時空を超えた小トリップ。『遠山奇談』に描かれた幻の「京丸」の里へ

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江戸時代は寛政年間のこと。大火で消失した東本願寺の再建のために、浜松の齢松寺(れいしょうじ)から遠山郷へと用材を求めてやってきた僧たちは、山男や3mの大ヒキガエル、ウワバミなど怪物たちと次々遭遇したという・・・。寛政10年(1798年)に発行された探検記『遠山奇談』の世界を訪ねて、現代の遠山郷を歩く。

文・写真=宗像 充

京丸牡丹の里

浜松を出発した主人公の齢松寺一行は天竜川を上流に向かった。

霊場の光明山、秋葉山の麓の犬居で天竜川の支流の気田(けた)川を渡り、京丸(きょうまる)の里をめざす。京丸は、気田川の支流の京丸川の上流にある、現在は無人となった集落だ。背後に京丸山(1469m)、高塚山(1621m)がそびえる。

東本願寺本山再建の用材に必要な大木が見つかるのは、人の手が入った麓ではなく山奥だろう。その中でも京丸の里を一行がめざしたのは、ここが当時も有名秘境だったからだろう。

江戸の俚謡には「医者の薬丸と京丸牡丹 取りにやいかれず咲き(先)次第」があった。京丸牡丹は遠州七不思議の一つだ。集落の下を流れる京丸川を挟んだ対岸、岩岳山の上部に60年に一度咲き、天変地異の先触れとも言われる幻の巨大牡丹のことだ。 京都の人が作ったとも言われるこの秘境に、山人論を唱えた民俗学者の柳田國男や折口信夫も注目し、折口や登山家の深田久弥は実際に訪問している。集落の伝承や発見についても興味深いいわれがあるからだ。

遠山奇談
『遠山奇談』の挿絵では宮川の上流に光明山、秋葉山、牡丹山が配置されている。(画像提供=飯田市美術博物館)

南北朝の落人の里

『遠山奇談』では享保年間(1716〜1736年)に洪水があり、下流の宮川(犬居の近く)に調度品などが流れてきて、上流の人里の存在が知られたという。一行が訪問した寛政元年(1789年)はその50~70年後。せいぜい1~2世代の間のことだ。

さらにここの里人は、南北朝時代に南信濃の浪合(現阿智村)で亡くなった後醍醐天皇の首級を背後の高塚山に葬り、塚を守っているという伝承を受け継いできたという。

実際には、浪合で殺されたという記録(浪合記、1424年)があるのは、後醍醐天皇の孫の尹良(ゆきよし)親王で、これすらも実在性が疑われている。この一帯に南朝の勢力を伸ばすためにやってきたのは、ぼくの暮らす大鹿村の大河原を拠点とした後醍醐天皇の皇子の宗良親王だ。 齢松寺の一行も、300年隠れ住み発見された里やその謎の多い伝承に惹かれたに違いない。

浜松を出て光明山へ

京丸へは直前の集落の石切から直線距離で5㎞ほどだ。ネットを検索すると訪問の記録や動画がいくつか公表されていて、林道を歩けば着くはずだ。手前の石切集落まで行って聞けばわかると思って、2023年7月26日、浜松から上流をめざした。

ところで、『遠山奇談』を「まとことに心掛けのよろしくないいやな本」(『東国古道記』)と批判した柳田國男は、「何処をどう通って遠山に入ったということも、部落や家の名なども一向に挙げて居ない」と切り捨てているため、隣県とはいえ、静岡県の土地勘のないぼくは、『遠山奇談』の記述が実際にトレースできるのか疑問だった。

下調べでは、ネット検索ですぐに一行が立ち寄った天竜川河口の椎河脇大明神や光明山、それにもちろん秋葉山を見つけることができた。一行は椎茸串柿の商人に情報を得て、遠山に槻(けやき)の大立木があると聞いて出立する。椎河脇神社で坂上田村麻呂の直筆の石碑を見て、上流の二俣宿に1日目、旧暦4月8日(新暦は約1月遅れなので5月)に泊まる。かつては木材や繭の取引場所として繁栄した町だ。

天竜川の河口。一行は河口の掛塚湊から上流をめざした
天竜川の河口。一行は河口の掛塚湊から上流をめざした

本当にたどり着けるのか

ここから一行は山東村から光明山をめざす。540mの光明山は山東の北東にあり、当時は山頂に虚空蔵菩薩を本尊とする寺院があったという。『遠山奇談』は武田信玄との合戦の際、光明守護の天狗が光明山に陣を張った浜松勢を助けてくれたと書き記している。3方の林道からめざしたものの、結局災害で到達できなかった。

実際にはこの光明山は現在二俣にあり、光明護国禅寺として参拝できる。売り場の人に聞くと、山頂のお寺は火事になって、現在の場所に移動したそうだ。この付近はたしかに天狗伝承が今も色濃く、国道沿いの看板に天狗のモチーフがよく使われている。

さらに犬居を経て京丸をめざす。途中最後のコンビニで食料を調達し、林道終点かその手前の石切集落で野営しようと考えた。カーナビといっても、どこに連れて行かれるのか不安なので、歩いていたおじさんに「京丸に行きたいんですけど」と尋ねると、「本気なのか」という顔で鼻で笑われて、かえって不安度倍増。

石切地区は2020年の動画では住民がいたとあった。それが今は無人。ここに来るまでも一本道を時々民家に出合いながら山奥に進んで、心細さ、さらに倍。廃校になった校舎にテントを張って、とにかく心配で、寝苦しい夜を過ごす。

切石の廃校の校舎の前に幕営。集会所はまだ新しくつい最近無人になったことがわかる
切石の廃校の校舎の前に幕営。集会所はまだ新しく、つい最近無人になったことがわかる

幻の里

早朝、最後の民家からダートの林道を進んでゲートの前に車を止め、右の林道を進む。沢音を聞きながらの林道歩きでは、この先に集落があるなんて想像できない。1時間半ぐらいで京丸集落に左分け入る道が現われる。杉木立の中を上がっていくと、石垣や廃屋、神社、民家が現われて、「ほんとにあるんだ」とやっと安堵する。

齢松寺一行が訪問したときには5、6軒の家があり、50人ほどが住んでいたという。村人は「武官出合給ふに物いひもつねにして、文字もあり、男は総髪にてひげなといづれも長し。女は鉄漿(かね)もつけず、衣装は手織のものとみえてよに目なれぬ」(侍に出会ったが話し方もふつうで読み書きもでき、男は総髪でひげも長く伸ばしている。女はお歯黒もせず、衣装は手織りのものと見えて世間では見慣れない)様子だった。しかし住居は調度品も買ってきたものなので、「人の通路ありやなしや」と問うと「此里へくる人なし。こなたより深山をつたひ出て岩茸椎茸くしがき栗などを携へ行て、我望ものを約束してこれと換なり。されど所をいはねばいづくのものとも更にしらす」(この里へ来る人はいない。ここから深山を伝い出て、イワタケ・シイタケ・干し柿・栗などを持っていって、自分が欲しいものと交換してもらう約束をする。しかし住所地を言わなければ、どこの者かまったくわかりはしない)。つまりこの里に自分でたどり着ける人はいない。

他村との通婚が禁じられたがゆえに、よそからやってきた若者と恋仲になって2人で身を投げた悲話もある。

京丸の里の入口。ここから林道を折り返す
京丸の里の入口。ここから林道を折り返す

隠れ里探検

集落跡には、藤原家の家屋敷と廃屋、山神の祠、それに阿弥陀堂が残る。

集落内の杉は巨木で、東本願寺は実際には京丸近辺で切り出しをしていない。

藤原家の屋敷は明治時代に建てられたようで、古びてはいても生活感を感じられるし墓もある。後日藤原家に電話したところ、2000年ごろまでは人が滞在したそうだ。「最近は道路が悪くて・・・」と「帰れない」という言葉を選んだ。

1985年の記念碑には、南北朝時代に藤原左衛門佐が乱を避けてこの地に住んだとあり、「慶長四年九月二日の検地帳」(太閤検地)で20軒があったという。慶長4年は1599年なので、調度品が流れてきて村が発見された享保年間よりも120年ほど遡る。その間の経緯は不明で、軒数も減っている。

齢松寺たちが訪問したときもやはり住民は隠れ住んでいたようだ。当時で16代、風早左衛門の佐(すけ)が当時の村長とされ、「左衛門佐」を代々名乗ってきたのだろう。とすると、自力で隠れ里にたどり着いた齢松寺たちの情報収集能力はかなり高く、記述も正確だったことがうかがえる。

藤原宅。明治に建てられた屋敷で無人
藤原宅。明治に建てられた屋敷で無人

時空を超えた異空間

齢松寺一行は、禅宗にもかかわらず親鸞のご筆物を敬い、念仏を唱える村人の様子を書き記している。

ぼくが驚いたのは、その阿弥陀堂に至って縁でお昼ごはんを食べようとして、念のためと思って扉を引いてみたときだ。すんなり開いた扉の奥をのぞくと、格子の向こうに本尊があるようだ。ふと上を見ると息が止まった。

猫、鶴、龍、鶏、シカ、さまざまな花と鳥・・・みごとな天井画はひっそりとした山奥に誰にも顧みられることなく、お堂の扉の向こうで眠っていた。この里を訪れた人たちは、ここでの感動や出会いをお堂の壁に落書きという形で残していた。ここで暮らしていた人々、訪れた人の息遣いで、お堂は時空を超えていた。

悲哀と歓喜が同居する里、それが京丸だった。

藤原家の説明では、ここの宝物は以前盗難に遭ったということなので、なかの様子は実際に足を運んで確かめてほしい。齢松寺一行の訪問から200年の時を超えても、探検の発見と感動は古びない。

阿弥陀堂の扉を引くと異空間だった
阿弥陀堂の扉を引くと異空間だった
京丸の里の記念碑、後に国文学者の釈迢空の歌がある
京丸の里の記念碑、後に国文学者の釈迢空の歌がある
京丸の里には杉の大木があり、齢松寺一行が目をつけたことがわかる
京丸の里には杉の大木があり、齢松寺一行が目をつけたことがわかる
集落内には廃屋と山の神の祠がある
集落内には廃屋と山の神の祠がある

プロフィール

宗像 充(むなかた・みつる)

ライター。1975年生まれ。大分県犬飼町出身、長野県大鹿村在住。高校、大学と山岳部で、大学時は沢登りから冬季クライミングまで国内各地の山を登る。大学時代の山の仲間と出した登山報告集「きりぎりす」が、編集者の目に止まり、登山雑誌で仕事をもらいルポを書くようになる。登山雑誌で南アルプスを通るリニア中央新幹線の取材で訪問したのがきっかけで、縁あって大鹿村に移住。田んぼをしながら執筆活動を続ける。近著に『絶滅してない! ぼくがまぼろしの動物を探す理由』(旬報社)など。

『遠山奇談』を歩く

山奥に分け入った僧たちを待ち受けていたのは、山男や3mの大ヒキガエル、ウワバミといった怪物だった・・・。寛政10年(1798年)に刊行された紀行文『遠山奇談』をたどる。

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