「アリの絵を正しく描けますか?」――人間が陥りやすい認知のクセとは?
「日髙先生の最後の講義。動物行動学から導かれる『生きる意味』とは何か」更科功氏(古生物学者)推薦! 人間とは、いったいどういう生き物なのか? 動物行動学の泰斗である著者が、生物としての「人間」を、容姿・言語・社会などの話題をさまざまに展開しながら、わかりやすい言葉で語ります。著者の最晩年の講義であり、今を生きる「人間」必読の一冊。文庫化を記念して、内容の一部を紹介します。

イギリスの哲学者でギルバート・ライルという人がいます。この人が非常に面白いことを言っているんです。
場所はアフリカでも南米でもどこでもいいんだけれど、大きな密林があって、その中に先住民が住んでいて、その住まいの前には広場があって、そこでお祭りをしたりなんかする。周囲はすごい森です。そういうふうになっていると仮定してください。
そして、突拍子もない話だけれど、ある時その密林の中から巨大な真っ黒い蒸気機関車がダーッと走ってきて、みんなが見ている前で草地の原っぱにガガーッと止まった、と想像してください。いったい何が起こるでしょうか、ということなんです。
彼らはそんなものを見たのは初めてだからビックリして、初めはもう恐れおののいてひれ伏しているわけですね。で、そのうちにやっぱり、あれは何なんだろうと思う。
ギルバート・ライルは、好奇心が出るのでそれを調べに行くと書いているんですけれど、好奇心じゃないんだと思うんだ、ぼくは。たぶん見たこともないようなものがダーッと走ってきて止まった、とすると怖いわけですね。怖いからいったいこれは何者だろうというんで、とにかく恐る恐る調べてみようとするわけです。
で、みんなでとにかく機関車を解体し始めるんです。分解してみると中からなんか出てくるだろうから、それで正体がわかるだろうということです。その時に彼らの持っていたイマジネーションというのは、「こいつは走ってきたんだから、たぶん中に馬が入っていたに違いない」という想定です。
ところが蒸気機関車の中に馬なんか入っていませんよね。だから出てくるものは、鉄の棒だとか、輪だとか、石炭だとか、ピストンとか、そんな変なものばっかり出てきて、馬は出てこない。そうすると「いったいこれは何なんだろう」とみんなわかんなくなっちゃうわけです。
で、酋長も困って、祈祷師などお祈りをする人に「お前たち、何とかこのことについて答えを出せ」と、命令するわけです。
そうすると祈祷師も何がなんだか訳がわかんないんだけど、まあそこは慣れているんですね、そういう人々は。だからそこに祭壇をつくって、お供え物を置いたりなんかして、モクモク煙なんかも出して、雰囲気をつくります。みんながその状況の中になんとなく馴染んできた頃に、その煙の中で厳かにこうのたまうわけですよ。
「このものは走ってきた。だから中には馬が入っていた。けれどその馬は見えなかった。なぜか。それはこの馬が幽霊の馬であったからである」と言うわけです。
そうするとみんな、なんとなくわかっちゃうのね。「ああ、そうか。幽霊の馬が入っていたから、あんなに走ってきたのか」と。それでその幽霊の馬さんにお供え物をしたりお祈りをしたりして、それで一件落着。その人々は蒸気機関車の原理だとか、熱力学の第二法則だとか、そういうようなことはなんにも理解しないで、機械の中に幽霊の馬をつくって、それで話が済んじゃうということになるだろうと。こういうお話なんですね。
その時にライルが言ったのは、「こういうものは要するに、ゴースト・イン・ザ・マシン。機械の中の幽霊である」ということなんです。「その機械の中に幽霊の馬が入っていた」ということになると、みんな、なんとなくわかっちゃう。でも現実にそんなものはいませんよね、もちろん。
普通われわれは幽霊というものは想像力の産物だと思っている。しかし、「そうではない」とライルは言うんです。「幽霊というものは想像力の産物ではなくて、想像力の欠如の産物だ」と。ぼくがこの話を読んだのはずいぶん昔ですけども、想像力がないからこそ幽霊ができるんだっていう話は、すごく面白かったんです。
小学生が描いたアリの絵
もうひとつ非常に面白かった話があります。ぼくは、高校は東京の成城学園に通っていましたが、そのころ仲良くしていた、庄司先生という小学校の先生から聞いた話です。
ある年のお正月の二日か三日に、庄司先生がぼくの家へ大きな風呂敷包みを持って来たんですよ。それを広げて、見せてもらったんです。大きな画用紙に、上・中・下と絵が三段に貼ってあるのがいっぱいありました。
「これは何ですか」って聞くと、先生は、小学校で教室へ行くなり画用紙をみんなに配って、「さあ、今日はアリの絵を描いてください!」って言ったんだそうです。そうすると、子どもたちは「アリってどんなだっけなあ」と思いながら、イメージを探すわけですね。それでその画用紙に描くわけです。それが、いちばん上の段の絵だったんです。
二段目は、今度は実物のアリを平べったいガラスの容れ物に入れて、それをたくさん用意しておいて、子どもたちにひとつずつ渡して「ほーら、これがほんとのアリだよ。生きてるだろ? これを見て、アリの絵を描いてください」って言ったのが、二段目の絵なんです。
面白かったのは、一段目の絵だと「アリ」っていきなり言われたもんだから、みんな考えて描く。その絵は、頭があって、胴体もある。そして四本の脚。ひげ(=触角)も2本ある。で、女の子の描いた絵は、このひげに赤いリボンがついてる。ほとんどの子がみんな同じように描いてます。
そして二段目は、今度は本物のアリを脇に置いて、それを見ながら描いた絵です。
それを見ると、ずっとアリに近くなるだろうと思います。ところが、一段目の絵とあんまり変わらないんです。
三段目では、子どもたちの二枚目の絵をみんな集めて、先生が「うん、なかなかよくできてるなあ。でも、なんかちょっと違うかなあ」と言って説明したそうです。
「アリさんて、頭と胴体だけしかないかなあ」って言うわけですね。すると「あれ? もう一個ある」という子が出てくるわけ。そうするとほかの子が「ほんとだ、ほんとだ、頭と胴体だけじゃないや。なんか頭ともうひとつあって、それから胴体だ」と、こう言うんです。
そして先生が「そうだろう。アリさんは頭と胸とお腹の胴体とが、三つ別々になってんだよ」と言うと、子どもたちが「なーるほど」と思うわけです。
「じゃあ脚は四本か?」って先生がまた聞くわけよ。そうすると、また子どもたちがもういっぺんアリさんを見る。「あれ? もっとたくさんあるよ」「六本だ!」「ほんとだ、六本だ」ということになるんです。
「じゃあ、その六本の脚、どこに生えてる?」って言うと、子どもたちが「違う、違う、胴体には脚ないや」「胸に六本生えてる」って言う子どもが出てくる。
その先がまたなかなか凝った話だった。
「君たちが描いた絵だとさ、脚は胸からまっすぐスッと生えてるけど、ぼくたちの足がもしまっすぐだったら歩けるかい? まっすぐだったら、とっても歩けないよ」って言うわけ。
「それからさあ、ひげだけどさあ、一枚目の絵から描いてるけど、みんなうしろ向いてるよね。二枚目の絵もそうだよね。ほんとにうしろ向いてる?」って聞く。そしたら子どもたちはすぐ気がついて、「前向いてる」って言うんだ。それで三段目では、ひげがみんな前を向くわけです。
この話を聞いて、ぼくが非常に面白かったのは二段目のところ、つまり、実物のアリを見た時に、何人かは頭と胸と腹になってる子がいるんです。ごく少しだけ。こういう絵になった子は、一枚目の絵をどういうふうに描いてたかなっと思って見てみると、描いたり消したりしてるんですよ。そういう子は、つまり、一枚目の絵を描く時に、いやあ、頭と胴体だけだったかなあ、なんかもうちょっと、なんかあったような気がする、というふうに思ってたわけです。
そういう子は実物のアリを見ると、パッと変わるんですね。ところが、最初からもう自信満々で太い鉛筆で頭描いてね、胴体を描いた子がいます。そういう子は、実物を見せてもなかなか改まらない。なるほどそういうものか、と思いました。
結局、人間というのはものを見る時に、実物を見てるから実物どおりに絵を描けるということはないんですね。だいたいは「ああ、なんかに似てる。こんな格好だった」というふうに思って、ある種のイリュージョン、「思い込み」で絵を描きます。そうして誰かにその辺を言われたりすると、本当にそうかなと思って実物をもういっぺん見直して、「あら? 違うわ」というふうになって、直していくわけですね。
結局初めての時には、何に注意して見ればいいかってことがよくわからないんです。
たとえば複雑な格好をしたテーブルを見た時に、どんな格好をしてるって言われたら、これバッと全部正確に言える人はまずいませんよ。だいたい大きさがこれぐらいで上に何かあったような気がするっていう程度にしか見てません。ふつうはそういうもんです。それで、だいたいのものはわかるわけです。
実物を見ているわけですから、それをイマジネーション=想像しているのではありませんね。
ある種の「思い込み」ってのがあるわけだ。それで自分の頭の中を整理しているわけだ。だから、自分が思い込んでいるものと違うのを見るとびっくりするんですよ。そういうことがよくあります。
「思いつき」と「思い込み」ってのはやっぱりちょっと違うんで、「思いつき」は想像=イマジネーション(imagination)の話だろうし、「思い込み」の方はぼくはイリュージョン(illusion)と呼んでます。
イリュージョンっていうのは辞書を引くと「錯覚」というふうに書いてあります。錯覚、とか錯視。そういうこともあるけれども一般的には思い込みのことだと思っていいのではないか。人間は非常にこのイリュージョンが強い動物らしくて、なんかを見た時にはそれを思い込んじゃうんですよね。
この子どもたちは、最初にアリさんっていったら、頭と胴体があって脚が四本、ひげが生えてるもんだと思い込んでいるから、それで絵を描いた。その次に実物を見てもなおらない。それで先生が説明して、どこに注意して見るかといちいち言ってくれると、やっと実物に近い絵になるわけだね。
ぼくらはやっぱりそういうふうに、ある程度思い込みでもってものを判断している。いいかえれば、思い込みがないとものを見ることはできない、という気もするんです。つまりイリュージョンがないと、ものは見えないということです。
※本記事は『人間は、いちばん変な動物である~世界の見方が変わる生物学講義』(山と溪谷社)を一部掲載したものです。
『人間は、いちばん変な動物である~世界の見方が変わる生物学講義』
人間とは、いったいどういう生き物なのか? 動物行動学の泰斗である著者が、生物としての「人間」を、 容姿・言語・社会などの話題をさまざまに展開しながら、わかりやすい言葉で語る。
『人間は、いちばん変な動物である~世界の見方が変わる生物学講義』
著: 日髙 敏隆
価格:1045円(税込)
【著者略歴】
日髙 敏隆(ひだか・としたか)
動物行動学者。1930年東京生まれ。 東京大学理学部動物学科卒業。理学博士。 東京農工大学教授、京都大学教授、滋賀県立大学初代学長、総合地球環境学研究所初代所長、 京都精華大学客員教授を歴任。2000年に南方熊楠賞受賞、2008年に瑞宝重光章受章。2009年11月没。 主な著書に『チヨウはなぜ飛ぶか』『春の数えかた』『人間はどういう動物か』『世界を、こんなふうに見てごらん』など、 主な訳書にコンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(共訳)などがある。 広く深い教養をバックボーンに、誰にでもわかる平易な言葉で、動物行動学および生物学の魅力を長く伝えてきた功績は大きい。
人間は、いちばん変な動物である~世界の見方が変わる生物学講義
人間とは、いったいどういう生き物なのか? 動物行動学の泰斗である著者が、生物としての「人間」の不思議を容姿・言語・社会などの話題を さまざまに展開しながら、わかりやすい言葉で語る。 著者が京都精華大学で行った最晩年の講義であり、今を生きる「人間」必読の一冊。
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