たずでいいじゃない~

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プロフィール

養老孟司(ようろう・たけし)

1937年生まれ。解剖学者。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得ている。大の虫好きとして知られ、現在も昆虫採集・標本作成を続けている。『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞受賞。著書に『バカの壁』『死の壁』(以上、新潮新書)、『唯脳論』(ちくま学芸文庫)、『まる ありがとう』(西日本出版社)、『養老孟司の人生論』(PHP文庫)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など多数。

note「ヤマケイの本」

山と溪谷社の一般書編集者が、新刊・既刊の紹介と共に、著者インタビューや本に入りきらなかったコンテンツ、スピンオフ企画など、本にまつわる楽しいあれこれをお届けします。
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