「五竜岳」の命名の由来はうっかりミスだった?

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人は何を求めて山を登るのか。登山史に埋もれた人物、出来事を丁寧に掘り起こし、新たな光を与える。ヤマケイ文庫『登山史の森へ』から一部を抜粋して紹介します。

文=遠藤甲太

登山家が名づけた山

地名考――。ひとの喋る蘊蓄(うんちく)を聴かされたり、本を読んだりして、地名の由来やそれにまつわる諸々に、ちょっとばかり興味を惹かれた方もおいででしょう。だが、ついつい面白くなって、自分で調べたり考えたりし始め、うっかり地名考証にハマッテしまうと、もう、大変なことになる。

ことばは生きもの。まして地名は、それぞれ固有の厖大な過去を背負っている。現在の呼称が唯一だとは限らず、その一語が、途方もない歴史やロマンを内包している場合もある。仮に「地名の考古学者」がいたとしたら、彼は地名の変遷を追って、幾重にも堆積したことばの地層を掘り下げ、その各々に素敵な物語を見いだすこともできるでしょう。

時間的な溯及だけじゃ足りない。ある種の地名は長途の空間移動をする。フォッサマグナや中央構造線に沿い、あるいは黒潮に乗ってはるか彼方、もしかすると海外にまで、悠久の旅路を辿る。柳田国男によれば、現存する地名は、少なくとも二千万語はあるという。そのそれぞれが個別の歴史をもち、相互連関しているとなると、もう、大変なことです。

一塵の内に於て、微細の国土の一切の塵に等しきもの、悉く中に住す。(『華厳経』)

極小と極大との無二、一個の原子のなかに全宇宙が含まれているといった壮大な光景だが、これはそのまま、一地名と全言語との相関にあてはまるイメージでもあるだろう。

地名研究に関わる学問領域を、ざっと並べてみましょうか。民俗学、社会学、文化人類学、宗教学、地理学、地質学、生態学(植物・動物)、統計学、言語学、歴史学、文学……。アカデミックな「地名学」が成立するとしたら、これら多様なジャンルの、学際的な協力が必須だと思われる。

しかし、まあ、ありがたくも一介の登山者・モノカキにすぎぬ私は、そんなめんどくさい御題目には無縁である。せいぜい「山書」くらいを繙(ひもと)いて、先学の跡を訪ね、山名考証の一端を覗く程度にしておきます。

山名には比較的、歴史の浅いものがある。遠くから望める目立った山はいざ知らず、用途のない、まして人跡未踏の山などは、当然名を振る要もなく、近来まで無名だったり、文字に残らぬ山も結構あった。

ところが明治の中期から、日本にもレジャーとして山へ登る者が現れる。ロクな地図のない頃のこと、地元の民をガイドに仕立てて登ったのだけれど、自分の踏んだピークの名すらおいそれと、判らぬケースも多かった。連中はだいたい都会人。なかには文筆を能くするひともいて、紀行や記録をせっせと発表したのだが、その際、山の名が知れないのでは話が始まらぬ。真面目な者は文献を渉猟し、フィールドワークも怠りなく、にわか民俗学徒にもなる。しかしそれでも判らんときは、やむなく自分の一存で、とりあえずその山に仮の名を、付した場合もありました。

日本の高峻山岳、地元民草(たみくさ)の生活圏外の山頂には、じつはこうした登山家たちの調査研究、ないしはたんなる得手勝手、誤謬でもって名づけられた山がかなりある。そしてひとたび文字に印されると、口承口伝なんぞは太刀うちできず、その名は正邪の別を知らず、絶大な権勢を発揮する。

大正初期、ようやく測量の資料が揃い、本式の地形図の刊行が始まる頃のこと。登山家たちが書き遺した山名を、充分な検証を経ずに、陸地測量部が採用しちゃった例もある。こうなるとその名はもう大いばり、たとえ発表者が錯誤に気づいて訂正を申し入れても、そう簡単にはくたばらない。継子は継子なりの論理を孕み、しっかり生命を保ってゆく。

以下、命名に際して登山者の介在した山の名をわずかに挙げます。それまで全く無名の山だと思われるものは、名づけ親を明らかにするだけで、まあよかろうけれど、すっかり定着した山名の背後に、別の名、別の由来が秘められているとなると、その穿鑿(せんさく)はやっかいである。改めておことわり。私には、先学の研究を御紹介するくらいしかできません。

木暮理太郎は日本の登山の生みの親。まごうかたないオーソリティだが、ことばに関しても、非常に鋭く、ナイーヴなひとでした。彼の跋渉(ばっしょう)した山々のうちのいくつかは、地元の民さえ入らぬような未開の山であったから、調査をしても判らない山の名は、彼みずからが名づけている。たとえば1915(大正4)年夏の山行では、「釜谷山」「白萩山」「小窓ノ頭」を新しく命名。毛勝山―剱岳―黒部横断―烏帽子岳行の途次のことです。

行く先々の名称不明の地点に対しても、便宜の為に縁のありさうな名前を勝手に付けたものが少くない。帰京後私の手の届く限り此辺の山に関する古い地図や地誌の類を漁つたのであるが、記録を有する山は一として見当らなかつた。(『山の憶ひ出』上巻)

木暮は、もっとフィールドワークをすべきだったと悔いているが、ともあれ無難な命名であり、それらは今日の地図にもちゃんと載っているのです。

次は、少々アブナイ命名の例を挙げる。岡茂雄著『炉辺山話』(1975年、実業之日本社)に語られているこの逸話・山名考証は、『新編炉辺山話』(98年、平凡社ライブラリー)として入手しやすくなっているので、御存知の方も多いでしょう。三枝威之介は木暮の十三歳年下、やはり日本登山界の草分けである。1908(明治41)年7月、松沢菊一郎の案内で白馬岳から唐松、「五龍」と縦走し、鹿島川を下って山行を終えるのだけれど、最後のピーク「五龍」の名が判らない。松沢に質(たず)ねたところ、「ゴリュウ」という音だけが知れました。

五竜岳
五竜岳(写真=たけさんの登山記録より)

帰ってから仏典に出てくる語彙を勘案し、とりあえず原稿に〈五龍岳(宛字)〉と記して『山岳』誌に投稿。ところが印刷されてみると植字のミスか校正ミスか〈(宛字)〉の部分が脱けてしまい、堂々と五龍岳が闊歩していた。あまつさえ、測量部がその『山岳』第4年第1号を鵜呑みにして、新刊の五万図に五龍岳と振ったため、すっかり市民権を得た五龍は、いまも揺るぎなく、大きな顔して五龍岳です。

して、正解は? 後立山には仏教に因む山名が多く、三枝の仏典渉猟は一見悪くない。龍(ナーガラ)は、いろんなお経の本のあっちこっちに登場しますからね。だが、仏様関係の呼称は霊山・立山を擁す越中産が圧倒的で、信州の案内人松沢の言にそぐわない。越中の古図を見るとこの山は、どうやら餓鬼岳(餓鬼も仏教用語)と呼ばれる山らしい。

岡茂雄の調査によれば、信州側の呼び名は御菱(ごりょう)岳、または割菱(わりびし)岳。ゴリュウはゴリョウの松沢の言い違い、ないしは三枝の聴き違いであろう。信州側の天辺近く、この山には四つの菱の雪形が現れるが、甲州武田勢の侵略を受けた頃、その旗印「武田菱」と結びつけて、地元の民は御菱岳と呼んだのだ。と、以上のごとく岡さんは考証したのですね。

五龍岳は明らかにハズレであった。そしてこの手の漢字転換の際の誤りはやたらとある。しかし、だからといって御菱岳が真のアタリだとは限らない。越中側の餓鬼岳だって存在を主張したいだろうし、さらに何が隠されているか、判ったものじゃありません。

そう、さらに掘り下げ、突き詰めてゆくのは面白いし有意義でもあろうが、蟻地獄に落ち込んでゆく気配がないでもない。だから私は冒頭で言ったのです。「ハマッテしまうと、もう、大変なことになる」、と。

登山史の森へ

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カモシカ山行の由来、沢と谷とはどう違う、川端康成・夏目漱石と山、日本でザイルが初めて使われたのはいつか、『単独行』に登場する加藤文太郎の友達とは、松濤明『風雪のビヴァーク』秘話など、登山史の“裏側”を丹念な調査で読み解く。

遠藤甲太
発行 山と溪谷社
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