雑誌『山と溪谷』の誌名の由来とは?

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人は何を求めて山を登るのか。登山史に埋もれた人物、出来事を丁寧に掘り起こし、新たな光を与える。ヤマケイ文庫『登山史の森へ』から一部を抜粋して紹介します。

文=遠藤甲太

誌名の由来『山と溪谷』

1929(昭和4)年10月、ニューヨークで発火した世界経済恐慌は、あっという間に我が国に飛び火しました。卒業を控え、青雲の志高き日本のサラリーマン予備軍も大いに慌てる。30年の春、学士様といえど新規に雇ってくれる企業なんぞどこを探したってありゃしない。しかしながら、遠い西の株式市場のノックダウンが、因果を巡らせ、東の島国にちいさな雑誌、ちいさな会社を生むことになる。

就職お先真っ暗な川崎吉蔵(1907―77)は「ブラブラ遊んでいるくらいなら」、あるいは「とにかく山が好き」というだけで、山岳雑誌の刊行を思いたつ。

塚本閤治 聞くところによると、早稲田を卒業して、卒業免状を貰つて帰つて来た途端に、山と溪谷社が発足したというのですが……(笑声)。(「二十五周年座談会」『山と溪谷』1955年5月号)

思いたったはいいが、なんとも頼りなく、広漠かぎりない心地であったろう。なにしろなんのバックもない書生っぽが、本邦初、おそらく世界でも初めての商業山岳雑誌で飯を食おうというのですから。

田部重治 ぼくはあのときのことを覚えているんですよ。私が法政大学の教授室にいたときに、川崎さんが飛んで来て、僕の著書の『山と溪谷』を雑誌の表題にしたいから名前を貸してくれないかというんです。
塚本 ただで……(笑声)。
田部 むろんさ(笑声)。(前掲誌)

田部重治先生から名著『山と溪谷』のタイトルを頂戴した。理由は何もない、ただあの本がすきだつたからである。(川崎筆『山と溪谷』1947年5月号)

中学の頃から山登りに勤しみ、山の書物に親しんできた吉蔵にとって、田部重治(1884―1972)は遥かな先覚でした。名高い『日本アルプスと秩父巡礼』(1919年、北星堂)を補足改題した田部の『山と溪谷』は、29年6月に第一書房から刊行されたばかりだったが、30年5月、吉蔵の『山と溪谷』も誕生する。孤立無援の彼は畏敬する田部の著作名にあやかることで、一縷の希みを見いだしたかったのかもしれない。

吉蔵の『山と溪谷』は当たりました。創刊号五千部は4日で売り切れたとも言われている。未曾有の大不況、暗澹たる都会生活に疲れた人々は、明るい、清新な風の吹く山々に焦がれ、その世界を垣間見せてくれる『山と溪谷』誌に、いっときの癒しを求めたのでしょう。

38年には吉蔵の兄川崎隆章(1904―79)も助っ人にくる。歌人・エッセイスト、また登山家としても秀逸な隆章の参画によって、誌面はいよいよ充実しました。

さて、田部重治とくれば、おのずと木暮理太郎(1873―1944)の名が浮かぶ。齢は木暮が11歳も兄貴だけれど、ふたりは無二の親友、登山史上において切っても切れない間柄。田部の『山と溪谷』もいいタイトルだが、木暮の著作『山の憶ひ出』(上巻1938年、下巻1939年、龍星閣)もわるくない。偉大なる凡庸、古典にふさわしい風韻が書名に漂っている。して、その命名者は? 以下、石渡清筆「山の文章」七(『山と溪谷』1958年3月号)から引きます。

私はこの本の題名をすぐれたすばらしい題名であると思っている。実はこの題名は、出版主の龍星閣主人沢田伊四郎氏が川崎隆章氏に相談され、川崎隆章氏の名附けられたものだと承った。

つまり、川崎弟は田部重治の書名をもらい、川崎兄は田部の兄貴分木暮理太郎に書名を提供したことになる。奇しき因縁と言うべきか。

誌名の由来『岳人』『岩と雪』

『山と溪谷』誌は経済大恐慌の最中、ひとりの早大生によって世に出たが、『岳人』も敗戦直後のめちゃくちゃな世相の下、一京大生の夢想から生まれた雑誌です。

1947(昭和22)年1月、京大山岳部伊藤洋平ら三人は白馬岳に向かうべく、言語を絶する交通状況、食糧事情を乗り越えて列車に乗った。

電車が三重の津をすぎるあたりから、私はふとIに、かねて夢に描いていた若い登山家の手で、純粋な山岳雑誌を創り上げる構想について話した。/「そりや面白い」とIは即座に賛成してくれた。(伊藤筆「岳人誕生」『岳人』1952年6月号、以下同じ)

Iとは伊藤の積年の相棒池田孝蔵。大阪有数の毛織物問屋の御曹司であり、経理面はまかせておけと言う。車中、彼らは雑誌の名前に想いを馳せる。尖鋭クライマー伊藤の脳裡には「蒼氷」「岩壁」などのネームが浮かぶが、どうもしっくりきません。

そのときルックザックにもたれて腕ぐみをしていたIが、「山岳の岳に人―『岳人』というのはどやろ」と呟いた。この言葉は天来の福音のように私達の胸を貫いた。がくじん―なんという力づよい親しみのある響きであろう。

詩人クライマー伊藤は興奮し、「そうだ、それに決めた」。思わず車内で立ち上がった。一行は小蓮華尾根から白馬岳に登頂しますが、〈白馬尻の雪の中でビバークして、ツエルトの中で厳しい寒さに足をふみならしながら、私とIとは再びこの『岳人』創刊の計画について夢を語り合つた〉。

かくして1947年5月、月刊誌『岳人』は産声をあげ、現在に至る。もっとも14号以降、中日新聞社に発行を委ねるまでの労は並大抵でなかった。〈執筆者には一切稿料を払わず、また関係者もすべて無料奉仕で従事した―いわば「人件費」ゼロといつた「超現実的経営法」〉で押し通したという。

戦時はやむなく休刊していた『山と溪谷』も、いちはやく46年1月に復刊。伊藤の言う超現実主義ではないけれど、頽廃混沌、疲弊しきった敗戦国の人々は、それゆえにこそ現実の彼方、清浄なる山々に、せつなく、いみじい憧憬を募らせたのです。

ところで、残念ながら『岳人』誌は伊藤、池田の『岳人』が名称としては本家ではありません。一年早い46年7月創立の東京岳人倶楽部の会報が、『岳人』なのだから。

元岳人倶楽部の渡辺斉さんは、お酒を呑んだりすると私に語ったものです。「パテント料を寄こせとは言わんが、ここんところはハッキリしといてもらいやしょう」

なお、もっと古い『岳人』誌もあった。1930年代初めに創刊された日本大学山岳部の部報が、やはり『岳人』なのである。

ちなみに『岩と雪』誌(1995年3月、169号をもって休刊)の命名に際しては、ロマンティックな逸話がない。〈山と溪谷三十周年の記念事業の一環として、世界的のレベルの別冊を今夏発行致しますが、題名は広く一般読者より募集します〉(『山と溪谷』1958年2月号、自社広告)。〈沢山の中から結局『岩と雪』と決まりましたが、「雪と岩」が二つあつたのでこの二人を当選者として抽せんで一位と二位を定めました〉(同4月号)

川崎隆章編集長の下、58年6月に誕生した『岩と雪』は、日本の高度成長と相俟って、若いクライマーの夢と、そして儚い野望とを、存分に育んでゆきます。

なお、題名募集の一位当選者中村辰已さんにはピッケル一本と、ジェットスレー(どんな橇だろう?)一台が贈られた由。

登山史の森へ

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カモシカ山行の由来、沢と谷とはどう違う、川端康成・夏目漱石と山、日本でザイルが初めて使われたのはいつか、『単独行』に登場する加藤文太郎の友達とは、松濤明『風雪のビヴァーク』秘話など、登山史の“裏側”を丹念な調査で読み解く。

遠藤甲太
発行 山と溪谷社
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