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勝峰山と平将門伝説ほか

穴沢天神社、真光院、深沢屋敷跡、真藤ノ峰、深沢山、勝峰山、幸神神社、岩井院、勝峰神社、将門(間坂)峠、通矢尾根、天王山、大久野白山神社、上羽生家、清願寺、伊奈沢天神社、阿伎留城跡、三内神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→新宿→中央線→立川→五日市線→武蔵五日市

復路:武蔵五日市→五日市線→拝島→青梅線→立川→南武線→武蔵小杉→東急目黒線→武蔵小山

この登山記録の行程

武蔵五日市駅6:24→穴沢天神社6:47→真光院7:06→深沢屋敷跡7:08→送電線巡視路入口7:20→新所沢線16号鉄塔7:43→〃17号鉄塔(登山道合流)500m7:52→真藤ノ峰543m8:00~05→深沢山・勝峰山分岐(450m)8:37→深沢山(460m)8:43→勝峰山(454.3m)9:00~10→勝峰山登山口9:41→幸神神社10:46→新井薬師堂10:02→岩井院10:12→勝峰神社10:19→間坂(将門坂)入口10:27→間坂峠(檜山路峠)10:34→通矢尾根→331m峰10:50→天王山351m(新井八坂神社)11:01→大久野白山神社11:09→油屋地蔵尊11:33→清源寺・伊奈沢天神社・上羽生家11:41→林道入口12:10→三内神社登山口12:22→阿伎留城跡(三内神社本社・天竺山)12:30~40→三内神社里宮11:49→武蔵五日市駅13:00

合計6時間15分(休憩除く)

コース

総距離
約18.7km
累積標高差
上り約1,030m
下り約1,030m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

3月27日(土)は、平将門伝説の残る「勝峰山」とその周辺の五日市憲法の「深沢屋敷跡」などの行き残していた史跡をまとめて回って来ました。

奥多摩や秩父には平将門伝説が結構たくさん残っていて、これは必ずしも滑稽無糖な話ではなく、たとえば武蔵武士団で最大勢力を誇った「秩父党」の初代の「平将恒」は、武蔵介・平忠頼と平将門の次女・春姫との間に生まれ、名前の「将」の字も将門からもらったと言われています。また「天慶の乱」では忠頼は将門側を支持していたので、敗退後、残党が忠頼を頼って秩父方面に流れて来て、追手と戦闘を繰り広げたとしても不思議ではありません。

奥多摩にも青梅に平将門の子孫を名乗っていた「三田氏」という豪族がいるので、隣の五日市に将門伝説が残る山があってもおかしくはないです。

五日市駅で電車を降りたら、駅の下をくぐり深沢川を遡ってまず最初に「深沢屋敷跡」に向かいます。

その途中にあるのが「穴沢天神社」です。ここは深沢村の鎮守で、延喜式内社の「穴沢天神社(穴澤神社/穴沢神社)」の論社になっている神社です(他の論社は、国立の谷保天満宮、稲城の穴澤天神社など)。そのわりには小さな神社で、名前の由来も昔は棚澤天神と称していたが、実は穴澤を誤ったものだったというなんとも頼りないものです。他の2つに完全に負けているのですが、気になっていたので今日寄ってみました。

続いて深沢屋敷のすぐ隣にある「真光院」にも寄って行きます。ここは臨済宗建長寺派の太田道灌が開基と伝えられるお寺です。道灌が江戸城を築城する際に深沢から多くの木材を搬出したのため、お礼に大旦那になってくれたというのですが、太田道灌は享徳の乱でこの辺りを納めていた大石氏と敵対関係にあり、途中から手を結ぶのですが、どこまで信じられるかわかりません。ただ道灌に破れた大石氏が罪滅ぼしに指示した可能性はあります。

そして「深沢屋敷跡」です。ここは「五日市憲法」が発見された場所として有名なのですが、すでに建物は取り壊されて無く、門と土蔵だけがしか残っていません。五日市憲法は、深沢村の代議士で後に自由党入りした「深沢権八」を中心に結成された五日市学芸講談会の有志と宮城県出身で戊辰戦争残党のような経歴を持つ五日市勧能学校教師の千葉卓三郎が中心となって起草した私擬憲法草案で、1968年、色川大吉の学生新井勝紘によって深沢家の土蔵から発見されました。別名を「日本帝国憲法」といいいます。紛らわしいですが「大」はつきません。全204条からなり、そのうち150条が基本的人権について触れているという先進性を持つものの、一方で、天皇の権限は議会よりも強く、軍隊の統帥権を始め、国会に諮ることなく条約を締結できるといった規定もあり、「進んだ人権保障、遅れた統治機構」との批判もされているそうです。まあ元尊皇攘夷の人が作ったのだから、その辺が限度でしょうとは思うのですが、明治時代、生糸輸出がもたらす莫大な富が、多摩地区に様々な新進気鋭の文化を生み出したわけですね。

深沢屋敷跡から「勝峰山」までは登山となります。地図には出ていないのですが、深沢屋敷跡から少し奥に進んだ民家の庭先を通る林道から「送電線巡視路」が稜線まで続いていて、それを「新所沢線16号鉄塔」→「〃17号鉄塔」と辿って行くと、稜線の登山道に合流することが出来ます。道はしっかりしているので迷う心配はありません。

稜線に着いたら勝峰山とは逆方向なのですが、近いので「真藤ノ峰」543mに寄って行きます。植林の中の手書きの標識しかない山頂なのですが、昔は無かった日の出町の有志が建てた標高が記された樹脂製の杭が立っていました。これはこの日行ったいたる場所に立てられていました。ここでしばし休憩。

寄らなくてもいいのですが、一応「深沢山」460mにも軽くタッチして勝峰山に向かいます。登山道の様子ですが、数年前に来た時に比べて落ちた枝などのゴミが格段に少なくなっており、歩きやすくなっていました。コロナでこの辺りのやぶ山は意外と人気だったのかもしれません。

そして「勝峰山」454.3mに到着しました。小さな園地のようになっている山頂付近は変わらないのですが、こちらも荒れている感じだったのが、きれいに整備されていました。

「勝峰山の将門伝説」は次のようなものです。

天慶2年(939年)の暮れ、平将門は藤原秀郷らに追われ、勝峰山に立て籠もった。 秀郷軍3000に対し、将門軍はわずか400であった。年が明け、秀郷軍は勝峰山を攻めあがるも、将門は3mもある金棒を振り回して奮戦し、敵陣がなかなか落ちないのに業を煮やした秀郷は、持ち前の強弓で将門めがけて矢を放った。矢は将門の鎧をかすめて谷を越えて対岸の尾根の向こうへ飛んでいった。これが「通矢尾根」の名の由来である。将門は戦況我に利有らずと判断し、勝峰山を下り、間坂(将門坂)を越えて青梅方面へ遁れたという。青梅に入った将門は「金剛寺」に立ち寄り、手に持っていた梅の枝を地面に突き立て、「我が志成るものならば根付け」と唱えた。すると梅の枝は立派に根付き、やがて花が咲いたが、梅の実はいつまでたっても青く、決して熟すことがなかった。これが「青梅」の地名の由来である。

「平将門」は、常陸国(茨城県)で、父良将の死後、土地の相続を巡る叔父国香との衝突に端を発し、天慶2年(939年)、 ついに常陸国府を襲撃して「天慶の乱」を起こし、自らを「新皇」と称して朝廷からの独立を宣言するのですが、本人の活動域は関東の東側に偏っていて、奥多摩や秩父に来た形跡はないのですが、それでも最初に書いた平忠頼のように支持勢力は関東全域にいたわけで、奥多摩や秩父で個別の戦闘が行われたり、残党狩りがあっても不思議ではないので、将門陣営の戦いが長い年月で変質し将門本人の戦いとして伝えられるようになったのかもしれません。

そう考えながら勝峰山の展望台から東を眺めると、下に広がる街並みが五日市か日の出かの違いはあれど、先週登った「戸倉城山」に非常に良く似ていることに気づきました。どちらも盆地を見下ろす一番市街地寄りの山なのですね。勝峰山に城があったという記録はありませんが、物見台程度は置かれていたような気がします。

勝峰山から林道で下まで下ります。下りきったすぐ近くにあるのが「幸神神社」です。ここは幸運の女神様でも祀っている神社かと思っていたのですが、京都の出雲路幸神社を勧請した神社で、この出雲路幸神というのは、元は加茂川畔に祀られていて、幸神は「さいのかみ」と読む、つまり塞の神=道祖神だったということが判明しました。それでも恋愛にご利益があるそうだから、まあ問題ないか。

幸神神社の前の自治会館のところに「大久野駅」という「五日市鐵道」の駅がありました。JR五日市線は元は勝峰山でとれる石灰石を運ぶための鉄道で、終点は武蔵五日市駅ではなく、勝峰山山麓にある「太平洋セメント」の採石場にありました。

続いて行く「新井薬師堂」は中野の新井薬師とは特に関係なく、昔は裏の山にあった日光、月光菩薩を従えた薬師如来像が祀られているそうです。この近くに新井屋敷跡とか平山屋敷跡とかがあり、大久野七騎(和田、羽生、清水、小山、田中、野口、浜中)とった武士集団がいたらしいのですが、調べても場所がわからず、まあ行っても畑か住宅になってるだろうからどうでもいいんですが、この薬師も関係している可能性大で、しかし明治15年(1882)に「大久野焼け」という大火災があり、この辺りの神社仏閣はは軒並み過去の記録を失っているので何もわかりません。

でも土豪の居館跡がこの辺りにあるならば、すぐ真裏の勝峰山は詰め城として使われていても不思議ではありません。

続いて「勝峰神社」とその元別当寺であった「岩井院」に向かいます。その途中で先程言った「太平洋セメント」の採石場の前を通ります。五日市鐵道の終点の「武蔵岩井駅」は地図で見ると正門を通りすぎて緩やかなスロープを登った上の白い建物のある辺りにあったのではと考えられます。

さて「岩井院」です。将門の政庁があった茨城の岩井と同じ字を使いますが、イワイではなく「ガンセイイン」と読むそうです。曹洞宗で勝峰山と号します。このお寺は最初、江戸時代に「子の大権現」で流行神になったのですが、その伝承が吾野の子ノ権現にあまりに似ているため、起訴を起こされ、敗訴後に「勝峰山の将門伝説で再起を計ろうとした」、要するに勝峰山の将門伝説を世に出した張本人です。今熊山と同じやり方です。かつては平井川の対岸の勝峰山麓にあったらしいのですが、石灰岩の採石場が出来たため、今の場所に移ったとのこと。

別当寺岩井院の開山の「勝峰神社」も子の聖と同体である倶毘羅大将を祀る「子ノ権現社」と称していたそうで、敗訴後、平将門の守り本尊の黄金像を勝峰山上に安置して、「勝峰権現社」に社名を変更したとのことです。

勝峰山の伝説は、岩井院によって敗訴後に創作されたものという見方もありますが、全部創作かというと、ほかにも奥多摩や秩父に数多くの将門伝説が存在するのは事実なので、そうとも言い切れず、難しい問題です。ちなみにここの氏子は将門調伏を行った成田山には参詣しないそうです。

勝峰神社から少し上流の方に行ったところから「通矢尾根」に登る道が「間坂」(まさか)です。将門が青梅に逃亡した道と言われていますが、宛字の可能性大です。この道は歩行者専用の山道だと思っていたのですが荒れた林道でした。通矢尾根の東側を通っている林道に抜けることが出来ます。

間坂の通矢尾根を越える峠が「間坂峠」(将門峠)なのですが、先程登った勝峰山の道に標識を設置したのと同じ地元の有志の方の「檜山路峠」と書かれた杭が設置してありました。現在はそう呼ばれているのかもしれません。その杭の上に切通しを登るトラロープがつけられていて、それを使って通矢尾根上に登ります。ここは道が無ければ林道を行くつもりだったのですが、地元の有志の方によってバリエーションルートが整備されているようです。

「通矢尾根上のバリエーションルート」は、いかにもバリエーションルートといった感じの踏み跡程度の道なのですが、随所にテープがあり、変な枝道もありませんので迷う心配なく進むことが出来ます。縦走路を少し外れた「331mピーク」にも先程と同じ、標高を示した杭がありました。

「通矢尾根」のバリエーションルートは「天王山351m」で終わりを告げます。天王山山頂には大久野白山神社の奥の院のような「新井八坂神社」があり、ここから先は良く踏まれた参拝用の山道となります。参拝用の山道をしばらく進むと、通矢尾根の東側を通ってきた林道に出て、目の前に「大久野白山神社」の裏口があります。

「大久保白山神社」は、加賀の白山と同じ「泰澄」によって創建されたというあまり信じられない伝承があるのですが、まあ普通に加賀国白山比羊神を勧請し創建した神社だと思います。ここには檜原城の「平山氏重」の墨書(貞治5年)がある大般若波羅密多経が残されていて、日の出町指定の文化財になっています。神社は通矢尾根の南の突端にあるので、少し下った場所にある社務所のところから
の眺めが良いです。

白山神社から林道を下って、日の出町市街地の一番奥まった場所にある「羽生地区」に入って行きます。ここには「西党・平山氏の子孫」を名乗る「羽生家」の人々が豪壮な屋敷と共に今でも暮らしています。羽生家で行われている先祖祭りは、「羽生平山大権現」の幟旗を掲げ、平山氏の後裔であることを宣言するとともに、血縁的つながりを確認する重要な行事とのことです。

「油屋地蔵尊」の裏の「ヒメザゼンソウ群生地」がやっぱり咲いていないのを確認して(開花は水芭蕉とは違い6月とのこと)、平井川沿いを上流に進むと、「清源寺」「伊奈沢天神社」「上羽生家」がひとまとまりになった場所に着きます。ここが西党・平山氏の子孫が住む「羽生の里」の中心地です。「清源寺」は羽生一族の菩提寺で、「伊奈沢天神社」は菅原道真を祀る天神さまであると同時に養蚕の神様と言われていますが、羽生家の先祖祭はここで行われるので、実質的には羽生家の祖先である平山氏の霊を祀った神社であるのだと思います。「上羽生家」の屋敷は塀で囲まれた蔵が幾つもある非常に豪荘なものでしたが、残念ながら今は誰も住んでいないようでした。さらに横沢入の山の方に入って行った場所に「平山大権現」の祠か何かがあるらしいのですが、道が見つからず、人の家の庭と畑だけで奥に立ち入ることが出来ず、探索は断念。

羽生の里から武蔵五日市の駅に戻る途中に「阿伎留城跡」というのもあるので、そこにも寄って行きます。阿伎留城は横沢入横沢入の「天竺山」の山頂にある「三内神社本殿」のあたりにあったと言われる山城。この辺りの土豪であった「三内氏」の居城で、鎌倉時代に三宮孫四郎綱遠が築き、子孫の源左衛門昌国のときに三内氏を名乗ったとされています。他に武州南一揆の小宮氏の居城ではないかという説もあります。他に武州南一揆の小宮氏の居城ではないかという説あります。場所的には秋川を挟んで網代城と対称の五日市への人の出入りを両側から監視できる非常によい位置にあるので、奥の戸倉城に烽で情報を伝える伝達場所として機能していたのだと思います。あとここは日の出町と五日市の間の人の出入もチェック可能。

それから城跡を別にして「三内神社」も気になる神社で、ここは昔は秋留郷三宮村「三ノ宮大明神」と称していたらしいのですが、阿伎留神社が一ノ宮で二宮神社が二ノ宮でここが三ノ宮という時代があったのでしょうか。それともただ勝手に名乗っていただけなのでしょうか。気になるところではあります。あと山麓の大悲願寺との関係性ですね。

山頂の三内神社本殿から山麓の拝殿まで急な階段を下って降りて、五日市駅まで戻ります。そして今週もまたバスが行ったばかりだったので、温泉を諦めて家路に着きます。昼飯も武蔵五日市駅前には相変わらずカフェぐらいしかないので、拝島駅の乗り換えの時に立ち食い蕎麦屋でカレーセットを食べただけ。

五日市憲法草案 - あきる野市
https://www.city.akiruno.tokyo.jp/cmsfiles/contents/0000006/6215/kenpousouan-kaisetu.pdf

歴史|日の出町
https://www.town.hinode.tokyo.jp/category/4-2-1-0-0.html

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最適日数
日帰り
コースタイプ
縦走
歩行時間
2時間45分
難易度
コース定数
10
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