『山と溪谷』誕生をたどる。創業者・川崎吉蔵とは
2018年に通巻1000号を迎えた雑誌『山と溪谷』。その歴史は一人の山を愛する若者の情熱から始まった。創業者・川崎吉蔵と、その創刊の経緯を振り返る。
文=野村仁
川崎吉蔵 かわさき・きちぞう
1907年10月15日、東京都・芝生まれ。早稲田大学卒業後、独力で山と溪谷社を創立。雑誌『山と溪谷』刊行を生涯の事業として取り組んだ。創刊号(30年5月刊行)から157号(52年6月号)まで編集長を務める。
川崎吉蔵の登山と雑誌発行への思い
川崎吉蔵が初めて一人で山に登ったのは、1921年4月、中学1年(13歳)のときの武州御岳山だった。それから2、3年間、月1回の一人旅を課し、徒歩で歩ける所まで歩いては、戻ってくる「無銭旅行」を続けた。23年9月、関東大震災で東京は焦土と化す。
12月には川崎の父が亡くなった。以後、川崎は母の手一つで育てられる。川崎は「震災後、各地に山の会を作ろうという気風が起こった」と言っている。翌年、川崎は町内の仲間で「山の会」を作り、そのリーダーになった。以後、月1回の山歩きが始まる。奥多摩、武相国境のヤブ山へ通い、白馬岳、槍ヶ岳へも登った。中学4年の24年、日本山岳会に入会した。山に関しては相当に早熟な少年であった。25年、早稲田大学に入学する。
早大山岳部時代、川崎は生涯随一といえる登攀を経験した。30年、谷川岳一ノ倉沢二ノ沢左俣の初登攀である。しかし、滑落事故で遭難寸前の苦い経験でもあった。27年には登山史上有名な、早大の針ノ木籠川谷の遭難が起こっている。山好きまっしぐらな中学・大学時代、川崎の中に登山雑誌を渇望する思いが醸成されていた。
ただ一人の熱意が作った『山と溪谷』
大学最終学年の29年秋、ニューヨーク・ウォール街で株の大暴落が起こり、歴史上の世界大恐慌へと入ってゆく。日本は不況のどん底にあった。川崎は、山の会を通じて知り合いだったラジウム製薬の小池利兵衛に就職口を頼みに行く。小池は意外にも、山の雑誌を作ってはどうかと川崎に提案した。小池がスポンサーとなって経費を出すので、川崎は雑誌を作って売ることだけ考えればよいという。悩んだすえ、川崎は自分が何より好きな「山」で仕事をしていくことを選んだ。今でいう学生のベンチャー起業と同じである。
川崎は猛然と行動を開始した。雑誌名は、当時傾倒していた田部重治の著書名『山と溪谷』にしたかった。許可をもらうため、当時法政大学の教授だった田部を訪ね、頭を下げた。原稿依頼のため、早大山岳部の先輩、日本山岳会の重鎮、黒田正夫・初子夫妻、冠松次郎らを訪ねた。多くの人が好意的に応じてくれた。表紙のデザインは中学の親友・坂野三郎を頼った。坂野は今日まで続くあの題字を書き、デザインの下書きを川崎に託したが、手書きメモがそのまま創刊号の表紙になったという。
30年3月、川崎は早稲田を卒業。5月、予定どおり『山と溪谷』創刊号は発行された。
より多くの読者に愛される雑誌へ
創刊号は好評だった。2カ月間のうちに再版、三版を重ねて、すぐに第2号を迎えた。登山界に受け入れられた『山と溪谷』の方向性は、どのようなものだったのか。創刊号の「信條」に書かれたことからまとめると、次のようになる。
①著名な人々の文献を紹介する
②発表機関のない無名の人々の活動や記録を紹介する
③まじめに「人と山との関わり」を追究していく
このように、先鋭から初級者までの内容を包含する点は、登山雑誌の立ち位置として、今日でも不変のものだろう。しかし、スタート当初はそうではない点もあった。
初年の創刊号、2号、3号には、早大山岳部OB陣による日本山岳会批判の記事が掲載された。川崎は誌上での論争を希望していたのかもしれないが、日本山岳会からの反論がまったくされなかったため、一方的な展開になっていた。
2年目に入り、31年1月の5号では、早大の論客は登場しなくなり、日本山岳会の批判記事も一掃された。川崎が編集方針を転換させたことがうかがえる。早大OBたちは、同年1月、雑誌『アルピニズム』を創刊した。早くも強力なライバルの出現であった。
この年の6月、山と溪谷社は初めての単行本『山に憩ふ』(河田楨著)を出した。さらに12月には『アルパイン・カレンダー』を発行した。川崎は先鋭路線と袂を分かち、より多くの人に受け入れられる出版事業に大きく舵を切った。
創業2年目にして作られた基盤は、今日まで変わらない。吉蔵の孫に当たる現社長・川崎深雪にその方針と精神は受け継がれている。
川崎吉蔵の連載
おちこちの人―追想・山溪三十五年
創刊35年を機に、川崎吉蔵がそれまで関わった人物を一人ずつ振り返った。登山史上のそうそうたる人物に対して、編集者からの目線とエピソードが語られている。
多くの人は『山と溪谷』に好意的だったが、そうではなく、関係を作るのに苦労した人もあった。たとえば日本山岳会の重鎮であった木暮理太郎は、「山の雑誌など商売になるわけがない」と、当初から否定的であった。そうした人も含めて川崎は粘り強く対応し、よい関係を築くように努力した。編集・出版の仕事とは、情報やコンテンツを提供してもらうことであり、そのためにいかに人間関係が重要かということを伝えている。
紹介された代表的な人物(抜粋)
- 65年8月号:木暮理太郎(登山家、第3代日本山岳会会長)
- 65年9月号:岩波茂雄(岩波書店創業者)
- 65年11月号:宇野浩二(大正文学を代表する小説家、作家)
- 66年2月号:辰巳柳太郎(俳優、『黒部の太陽』出演)
- 66年5月号:穂苅三寿雄(槍沢小屋、槍ヶ岳肩ノ小屋創設者)
- 66年10月号:竹澤長衛(山案内人、北沢峠長衛小屋創設者)
- 68年2月号:柳田國男(元官僚、日本民俗学の創始者)
- 71年3月号:藤木九三(ロック・クライミング・クラブ創設者)
- 72年11月号:田部重治(英文学者、登山家)
- 73年2月号:岡田紅陽(写真家、富士写真の第一人者)
- 76年1月号:今田重太郎(山案内人、穂高岳山荘創設者)
(『山と溪谷』2018年8月号/通巻1000号より抜粋)
プロフィール
野村仁(のむら・ひとし)
山岳ライター。1954年秋田県生まれ。雑誌『山と溪谷』で「アクシデント」のページを毎号担当。また、丹沢、奥多摩などの人気登山エリアの遭難発生地点をマップに落とし込んだ企画を手がけるなど、山岳遭難の定点観測を続けている。
雑誌『山と溪谷』とは
2018年に通巻1000号を迎えた雑誌『山と溪谷』。現存する最古の登山雑誌の誕生や歴史、現在までの変遷を紹介します。