追憶の手白澤温泉。山のいで湯に浸るよろこび

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山と温泉の旅エッセイ「ひとり温泉登山」を連載中の月山ももさん。山の温泉の魅力に開眼したのは、雪道を踏んでたどり着いた3月の手白澤温泉でした。春浅い雪の奥鬼怒温泉郷、そして初夏の再訪・・・山のいで湯の思い出をつづってもらいました。

文・写真=月山もも


登山を始めてからもうすぐ13年が経ちます。

現在は「温泉宿への宿泊と登山を合わせたひとり旅」を楽しんでいますが、登山を始める前はもっぱら「1人で温泉宿に泊まる」ことを趣味としていました。運動経験も大してなく、キャンプなどのアウトドアアクティビティにも縁遠かったので、当時は自分が山に登る日が来るなんて想像もしていなかったのです。

ですが、その当時から憧れていた「歩いてしか行けない温泉宿」がありました。それが奥鬼怒温泉郷の手白澤(てしろざわ)温泉です。湯量豊富で、露天風呂をはじめとした浴室の雰囲気や泉質がすばらしく、和洋折衷の食事がおいしく、夕食時はビオワインが楽しめる・・・といった情報に触れるにつれ、憧れは高まっていきました。

奥鬼怒温泉郷には4軒の温泉宿があり、一般車の往来は制限されているものの、林道が通じています。そのため2軒の宿では宿泊者の送迎を行なっていますが、手白澤温泉は送迎がありません。また日帰り入浴も受け付けていないため、手白澤温泉の湯に浸かるためには、バス停から片道2時間ほどのハイキングコースを歩いて宿泊するしかないのです。

今となっては2時間のハイキングなど恐るるに足らずですが、登山を始める前の私にはその道のりは果てしなく遠いものに思えました。シューズやザックなどの装備もなく、ひとり旅ばかりしていたので一緒に歩いてくれそうな仲間もおらず、登山は1人でしてはいけないと聞くのにどうすればいいのかと。そのため、手白澤温泉は「いつか泊まってみたい宿」のリストの上位に常に入っていたものの、具体的なプランは立てられないまま月日が流れていきました。

その後、いくつかのきっかけがあって登山を始め、少ないながらも山仲間もできた私は、仲間2人と一緒に、ついに手白澤温泉に泊まる旅を計画することになります。

時期は3月上旬、都内では春めく日も多くなる頃ですが、奥鬼怒はまだ真冬です。手白澤温泉までの道のりは歩きやすいハイキングコースだと聞いていましたが、すっぽりと雪に包まれていて歩く人も少なく、踏み跡も薄く、何度も道を間違えそうになりました。

道中では思いがけず立派な氷瀑を眺めることもできて皆で大喜びし、雪が降りしきる中を3時間ほど歩いてようやく宿についたときには心からホッとしたことを覚えています。

手白澤温泉への途中で出合った氷瀑
手白澤温泉への途中で出合った氷瀑
3月の手白澤温泉はまだ雪の中
3月の手白澤温泉はまだ雪の中

その後に入った温泉はもちろん格別で、夕食は評判どおりのおいしさ。とろりと濃厚なビーフシチューで体も温まり、食後は遅くまで部屋で山談義・・・と言いたいところですが、けっこうどうでもいい話ばかりしていたような気もします。山小屋と違って消灯時間もなく、部屋も暖かくトイレと洗面所も客室内に付いていて快適なので、つい夜更かししてしまいました。

濃厚な夕食のビーフシチュー
濃厚な夕食のビーフシチュー
雪を見ながらの露天風呂
雪を見ながらの露天風呂

翌朝はよく晴れ、露天風呂からは青空を背景に真っ白に雪化粧した山の姿を眺めることができました。方角から「根名草山」かと思いましたが、宿の方に聞いてみると根名草山の手前にある「大割山」(地図などでは大嵐山と表記)という山だとのこと。

長い間憧れていた手白澤温泉への宿泊は期待以上のすばらしい体験でしたが、こうなると私は「1人でも泊まってみたい!」と思ってしまうのです。山も温泉も、親しい相手と行くのはもちろん楽しいですが、1人で行くのはまた違った、格別の喜びがありますから・・・。

最初の宿泊から数年後の初夏、平日に休暇を取って、今度は1人で、同じ道を歩いて手白澤温泉をめざしました。夏本番に向かって緑が濃くなりつつあるけれど、風はまだ暑苦しくなく爽やかです。前回と同じ道とは思えないほど歩きやすく、滝や沢の流れを眺めながらのんびりと歩を進めていましたが、2時間弱で宿に着くことができました。

初夏の山道を歩いて2度目の手白澤温泉へ
初夏の山道を歩いて2度目の手白澤温泉へ

チェックインしてさっそく汗を流しに浴室へ向かうと、露天風呂の様子も一変して緑の木々に包まれていました。青空を映しているせいか、お湯の色も前回より青みがかっているような。

前回来たときは外があまりにも寒かったので、お湯に浸かるとなかなか出られなくて、長湯していたら髪の毛が凍りついてしまったんだよねえ・・・なんて思い出しながら、ひとりのんびりと湯浴みを楽しみました。

青く美しい露天風呂
青く美しい露天風呂

風呂上がりはもちろんビール!

1人なので、飲み終わったあとは畳に橫になってゴロゴロして過ごしても誰に呆れられることもありません。

風呂上がりはやっぱりビール
風呂上がりはやっぱりビール

夕食は、外を眺められる窓際の席に案内していただきました。

名残りの山菜や夏野菜をたっぷりと使った初夏らしい爽やかなメニュー。

前回の体が温まるメニューとはがらりと変わっており、これがまた、どれもすばらしくおいしいのです。季節を変えて、そして1人で来てみてよかったと思いました。

心づくしの夕食
心づくしの夕食
彩りも美しい夏野菜
彩りも美しい夏野菜

登山では好きな山に季節を変えて何度も登り、その季節ならではの風景を楽しむのが好きですが、温泉宿についても同じだなと感じています。

すばらしい宿には季節を変えて何度も泊まりたいし、1人でも仲間と一緒にも泊まりたい。そうすれば、泊まるたびに違った喜びを味わえると思うのです。

プロフィール

月山もも

山と温泉を愛する女一人旅ブロガー。山麓の温泉宿を一人で巡るうちに「歩いてしか行けない温泉宿」に憧れを抱き、2011年から登山を始める。ゆるハイクから雪山登山まで、テントも一人で担ぐ単独登山女子。 ブログ「山と温泉のきろく」https://www.yamaonsen.com/に、温泉と登山のすばらしさについて綴っている。山と温泉に魅せられる人を増やすことが、人生のよろこび。著書に『ひとり酒、ひとり温泉、ひとり山』(KADOKAWA)。

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