いまなお秘境の面影を残す遠山郷。飯田市美術博物館の特別展で、その歴史にふれる

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聖岳・光岳の登山口にあたる遠山谷(とおやまだに)と山とのかかわりをテーマにした特別展「山とともに生きる―遠山郷のあゆみとくらし」が、長野県の飯田市美術博物館で11月9日までの期間、開かれている。江戸期の奇書『遠山奇談』を追ったルポを手がけた大鹿村在住のライター・宗像充さんによるレポート。

文・写真=宗像 充 資料写真提供=飯田市美術博物館

“今なお遠い”遠山郷とは

「今年は合併20年の節目で、道の駅の『かぐらの湯』もリニューアルオープンしました。地域の節目を迎えるのに合わせて企画展を開催したいと思いました」

遠山谷は日本百名山の聖岳(ひじりだけ)、光岳(てかりだけ)の登山口にあたる。アプローチの遠さから、百名山ハンティングの中でも最後に残す人が多い。いわゆる「秘境」である。かつては中央構造線沿いに南信濃村、上村(かみむら)と2つの村があり、現在は飯田市の一部となっている。湯立て神事や多くの面が登場し、担い手と観衆が一体となって繰り広げられる霜月祭(しもつきまつり)や、「日本のチロル」とも呼ばれる下栗(しもぐり)の里に代表されるように、民俗芸能と山村の風習を色濃く残してきた地域だ。

坂畑を耕す女性(1958年/塚原琢哉撮影/飯田市美術博物館蔵)
坂畑を耕す女性(1958年/塚原琢哉撮影/飯田市美術博物館蔵)
霜月祭で用いられる、サワラの木を編んで作った釜蓋と湯木(湯立ての際に用いる採物)
霜月祭で用いられる、サワラの木を編んで作った釜蓋と湯木(湯立ての際に用いる採物)
子どもたちが霜月祭の面を真似して遊んだ面
子どもたちが霜月祭の面を真似して遊んだ面。お祭りが子どもたちにも親しまれていたことがわかる

その遠山谷と山とのかかわりをテーマにした特別展「山とともに生きる―遠山郷のあゆみとくらし」が、飯田市中心部の飯田市美術博物館で11月9日までの期間、開かれている。

「もともと学生時代から遠山と山とのかかわりに興味があり、今回山を切り口にこれまでの研究の成果をまとめました」

展示を企画した博物館の学芸員、近藤大知さん(民俗学)も、遠山谷の中心で古い宿場町の風情が残る和田の出身。聖岳の登山口の木沢(きざわ)地区の霜月祭では演じ手も務めている。

ちなみに伊那山地・南アルプス主脈間の遠山郷と、天竜川の対岸にある飯田市中心部は1時間以上離れている。筆者の暮らす大鹿村と遠山谷は地蔵峠で接しているものの、現在は土砂崩れで通行止め。「遠山」というネーミングは現在でも実態と遠くない。

地形が独特の歴史文化を残してきた

そうはいっても、古代から遠山谷が周囲から隔絶した場所というわけではない。むしろ南アルプス付近で南北にまっすぐ走る中央構造線は、古代から文化の行き交う「自然の古道」「中世の大通り」(柳田國男)であることが展示では強調される。

鎌倉時代には鶴岡八幡宮の料所(領地)であり、神像や鰐口(神社やお寺の軒先に吊り下げられる金属製の祈願の仏具。打ち鳴らして祈願する)の分布、さらには阿弥陀如来像の掛け軸などを見ると、鎌倉や諏訪、浄土真宗の根拠地の三河や遠州との結びつきを垣間見ることができる。

八日市場の鎌倉正八幡社の神像
八日市場の鎌倉正八幡社の神像

江戸時代には静岡県の秋葉山(あきはさん)に詣でることが流行する。秋葉道として古道は再び脚光を浴び、遠山郷の和田や上町などが宿場町として栄えた。筆者の暮らす大鹿村に南朝の後醍醐(ごだいご)天皇の皇子の宗良(むねなが、むねよし)親王が拠を構えたのも、こういった古代からの交通の事情があったことがわかる。

山林資源が地域を支えた

「山林の存在は遠山に欠かせないものですが、一方で林業は浮き沈みが激しく、遠山も林業で栄えるとともに混乱も起きました」

近藤さんは学生時代に遠山の共有山の歴史に興味を持ち調べたことがある。江戸時代には遠山谷は江戸城や焼失した東本願寺の再建のために用材を提供する。用材を求めて遠山谷に分け入った浜松の僧侶の一行の冒険譚は、『遠山奇談』として怪鳥やウワバミ(大蛇)と遭遇するエピソードとともに都市住民に読み継がれ、秘境「遠山」の名を全国区に押し上げた。江戸時代には、遠山は幕府の直轄地とされ、サワラなどの自然木の用材が、「榑木」(くれき)として年貢となった。

「東本願寺寛政度再建絵伝」
「東本願寺寛政度再建絵伝」。『遠山奇談』にあるウワバミと闘う場面が載っている

その森林開発が頂点に達したのが、1896年(明治28年)に共有山の伐採権を入手した王子製紙の森林開発である。地元は伐採権を取り戻すために運動を続けた。展示では、人混みであふれる和田の御柱祭の様子や、斜面を埋め尽くす木材の写真が目を引く。

伐り出した木材を積み上げた渡場。1899年ごろ(個人提供)
伐り出した木材を積み上げた渡場。1899年ごろ(個人提供)

「大正4年に和田の町を訪問した柳田國男は、時代にかぶれすぎていると感想を述べていますが、そういう側面ももともと併せ持っている」

山村地域だから心根の純朴さや質素な暮らしぶりをしているというのは、都市住民の偏見だろう。一方で、薪の山を背負って歩く女性の写真を見ると、山村で生きる人々のたくましさや力強い息づかいを感じずにはいられない。

薪を担ぐ女性(1958年/塚原琢哉撮影/飯田市美術博物館蔵)
薪を担ぐ女性(1958年/塚原琢哉撮影/飯田市美術博物館蔵)

皮箕(かわみ)やアケビのツルを網にしたトオシ(ふるい)など山村特有の農具ととともに、筆者の目を引いたのは、王子製紙の日雇組頭の人々が梶谷の不動明王に奉納した旗だ。外部からやってきた資本のもとで日銭を稼ぐ人々も、土地の神や風俗に頭を垂れて地域の一員となる。時代の波の中で、変わるものと変わらないものがある。「自然との付き合いや山間部の暮らしを見ていくことで、これからの時代に活かせるものがあるはずです」と近藤さんも口にする。

サワグルミの皮を剥ぎ、ヒノキで縁取った皮箕
サワグルミの皮を剥ぎ、ヒノキで縁取った皮箕
背負い籠、樹皮を編んで作りナタなどを入れて運んだ
背負い籠、樹皮を編んで作りナタなどを入れて運んだ
王子製紙の梶谷伐木所日雇組合の人々が梶谷の不動明王へ奉納した旗
王子製紙の梶谷伐木所日雇組合の人々が梶谷の不動明王へ奉納した旗

11月3日(月・祝)には、「王子製紙による山林開発と遠山谷」というテーマで太田仙一さん(北星学園大学経済学部専任講師、飯田市歴史研究所調査研究員)による記念講演が、飯田市美術博物館で開催される。

登山と遠山

お隣の小渋谷(こしぶだに、大鹿村)に暮らす筆者は、遠山谷の木沢小学校に度々遊びに行く。ここは「触れる博物館」として木造の旧校舎を地域の人が寄り集まって管理している。聖岳登山や下栗の里への玄関口でもあるので、登山者も立ち寄りやすい。

筆者は、登山家の大蔵喜福さんがここで、据え置きテントと携帯トイレを利用してのエコ登山を始めたころから、たびたび訪問するようになった。東京にいたころからの知り合いである。その手法は、冬季の三伏峠小屋を営業小屋として登山者に提供する際にも参考にさせてもらった。すっかり地域に溶け込んだ飯田市出身の大蔵さんは、今では遠山の観光協会の会長として地域振興の陣頭指揮をしている。

登山はこの地域の重要な観光資源の一つだ。

大正期末ごろから登山者が訪れるようになった。飯田市出身の登山家の井深勉は、山岳雑誌を創刊する一方、地元で小学校教員をして南アルプスを紹介し、百軒洞(ひゃっけんぼら)山の家の建設に尽力した。その歴史も今回の企画展で見ることができる。

それとは別に、この9月から国立映画アーカイブが所蔵する『赤石岳』(1929年)というフィルムが国立映画アーカイブのYouTubeチャンネルにアップされている。それを見ると、昭和初期の和田の町や下栗の里の様子が、残雪期の赤石登山の光景とともに紹介されており、かつての登山と麓とのかかわりを考えるにおいて、貴重な記録となっている。大蔵さんも近藤さんも、このフィルムを見て触発されたのか、話題は尽きない。登山隊は、最後は大河原(大鹿村)に下山する。

フィルムも企画展も、この地域の登山に興味がある人にとっても興味深い内容となっている。ぜひ秋の南アルプスを訪問し、麓の「あゆみとくらし」にも目を向けてほしい。

関連リンク

この記事に登場する山

長野県 静岡県 / 赤石山脈南部

聖岳 標高 3,013m

 聖岳は南アルプスで一番南部に位置する3000m級の山である。安倍奥の山から眺めると、屋根の形をした特徴ある山で、すぐ目にとまる。左手の高い方が前聖岳、地図によっては西聖岳とも書いてあるが、3013mの標高がある。主脈から外れた右手の低い方は奥聖岳といい、2982mの高さを有する。三角点(2978m)は低い方にあり、三角点のない高い方を聖岳と呼ぶ。  山名は山が深い南アルプスの中でもとりわけ奥深く、世俗を脱した聖なる山、すなわち聖岳という説と、大井川からこの山に登る沢は悪場が多く、ヘズリ(沢の両岸の岩壁帯をトラバースすること)が多い沢という意味からヘズリ沢―ヒジリ沢―聖沢となり、この沢の源頭の山ゆえ、聖岳になったという説がある。  山頂から主脈を目で追っていくと、うねうねと続く雄大な稜線上にいくつもの名高い山々が浮かび出ている。足元の大きな谷の向こうには赤石岳が両翼を広げた格好で全容を見せる。左手には気持ちのよさそうな広々した平らがあるが、これが百間平である。赤石岳の右奥には均整のとれた悪沢岳が目を引く。さらにその奥には塩見岳の山頂が2つに分かれて見える。もっと奥には日本第2位の高峰、北岳や大きなカールを持つ仙丈ヶ岳と、すべてが3000mを超える山々である。  時間があれば足を延ばして、三等三角点のある奥聖岳を往復してみたい。低いハイマツの中に細い踏み跡がはっきりついている。  聖岳登山の代表的コースは聖沢から聖平経由のルート。しかし聖岳往復だけではちょっともったいない。聖平から山頂をピストンし、上河内岳経由で畑薙大吊橋へ出るコースは、帰路のバス停も近いので便利。  静岡駅からバスで畑薙第1ダムまで入り、ダム湖畔の林道を歩いて登山口を目指す。荷物の大きさやパーティの力にもよるが、3~4時間で登山口に着く。ここから草の中を約1時間、ジグザグ道の急登で汗を流す。やっと平らになるころ造林用の出合所小屋が左手に出てくる。聖沢を渡る吊橋まで巻き道が続き、橋からは尾根道に取り付いて標高をかせぐ。やがて聖岳がよく見える展望台に出ると、そこからは緩やかな道が聖平小屋へ導いてくれる。広々とした平坦地には平成3年に新築された聖平小屋と古い小屋の2棟がある。目的地である聖岳へは、空身で4時間もあれば往復できる。  往復したならば、聖平小屋を後にして上河内岳へ向かう。三角点は縦走路から少し外れているが、静かな山頂だ。茶臼岳の手前を左にとると、横窪沢、ウソッコ沢を経て畑薙大吊橋まで一気の下りである。

静岡県 長野県 / 赤石山脈南部

光岳 標高 2,592m

「てかりだけ」と読む。何かロマンを感じさせる、このユニークな山名の山が南アルプス主脈の最南端にあることは、山を志す者なら大抵の人は知っていることだろう。昔からこの山がハイマツの南限だとか、山頂近くにセンジが原という山上の楽園が広がっている、などという話を聞いて、まだ見ぬ山に思いを馳せた人が多いことだろう。  山頂から南西側に光岩という岩峰があり、遠州側から遠望したとき、この岩が白く光って見えるところからつけられた山名という。また古くは三隅岳ともいわれた。  この山へのアプローチは長い。一般的には長野県側の芝沢ゲートから易老渡(いろうど)まで車道を歩き、ここから往復するコースが歩かれているほか、畑難第1ダムから茶臼岳を経て光岳に向かうコースがある。

プロフィール

宗像 充(むなかた・みつる)

むなかた・みつる/ライター。1975年生まれ。高校、大学と山岳部で、沢登りから冬季クライミングまで国内各地の山を登る。登山雑誌で南アルプスを通るリニア中央新幹線の取材で訪問したのがきっかけで、縁あって長野県大鹿村に移住。田んぼをしながら執筆活動を続ける。近著に『ニホンカワウソは生きている』『絶滅してない! ぼくがまぼろしの動物を探す理由』(いずれも旬報社)、『共同親権』(社会評論社)などがある。

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