行程・コース
天候
曇り/曇り/曇り/曇り/晴れ
登山口へのアクセス
タクシー
その他:
阿倍野橋のBHに泊り、始発で吉野へ行き、タクシーで登山口まで走る。
大晦日に親類が集まるので熊野大社までの縦走を諦めて上葛川へ下山し、通り掛りの車に拾って貰って十津川温泉に出て湯を楽しみ、バスで奈良へ向かう。、
この登山記録の行程
吉野(7:20)登山口(890m、8:20)四寸岩山(9:25)百丁茶屋(10:35)大天井ヶ岳(11:45)五番関(12:30)洞辻茶屋(14:05)山上ヶ岳(15:20)小笹ノ宿(16:15/7:00)阿弥陀ヶ森(7:30)大普賢岳(8:45)国見岳(9:40)七耀岳(10:25)行者環岳(11:15)行者環小屋(11:50~12:15)弁天ノ森(13:50)鞍部(1,532m、15:25)弥山(15:50)弥山小屋(16:00/6:40)八経ヶ岳(7:05)明星ヶ岳(7:20)船ノ垰(9:10)楊子ヶ森(9:30)楊子ヶ宿(9:45)仏生嶽(10:35)孔雀岳(11:50)釈迦ヶ岳(13:10~40)深仙ノ宿(14:05)大日岳(14:50)太古ノ辻(15:05)鞍部幕営(1,430m、15:25/7:00)石楠花岳(7:10)天狗岳(7:30)奥守岳(7:45)嫁越峠(7:55)地蔵岳(8:30)般若岳(8:50)乾光門(9:35)涅槃岳(10:00)証誠無漏岳(10:20)阿須加利岳(11:00)持経ノ宿(11:30)平治ノ宿(12:10~35)転法輪岳(13:00)倶利伽羅岳(13:25)鞍部(1,085m、14:20)行仙岳(14:55)行仙宿(15:15)笠捨山(16:55)葛川辻幕営(17:15/6:00)地蔵岳(6:50)東屋岳(7:10)香精山(7:50)伊吹金剛(8:20)上葛川(8:55)バス停(9:10)
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
新幹線を利用して下阪し、25時頃阿部野橋のビジネスホテルのベッドに体を横たえ、5時に起きて始発の吉野行電車に乗る。ベッドに寝ているのは僅か4時間で高いベッド代だが、初日の重荷の事を考えると睡眠は必須であり、やむを得ない次第だ。
吉野駅で降り立ったのは1人だけで他に登山者は無く、閑散とした待合室でパッキングする。上千本行のバスは季節運行との事なので、近鉄タクシーを呼んでもらって時間を稼ぐ。
流石に地元の運転手は歴史に詳しく、色々と説明を聞くうちに興味も広がってゆき、横道して醍醐天皇陵を覗く。水分(みくまり)神社は子授けの神様の由。青根ヶ峰をタクシーの中から眺めて惜しい気持ちでパスし、四寸岩山への吉野古道の取付点でタクシーを捨てる。
枯枝の散乱した尾根道を登って行くと標高1,000m付近で薄っすらと雪を見、「弥山は雪が深いのだろうか」と危惧しつつ歩く。重荷で汗びっしょりになるが、思ったより早く四寸岩山へ到着する。体調は、まあ、良い様だ。新旧の数多い山名板を眺めながらじっと休んでいると、寒気が肌に忍び寄ってブルッと震える。
百丁茶屋跡の鞍部へ下って大天井岳へ登り返す。途中から低い鉄柵が現れて頂上まで続き、道案内の役を果たす。霧氷が融けて落ちたのが登山道に1cmも積って真っ白くなっており、積雪かと見紛う程だ。
五番関への下りは、岩や木の根の足の捗らない道だ。女人結界の門を珍しく眺め、鞍部から尾根の東面をトラバースして上がって行く。単独者の足跡が続き、所々岩が現れてやがて洞ノ辻茶屋に着く。右から道が上がってきて、足跡が賑やかになる。
茶店の建物の真中に道が通じており、ここで一本立てる。陀羅助茶屋の避難山小屋は固く戸を閉ざしており、避難の用に供する事は出来ない。この上から傾斜が急になり、重荷に喘ぎながら木製の階段や鎖場を登る。数cmの積雪があり、視界は数十mで景色を眺めて気を紛らす事も出来ない。
頂稜部に出ると傾斜が落ちて一息吐くが、小さい上り下りが多く神経が疲れる。台風で倒された吃驚する程の大木を眺め、門を潜って石段の雪を踏み締めて山上ヶ岳の宿坊群の間を行く。静まり返った雪の広場から一登りすると山頂部の草原で、左の一段高い林の中に三角点が在る。
取り敢えず今日の目的地まで到達した訳だが、テントを張るにはぞっとしない雰囲気だし、時間もありそうなので小笹ノ宿までは行けそうだと判断する。当初は稲村ヶ岳を往復する計画を立てたのだが、どう見ても行動日が1日長くなるので、割愛せざるを得ない。大キジを撃ちたい処だが宿坊のトイレは見付からず、山頂の聖域では憚られるので、休憩もそこそこに先へと進む。
倒木で塞がれた道を適当に巻いて山道に戻り、緩やかに下って行くと程無く小笹ノ宿で、ゆったりした広場の端には簡素な避難小屋が建っている。テントを使用すると水分を含んで重量が増えるので有難く小屋に上がり込む。心配した水も、小屋横の小沢の凍結した氷の下をゆるく流れている。
食事を終える頃には真っ暗くなり、窓から見上げる空には雲間から星が覗かれ、月も顔を出す。
足元がはっきりして歩けるようになるのは7時頃で、夜明けは関東より遅い。竜ヶ岳をパスして、柏木の分岐から原初の自然の雰囲気が漂う阿弥陀ヶ森に登る。大普賢岳へ向かうと途中には格好のテント場が散在し、和佐又ヒュッテからの道を左から合わせると直ぐに頂上に着く。雪上には和佐又からピストンした2人の足跡が残っている。山頂は風が強く、正面の弥山の上半部は悪雲に包まれて黒く、前進の気を殺がれそうだ。
尾根を下り、右からの巻道を合わせて進み、西の肩から国見岳へ登る(行所に納める札はこの先の1,580m峰にある)。七曜岳へは木製の桟橋や梯子を伝って登るが、残念ながら天気が悪くて眺望は楽しめない。この付近には石楠花が多く、行者環岳の山頂は石楠花の木で覆われている。
南面の絶壁の真下に小屋の屋根を見ながら先へ進むと、山頂から西へ向かう道は急速に薄くなって消えてしまう。記録を引っ張り出して見ると登山道は山頂の手前から東面を巻いている様で、山頂へ引返して遭難碑の直ぐ上まで戻ってガクガクと急降下し、山頂の崖の基部を巻いて進む。
少し登り返すと簡素な造りの行者環ノ宿が黙然と建っており、折からの小雪が孤独感を強める。戸押さえのブナの丸太を退けて中に入り、大休止する。
大きな上下の少ない平凡な道を、弥山に向かって黙々と歩く。山頂は相変わらず黒雲の中で、気勢も上がらず思ったより時間も掛かっている。静かな弁天ノ森の三角点で一休みして英気を養う。
相変わらず倒木が多いが、通行の邪魔になるものは切断して撤去してある。地元の会が『奥駈道刈峰行』と称して、数十次に亘る手入れをして登山道を守っているのがよく判る。直径50cm程の樅の木やシラビソの年輪を数えると120~150年の樹齢と判り、今年の台風の被害の大きさが想像されると共に、強風で倒された老樹の不運に同情する。
弥山への300mの登りは、1日の行動の終りの頃であるだけに相当に堪える。八経ヶ岳との鞍部にある水場に幕営する予定だったのだが、弥山の肩に登り着いて冬季小屋が開放されているのを見るとその気も失せ、小屋泊りへと気持ちが靡く。
小屋にザックを置いて明るい道を広々とした弥山の山頂へ登り、引き返して小屋に落ち着く。炊事の水は屋根の雪が落ちて氷結した塊を小割して融かす。小屋代を入れる木箱が置いてあるが、底の釘が抜けており、持ち上げると底板が外れて中身がそっくり姿を現したのは御愛嬌だ。宿泊代として千円を入れる。
毛布を何枚も重ねて使うと言う豪華で暖かい夜を過ごし、まだ足元がハッキリしない頃に早立ちする。
八経ヶ岳へ向って下ると銀世界となり(積雪20~30cm)、まだ明け切らない寒々とした山道を1人で歩いていると人の温もりが恋しく思われてくる。鹿の食害からオオヤマレンゲを守る為に設置された柵に挟まれた道を登って、大峰山脈の最高峰八経ヶ岳の山頂に立つ。東の空には太陽が顔を出して黄金色に輝いて気持ちもハイになり、汗ばんだ額に微風を心地好く思いながら「取敢えず、大峰山脈の最高峰を踏んだ」と喜び、樹氷の中に立止って山頂の印象を記憶に留める。
雪を纏った針葉樹林の中を南下し、山道から外れて明星ヶ岳へ登る。船ノ垰まで下ると雪は途切れ、変化に富んだ尾根を覆う枯草が太陽の光を受けて熱を含み、暖かい。1,693mの楊子ノ森を西面から緩く巻いて楊子ヶ宿址の草原に出て一本立てる。
仏生ヶ嶽への道も地図とは相違して西面を巻いており、適当な所でザックを置いて藪を漕いで頂上へ向うが、大幅に時間を食って荒い息となる(南の肩の1,760m付近からピストンするのが良い)。
孔雀岳も頂上西面の下方50m位の所に道が付いており、ヒメザサの気持ちの好い斜面を頂上へと直登する。この先を釈迦ヶ岳の鞍部へ向い、尾根の東面から西面へ、あるいは逆方向へと紆余曲折しながら高度を下げる。そろそろ疲れが出てくる体に、「今日最大の登りだ」と言い聞かせて鼓舞しながら釈迦ヶ岳へ登り、釈迦如来の大きな像の台座に腰を下ろして大休止を取る。
うららかな陽光の下で一等三角点からの眺望を楽しんでいると昼寝をしたい誘惑に駆られるが、雪の上に残った足跡が現実の世界へ引き戻し、残りの行程の事を考えて、「取り敢えず深仙ノ宿まで下って、気に掛かっている水の有無を確認するのが肝心だ」と腰を上げる。
南を向いた笹の斜面には雪も残っておらず、一気に小屋まで下る。‘香精水’は岩場からの湧出水だが、岩の表面を伝って流下している筈の水は懸念した通り涸れてしまっており、岩を覆う僅かに水気を含んだ苔が余計に未練を誘う。
柄杓に残った水を慎重に水筒の口に流し込み、ザックの前に戻ってどかりと腰を下ろす。「さて、これから如何しようか」と思案するが、良い知恵は浮かばない。水を確保したとしてもここに泊るには時間が早過ぎるのだが、水が無くては如何ともし難く、前進するほか無いようだ。
広場の隅に在る小屋を為すともなく覗くと、大きな煤けた鉄瓶が目に付く。蓋を取ると数ミリの氷の膜が見え、その下にはまだ多量の水が残っているではないか! 腐敗や不潔と言う文字が頭を翳めるが、「構うものか!」と幸運に感謝し、有難く頂戴する。
頂上の雪の足跡は数人の登山者の存在を意味し、恐らく彼等は前鬼から入山して初日をここに泊り、昨日頂上をピストンして下山したと思われる。水は下から担ぎ上げた残りなのだろう。ポリタンに2ℓ、折畳水筒に1ℓの水を満たして「生命線は確保された」と、今日の最低目標である太古ノ森へ向って前進する。
少し行くと大日岳への道が分岐している。小山を1つ越えると首が痛くなる程の角度で岩が屹立しており、乾いた岩の感触を楽しんで登る。最後の二十数mの一枚岩は、鎖を頼りに全くの腕力で登る些か緊張する所で、頂上の像に目礼した後、南側の木の生えた斜面を廻り込んで下る。
ザックを担いで尾根の西面をゆっくり進む。何時の間にか午後も半ばを過ぎ、疲れが溜って体の動きが鈍くなっている。太古ノ辻は名前に相応しく人臭さの無い静かな分岐点で、「これを下ると、幾らもしないで人里に出るのだが」と言う思いが頭を過ぎるのは、山に入って以来の3日間誰にも会わない故か?「この辻でテン張っても好いな」とも思うが適当な平地が無く、身体は疲れているが、「水を確保しているので何処でも泊れる」と強気になって、もう一山越える事にする。
太い石楠花が生える道を重い足取りで登り、岩を乗り越えるようにしてピークの反対側に出て南下する。足元の悪い笹の間の道を石楠花岳との鞍部に下ると小笹と枯草が明るい。もう一登りする気力は無く、体力も限界で、これ以上歩いても疲れが増すだけで時間ばかり食って幾らも稼げないのは経験上よく知っている処だ。理性と気力が100%一致して、一片の惜しむ所も無くここを幕営地と決める。
枯草の上にテントを張って中に入り、エアマットに空気を入れて腰を下ろすとクタッとなる。コッヘルに水を満たしてコンロに点火し、ホットウィスキーを飲みながら天気図を描いて炊事をしていると、次第に落着いて平生の静かな呼吸に戻る。
人の呼び掛ける声がして顔を出すと、「ここでテントですか」と元気な女性の声が襲う。一瞬返事に詰まり、一呼吸置いて「1人ですか」と聞くと、やや離れて男性が現れる。「深仙ノ宿まで行くの」と言うので、「水が有りませんよ」と言うと、「それで、水を担いで来てバテテしまった」と間髪を入れずに男性の返事が帰って来る。「ここで泊ったら如何ですか」と誘うと、「テントが無いので深仙まで行く」と言う。
暫く経っても、遅々として足を運ぶ2人の話し声が澄んだ空気を伝わって直ぐ近くに居るかの様に聞こえて来る。50代の2人だと思うが、大日岳の歩き難い巻道をこの時間に登るのは大変だろうと同情する。
懐中電灯の下で朝食を済ませてテントの外に出ると、やはり寒い。前日集めて置いた枯枝に火を点けて暖を取り、溜ったゴミを焼却して身軽になる。
石楠花岳に一息で登り、枯草が柔く覆った親しみ易い尾根を辿って天狗岳の山頂で一息吐く。ここから90度右折する様な感じで下って、緩やかな尾根を行く。幾分心細く途切れそうな所もあるが、道は続いている。
「30日中には自宅へ帰ってね」と言う妻の言葉を思い出し、今日は目一杯歩く積りだ。12月に入って忘年会で夜が遅くなり、茅ヶ岳や八ヶ岳(3日間)、奥秩父北奥千丈ヶ岳(2日間)と休み毎に出掛けて体力の養成と保持に努めて今回の5日間と言う長期の山行に備えたのは良いが、綿密なスケジュールを立てる暇が無く、山に入ってから改めてコースタイムを繋げ合わせて検討した結果、十津川温泉発12時の最終バスに乗る為には、貝吹金剛から葛川へ下りて瀞八丁発9時半の十津川行バスを掴まえる事が必要であると判明する。
出発前には、「玉置山までは行けるだろう。ピッチを上げる事が出来れば、奥駈道を完走して熊野本宮まで行く事も可能かも知れない」等と、期待半分の甘い考えを抱いていたのだが、如何頑張っても花折塚止りである。「それならば標高の低い尾根を無理して歩く事も無かろう」と幾分醒めた気持ちにもなって、「上葛川へ降りよう」と最終方針を決める。
奥守山を越えて下ると明るい鞍部に着く。ここには嫁越峠の名前が付いているものの、峠越えの道は廃れてしまっており、風の吹き抜ける鞍部の倒木の陰で一本立てる。昨日は、「もう一頑張りして嫁越峠まで行けば翌日が楽なのだが」とも思ったのだが、ここにはテントを張る平地が無く、「頑張らなくて良かった」と言う次第。
今日は“刈峰行”と言う意味ではハイライトで、1日で10余座を踏む事になるのだが、起伏の多い地蔵岳へ一登りして小鋭鋒の般若岳を踏み、乾光門から涅槃岳の急登して証誠無漏岳、阿須迦利岳と高度を下げながら次々と山頂を稼いで行く。
嫁越峠以南では標高1,500m以上の山頂は姿を消し、雲間から薄日が射して穏やかな尾根とピークが続き、寒さに震えた冬山の弥山が嘘のように思える。一続きの尾根におけるあまりの気候の変化だが、標高だけが原因ではないように思う。
大峯山脈の北部は夏は暑く冬は寒さが厳しい内陸性気候の奈良盆地に発しているのに対し、南部の山々は20~30kmも南下すると黒潮が洗う熊野灘に達すると言う近さで、暖流の影響で冬も比較的温暖な筈である。
ともあれ、林床の下生えも可愛いヒメザサから背丈の高い熊笹へと変わり、太古ノ辻を境にして(北部の“金剛界”と南部の“胎蔵界”とを分ける両部分けは、釈迦ヶ岳の直ぐ北の地点だが)山の雰囲気も一変して、関東地方の低山と似てくる。
池原からの林道が上がってくる地点に持経ノ宿避難小屋がある。ここには、廃れつつある奥駈道の復活に尽力した修験者の写真があり、自分の乏しい知識から想像して作り上げたに過ぎないとは言え、山伏のイメージ通りの印象的な姿が写っている。
残念ながら期待していた水場は下の方で、補給を諦めて林道を進みカーブの先から再び尾根の山道へ上がる。数次に亘る刈峰行で手入れが行き届いてさっぱりと気持ちの好い道を登り、小ピークを越えて行くと突然と言う感じで平治ノ宿が現れる。
ここで中に入って一本立てる。新宮会の有志が相当の労力を割いて建てた小屋は、手作りの感じのするシンプルで機能的な造りになっている。小さい三和土に続いて薪を焚く囲炉裏が設置してあり、長方形の小屋の残りの部分は板張りになっている。「ゴミを燃やすと残り香が修験者の断食の妨げになるので持ち帰る事」と注意書きがあり、断食に因って嗅覚が鋭敏になる事を知る。「長い間山に入っていて下山すると、女の匂いに敏感になるそうだが、如何なの」と友達に聞かれる事があるのを思い出すが、山の中に居るだけで臭いに対して鋭くなるのは事実だろう。
3ℓの水で昨日の夕食以来を賄って来たのだが、もう殆ど底を突いた。しかし、ここでも水場までは数百m下らなければならず、補給を断念して行仙宿まで辛抱する事に決める。転法輪岳へ登って倶利伽羅岳を越え、怒田宿のある深い鞍部へ下って日向で暖を取りながら大休止するが、行仙岳の急登では疲れが累積して苦戦を強いられ、気力を振り絞りながら一歩一歩と登る塩梅だ。
頂上に建つ人工物の鉄塔を見ると、苦しいアルバイトを馬鹿にされた様で些か失望する。早々に立ち去って手入れの行き届いた階段を下る。白谷トンネル東口からの道を合わせて明るい林の中を行くと待望の行仙宿山小屋で、賑やかな幟の下に腰を下ろして大息を吐く。
「ここで泊るか、水場まで下って水を確保して葛川辻まで行くか。あるいは、荷を重くしないで葛川辻まで行ってから水を得るのが正解だろうか」と迷っていると、小屋の中から人声が聞こえてくる。
思い切って中を覗いて挨拶すると、元気の良い返事が帰ってくる。「熊野修験だ。年末まで数日間小屋に篭って、水だけの断食をする」と言う。「1年の滓を落として、スッキリして下山する」、「じゃ、傍で飯を食うと悪いですね」、「全然平気だよ。後から登って来る人の為に、ちゃんと一升瓶を奉納して待っている位だ」と明快である。
よく見ると修験者の装束を着て首には長い数珠を掛けており、目許が澄んで独特の雰囲気がある。葛川辻の水の有無や水場の場所を聞くと、「囲炉裏の薬缶に水が入っているから持って行きなさい」との親切な提言に、「折角の好意を生かすべし」と、即座に前進を決める。
2ℓの水はやはり重い。笠捨山頂まで2つの小ピークを越えねばならず、重い足を引き上げるのに気力を振り絞る。後1泊分の食料しか背負っていないのでそれ程重い筈は無いのだが、「昔と比べて体力は如何だろう。やはり歳の所為もあるのだろうなあ」と、余計な考えが頭に浮かんで来る。
精魂尽き果てる前に何とか笠捨山を登り切る事が出来、雷神の前に腰を下ろして沈み行く夕日に見惚れる。昼間に力を使い果たしたかの様な赤黒く、大人しくなった太陽の最後の光が山の端の下へ(若しかしたら太平洋の波の下かも知れない)消えて行くのを、我が身に引写しながら1人静かに見送る。日没は16時58分。
感傷を振り払い、葛川辻へ向かって下山を始める。急坂に設えた階段は足元が暗いだけにとても有難いが、丸太を止めた鉄筋棒が出張っていて躓いて転びそうになり、疲れた体にビリビリと電気が走って幾度もヒヤッとする。
葛川辻は鬱蒼たる杉林の漆黒の闇の真只中に存在しており、その佇まいは漠然と想像していたのと相違して不意を突かれた感じがする。散乱した丸太や小枝が懐中電灯の光に浮かび上がって何と無く不気味で気持ちが悪く、ましてや灯りを消すと暗闇が疲れた体の神経をヒシヒシと刺激して、水場の表示があってもか細い踏跡に1人で入り込む気がしない。「水を運んで来て幸いだった」と、急かされるようにテントを張って中に入る。
僅かに残しておいたウィスキーをお湯割りにして胃の中へ落とし込むと緊張感もほぐれ、食事を終える頃には十七夜の月の細い光の筋が杉林の深い底にまで届いてテントにスポットライトが当たり、幾分か心が和む。
(後略)
大峯山脈に立つと見渡す限りの遠くまで同じ様な高さの山並みが連なっていて、紀伊半島の広大さを思い知る。森林は原始時代の人類がそこに住んで慣れ親しんだであろう原初の自然そのままの趣が濃く、立枯木や倒木が放置されて雑然とした中を歩いていると、北アルプスの剥き出しの岩稜を歩く時に感じる様なある種の緊張感とは無縁の不思議な安らぎと落ち着きを感じる。
山中には奥駈けの際に奉納したお札や地名に宗教的雰囲気が強く残されているが、これが味方して山域全体の自然が守られている様な気がする。縦走中には白い双尻の日本鹿や山鳥等に幾度も出会い、姿姿こそ見なかったが雪上には兎の足跡も数多く目撃された。








