行程・コース
この登山記録の行程
【1日目】
上高地バスターミナル(12:20)・・・河童橋・・・明神[休憩 30分](13:05)・・・徳沢[休憩 20分](14:30)・・・横尾(15:40)
【2日目】
横尾(04:45)・・・本谷橋(05:55)・・・涸沢[休憩 60分](08:10)・・・ザイテングラート取付・・・穂高岳山荘(11:45)
【3日目】
穂高岳山荘(05:35)・・・奥穂高岳[休憩 10分](06:20)・・・最低コル・・・紀美子平(08:30)・・・前穂高岳[休憩 10分](09:10)・・・紀美子平[休憩 10分](09:55)・・・岳沢パノラマ・・・岳沢小屋(13:30)・・・河童橋・・・上高地バスターミナル(15:40)
高低図
標準タイム比較グラフ
登山記録
行動記録・感想・メモ
【回想/1日目】バスを降り立った上高地では濡れない程度の小雨に変わっていた。ようやく常務たちと合流が叶った。久々の再会と、これから穂高に挑む何ともいえぬ緊張感。これぞ「山に来た!」瞬間である。最初はカッパを着用せずに林間の砂利道を歩きはじめた。少し進んだ賑やかな場所が河童橋である。正面の穂高連峰はあいにくの天気で全く見ることができない。橋には寄らず歩を進めると、先ほどの喧騒が嘘のような静寂が戻ってきた。ただ聞こえるのは砂利を踏む我々の足音だけである。突然木々の葉を鳴らすほどの雨が落ちてきた。カッパを着ていない私は慌てて折りたたみ傘を取り出した。果たして雨が止んだかと思い傘を閉じるとまたしばらくすると降ってくる。こんなことを繰り返しているうちに明神に到着した。ここでは、きょう宿泊予定の横尾山荘に上高地到着時点で連絡を入れることになっていたのを忘れていたため小屋前にある公衆電話で連絡を取った。すでに携帯電話の通話エリアではなく公衆電話の存在が有り難かった。少し腹がへったので持参したパンをかじった。徳沢までも変わらず平坦な道が続く。雨は依然として降ったり止んだりの繰り返し。歩き続けて50分、正面に徳澤園の山小屋が見えてきた。ここでも小休止を取るためザックを下ろした。常務がトイレを探しに空身で来た道を戻っていった。しばらくして突然叩きつけるような雨になった。急いでザックを小屋の庇の内側に移し、しばし様子を見ていた。しかし一向に止む気配はなくどしゃ降りの状態が続いた。そういえば常務は傘を持たずにトイレに行ったことを思い出し急ぎ迎えに出向いた。先ほど小屋の手前で左手に見えていたトイレまでの距離は結構あり、私が着いた時にちょうど常務が出てこられた。傘が無いとかなり濡れてしまう程度の降りだった。その後、横尾山荘までは歩くこと50分で到着。今日はもう天気は期待できない。明日の好天を祈りつつ受付で宿泊手続きを済ませた。通された部屋は二段式のベッドが両脇に8つある半個室の部屋である。常務が入り口側の下段、隊長が奥側の下段、太田さんと私がそれぞれ上段に陣取った。大部屋での雑魚寝に比べ自分だけの空間を確保できる幸せを感じつつ床の準備をする。この山荘は贅沢なことに風呂付きなのである。今日は大して歩いていないが、それでも山で掻いた汗を山の中で流せるというのは非常に有り難い。先輩のお二人に先に入浴していただき、戻られた後太田さんと私が風呂場へ向かった。母屋から屋根のついた渡り廊下を抜けて階段を上がったところにその風呂場はあった。こじんまりとした洗い場は一時に使えるのはせいぜい5名程度だが立派なお風呂である。湯温はちょうど40度だったが結構熱く体感的には42度くらい、独身のころよく通った銭湯の湯温に近かった。熱い湯が苦手という太田さんは一瞬足をつけただけで「これは熱くて入れません。」と結局入らなかった。風呂から戻ると先ほどまで降っていた雨が止み、心なしか夕空が明るくなってきたので自炊グッズを片手に外へ出る。着いたときには見えなかった屏風の頭が山荘を出ると正面に現れた。その左奥には頂稜部を雲に覆われた明神岳を見ることができる。山荘前の丸太状のベンチに腰掛け、まずは缶ビールで乾杯。短いながらも雨中の行軍を互いに労った。目の前には梓川を渡る大きな吊橋がある。明朝はまずこの吊橋を渡るところから始まる。つくづく下界と隔絶された山の奥まで来たことを実感する、そんなのんびりとした空間を楽しむことになるが、反面空はまさに風雲急を告げるが如く灰色の雲は実に慌ただしく北東の方角へと流れていく。動きが早いので時折雲の間からわずかに白く明るい光が射していた。これは明日への希望をもたらす光となるのか。食事を済ませ、少し肌寒くなったところで部屋へと戻った。
【回想/2日目】「明朝は4時以降に最初に目が覚めた人に合わせて起きましょう。」と決めて床についたが、4時20分に目が覚めたので荷物をつめはじめたところ、その物音で次々と皆が起きはじめ、朝食を摂らずに4時45分、まだ暗い中を涸沢へと歩きはじめた。空は一面灰色の雲に覆われている。ヘッドランプを点しながら横尾谷沿いの緩やかな登りを進んでいく。山荘の目の前の吊橋を渡ってから登山道はずっと横尾谷の左岸を通っている。樹林帯を少し抜けて沢に近くなったところが屏風岩のビューポイントである。我々を圧倒するその岩場は、この先に如何なる試練が待ち受けているかを暗示しているような姿に思えてならない。本谷橋の吊橋を渡ると登山道は右岸に移る。屏風の頭の山腹にへばりつくように徐々に高度を上げていくことになる。登りが急になっていく。ダケカンバの林が一瞬開けたところから涸沢カールの一部を望むことができた。行く先に白いものが目に入ってくる。それはかなりの面積を占めていた。時折青空が顔を覗かせ、東の空から朝日が射してきたときには好天の兆しありと喜んだが、またすぐどんよりと曇りはじめ二度と日が射すことはなかった。樹林帯の山道にも残雪が姿を現しはじめた。先を見越して早速アイゼン(チェーン)を装着することにした。隊長は持ち合わせがなかったため予備のチェーンをお貸しし、太田さんには六本爪を使ってもらうことにした。樹林を抜け涸沢の源頭部に出ると、そこは一面の雪景色。夏山から春山へ季節が逆行した瞬間だった。こうなるとアイゼン無しの歩行は難しくなる。登りであってもすぐ足を取られてバランスを崩し、それを立て直すのに余計なパワーを消耗することになる。ただでさえ雪道は自然足が重くなってくるので、やはり必携品といえよう。振り返ると、見上げるほど高かった屏風の頭が我々の目線とほぼ平行な位置に移動し、月面を思わせる長大な雪渓上に浮かんでいるように見えた。東の常念山脈の稜線はくっきりと眺めることができるが、行く手の穂高は一向に目覚める気配すら感じない。涸沢カールの全容が目の前に広がってきた。左手の涸沢ヒュッテと右奥の涸沢小屋が広大な残雪を挟み対峙している。今回は右手の涸沢小屋を目指し北穂南稜を直登する計画である。涸沢小屋のデッキ上にいる人たちを大きく捉えることができるようになったが足元の雪のせいかなかなか距離が縮まらない。朝食を摂らずに3時間以上歩き続けてきたことも影響しているのか、パワーが失われはじめた。それでも雪渓の踏み跡を忠実にたどり8時10分涸沢小屋に到着した。小屋のデッキ上の屋根のあるベンチに座り、早速朝食のパンをかじりはじめた。相当の空腹だった。この先の道のりを考えると腹は充分満たしておく必要があった。そんな中、常務から一つの提案がなされた。それは北穂南稜を断念しザイテングラートを登る案である。殊のほか残雪が多くすでにかなりの体力が消耗していることがルート変更の理由である。仮に北穂まで上がれたとしても、その後の涸沢岳越えのルートは相当きついだろうことは容易に想像がつく。天候が好転しないこともルート変更を促す一因である。一同異議なくザイテングラート、つまり今日宿泊する穂高岳山荘への直登を決定した。直後この決定を裏付ける強い雨が降ってきたのも単なる偶然とは思えなかった。ザイテングラートは穂高の頂に最短で達することができる人気のルートだが、白出のコル(穂高岳山荘)までの急登はいつもながらきつい。とりわけ今回は季節外れの残雪量に行き手を阻まれることになり一層きつく感じられるに違いない。そういえば穂高岳山荘に予約のため連絡したときに「アイゼンは必ずお持ち下さい。」といわれたのを思い出した。今夏はなぜこんなに残雪量が多いのかというと、春先からの少雨が影響しているらしい。残雪は太陽の日射しだけではなかなか融けない。高山の場合、晴天が続いて日射しが多く降りそそいだとしても、天気は午後になると厚い雲に覆われるため、最も気温が高くなる時間帯に日射しを遮られることが多い。また気温もアスファルトの平地とは違い熱がこもるようなことがないので、やはり梅雨の時期にきちんと雨が降らないと雪は融けないというのだ。雪の急斜面が延々と続き足どりもしだいに重くなっていたが、雨は霧雨程度でミスト代わりになるし、雪渓を吹き抜ける風は氷点下の固体との接触でエアコンの役割を果たし、火照った体をクールダウンするのに十分すぎた。暗く立ちこめた雲は一向に去る様子はないが、風にあおられて常念岳の三角錐のシルエットが一瞬姿を現した。最後の急な岩場を過ぎると長い雪の階段が見えてきた。正午前に穂高岳山荘に到着。天候が回復したら涸沢岳往復も考えられるが、ひとまず今日の歩きはここまで、と宿泊手続きを行う。小屋に足を踏み入れると、疲れた私を受付の女性が笑顔で温かく迎えてくれた。穂高岳山荘は今年で開設90周年を迎えたとのこと。後日90周年を記念して『特別編集 穂高岳山荘×山歩みち』という冊子をお送りいただいた。「ご宿泊されたみなさまに配布させていただいております。」の一言に志の高さを感じた。いったいどれだけの人に送り届けたのだろうか。小屋の収容人数と日数を掛け合わせてみればわかる。いま流行りの「おもてなし」とはまさにこういうことではないだろうか。いい小屋に泊まることができたことを率直に喜んだ。部屋は事前に個室を予約していたので非常に快適な時間を過ごすことができた。涸沢岳往復も考えていたが、再び雨が強くなってきたため断念し、昼過ぎにもかかわらず宴会に突入した。話題の中心は、新婚の太田さんの婚活、とりわけ料理教室に通っていたという話で大いに盛り上がった。太田さんの、真剣でありながらどこかナチュラルな話しぶりが面白くて、ついつい聞き入ってしまった。結局、独身の品さんに勧めてみようという話しになった。果たしてその品さんはいまどの辺りにいるのだろうか。予定では今朝7時過ぎに上高地を出発し、岳沢経由で奥穂を越えて当山荘に夕方到着することになっている。ただでさえきつい行程に加えこの天候だからさぞ苦戦しているだろうと想像する。そうこうしているうちに酔いがまわり敷いていた布団に入るとすぐに寝入ってしまった。目が覚めると品さんの姿があった。疲れ切った様子ながらもやりきった感のある表情だった。17時ごろの到着を予想していたが、それをはるかに上回るスピードでの到着だった。窓の外を見ると飛騨側から光が射してきていよいよ晴れるかと思われたが、それも束の間すぐに厚い雨雲に覆われてしまった。明日の好天にかすかな期待を寄せつつ床についた。
【回想/3日目】昨夜のかすかな期待は完全に裏切られた。山荘を一歩出ると横なぐりの雨。今回はついに三日間とも山の神は微笑んでくれないらしい。それでも長い行程を無事に終えなければならず、朝食はいつもの餅しゃぶをつつきながら、いま一度気を引き締めた。5時35分、お世話になった穂高岳山荘を後にし奥穂への急登に挑む。まだ辺りは暗くヘッドランプを照らしながらの歩きとなる。軍手をしていても鉄梯子をつかむ手は濡れてかじかむ。登るにつれて風が強まってきた。はじめ先頭を歩いていた品さんのペースがなかなか上がってこない。さすがに昨日の疲れがまだ残っているらしい。先頭を入れ替わり、後方を気にしながら歩き続け45分で奥穂高岳山頂に到着。視界はゼロ、風にあおられながら日本第三位の頂で記念撮影。待っていても到底晴れる兆しはないため長居は無用と早々に立ち去ることとした。奥穂から南東に伸びる稜線を「吊尾根」というが、尾根といってもなだらかな稜線歩きではない。ゴツゴツした岩がひたすら続く悪路で、やがて長い下りの鎖場が出てきた。濡れた岩場はとても滑りやすく危険である。一人ずつ慎重に下っていく。こういう場所はやはり後ろ向きになって三点確保を励行するのが基本である。こういう山歩きの基本を怠ったり、軽視したときに事故は必ず起きる。近年、空前の登山ブームによりその人口は急増しているわけだが、中にはルールを逸脱した危険な行為に及ぶ登山者が増えているというが、今回それを目の当たりにすることになる。奥穂からの鎖のある岩場の下りで、先頭を歩いていた私が下り切ったところで、上で待つ品さんに声を掛けたところ、鎖を持たずに、岩場を猛ダッシュで下ってくる男がいた。これまでおよそ30年山に登ってきて、こんな危険な行為をする登山者は見たことがなかった。本来鎖場や梯子を通過する際は、前の人が下り切って(登り切って)から次の人がアクションするのが定石で、鎖場を下っている最中、並行して岩場を下るなどもってのほかの行為である。人が踏み固めていない岩場は浮石が多く落石の原因になりかねない最も危険な行為だ。若者とは思えない、いい歳をした男が声をかけてもジロッと一瞥しただけで返事もせず、同じように下ってきた仲間三人と楽しそうに話をし猛ダッシュで下っていった。とうとうこういう連中が崇高な日本アルプスを侵しはじめたのかと残念に思う。先ほどまで白一色の世界だった辺りが急に動きはじめた。明らかに今までの「静」とは違う「動」の世界に変わりつつあった。一筋の光明というべきか。北東から南西に抜ける強く乾いた風が吹きぬけた。すると白い靄の向こうに、真っ黒で巨大な岩の塊が前触れもなく出現した。前穂である。まるでドライアイスか、沸騰した湯の中から出てきたかのように沸き立って見えた。前穂上空の、青と白のスカイラインが好天の何よりの証しだ。一同思わず歓声をあげる。今回も最後の最後で山の神が微笑んでくれた。周囲のガスは見る見るうちに「追放」された。涸沢カールを俯瞰できる岩場で小休止する。カールから吹き上げてくる風は雪渓をさんざん舐めまわしてきただけに凍えるほど冷たい。霞んでいた常念山脈も朝日を浴びて目覚めたようだ。前穂にも陽光が射しはじめた。こうしてみると山も我々人間と同様、朝に目覚め、昼に活動し、夜に眠るように思える。久しぶりの日射しはとても暖かい。ちょうど通りかかった単独行の女性にお願いし前穂をバックに記念写真を撮った。振り返るといつの間にか奥穂にかかっていたガスもほんのわずかになっていた。一足先にジャンダルムがその全貌を明らかにした。吊尾根上からのジャンダルムは、奥穂からのように単体で際立った山には見えないが、両脇の岩峰群を従えた山群の雄とでも言い表すべきか。ついで奥穂頂上部も完全にガスが消えた。右側の祠のある突端と、左側の展望盤のある突端の両方をはっきりと望むことができた。もう少し早ければこの絶景を日本第三位の頂で望むことができたわけだが、それは次回のお楽しみに取っておくこととし、前穂への道を急いだ。ここからは一変してスカイブルーと日射しの下での歩きとなった。先ほどまで濡れて滑りやすかった岩が別物のように乾いて滑らなくなった。かつて大学一年の6月中旬に吊尾根を歩いた際は、稜線上が一面の雪だったため、紀美子平方面の巻道を使わず前穂直登ルートを選択したが、今回はさすがに夏山。稜線上には雪が見られないため、普通に紀美子平を目指した。紀美子平でザックを下し、休む間もなく空身で前穂を往復することにした。ここからもわずかに槍の穂先を望めるが、高度を上げるごとに槍・穂高連峰の全容が明らかになっていく。空身とはいっても40分の岩登りはさすがにきつい。早朝の寒さが嘘のように、いまは上から照りつける日射しが暑く感じられる。ようやく登りついた前穂高岳山頂は、細長くゴツゴツした大きな岩が特徴の平らな頂上である。標高3090m。先ほど記念写真を撮ってくれた女性が「この先に槍ヶ岳方面を一望できるビューポイントがあります。」と教えてくれたので早速行ってみる。但しカールから吹き上げる風が殊の外強いので注意が必要とのこと。慎重に岩の突端へと近づいてみる。たしかに遮るものがない絶景ポイントではあるが突風が絶え間なく吹き上げてくる。帽子どころか体まで持っていかれそうな強風に身の危険を感じ撤収。それでも槍の左奥の薬師岳、三俣蓮華岳、双六岳や同右奥の野口五郎岳など懐かしい峰々を存分に眺めることができた。三日分の眺望を堪能し、いよいよ前穂を後にするところでアクシデントが発生した。突然太田さんの左膝が悲鳴を上げはじめたのだ。前穂の登りで異変を感じたそうだ。かなりの痛みがはしっているようで足をひきずりながらの下りになりそうである。上高地まではまだかなりの行程を残しており一同に不安がよぎる。上空には薄い雲がかかり始め、こころなしか辺りが暗くなったように感じた。まずはザックのある紀美子平まで下る。ここまでは空身のせいか、それほどのロスを生じなかった。ザックを背負い紀美子平からの下りに入る。いきなりの急下降と鎖場の連続。隊長を先頭に、負傷の太田さんがそれに続く。左足をかばいながら慎重に下り続ける。私も経験済みだが痛い足を引きずりながらの長い下りは苦痛以外の何物でもない。肉体的な疲労はもちろん、常に細心の注意を払うため神経的な疲労も半端ではない。岩場にかかる壊れかけた鉄梯子のはるか後方に梓川と大正池が見えている。ここはまだまだ山の上だと痛感し愕然とする。右手を見上げるとジャンダルムから西穂へ連なる険しい岩峰が鋸歯状にそびえている。この危険極まりない岩稜帯は穂高連峰中にあって容易に人を近づけない独特な一世界を形成している。ハイマツ帯を過ぎ、周囲がシラカバやダケカンバに覆われはじめてもガレ場、鎖場がなくなることはない。太田さんは痛めた左足をかばいながら一歩一歩下っているが一向に膝の痛みが変わらないため、持参した包帯で左膝を思いっきり縛り固定した。幾分痛みが緩和したようだったが、歩きはじめると思ったほどの効果はなく足の運びに大きな変化をもたらすことはなかった。やがて岳沢小屋の赤い屋根が遠くに見えてきたが、まだまだ距離を感じる位置にあった。今回最長と思われる下りの鉄梯子にさしかかった。垂直に30mはあると思われる梯子を一人ずつ慎重に下っていった。今日だけでいったいいくつの梯子を通過してきただろうか。それにしても昨日このコースを登ってきた品さんのすごさにはもはや感嘆の声を上げるしかない。岳沢小屋まであと少しというところで、膝の痛みに耐え歩き続けている太田さんを励まそうと、とうとう奥様の名前をコールしての大合唱となり、山あいの谷間にこだますることとなった。やがて樹林帯の道を抜け、雪渓の次に岳沢を渡り切るとようやく岳沢小屋に到着した。時刻は13時30分。ここで我々は重大な決断を下さなければならなくなった。スーパーあずさ32号の松本発は18時35分。これに間に合うためには遅くとも上高地発16時のバスに乗らなければならない。岳沢小屋から上高地までは約2時間。普通のペースなら何とか間に合う時間だが、太田さんの足の状態を考えると2時間で歩けるとは思えない。遅れれば全員があずさに乗れなくなるし、太田さんが上高地まで歩き続けるのは不可能に近かった。ここに至っては太田さんに岳沢小屋で一泊してもらい、我々は急ぎ下山するしかないことを隊長に伝え了承。手持ち資金が不足していた太田さんに隊長が資金援助し無事宿泊手続きが完了。「下山したらすぐに現金書留で送ります。」の一言には一同大爆笑になった。笑顔の太田さんに見送られ、我々は一路、上高地バスターミナルへと急いだ。

















































































